3-8 守りたいもの
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夕立もすっかり止み、薄暗くなった青空をほんのりと赤い光が照らし出す。
姫宮家の居間で、宗治は携帯電話を耳に当てて通話していた。
「うん……え? 雷の音で逃げた?」
電話の向こうの相手に聞き返すと、宗治はふふっと静かに笑った。
すると、通話の相手――姫奈は怒り始め、ピリピリと響く彼女の声に驚いて宗治は耳元から携帯電話を遠ざけた。
『笑い事なんかじゃないわよ! 土砂降りの中大変だったんだからね!』
「ごめんごめん、笑い事じゃないよね。少し伝えるのが遅かったみたいですね、すみません」
宗治は姫奈の報告を一通り聞くと、「ではまた後で」と一声かけて通話終了ボタンをタップした。
「若いもんは元気だねぇ」
「風邪を引かないか心配ではありますけどね」
机を挟んで向かいのミヤコに、宗治は苦笑を浮かべて言った。
しばらくすると玄関のドアが開くのと同時に、少年と少女のにぎやかな声が聞こえてきた。
居間に入ってきた姫奈の腕の中では、三つの頭を持った犬が大人しく抱きかかえられていた。
「ザッハトルテ! どこほっつき歩いてたんだい!」
ミヤコは抱きかかえられたザッハトルテに向かって叱る。
叱られていることを理解しているのかいないのか、ザッハトルテはハァハァと嬉しそうに尻尾を振る。
「無事に見つかって良かったですね」
一方、ミヤコの隣に座るリリアンは柔らかく笑い、ザッハトルテを優しい目で見つめた。
「無事に見つかったのはいいけど、アタシたちがずぶ濡れよ」
姫奈がそう言いつつしゃがんでザッハトルテを下ろすと、ザッハトルテはミヤコの方へトコトコと歩いて行った。
「ふぅ、とりあえず着替えてくるわ」
姫奈は一息つくと立ち上がって、廊下へ出て行った。
宗治は廊下へ出て行く姫奈に軽く手を振ると、向かい合うミヤコの方へと視線を移した。
「ミヤコさん、それはまさか……」
ミヤコから差し出された分厚い封筒。宗治はそれを見て目を丸くした。
「お疲れさん、これで皆でうまいもんでも食べておくれな」
「こ、こんな大金流石に受け取れませんよ!」
宗治はミヤコの差し出す手を押し返して断ろうとしたが、ミヤコは宗治の押し返す手をひょいと通り越してさらに宗治へと差し出し続けた。
「あの子たちにも分けてあげるんだろう? ずぶ濡れになって頑張ったけぇ、これくらいないと割に合わんさね」
宗治は、昨日の昼食のことを思い出す。情けない声で空腹を訴える少年と、家主に謝る少女――そんな二人の顔を浮かべて、彼はミヤコの差し出す封筒におずおずと手を伸ばした。
「……分かりました、ありがとうございます」
「さて、ザッハトルテも見つかったことだし、あたしゃ帰るとしようかねぇ」
ミヤコはそう言ってゆっくりと立ち上がると、玄関の方へと向かって行った。
「ご依頼ありがとうございました」
「こちらこそありがとねぇ。またゆっくりと話そうじゃないかい」
玄関先で宗治が軽く会釈すると、ミヤコは宗治の隣にいるリリアンに目を向けて、にんまりと笑って口を開く。
「お二人さんの結婚式にはぜひ呼んでな」
「だからおばあちゃん、宗治さんはただの居候ですよ。結婚することはありません」
「残念だねぇ、お断りだとさ」
天然故の発言であることは宗治も理解していたが、リリアンの一言は彼にとって何か突き刺さるものがあった。
――断定されるとそれはそれで悲しいな。
「それじゃあまた会おうさね」
「お疲れ様です」
二人はミヤコを玄関で見送ると、リリアンが落ち着かない様子で辺りを見回しながら宗治に問いかける。
「龍斗くんは……?」
「そういえば見かけませんね。部屋にいるのかな」
居間に顔を出さずにそのまま二階に上がった可能性がある。宗治はそう考えた。
「僕、ちょっと見てきます」
「はい。もうじきご飯も出来るので、よろしくお願いします」
二階に繋がる階段を登って、奥の部屋のドアノブに手をかけた。
そっとドアを開けると、殺風景な部屋の隅の畳まれた布団に寄りかかる少年が一人。
静かに寝息を立てている少年に向かって、宗治はそっと一言放った。
「……お疲れ様」
そう言って宗治が静かにドアを閉めようとしたとき――
「……ノックぐらいしてください。起きてますよ」
目を閉じていた少年はむくりと起き上がり、半目で宗治の顔をじっと見る。
起きている、と本人は言っているが、明らかに今目覚めたような目をしていた。
「あ、すみません。帰って来てから顔を見てなかったもので。どこにいるのかと思って」
「……ちょっと部屋で休んでただけだよ」
いつもの素っ気なさとは少し違う、疲労感から来ている気怠そうな表情で龍斗は言葉を紡いだ。
「そっか、今日は雨の中お疲れ様。ゆっくり休んでください」
宗治がぺこりと頭を下げて部屋から出ようとしたとき、龍斗がぽつりと呟いた。
「やっと兄さんと会えました」
龍斗は宗治の方に向けていた目を窓の方にやり、再び畳まれた布団に寄りかかった。
一見怠そうではあるが、どこか安堵したような落ち着いた表情を浮かべていた。
「あとオレ、兄さんを目指すのをやめました」
穏やかな笑みを浮かべて少年は語る。
「宗治さん、前にオレに『守りたいものは何か』って聞きましたよね」
「……あぁ、あったね」
宗治が初めて龍斗の稽古に付き合ったあの日。あのときのことは宗治も鮮明に覚えていた。
「あのときは“ない”って答えたけど……今はあります」
静かに語る少年に、宗治は問いかける。
「それは……何ですか?」
困ったようにはにかんで、宗治の問いかけに少年は答える。
「……そこは察して欲しいところかな」
少し俯きがちになって笑みをこぼす龍斗。
そんな少年のはにかむ様子から、彼にとって守りたいものが特定の“人”であるということを宗治は察した。
「了解しました。お察しです」
宗治が笑みを返すと、龍斗はハッとした表情で一言付け加える。
「あ、そのっ……守りたいって言っても別に変な意味でもないから」
「大丈夫。分かってますよ」
穏やかに笑う宗治に、龍斗は少し疑うような目を向けていた。
本当に分かっているのかとでも言いたげな少年に対して、宗治は分かっているよと縦に頷いて合図した。
龍斗はよし、と頷いて話を切り替える。
「宗治さんは、守りたいものってあるんですか?」
龍斗の問いに、宗治は少し表情を曇らせた。
「僕は……自分自身かな。誰かを守れるほど強くはないので」
「宗治さんは十分強いじゃないですか。少なくともオレの何十倍も」
龍斗は寄りかかっていた布団から起き上がり、納得がいかないといった顔で宗治に言葉を返した。
宗治はドアを閉めると、群青色の絨毯に腰を落とした。
「実力の話じゃないんだ……心の話って言ったらいいかな。そういう面ではきっと龍斗くんの方がずっと強い」
伏し目がちに、青年は静かに語る。
「俺はね、正義の味方になりきることができないんだ。どう足掻いたって偽善者になる。だから君のように、人のために力を使うことが出来ない」
意味深な言葉を紡ぐ宗治の目には冷たい光が宿り、いつもの温かみのあるものとは少し異なっていた。
「どういうこと、ですか?」
薄暗くなった部屋の中で、青年の目は鋭く光る。
そして、彼は重々しく意味深な言葉を紡ぐ。
「罪人は無垢な聖人になれると思うかい?」
見るものを圧倒し、背筋を凍らせるような目。
しかし、口元だけはいつもの穏やかな笑みを浮かべており、まるで本心が読めない表情だった。
龍斗もそんな彼のいつもと違う雰囲気に気付いているようで、少し引きつった表情で話す。
「……よくわかんないよ。そういう難しいこと」
途端、急に琥珀色の目に温かい光が戻り、青年――真田宗治は悲しそうに笑って言葉を吐く。
「簡単にいうと、僕には人を守る権利がないってことですよ」
「権利とか、そんな――」
龍斗は何か言いかけるが、先にかける言葉を見つけられなかったのか口をつぐむ。
「そうだ。もう夕飯の準備が出来ているそうですよ。下に下りて食べましょう」
ぱっと催眠術を解いたかのように明るい笑顔で宗治は話した。
龍斗も先の会話を言及することなく、頷いて立ち上がった。
愛想笑いを浮かべる宗治の中で、ミヤコという老婆の言葉が響く。
『先のことはあんた自身が決めることだけどねぇ……このままじゃあ長くは続かないんじゃないかえ?』
青かった空は既に暗闇に沈み始め、龍斗の部屋の中には僅かな夕日の色が残っているだけだった。
少年に背を向けてドアノブに手をかける宗治の目に、再び冷たい光が宿る。
――続けて見せるさ。過去に囚われない、平和な日常を。
――俺の守りたいものはたったそれだけの、自分自身だ。




