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プロローグ

(これは……)

 その匂いは、彼女を深い眠りから一瞬で目覚めさせた。

 闇の中で眠り続けることを選んだあの日。あれからどれほどの時間が経ったのだろう。

 もう二度と嗅ぐことは無いだろうと思っていた、このかぐわしい匂い。

 彼女はかすかに鼻に届くその匂いを、深々と吸い込んだ。

(あの娘が生きているの?)

 彼女は身じろぎした。

 光一つ無い完全な闇の中と思われた中に、ポツリと小さな二つの光がともった。


 小雨の降る真夜中、深い山奥に打ち捨てられた、今にも崩れそうな小さな古寺。その狭い墓地の一角の地面がボコリと盛り上がる。

 そこから這い出したのは異様なものだった。

 土と泥にまみれ、一糸まとわぬ姿の細く華奢な少女。泥で覆われた部分からわずかに露出している素肌は真っ白く陶器のようだ。土をかき分けて地面に這い出た彼女は、泥にまみれた姿で立ち上がると、こびりついた泥を落とそうと頭を振った。土で汚れてはいるが、腰までもある見事な銀髪が闇の中にひらめく。その少女の目はライトのように明るく光っていた。

「チチチ……」

 一匹の大きい蝙蝠が鳴きながら、彼女の差し出した腕に降りた。口にくわえた何か布のようなものを手のひらに落とす。

「久しぶりね、クジャ。元気にしていて?」

 その蝙蝠は、彼女の言葉にキィキィと鳴き声で返すと、近くの木の枝にぶら下がって羽を収める。彼女は渡された布に目をやった。十センチ四方ぐらいで、花の模様が入ったその白い布の中央に、血と思われる赤い染みがあった。

 彼女はその染みに鼻を押し当てると、目を見開いた。

「同じだわ」

(だがあの娘は死んだはず)

 彼女は考え込んだ。蝋のように真っ白で、人形のように整ったその小さな顔に困惑の表情が浮かぶ。

「いや待て、わずかだが違う……?」

 再度、布を嗅いだ彼女は首をかしげる。

 彼女の脳裏に、眠りにつく前の情景がよみがえる。


 昭和二十年五月。横浜を襲った大空襲のその日。

 昼間に始まった空襲は、瞬く間に横浜を火の海におとしいれた。

 太陽が出ている時間眠りについていた彼女は、その異変に気付くのが遅れた。彼女は血の提供者である人間の心と、自分の精神とを繋ぐ能力を持っており、その精神的な繋がりが愛する娘の危機を告げていた。すでに娘は死にゆくところであり、彼女に最後の別れを告げようとしていた。

 彼女はすぐさま蝙蝠のような羽を背中から生やすと、焼夷弾の降りそそぐ空に飛び出した。故郷のロシアで受けた呪術のおかげで、一時間程度なら太陽の下で活動できるが長時間はもたない、だがそんなことを考えている余裕は無かった。

 彼女が飛び続ける上空には、禍々しい姿の爆撃機がまだ飛んでおり、その胴体から落ちてくる焼夷弾を避けつつ彼女は飛び続けた。あいかわらず人間はおろかなことをする。

 彼女が娘の元に辿り着いた時にはすでに手遅れだった。娘の上に折り重なるがれきを腕のひとふりで跳ねのけ、そのそばにひざまずく。漆黒のつややかで美しかった髪は無残に焼け焦げ、モンペ姿の娘の両足は、膝の上あたりから無くなっていた。自分の血を与え同族に変化させることができれば助けることは出来るが、それが出来るのはより高齢で力の強い者だけだ。たかだか三百年しか生きていない彼女には、まだその資格も技も与えられていなかった。

 娘の全身は焼け焦げていたが、美しいその顔だけが奇跡的に無傷だった。娘はまだかろうじて生きており、幼さの残るその表情の中心で、その目がうつろに動いていた。

(美鶴すまない、遅れた)

 彼女は、美鶴と呼んだその娘の額に手を押し当てた。痛みを消してやりつつ、意識を通して呼びかける。うつろな娘の瞳に力が戻る。

「ナー……シャ」

 娘の唇がささやくように彼女の名前を呼んだ。

「ごめんね……もう貴女……に血をあげられな――」

 美鶴は言いかけたまま大きく目を見開いた。

(さようなら……)

 意識を通じてそう伝えると、美鶴はこと切れた。

 彼女、ヴァンパイアのナーシャは空を見上げ、まだ旋回している爆撃機に向かって吠えた。


 美鶴の血は、ナーシャにとってまさに魅惑としか言いようがないものだった。初めて美鶴と出会った時に、自分の目の色が変わるのが分かった。彼女はまだ娘と呼べる歳だったが、若くして結婚しており、まだ乳飲み子の娘がいた。夫は戦地で死んでおり、母と娘二人で暮らしていた。他に親戚や家族はいなかった。ナーシャは赤ん坊が眠りについた夜更けに美鶴の寝床を訪れ、その柔らかい肌に牙を立ててその血を吸った。

 布団の中に残る、むせかえるような美鶴の血の香りと肌の香りにつつまれて、日が昇る間際まで同じ寝床で過ごしたその日々は、長いヴァンパイアとしての生涯の中でも、何物にも代えがたいものだった。

 それほど美鶴の血は特別だったのだ。ほかのヴァンパイアに気付かれなかったのも幸いだった。恐ろしい同族同士の争いが起きていたかもしれない。もっとも日本に同族がどれほど来ているかはナーシャ自身も把握しているわけではなかった。

 美鶴はなぜかヴァンパイアのナーシャを恐れなかった。通常ヴァンパイアは、継続的に血を吸うため気に入った人間を支配下に置く。だが美鶴にはなぜかヴァンパイアの支配の力が効かなかった。

 最初に美鶴と出会い、自分の支配の力が効かないと分かった後も、その血の香りのあまりのかぐわしさにナーシャは美鶴をあきらめられなかった。迷った彼女は自分の正体を告げて血の提供を頼んだ。もし拒まれたら、その時は思う存分血を吸いつくすだけだと思っていた。もちろん美鶴の命はそこで尽きる。

 だがその告白をきいた美鶴は、一瞬驚いたような表情を浮かべた後、小さく笑って血の提供を承諾したのだった。その理由は今でも分からない。美鶴には一風変わったところがあった。

 ナーシャはいつしかその穏やかで、美しく、優しい美鶴を愛するようになっていた。もちろんヴァンパイアにも愛の感情は存在する。

 美鶴を失った失意のナーシャは、山奥に放置された古寺の墓地の一角で、もう二度と目覚めなくても構わないと思ったまま、深い眠りについたのだった。


 使い魔である蝙蝠の呼びかけるような鳴き声で、ナーシャは追憶から意識を今に戻した。

 一体何十年眠っていたのだろう。泥だらけの全身を清め、服を整えるのが億劫だが、この血の匂いで目覚めたからには、持ち主の正体を探さねばならない。ヴァンパイアの生涯が長いとはいえ、もう二度と出会えないと思っていたのだから。

「クジャ、あなたよくこの血の匂いに気付いたわ、ほめてあげる。さあこの血の持ち主のところまで行かなければならないわね」

 ナーシャが宣言する。

 蝙蝠がキィっと一声答える。

「あと、私の服はボロボロに腐って無くなっちゃったから、どこか服のあるところまで先に案内してよね。できれば故郷の服が手に入れば素敵なんだけど」

 蝙蝠は心当たりがあるかのようにもう一声鳴くと、空中に羽ばたいて飛び出していく。

「それにしても……何か妙な空気ね。感じたことのない気配で空気がピリピリするわ」

 ナーシャは空気中の匂いをかぐように鼻をうごめかし、裸のまますいっと空中に浮かび上がると、蝙蝠の後を追いかけていった。

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