4話 一歩
湊は思った。
これほどまでに足取りの思い朝が―――果たしてあっただろうか。
家の鍵を掛け、既に何度目かも分からない溜息をついた。
空は春の陽気に誘われて雲一つない青色だ。
対する湊の顔は―――青は青でも真っ青だ。
「オイオイ、何をそんなに落ち込むことがあんだ?」
背中と制服の隙間から半身だけを外に覗かせたクロロは、湊の右側を漂っている。
「……だって……私……クレイザーに………」
なってしまった、と言葉が続かない。
認めたくないからだ。
「なんだンなことかよ……バレなきゃいいだろ」
「……そうじゃなくて………」
勿論、他人に知られてしまうことは恐怖以外の何者でもない。
それを警察やCeoに伝わってしまったら、人間の生活を送ることはできなくなる。
捕まって人体実験の果てに廃棄されるか、その場で速殺されるかのどちらかだ。
『殺される』という点においては変わりない。早いか遅いかの話だ。
だが、それはクロロの言う通り、誰にもバレなければ何の問題もない。
両親が海外出張に出ているのが幸か不幸か、クロロの存在を知る者は湊以外いない。
それに立ち回り方によっては前よりも便利な生活ができるかもしれないのだ。
しかし、湊が最も恐れているのは『そこ』ではない。
「……だって、クレイザー……クレイズ能力を持った人って………犯罪をするようになるんでしょ………?」
以前渚に聞いた『これ』こそ、湊が最も恐れていることだ。
言うことを100%聞くかどうかはさておき、クロロという存在は自分がもう一人できたようなものだ。
その上行動範囲もかなり広い。
窃盗も強盗も、やろうと思えば殺人だって、自分が現場に向かわなくとも離れた場所から実行に移せてしまうだろう。
何かの拍子に犯罪を犯してしまったとして、始めは罪悪感を感じていたとしても、繰り返していくにつれ感覚は薄れていくものだ。
そして回を重ねるごとに行為はエスカレートしていき、始めは物足りていた小さな罪からやがて人を襲うにも躊躇しなくなり、最終的には……
「オイオイオイオイ、そりゃあ違うぜミナト」
湊の頭を侵食し始めていた濁った雲を、クロロが強引に切り開く。
「確かにクレイザーはドロボーだのコロシだの、普通の奴に比べりゃやりやすくなるだろうがよ、そりゃそいつらが『自分の能力』に溺れるからだぜ。他の誰にも無ぇ自分だけのトクベツなモンだからなァ、そりゃあ調子にも乗るだろうぜ。
しかしだ。どうしてそれを繰り返しちまうっつーのかってっと、『止める奴』がいないからだな」
「……止める奴……?」
「そうだ。止める奴がいねぇから繰り返して善悪の区別がつかなくなっちまってンだ。自分で能力見せびらかしてバカやるバカは論外だが、普通はオマエみてぇに隠したがるだろうから他に知る奴もいねぇ。それが余計にマズイってわけだ。わかるか?」
クロロは正しいことを言っている、ということは理解できた。
「……じゃあ……止めてくれる人……探すの………?」
「ンなわけねーだろ結局誰かにバラしちまってるじゃねーか。いいかミナト? おそらくだがオマエは他のクレイザーとは段違いにトクベツなんだぜ。『オレ』を持ってるわけだからな。つまりオレがオマエを止めりゃいいんだ」
「……クロロが……?」
「さっきオレはオマエの飯が動力源だっつったろ。オレはオマエにくっつかなきゃ生きていけねえ。オマエが死ねばオレも死ぬんだ。だからこそオレ他の誰よりも必死になってオマエを止める。《《死なねぇように痛めつけてでもな》》」
耳元で囁くクロロの声に、湊は身震いした。
冗談で言っているようには聞こえなかった。
「―――ま、オマエが危ねぇことやりそうになってもオレは手を貸さねぇしな。何度も言うようだが結局のところバレなきゃいいんだ。なっちまったモンはしょうがねぇ。お互い上手くやってこうぜ、なァミナト」
クロロの左手が湊の右肩に触れた。
ヨーロッパの史実に出てくる龍の爪のように鋭く尖った指を持つ手だったが、不思議と嫌な感じはしなかった。
「オラ、整理がついたんならとっとと歩け。それともオレが引っ張ってやろうか?」
「……ううん………自分で歩く……。というか……学校では隠れてね………?」
「分かってらァ」
幾らか軽くなった足取りは、常より素直に通学路へ向いていた。
※※※
会議だったか何だったか、湊は理由を覚えていなかったが、予定通り学校は午前中のうちに終わった。
どの部活も今日は休みらしく、生徒でごった返す正門をなんとか潜り抜け家に帰ろうとしたものの―――湊は近くのコンビニのイートインスペースにいた。
本当は家の冷蔵庫の余り物で昼食を済ますつもりだったのだが、クロロに「行け」と言われて湊は言われるがまま来てしまったのだ。
買ったばかりのパスタサラダのドレッシングを開封していると、制服の左手の袖から、どうやら自分のサイズを小さくできるらしいクロロの顔だけが首を出した。
「予約は3時からだったな」
予約、というのは今朝クロロが言っていた美容室の予約のことだ。
気は乗らなかったが、クロロに携帯を剥奪されて勝手に予約されてしまったわけだが、それが一番早くて3時だったのだ。
「うん……でも………どうして……?」
「確か向こうの方にデカいショッピングモールがあるんだろ。それ食ったらそこに行くぞ」
「え……あそこに……?」
パスタサラダを食べる手が止まり、思わず箸を落としそうになった。
クロロの言うショッピングモール、とは5年前に出来たばかりのものだ。一階から7階まで多種多様なショップが所狭しとひしめき合い、平日休日問わず客が出入りする。
人混みが苦手な湊はそこへ行くのを極力避けていた。一度だけ渚と言ったことはあったが、その時に滅多なことがない限り二度と行くまいと誓ったものだった。
「なんで……? 何買うの……?やめようよ………他のところにしようよ……何買うか知らないけど………」
「いいや、他の店に行くわけにゃかねぇ。絶対にあそこだ」
「必要なもの……無いよ……?」
特に今欲しているものは―――あるにはあるが金では買えない。
「いーや大事なモンだ。今日一日オマエのガッコー生活ってやつを見てたが、誰を見てもミナト、オマエが一番ダサかったぜ」
「どういうこと……?」
クロロの顔に近づくように身を屈めていると、入り口の自動ドアが開き、同じ制服を着た二人の女子生徒が入ってきた。
湊は彼女らを一瞥したかと思えば、すぐさま顔を背けた。
同じクラスの人だ。
話したことは当然無い。
こんなところで一人で食事をしていると知られれば―――厳密に言えば一人ではないのだが、ともかく知られてしまえば何と思われるか。
孤独イメージが加速するのは間違いないだろう。
「ああ、あいつらはちゃんとしてたなァ。右が《《赤》》で左が《《青》》だ」
クロロが何を言っているのか、湊はさっぱり分からない。
「他のやつらは皆キチッとしてんのによォ、オマエは一体いつから使ってんのかも分からねぇボロボロのほつれまくりの《《白》》なんざ使いやがって……恥ずかしくねぇのかよ?」
湊の頭内はクエスチョンマークが無数に浮かんでいる。
あの二人がちゃんとした赤と青?
そして自分はボロボロの……し………ろ……?
……!
ガタッ、と机を大きく揺らして湊はクロロにさらに詰め寄った。
「ねぇ……もしかして………この話……」
「あァ? なんの話してるか分かってなかったのか? 《《オマエのパンツ》》の話をしてんだよ。これからショッピングモールでもっといいヤツ買え」
湊は食べ終わった容器に割り箸を放り込み蓋をして、急いでコンビニから出た。
時間にしておよそ3秒、早足でそのまま家への帰路を目指す。
「オイ、反対だぞミナト」
クロロは袖から左手を持ち上げ、湊に言った。
「……帰るっ………!」
「何恥ずかしがってんだ。オマエの裸だってもう見てんだ、イマサラだろ」
「影に入って見てるって………そういうこと……!?」
今朝正門を通る前、クロロは湊に「影に入らせろ」と言っていた。
その時は特に疑問を抱かなかったが―――それはつまり下から覗き放題になっている、というわけで……
「……エッチ……!」
あまりにも分かりやすく、湊の顔は赤面していた。
自分の『心』とクロロは自称しているが、こうも自由に喋り自分なりの考えを持っているのならクロロは『他人』だ。
クレイズに性別があるのかは知らないが、クロロの口調も声質も男そのものだ。
湊が恥ずかしがらないわけがなかった。
「オイオイ何カン違いしてンだ。別にオレはそういうつもりで言ったわけじゃねぇ。オレに男女の区別はねぇし欲情もしてねぇ。今みてぇにサイズを小さくしたりオマエの中に隠れてンのは息苦しいからだ」
口では何とでも言える。
少しだけ分かり合えると思っていたが、やはり無理かもしれない。
本気でクロロを切り離す方法を考えている最中も、クロロの言葉は続く。
「髪を切れっつったり新しい下着を買えっつってんのも全部オマエのことを思って言ってンだぜ、ミナト。自分を変えてぇんだろ、《《ナギサにも言われてるじゃねぇか》》」
―――ドクン、と湊の心臓は跳ね上がった。
人の通らない自宅への近道に途中で、湊の足は止まった。
「な……んで……そのこと……ナギちゃんのこと……知ってるの……」
「そりゃオレはオマエの『心』だからなァ。オレの知識や記憶はオマエを元にしてンだ。だからナギサのコトはよーくわかるぜぇ。昔っからずーっとベッタリだったもんなァ」
―――人には誰しも『触れられたくない部分』が存在する。
それを触れられる、知られる、ということは、心臓を素手で鷲掴みされて好き放題に弄ばれるのと同じようなものだ。
普通なら怒るだろう。
しかし湊は―――何も言わなかった。
何も言えなかった。
昨日渚本人に言われたことをもう忘れていた自分への劣等感の方が大きかった。
「オマエはもう逃げグセが染み付いちまってんだ。オマエの頭はまず逃げることを考えようとするが、それが良くねぇ。一生ナギサにくっつくつもりか? ンなことはできねぇって、自分でも分かってンだろ? 自分からも逃げンのか?」
「………」
自分を変えたい。
昨日の夜も夢見たことだ。
いつか必ず、湊と渚は離れ離れになる。
いや、今がその状態に最も近いかもしれない。
湊はクレイザーになってしまった。
渚はCeoだ。
湊にそんな気はさらさら無いが、関係だけで言えば渚とは敵同士になってしまった。
なら―――なおさらだ。
渚に悟られないよう、渚とは離れなければならない。
自分を―――変えなければ。
「どうすンだ。逃げるのか、行くのか」
「……行く………」
湊の決意にクロロは「オォ!」と声色を明るくし、袖の中へ引っ込み、朝と同じ湊の顔の右側へ現れた。
どうやらここが定位置になったらしい。
急に出てきたので湊は少し驚いて辺りを見回したが、誰にも見られていなかった。
「その意気だぜミナト! 決意の始めってのは一歩目が重要だからなァ。覚えとけ」
「今から行っても……間に合うかな……?」
「あと2時間はあるぜ。余裕だろ」
「だよね……じゃあ……行こう………」
か細い決意だったが、ほんの少しの成果だったが、それでも湊は自分の足をショッピングモールへ向けることができた。
※※※
「ありがとうございましたー」
美容院の女性店員の声を背後に、湊は帰宅していた。
手には学校指定の鞄、そして―――手提げ袋でカモフラージュした、下着の袋。
買い終わってから隠すものがないと焦ったものだったが、学校鞄の奥底に何故か手提げ袋が入っていたおかげで命拾いした。
流石にショップの袋を晒したまま美容院に入るのは―――湊でなくても無理だろう。
視界がこんなにも広いのはいつぶりだろう。
いつもは前髪が垂れて、というか意図的に長くして目が合わないように隠していたのだが、あれはあれで邪魔だった。
心なしか頭も軽い。
腰の辺りまで伸びていた髪は、肩の高さにバッサリと切り揃えられていた。
ともかくこれで全ての用事を終えた湊は、今度こそ自宅へ帰っていた。
「一歩目が踏み出せたなァ、ミナト」
定位置に顔を出したクロロの裂けた口は、いつにも増して広がっている。
笑っている……のだろうか。
「うん……ありがとう……クロロ………」
「いいってことよ。次はダチ作りだな」
「それは……ちょっと………レベル……高い……かな……」
「うるせぇ。やるっつったらやるンだ。オマエがそう望んだんだからな」
「うん……でも………ゆっくり……ね……?」
「しょうがねぇな」
クロロというクレイズ。
そして自分はクレイザー。
今のところ上手くいっている。
もしかすると本当に、このまま誰にもバレることなく普通の生活が送れるかもしれない。
いや、出来る。
きっと出来る。
いつになく明るい気分で、湊は淡い期待を心から信じた。