chapter2: ここは天国ですか? 地獄ですか?★
まるで魔法や奇跡の類を目の前にして俺はあっけにとられていた。
少女の艶やかな黒髪の端が時折柔らかな風になびく。日本人のような漆黒の瞳が太陽の光に反射してキラキラと輝いている。神々しい光に包まれた後、少女の容態は急激に良くなった。呼吸は穏やかになり、出血もなくなったように見える。
奇跡のような力だ。そう思いながらも、その力を自分が使ったのだと実感が持てなかった。
見える範囲の傷は治っていても骨折や出血による貧血。全てが本当に治ったかわからない。俺は自分が着ていたワンピースの裾を千切ると、少女の血まみれの身体を丁寧に拭い、傷の状態を確認した。
「ごめん。傷を確認するね」
まだ水気を帯びている血液を優しくスカートの切れ端で拭っていく。もちろん腕や足、重傷だったお腹の部分のみである。医者でもない男が少女の全身を勝手に見ることは許されないだろう。だから最低限状況を確認するために出血の多い部分のみ汚れを落とした。
「大丈夫か? 痛むところ、ない? 」
少女は目を大きく見開いて俺をまじまじと見つめている。
「うん。もう痛いところないよ。あなたが治してくれたの? 」
少女は首を傾げて俺に問う。まるで自分が治ったことが信じられないと驚きが瞳に映っている。
先ほどまでは誰が見ても明らかに助からない状態だった。全身の裂傷と出血。しかも右腕は肩から下が無くなっていたのにどういう原理か、聖救神愛と唱えると淡い光に包まれて、傷が全てが元通りに治った。失った腕も含めてだ。
起こった現象を理解できないのは同感である。力を使った俺自身も未だに信じられないのだから。
「たぶん。そうみたい」
とりあえずは、ゴモリーから授かった力で少女を救うことができた。
あまりにも人の範疇を逸脱した力だ。その力を使う代償があるのでは? と不安にかられたが、積もる疑問を脇において今は目の前の少女が助かったことを喜ぶことにした。
もしも、何かやばいデメリットがあるならとっくに気が付いている頃合いだろう。
「ありがとうございます! 神官様はすごいです。さっきまでとっても痛かったけど…… 。傷が全部治ってます! それに…… 、信じられない。ホワイトウルフに食べられた…… 腕が生えてる!!! 」
右腕をぶんぶん振って嬉しそうにはしゃいでいる。
無邪気な姿が微笑ましくて自然と口角があがった。
「ふふっ。生えてるってキノコじゃないんだから」
「でも神官様の魔法で無かった腕がにょきにょき~って生えてきたよ! 」
こーんな感じと身振り手振りを交えて見た目通りの子供らしいしぐさで表現する。
「俺は神官じゃないよ。たまたま、この森に迷い込んだ。旅人さ。
名前はアイリスって言うんだ。よろしくね」
異世界から来ましたとはもちろん言えない。もし言っても変人と思われるのが関の山だろう。適当に嘘を交えつつ名乗った。
「あ、イリス? イリス! 私はヨナっていうの。
それからそれから、助けてくれてありがとう! 」
ヨナはペコリと丁寧にお辞儀をして満面の笑みで俺をしっかりと見つめて感謝を述べた。小学校低学年ぐらいの見た目だが年の割にしっかりしているようだ。きっとこの子の親はちゃんと教育しているのだろう。
だが、訂正するべきところはしっかりしないとな。
たとえ気に入らない名前とはいえ、前世で親からもらった名前だ。
「いやいや、ヨナ。俺は『アイリス』って言うんだよ」
「ん? イリスちゃんだよね? わかったよー」
あれ? 俺がおかしいのか。ちゃんと伝えたはずなのに『イリス』に訂正されてしまった。
そういえばゴモリーも俺のことを『イリス』と呼んでいたな。もしかすると俺の名前はこの世界の人には発音しにくいとか聞き取りにくい音なのか?
「名前はそれでいいとして俺は男だから…… 『ちゃん』付けはやめてくれ」
「えっ、どこからどう見て女の子に見えるけど男の子なの? 」
ヨナが眉を寄せて口元に手を当てながらうーんと唸りながら悩んでいると、パッと何かを思いついたようでトコトコと駆け寄ってきた。
「ひゃわ。ほへ。ちょ、ちょっと触らないで。ヨナ! くすぐったいって」
俺の身体を触って確かめようとあちこち触ってくる。悲しいことに小学生ぐいらのヨナと同じ身長になってしまって、力も同年代ぐらいまで落ちているようだ。女の子相手に必死に力を入れても抵抗できない。
「ほわ! ひょへ!? ひぃにゃああああああああ」
「ほらー。やっぱり女の子だ! 」
色々まさぐり終わった少女が晴れやかな表情でそういった。一方、俺は年下の女の子に力で負けるという男としての自尊心をボロボロに傷つけられてげっそりしていた。
「ぐすん。もういいです。その話は置いておこう…… 」
俺は内股になりながら股間を押さえつつ、俯くと羞恥心で顔が赤くなるのを感じた。
ヨナからすると同性との触れ合い程度で悪気はないのだろうが、触られた感覚や股間の存在が否応なく女の子であることを自覚してしまい、居たたまれない気持ちになる。
気持ちを切り替えるため疑問に思っていたことを聞いてみた。
「えっと、ヨナはどうしてこんな森に一人で来たの? どこから来たかわかる? 」
なぜ森の中にヨナのような子供が一人でいたのか? 森は獰猛な獣も出るようだ。普通は大人と一緒にくるはずだ。
「この森を抜けた先の町。パスティーユから来たの。
私のおばあちゃんが病気で…… 。苦しんでたから薬草を取りに来たら…… 」
おそらく、パスティーユという町はこの近くにあるはずだ。こんな幼い少女を一人で家に帰すほど、俺は鬼ではない。乗りかかった船だ。ヨナをちゃんと家まで送り届けよう。
そうすれば俺の目的もついでに達成できる。
着の身着のまま何の装備もない状態で森にいる。金も食料も何も持っていない。まずは人里へ行かなければ今日の食事も寝る場所もないのだ。
「うぇええええええええええん。怖かったよぅ」
急にヨナがボロボロと大粒の涙を零して泣きだした。
病気の祖母のために森まで薬草を取りに来たが、途中で狼に襲われて重傷を負った。そして逃げることに夢中で足場がないことに気が付かず崖から落ちた。そんな経緯だろうか。
こんな小さい子供が生死の境にいたのだ。想像を絶する恐怖と不安が入り混じる中、一人助けもなく苦痛に耐えていたのだ。
俺はそっと背中をさすって落ち着くまでそうしていた。
ひとしきり泣いてようやく幾分か晴れやかな表情になったので言った。
「俺も町へ行く用事があるから一緒に行かない? 」
「本当!? 」
「ああ、もちろんさ」
「一人で帰らなきゃいけないって考えたら、怖かったんだ…… 」
ヨナはぼそりと声のトーンが落ちて俯いてしまう。
「あんなことがあったんだ。一人じゃ心細いのは当然さ。俺も一緒にいるから安心して」
暗色から一転。喜々一色の表情でヨナがぴょんぴょん飛び跳ねながら俺にぎゅーと抱きついて言った。
「ありがとう! イリス大好き!! 」
俺は気恥ずかしさを感じながらヨナを抱きしめ返すのだった。
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ちゃんと町まで送り届けるためについてきたつもりだったが、ヨナは森に詳しいようでパスティーユまでの道のりも知っていた。俺はヨナに付き添うだけで楽々町まで到着できた。
道すがらヨナからホワイトウルフに襲われた経緯を聞くことができた。森に詳しいヨナが獣。いや魔物に襲われたのか不思議だったが、あまり魔物がいない場所を通っていたはずなのに偶然遭遇してしまったらしい。その後の経緯は大体俺の推測であっているようだった。
ちなみに魔物と獣の差は体内に魔石があるかで判別できるそうだ。この世界の住民には直感的に区別がつくようでヨナにもわかるらしい。
この世界の知識に疎い俺が最初に出会ったのがヨナでよかったと心から思う。なぜそんなことも知らないのかと疑問に思われることもなく、情報を聞き出せたのは幸運だった。
それから吉報もあった。泊まる場所も確保できたかもしれない。ヨナからお礼がしたいと言われ、話の流れでお金がなくて泊まる場所がないという話をした。そしたら、家に泊めてくれるようおばあちゃんに掛け合ってくれるそうだ。お金をどう稼ぐか、泊まる場所はどうするか困っていたので本当に助かった。
道中、森の中からパスティーユの町を見ろした。とても大きな町で石作りの建物に港もあった。時折、流れる風の中に潮の香りがする。町の広さは一つの国家として名乗れるぐらいに広大な敷地と、その豊かな土地を使った農作が各所で見られた。
全体的に中世ヨーロッパな街並みだ。まさに、ファンタジーの世界で内心ワクワクしている自分がいた。
「ようやくパスティーユに到着だよ」
町に着くと大きな門が俺たちを出迎えた。門の前には衛兵が立っており、入る者をチェックしているようだった。
ヨナがくるりと回って俺の方を見る。
「ふぅ。疲れた…… 」
俺はヨナの数歩後をトボトボ歩いていた。慣れない山道に苦戦したのもあるがこの身体、想像以上に体力がないのだ。
「イリスは体力ないんだね。これぐらいで音をあげるようじゃ、どこにも行けないよ? 」
ヨナはまったく疲労を感じさせない様子で、まるで近所をちょっと散歩したぐらいのノリである。
俺としては素人がエベレストに登山にいったような疲労感だった。
「ヨナが体力ありすぎなんだよ。 まぁ、なんにしても到着だぁ~。早く町に入ろう! 」
ゴールが目前に見えてきたので気持ちが急いて自然と足取りも軽くなる。
「あっ…… 。ごめん。そっちじゃないんだ」
「え? 目の前に門があるのにこっちじゃないの? 」
住人用と外からの来訪者用で入り口が違うのだろうか。確かに入り口の検問をやっているようなので全員が一つの門に殺到したら渋滞するのは目に見えている。用途ごとで入り口をわけて混雑緩和にしているというところだろうか。
にしても、ちょっとぐらい融通を利かせてくれても良くないか?
こちとら慣れない山道で全身がなまりをつけているみたいに重いのだ。早く寝っ転がりたい!
「うん。そうだよー。こっちこっち」
ヨナは門の左側を指さして「着いてきて」と歩き始めた。俺は彼女を追いかけた。
俺が目の前の大きな門をくぐろうと近づいた時、衛兵たちからあからさまな敵意を向けられたような気がした。何か悪いことをしただろうか。恨まれるようなことをした覚えはない。
「ここから入るんだよー」
ヨナが元気よくそう言うと、俺の目の前には先ほどの立派な門と比較すると小さな門があった。こちらの門には衛兵はおらず、門に扉のようなものもない。あけっぱなしの状態だった。
「えっ、本当にこっちでいいの? 」
たまらず、ヨナに問う。周囲の建造物は長年放置されているようで鉄や木材が腐っている。壁には雑草やコケが絡まり、老朽化した部分から崩れ落ちて一つとしてちゃんとした家がなかった。そして、それを直そうとした形跡もない。
廃墟。それがこの場所をもっともよく表現している言葉だった。
微かに香る泥水のような刺激臭の匂いが漂ってきて思わず鼻を押さえる。ヨナは一瞬顔をしかめただけで特に気にした様子はない。慣れた様子でどんどん町の中を歩いてゆく。
「うん。 あっちはパスティーユの市民だけが通れる門なんだって。
だから私たちはこっちを使わないといけないっておばちゃんが言ってたよ」
「…… 。 そうなんだ」
すぐには答えられなかった。どうやら、このパスティーユの町には格差があるようだ。
市民と呼ばれる人々はちゃんと整備された町に住めるが、そうでない人間はこの廃墟となった町に隔離されひっそりと暮らしているそうだ。そしてヨナは後者の貧しい側の人間だったというわけだ。
よく考えてみればわかる話だ。ヨナが薬草を取りに森に入ったのは、この世界では当たり前のことなんだと思っていた。たぶん、それは違う。市民たちは薬を町中で安全に入手できたり、医者と呼ばれる人を呼ぶこともきっとできる。山から見下ろしたパスティーユの町はそれほど栄えていた。
「それにしてもここは静かだね。他に人はいないの? 」
「うーん。みんな表通りにはいないよ。弱っている人は大体裏通りにいるから」
そう話すヨナの横顔がどこか大人びて見えるのは錯覚だろうか。
よくよく注意して周囲を観察すれば物陰から視線を感じる。人はいるようだ。大方よそ者を警戒しているのだろう。
「えっ」
思わず言葉を漏らした。俺のすぐ目の前にひどくやせ細った少年が道に転がっていた。よくよく見れば座って俯く人。横になって動かない人。この場所のひどい悪臭に少し鼻が慣れてきたはずなのに、それでも鼻をつんざく強烈な匂いが漂っている。
それが死臭だと理解するのに時間はかからなかった。なぜなら、目の前に皮膚が剥がれ、腐った内臓が飛び出て鳥についばまれている人を見つけてしまったから―― 。
「うぇ。おえええぇぇ」
喉に湧き上がってくるものを堪えられず吐き出してしまう。何も食べていなかったことが幸いして胃酸だけが地面に撒き散った。
「イリス! だ、大丈夫!? 」
慌ててヨナが駆け寄ってきて、うずくまる俺の背中をさする。
「ごめんなさい。イリスはこういう町を見たことがなかったんだね」
「うげぇええ。 ごめん。大丈夫だから、そんなにくっつくとヨナが汚れちゃうよ」
ヨナは吐しゃ物で汚れた俺の口を躊躇なく洋服の裾で丁寧にふき取る。
驚きに心臓が高鳴る。かつて学校を不登校になる前のことだ。俺は同級生からいじめられていた。そのストレスから体調を崩して、昼ごはんの時間に吐いてしまった。不可抗力だった。気が付けば吐いていたそんなレベルだった。
その時は誰一人として手を差し伸べる者も気遣う言葉をかける者もいなかった。ただ、侮辱と嫌悪の言葉が降り注ぎ、俺を思いやる人間はどこにもいなかった。本来、俺を助けるべき大人である先生ですら『もう中学生なんだから気持ち悪くなったらトイレにいって吐けよ。』と言われた。
確かにその通りだ。でも、我慢できるなら最初からそうしている。できなかったからこうなったんだ。誰か一人くらい俺を心配してくれてもいいじゃないか!
心の中で黒い感情が広がっていく。まるでバケツに墨を落としたようにその波紋は広がり、俺の身体を震わせていく。過去の人間に怒りを感じながらも、それを吐露する勇気もなく。ただ踏み出すことの不安と恐怖で身動きが取れずに震えている。そんな自分が、俺は嫌いだった。
俺が憂鬱な気持ちになっていると身を寄せてくるヨナの体温が腕から伝わってくる。ネガティブになっていた心の氷を解かすような優しさという暖かさがとても心地よかった。それはかつて俺が喉から手がでるほど欲したものだったから。
「私の服あんまり綺麗じゃないかもだけど、ごめんね」
ヨナは終始俺に気を遣いつつ、嫌な顔一つしなかった。俺だったらたとえ女の子相手だとしても他人の汚物を処理するのは嫌だと思ってしまう。ヨナみたいに献身的に人を助けたりなんてできない。でも、もし俺と同じように苦しむ人がいたなら、ヨナのように手を差し伸べられるようにありたいと強く思った。
「ううん。気にしないで! 旅人さんだからここよりひどいところも知っていると勝手に思ってたから…… 。気が付かなくてごめんなさい…… 」
しょぼんとした顔でヨナが俯いて段々と声が小さくなっていく。この状況はヨナのせいではないのだ。だから彼女が俺に気に病む必要などどこにもない。
「ヨナは何も悪くないよ! 俺は大丈夫だから、さぁ早く行こう」
胃酸で喉が熱くなっている。声も少しガラガラになっているが動けないわけじゃない。出すものをだしてもう何もでない。
「イリスが大丈夫なら……」
心配そうに瞳を揺らして俺を見つめる。
「ああ、問題ない。ヨナ、ありがとう」
「私何もしてないよ? 」
「俺吐いたから臭いし、汚いのに介抱してくれただろ。背中さすってくれたし、口もふいてくれたり」
「友達が困っていたら助けるのは当然のことなんだよ! 」
「でも…… 」
俺がそう言いかけると遮るようにヨナが言った。
「それにイリスだって血まみれの私を助けてくれたよ。 服の汚れとか気にしてなかったでしょ? 同じだね」
そう言うヨナの声はどこか柔らかく澄んだ声だった。仕草は子供っぽさ全開なのに、たまに年の差を忘れてしまうような大人びた雰囲気を纏っている。そのギャップがとても可愛らしいなと思えた。
「そうだね。でもやっぱりヨナがすごいんだよ」
ヨナは不思議そうにきょとんとしていた。
「俺がヨナぐらいのときにそんな風に考えもしなかったよ。だからヨナはすごいと思う」
「褒められると恥ずかしいよぅ。イリスだって私と同い年くらいなのに一人で旅してすごいと思うよ! 」
頬を赤らめて視線を忙しく動かし、手足は落ち着きなく動揺を表していた。こういうところは年相応な反応だった。
「いやいや、俺は27歳だからヨナより年上だから…… 。当然というか」
俺はそんなヨナを微笑ましく見つめながらそう言った。
「うーん? イリスはエルフなの? それとも精霊さんなの? どっちにも見えないんだけどなぁ」
「ん? 俺は人間だよ」
疑念の眼差しが俺を射抜く。
しまった! ヨナに気を許し始めて緊張の糸が緩んでいたようだ。うっかり元の身体の年齢をこたえてしまったが、今の身体はヨナと同じくらいの幼い少女の姿だった。
「あ! わかったぁ~。ふふん。私だって30歳年上だよ! 」
どう言い訳をしようかと考えているとヨナが勝ち誇ったような顔で、慎ましやかな胸を張っている。
「えっ。そんな年上だったの!? 」
驚きに口があんぐりと口を開けて見とれてしまう。確かに、人間だと思っていたがヨナが言うように長寿の種族もいるようだ。なにせ、あの有名なエルフもいるようだし。改めてヨナを観察してみれば人間にしては耳が少し長いような気がしてくる。
もしかして本当に俺より年上だと言うのか―― 。
「そういうおままごとじゃないの? 」
「ちがうわ! 」
「えー。違うの? じゃあなんで年上のフリするの?
あっ!? ふーん。わかったよ。
お姉ちゃんに憧れてるだね。
その気持ちわかるよ! 私も早く大人になりたい」
なんか盛大に誤解されているが言い訳を考える必要はなくなったようだ。俺も幼い頃に早く大人になりたいと願った気がする。真実ではないがあながち嘘ではない。今は訂正する必要はないだろう。でもいつか、ヨナには伝えたいと思う。俺がなぜここにいるのかその経緯を。彼女は信じて良い人間なのだとそう思えた。
「そ、それより! ヨナ。本当は何歳なの? 」
恥ずかしさで伏目がちになり、ヨナを直視できない。横目でちらちら彼女の様子を見ながら話題を変えるべく尋ねてみた。
「私は7歳だよー」
「そうなんだ。俺もヨナと同い年くらいだと思う」
「おおー。一緒だね。
あ、そろそろ日も沈んできたし、早くお家に帰ろう」
気が付けば太陽が地平線に近づき、空を茜色に染めていた。身体に吹き付ける風も心なしか肌寒くなっている。小さく身を震わせて俺は言った。
「そうだね」
道の真ん中で倒れる人々の中から一人の少年に近づいてゆくと、近くの壁に寄りかからせてあげた。
「ごめんね。これで少しは楽になったかな?」
少年に息があったことに驚きを隠せなかった。てっきり、もう亡くなっていると思っていた。
「ぜぇ。ぜぇ。ぜぇ。はぁぁ」
少年は頬は痩せこけ目はくぼみ、明らかに衰弱している。そんな少年に差し伸べられたヨナの優しい手を乱暴に振り払うのであった。
ヨナを動じることなく無表情で少年を見つめた。対する少年は声を発する力もなくなったようで口を小さく動かすだけで声にならない。
手を差し伸べてあげたのにそれを乱暴に払いのけるなんてひどいと思ったが、目の前で弱り切った者を見て見過ごすことはできなかった。
今の俺には神様から頂いた力がある。この力で目の前の子供を治すことができるだろう。
そう考え至り、少年に手をかざしたところでヨナに止められる。
「えっ。いいのか? あの子治さなくて」
ヨナは俺の耳元で少年に聞こえないように言った。
「身体を治せても食べ物がないんじゃ、長くは生きれないから。ここじゃ、その日を生きるので精一杯。ああなってしまったら、早く楽になれた方が幸せなんだよ」
「でも―― 」
その言葉に反論する言葉がいくつも浮かぶ。何かできることがあるんじゃないか。
「気持ちはわかるよ。 私だって何とかできるならそうしたい。変えたいよ!
イリスの魔法ならこの子を治せるかもしれない。
でも今は良くなってもこの町には食べ物が少ないの。だからすぐ今と同じ状態になってしまう。
そのときにまた魔法で治す? ずっと永遠に魔法をかけ続けてくれないと本当の意味で助けられないんだよ!
無理だよ。人間の魔力には限りがあるし、無理して魔力を使いすぎればイリスが死んじゃうよ!! 」
ヨナの言う通りだと理性が言うが、感情が言うことを聞かない。なんとか、なにかできることはないのか。そう、問いかけてくる。確かに、今この瞬間は俺の力で少年を治すことはできるかもしれない。
ヨナに聖救神愛を使った後、何かがごっそり抜けた感覚が微かにあった。ゴモリーからもらった奇跡の力も、なんとなくだが使用回数に制限があるような気がする。完全に救えるかわからない力で一時的に人を助けても自分勝手というものだろう。
この子を救うにはもっと根本的な部分をなんとかしないといけないのだ。それこそこの国の政治や経済。社会システムそのものを変革させなければならないだろう。そんなこと、俺にはできるわけがない。俺は英雄でも勇者でもないのだから。
奇跡のような力を手に入れたのに俺は昔と変わらず無力なままだった。
「そう、だね。 ヨナの言う通りだよ」
「市民の人たちは毎日物に溢れた生活をしているんだって。ひどいよね。私たちはこんなに物がなくて苦しんでいるのに。こんな僻地に追いやられて隔離されて差別されている。
なのに皇帝様は何もしてくれない。こんなの絶対に間違っているのに」
強者はより豊かになってゆき、弱者はその日生きていくのもやっと。
弱肉強食なのは多かれ少なかれどこにでもあるのかもしれない。そういう点では日本もこの世界も同じとなのかもしれない。
「ねぇ、イリス。私、夢があるんだ。笑わないで聞いてくれる? 」
何を言い出すのかとゴクリと唾をのむ。
「私、皇帝になりたいんだ」
「皇帝。この国の一番偉い人だよね。なってどうするの? 」
「この国を変えたい! みんなが何不自由なく最低限の暮らしができるそんな世界にしたい。
でも、女の子は皇帝になれない。神様は人に相応しい役割を与えるって聖典に書いてあってね。例えば、女の子は男の子の身体の一部からできたから男の人を支えないといけないんだって。変だよね。女の子は生まれた時から劣等種だから、優秀な男の人の手伝いをしないといけない。
そこからどんなにがんばっても、女の子が男の人の役割に関わる仕事をすることができない。政治や経済、ギルドや商人。社会の大事な職業に女の子はなれない。だからみんな私の夢を笑うの。馬鹿げた夢だ。できっこないって」
想像以上に大きな夢だった。そうか、この現状を変えるために社会システムを変える必要がある。ならば、システムを変えられる立場になればいい。言うほど簡単なことじゃない。けれども、応援したくなるそんな夢だった。
「ヨナ。うまく言えないけど、すばらしい夢だと思うよ。
ヨナの夢を笑う奴らはわかってないんだ。
生まれた時から役割が決まっている? ここの住民は貧困に喘いで死ぬ運命ってことか? いや違うだろ!
そんな聖典もそんな運命を与えたのが神だっていうなら、そんなの神じゃない」
俺が知っている神様がそんな理不尽な世界を是としているようには思えなかったし、生前の日本の常識があるからか。全ての者は平等であるべきという意識が強くある。
「ありがとう! イリスだけだよ。 私の夢を笑わない人。
でもどうすれば、何をすれば良いのかわからないんだよね…… 。やっぱり無理なのかな」
肩を落としてじっと目を落としたまま黙り込む。
確かに現状から何をすれば皇帝になって社会を変えられるのか。適切なアドバイスが浮かばない。だから俺は素直な気持ちを伝えた。
「具体案は浮かばないけど、俺はヨナの夢を応援したい。だから一緒に考えていこうよ! 」
きょとんとした顔のヨナが俺を見つめている。
「うん! 」