【短編集・散文】それ幸いと、
■崩壊都市
「神の怒りに触れて亡んでしまった都市があるんだ」
男は海と廃墟を挟む石垣をゆっくりと歩きながら微笑んだ。すらりとした立ち姿が、太陽と海の輝きに揺れて、丸で幻のようだと、彼女は思っていた。蒼と碧の境界線を見詰め、彼は色素の薄い瞳で彼女を見下ろす。
「神の怒りを買えば……こんなものとはオサラバかな」
「どうかしらね」
彼がこんなものと言ったのは銀色の腕輪で、それは存在意義に反して神々しく眩い光を帯びていた。白髪を風に揺らされて、彼は曖昧な笑みを浮かべる。
「君は厭だと思わないのかい?」
その声は何処か痛々しい。
彼女は気付かない振りをして、首を傾げた。
「厭、という概念自体間違えているもの」
彼女は黒く長い髪を靡かせて、石垣の下を歩いていた。彼と彼女の歩幅は僅かに異なっている。彼が無言のまま遠くを見詰めると、こちらに向かってくる子供達がいた。
「君には何が見える」
「子供よ」
「三人の子供かい?」
「……解っているでしょう?」
二人の子供は彼女をすり抜け、一人は彼女とぶつかった。
「神の怒りに触れ滅んだ都市に憧れるべきではないわ」
混乱している子供の頭を優しく撫でて、彼女は黒い腕輪を見詰めた。
「バビロンの人間は永劫……貴方の世界とは関われない」
見えてしまうのは災難ね、と彼女は怪しく笑った。
「こちらからは貴方の世界は見えるけれど……貴方だけよ……こちらが見えるのは」
彼は悲しそうな顔をして石垣を降りた。徐に差し出された手を、彼女は握らなかった。
「初恋はね、貴方、実らないから美しいのよ。それが叶ってしまったら、それこそ怒りに触れてしまいそう」
■黒衣の姫君
私は大馬鹿者なのだろう。貴女は祀られる事を良しとした。民の為ならばと頷いた。この世界にその程度の執着しか無かったのかと、柄にも無く怒鳴ってしまった私に、貴女は、私よりも大きな声を上げて否定をした。藍色の瞳からぼろぼろと零れる雫に、自分の罪深さを悟った。
かき集めるように華奢な体を抱き締め、二人して子供のように泣いた。
「空が好き」
「海が好き」
「風が好き」
泣きじゃくりながら言う一言一言を聞き逃さぬように、強く強く力一杯抱き締めた。
「それ以上に貴方の事は好き。離れたくないの」
けれど、と貴女は私の顔を見詰めて痛々しく微笑んだ。
「この世界を見棄てる事も私には出来なかった」
貴女の陶器のような両手が私をの頬に添えられた。情けなく泣いている私に、貴女はゆっくりと口付けをして、腕の中から去っていった。
「真夏の夜の夢のように、忘れられぬ思い出になれたら、私は幸せよ」
そう言い残して、私から離れてしまった。
明くる日、黒いドレスに身を包み、全てに諦めと決着をつけたような顔をして、緩やかに階段を上っていく。最上階にある黒い箱の中の、黒い椅子に貴女は鎮座して、その扉は閉められようとしていた。私は階段を駆け上がり貴女の名前を叫んだ。そして百年に一度だけ開く扉の隙間に向かって言った。
「貴女の声が聞こえるまで話しかけよう!それでも寂しければ化けてもいい。茹だるような苦しみと、掟への憎しみを抱えるならば、いっそ私を殺しにきてくれ。私は、貴女を待ち続ける」
■幸福な娘
「悲しい顔をするのね」
これが気になるのかしら?そう足を見つめる彼女に、何も言えないでいた。彼女は大樹に寄りかかり、酷く達観したような顔で、空を見詰めていた。
「貴方と初めて会った日も、貴方はそんな顔をしてくれた」
首を傾けて笑う彼女に、私は矢張何も言えない。言う権利も無い。
大樹の根が彼女の太ももまで張り付き、小鳥の為に伸ばしたその指先も、艶やかな華で彩られている。里で一番美しく生まれた女は、守り神である大樹の花嫁として生きなくてはいけない。
大樹はその代わりに、人よりも長く、神よりも短い命を与えると言う。
「同情とかではなくて、本当に傷ついたような顔をして……優しいのね」
彼女の髪には勿忘草の花が散りばめられ、首もとには百合の花が宛がわれていた。人の体が植物の苗床になってしまったような姿。その溶けてしまいそうな程細い腕を掴み、じっと彼女の顔を見つめた。彼女は、しかし、ただ申し訳なさそうに微笑むだけだった。
「可哀想に見えるかしら?」
驚く私の手を解いて、彼女は愛おしそうに大樹を見上げた。
「私は、けれど……幸せよ」
こちらが傷付いてしまうような優しい微笑みのままそう言い切った。
「貴方が踏んでいる花もいつかの私」
私は慌てて退いた。
「そうやって自然に死んでしまえる。無造作に。無邪気に。それに憧れていたのだから」
幸せでなければと彼女は笑った。
■祭壇へ向かう男
「そうでなければ生きる価値もない」
俺は鎌を引き抜いてから微笑んだ。世界の中心で、枯れるまで歌わねばならない。そんな定めに踊らされて、妹はそこで歌う事を強いられた。
君の為に等と殊勝な事は言わない。最初から最後まで俺自身の為なのだから。だから君は何も気にしなくていい。
「ここで誰かが歌わねば世界は壊れてしまう」
だったら何だ。
かつての歌姫も、歌人も、誰かの世界の中心だった筈だ。それを奪われてまで生きる命に、価値など無い。戦わぬ腕に意味など無い。だから武器をとった。血に塗れる恐怖よりも、君を失う恐怖が勝った。
「そう……君だけが」
顔に付いた血を拭いながら、俺は緩やかに頂上を目指した。世界の中心という踊り場には沢山の信者達が居る。彼女を神のように崇め、如何なる邪魔も排除してきた。その中心で歌う君は、世界で何よりも美しい。
「世界の全て……」
全てを屠る事さえ厭わない。君はきっと自分のせいだと嘆いてしまうのだろうけれど。それすらも儚く美しく、健気なものはない。そう思ってしまう俺は、きっと病気なのだろう。
「君を守れない世界に、生きる価値なんてないから」
そう赤い血を伸ばせば、君は子供のように、泣いたり、せず。全ては当然だと言わんばかりに、綺麗に微笑んだ。
■書き記す者
「お前には後どのぐらいの記憶が残ってる?」
彼は手帳に何かを綴りながら聞いた。そうやって手帳を持ち歩き、日々を記録するのは今時珍しい。
「どの……と言われても。何処までが元々の記憶かも解らないですから」
私が彼に言うと、彼は曖昧な笑みを浮かべながら「そうか」と言った。「貴方は?」と尋ねると、彼はニヤリと笑った。
「全部だよ。連鎖で無くなったもの以外は全部だ」
「……記憶改変……、されてないんですか?」
「ああ、辛くても覚えている事にしたんだ」
彼は手帳を膝に置いて、愛想よく笑った。
「今日の男は、恋人の記憶全てを消した。連鎖的に家族や知人らの記憶からも彼らが恋人だったという事実が抹消された。死んだ恋人の事を思うのは辛かったらしい」
それはそうだろう。私がそう思っていると、彼は首を傾けて笑った。
「今では忘れる事は簡単だ。知らない間に俺も誰かを忘れているのかもしれない。でも、それが当たり前になるのは怖い」
ふと彼の手帳を盗み見ると、先程の男性の名前と、記憶削除の理由が書かれていた。自分の日記ではないらしい。
「個性の原点は何処にあるのか。それを考えると、俺は記憶しか思い浮かばない」
もしくは経験だ、と彼は繋げた。
「俺が俺であるために、こうやって残そうと思った」
彼は日記を懐に仕舞いながら、空を見上げた。私もつられて上を見る。
「記憶を消す職に就きながら、記録として残すのも滑稽だが、せめて……と思うんだ」
■女王の不在
そこには一つの世界があった。妙にローカルで、妙に懐かしい世界だった。既視感に襲われるでもなく、不安に襲われるでもなく、そこにはそれがあった。
「さあさ、お食べ」
そう老婆に言われ、果実を手渡されたが、どうしても食べたいとは思えず、もう一つ勧められた酒を頂戴した。
聞いたことの無い果実酒は、不思議な程薄い味だった。
「この地下にある水を使っているんだ」
そう答えられ、私はなんと無くそこに行こうと思った。
「あそこはまた別の世界だから」とも言われ、普通は危険だと思わねばならないところを「そうか」とだけ答え、私はそこに向かった。
晴れ渡った空の下と違って、地下は肌に服が纏わり付くつようなじめっぽさが漂っていた。灯りもなく、人もなく、一体何処に違う世界があるのか。私は不思議に思いながら下へと向かった。そうしていると白い服を着た小さな子供がふらりと現れ「此処には女王がいるんだ」と突然言った。
「わたしたちはその人に囚われている」
私はまた「そうか」と淡々と言った。奥に連れられ、向かってみると、他にも数人の人が居た。地下の人々が地上の人々と会議をしている。
「女王は何を言ってもきかない。殺さねばならない」
そういった文言を繰り返していた。そこに何故か作為的なものを感じ、私は地下の人々を見た。
何れも此も皆、致命的に欠落していた。悪臭すら無かったものの、彼らは皆死んでいたのだ。
「女王が不在の今、計画を練らねば」
女王の不在、彼らはその事の重大さに気付いていない。女王を殺せば、きっと此所の均衡は失われる。部外者である私が何か言うのもお門違いだろう。だが、私は徐に立ち上がった。
■緋色
齷齪としていても始まりはしない。何一つ動きはしない。彼女は重い病を患っていて、だから部屋から出せないのだと言われた。昨日まで優しく微笑んでくれていたのに。病は突然彼女を蝕んだと言う。
「緋色に好かれてしまった」
長がそう語った。
「あれは、見ない方がいい」
「病が移るからですか」
私がそう尋ねると、長はただ黙したまま、また「会わない方がいい」と言った。
「あの子は間も無く死ぬ。申し訳ないが、救う手立てが無い」
私は、しかし、納得する事は出来なかった。一目でも彼女の姿を見ようと、丑三つ時人里離れたその小屋に向かった。縁の下を這い、木の隙間から上を見上げた。
「大丈夫かい?」
私が声をかけると、彼女がか細い声で「あなたなの?」と言った。そうして腐りかけた木を叩き、「ここよ……ここ」と囁いた。
私はそこの木をゆっくりと外し、小屋の中に入りこんだ。暗い部屋の中で彼女はしゃがんでいた。
「たすけにきてくれたのかしら……」「君をみないと納得出来なかった」
彼女は特に何かを患っているようには見えなかった。ただ、黒く美しかった目が、陽を浴びたような色に輝いていただけだった。
「君が無事でよかった」私は彼女の手を取って言った。彼女は首を傾げて微笑み、「ええ、わたしも」と言ってくれた。そうしてするりと口付ける。
「わたしも」
積極的に私を求めてくる彼女に、何と無く疑問を抱きながら、それを拒否する理由もなく、私はそれに応えた。
「緋色とは、彼岸の住人だ」
外で見張りが話している。
「何でも、彼岸の住人が此岸に子を成すと、今の均衡が逆転してしまうのだそうだ」
私がハッとして彼女を見ると、彼女はにったりと笑った。
「ごちそうさま」
■前世より愛した君へ
「親が私を見る訳無いじゃない」
彼女は無表情に言った。それでも彼女はこちらを見て、少しだけ楽しそうに笑った。
「ふふ、貴方を部屋に誘うぐらい簡単ってことよ」
私は自分でも驚く程優しく笑ってみせた。
「のんびりしたいしね」
「じゃあ行きましょ」
彼女は私の手を引いて歩き出した。
彼女の両親は、やはり彼女に無関心で、私に気付くでもなく、二人で会話をしていた。嗚呼、彼女はきっとこの時代でも愛に餓えてしまっている。私は彼女の手を強めに握り返した。彼女はきっと覚えてないのだろう。
ずっとずっと以前から、私達は出会っている。あの時代でも彼女は孤立していて、明らかに愛情不足だった。
だから何度も世界や時代が変わろうと、君だけを愛して生きようと、そう思いながら生きていた。
「何よ」
彼女の部屋で寛ぎながら、私がニヤニヤしていたのが気になったのだろう。黒い瞳を細めて、彼女は私を見据えた。私は首を振って、繕うように笑った。
「君は、もし僕が居なくなったらどうする?」
「……居なくなる気?」
「違うよ」
過去でそうだったように、この時代でも私はきっと早死にする。君を置いて、呆気なく死ねる命だ。
過去、君は最後までは幸せになれなかった。
「あなたは居なくならないわ。そういう呪いをかけてあげたから」彼女はそう言って笑った。
■狭い二人と広い現実
世界は荒廃し尽くしてしまって、どうにも不毛な世界になってしまったように見えた。大きな匣の中、緩やかに生かされているようで、君と二人、死ぬ為に生まれたみたいだねと笑った。病的に白い肌、絹のように揺れる限りなく銀に近い水色の髪。桃色の瞳が、僕を不安そうに見上げた。
彼女の手を取ると、浅黒い僕の肌が余計に際立つ。真っ黒の髪に瞳。君とは正反対だ。
「きっと世界は広いんだよ」
じゃなかったら、こんな大きな匣は置けないのだし。僕が笑うと、彼女も可笑しそうに笑った。
話せない君は、しかし、まるで声を上げるように笑ってくれた。
「そうよね」
小さな口がそう動いた。
管理され尽くされた世界の終わりで、古く柔い扉が僕たちを待っていた。
こんなにも荒廃した世界なのに、誰も外へは出なかったのか。僕がその扉に手をかけると、彼女はそっと僕に寄り添った。
「この奥に何があっても、きっと笑っていよう」
僕は彼女と額を合わせ、そう囁いた。彼女は優しく微笑み頷いてくれた。
その奥は野放しにされた手付かずの世界が広がっていた。決して澄んだ世界ではないけれど、自分達の世界とは違い過ぎていて、嗚呼これが綺麗というやつだ、と思った。匣庭は緩やかに崩れていく、けれど僕達は振り返らなかった。彼女と僕は猛烈な睡魔に襲われ、顔を見合わせて笑った。
「手を握って、少し……眠ろう」
そう言って寄り添いあった。温もりも、何も、感じられないのは、きっと眠いからだろう。僕たちは静かに目を閉じた。
「まるで、初めから現実なんて無かったみたいだね」
ふと視界に入った二つの手は、透けて消え入ろうとしていた。
■鬼灯は笑う
その館には満月の夜、誰かが人を呼ぶ声が聞こえてくるのだそうだ。そんな話は、荒廃しきった館や空き家にはよくある話で、勿論私だって信じたりはしなかった。しかしその声を聴いた者の話によると、それは途轍もなく懐かしいのだと言う。
「ああ、漸く会えた」と言ってしまいたくなる程に。
とある満月の夜、仕事を終え、それなりのストレスを抱えつつも私は帰路を歩いていた。どうしようもない部下の事、腹立たしい上司の事、それらを思い出しながら「やれやれ、今日もよく頑張った」と自分を慰めていた。
そんな中、静かな声で「さあ、お上がりになって」という声が聞こえた。
それは優しい女性の声で、私は心底「懐かしい」と思ってしまった。足を止め振り返ると、人が居ない筈の館にはぼんやりと橙色の明かりが灯っていた。
「さあ、お寒いでしょう?」
「そして、お疲れになっているのでしょう?」
私は誘われるようにその館へと歩み始めていた。
「そうだ、確かに疲れている」
そう独り言のように呟き、寂れきった門を抜けた。深夜らしい静かな夜、墨を垂らしたように暗い空。そこに灯る橙色の光は、何処か見たことの無い色のように思えた。
「今日はとても月が綺麗ですから」
その一言と共に館の扉が開かれた。何処かで聞いた文言だ、と思いながら私はその館に入った。
誘われるように明かりの灯った部屋へと向かうと、その扉の前で「ああ、どんな姿であっても驚かないでくださいな」と言う声が聞こえた。私は少し間を空けてから、その扉を開く。
部屋の中は矢張り橙色の明かりで照らされていて、外で見た色よりも少し赤みがかっていた。慣れない色だ。
そこには人の姿は無く、部屋の中心に大きな鬼灯が置かれているだけだった。そこでハッと正気に戻り、辺りを見回していると、鬼灯が脈を打つように光り始めた。
「ようこそ、いらっしゃいました」
その鬼灯の中から、矢張り懐かしい声が聞こえた。
「今宵はとても綺麗な月だから」
声は微笑むように続けた。
「そんな夜になると、どうしても現世が恋しくなってしまうのです」
光は柔らかい色を帯びながら、私の輪郭を撫でた。直接触れた訳ではないが、まるで両手で包まれたかのような温かさだった。
「あなたの疲れも、憂いも、私たちにとってとても愛しいもの」
すぅっと額を撫でられる。
「私たちの声が懐かしいと思うのであれば、貴方はこちらに近付きすぎている証拠なのですよ?」
ふふ、と笑うような声がしたかと思うと、唐突に睡魔が襲ってくる。
「食べて差し上げましょう。けれど一度切りです。もう一度いらした時には、それだけでは済みませんよ」
懐かしいその声は徐々に不快な音に変わったように思えた。
気付けば家の蒲団の中に入っていた。何時の間に帰ったのか記憶には無いが、服装はそのままだ。帰路で感じていたストレスは無くなり、代わりに何かしらの渇きを感じていた。顔が熱い。とても懐かしい声に導かれたように思ったが、その声を今思い出せば、何故か気色悪く感じてしまう。
それは最後に言われたあの言葉のせいなのだろうか。あの橙色の光に赤さが増していった刹那に、その声の主は不快な声でこう告げたのだ。
「次に私の声が聞こえても、決して来てはなりませんよ。優しく出来るのは、今宵のこの一回きり」
「死者も変わらず、無い物ねだりなのですからね」
■先を見続けた愛情
空腹と暴食と拒食の間で、食事にも似た愛を咀嚼しよう。彼はそう言って静かにそれを口にしたのだった。
この寂れた屋敷にはとても美しい女主人がいるのだそうだ。彼女は実に傲慢で、我儘ではあったが、馬鹿ではなかった。美しい容姿に加えて、逞しい知性を持っていた。
その女主人に寄り添うのは、細身で長身の男。彼は彼女の従者をしている。食事も洗濯も掃除も全て彼が行っているが、執事はそれでも構わないと思っていた。
「やれやれ、今日もお嬢様は傲慢でいらっしゃる」と口にしては、その手を取り口づけを落とす。
そして彼女の顔を見上げては、朗らかな笑顔を向けるのだった。所謂彼と彼女はそういう関係だった。手を取られた彼女は、特に何も言わず、静かな視線で彼を見下ろすだけだ。けれど、それで執事は充分だった。再び彼女の手を握り締めて、そっと膝の上へと戻す。執事にとってこの時間は格別だ。
彼女の恐ろしい趣味を見なくて済むこの時間は、とても穏やかだ。この狭い箱庭の中で、彼女が見つけた趣味と言うものは、「解剖」だった。
最初は小さな虫から始まり、次は爬虫類へ、そして哺乳類、最後に行きついた実験台は言わずもがな。しかしそのメスが自分に向かう事は無かった。
それは彼女から彼への愛の証明だったと言える。屋敷の人間が一人、また一人と消えてしまっても、彼だけは彼女の傍に居る事が出来た。
彼女が自分に見せる笑顔の愛くるしさは、この世の何よりも愛しいのだと彼は思っていた。
「ねぇ、もっと先の事を考えましょう」
彼女はよくそう言って笑った。
彼女の趣味は、決して俗世では許されない惨い事であるのを、彼は知っていた。けれども、彼女の喜ぶ顔、その漆黒の瞳が爛々と光る様は、眩暈を覚える程美しいものである事も彼は知ってしまった。
その白い肌に血が滴る時、死んでしまった同胞へ嫉妬してしまう自分が居た。
「ああ、またこんなに汚して」
そう言って彼女の罪を土に埋めてきた。これは二人だけの秘密。罪も二つに分けられる。
彼女への愛もあり、執事は考える事を止めた。そこに罪悪感と背徳を隠しながら、彼は彼女の手に持たれたメスをするりと抜いた。
「本当に、どうしようも無いお嬢様だ」
彼は彼女の頬に付いた血を拭いながら言った。
彼女の趣味は、徐々に成長を見せていった。最初はめった刺しも良い所の切り口も、今となっては綺麗な一本線だ。
医学生だった彼も、その美しい手際に舌を巻いた。けれど、彼女はそれだけではきっと満足しないだろうという事も彼は気付いていた。彼には彼女の全てが解るのだ。
「君の屋敷に行ってみたい」
ある日、そう言った内容で旧友からの手紙が届いた。その手紙を見て、彼は彼女の視線を感じ振り返った。彼女は冷たい瞳のまま、ゆるりと微笑んでいた。期待を少しばかり孕んだ目だ。彼女の趣味を内密にしたまま、旧友に知恵を貰ってはどうか、とその時思いついた。
いよいよその日は訪れて、彼は内心気が気ではなかった。
この旧友が彼女の秘密を知ってしまったら?
または同じように彼女の虜になってしまったら?
そんな不安を抱えながら、半ば浮かれた様子の旧友は彼女が居る大広間へと足を踏み入れた。彼女は変わらぬ笑みを浮かべている。
「お嬢様だ」
執事がそう言って彼女の方へと視線を向けると、楽しげにしていた旧友の表情が一変する。この世の者とは思えない物を見るかのような顔だ。
そう、それ程に彼女は美しい。
この世界に居てはならない存在であるかのように、神々しく傲慢で。
「おい……これはどういう事だ」
旧友は蒼白のままこちらを振り返る。
「彼女、■■■いるじゃないか……」
ああ、お前はきっと私に嫉妬しているのだ。
彼はにっこりと微笑んで見せた。その手には銀色に光るメスが持たれていた。旧友が何かを喚きながら自分に縋りつこうとするのを、彼は認めなかった。
「みっともないな」
彼女の中である言葉だけが気に掛っていた。彼から吐き出される「とてもお美しい」という言葉だ。
彼女は愛に渇き、彼に依存していた。そんな彼から言われる賛美の言葉は、異なる言葉となって彼女を襲っていた。
「美しさを失った貴女には用は無い」
「老いた貴女は何て醜いのか」
老いるという事に、彼女はこれ以上ない恐怖を抱いた。
彼は自分が何をしても許してきた。勿論彼女も単なる趣味で解剖をしていた訳ではない。朽ちることなく、また彼が、自分から決して離れないような肉体になるにはどうしたらいいのか。そればかりを考えて彼女はそのメスを握ってきた。そしてある日、彼女はその方法を見つけた。
彼女に呼ばれた事を喜ぶ執事に、にっこりと微笑んで見せて、いつものように手を取り抱き合った。
彼は自分の手に何かを握らされた事に気付き、ふっと下を見たが、既にそれは確実に深々と刺さっていた。握らされたメスは銀色に輝いて、彼女の胸元に刺さっていたのだ。
「……は……」
彼が恐れ慄き、手を引こうとするのを彼女は許さなかった。そうして嬉しそうに微笑み「ねぇ。もっと先の事を考えましょう」と耳元で囁いた。
「ずっとずっとずっとずっと先まで、私だけを愛してくれるわよね? 大丈夫このまま椅子に座らせて?きっと老いる事はないから」
彼は鳶色の瞳を爛々と輝かせて、血に染まった彼女の頬を優しく撫でた。彼女の足元には綺麗に解剖された旧友だったそれと、銀色のメスが転がっている。
その様を見て、彼は「ああ、またやってしまったのですか?」と呟くように言った。その光景は彼にとって至って〝正常〟だった。
〝異常〟の中でしか〝正常〟を保つ事の出来ない彼は、彼女の手についた血を見詰めて、愛おしそうに微笑む。
「貴女はなんて傲慢で、なんて美しい」
彼は渇いた声で続け、手を握った。
「空腹と暴食と拒食の間で、食事にも似た愛を咀嚼しよう」彼はそう言って静かにそれを口にしたのだった。
■ボーダーラインにて、
ある朝、とても唐突に消えてなくなりたくなってしまって、僕は色々考えた結果、とある廃屋の屋上に来ていた。
電車やトラックに撥ねられて一瞬で終えられたら、とも考えていたが、人様の迷惑になるようなものは宜しくないと考え直した。そういう姿を見せる事のないように消えたいものだ。
そう考えれば、段々と億劫になってくるが、今日はその気持ちさえ湧かなかった。人は簡単には死なないと言うが、結構あっさり死ねるもので、それと同じようにあっさり死を選ぶ事も出来る。
よく解らない明日が憂鬱だ。
僕は一つ溜息を吐いて、柵に掴まりながら下を見詰めていた。今日も忙しなく動き続ける人が見える。
今日も今日とてよくやるな、と思いながら対面するビルにフッと視線を移すと、顔や腕に包帯を巻いた、僕よりも年下の女の子が柵のを乗り越えようとしていた。
「あ」という声を出してしまったが、勿論彼女に僕の声は届いていない。けれど、彼女は震える手で柵を握り締め、乗り越えるのを躊躇した。
その口が小さく動いた。
「ああ、今日も駄目だった」
僕は酷く彼女に興味を持った。君はきっと、そう、全てに疲れてしまって、憂鬱になってしまっているんだ。それは丸で僕のように。彼女はゆっくりと屋上から姿を消し、階段を降りて行った。その歩く動作も酷くぎこちなく感じた。
彼女が階段を降り切るか降りきらないかの所で、僕は声をかける事にした。
「やぁ、死に損なったのかい?」
僕がにこやかにそう言えば、彼女は一瞬驚いた様な顔をして、心底厭そうな顔をした。
「覗き見なんて、最悪ね」
「見えてしまったから仕方が無いよ。でも君には待っている人が沢山居るんだね?」
彼女の顔は一層厳しいものになる。
「そうね。有り難い事に……。不満?」
「いいや、不満なんかじゃないよ。ただ、凄いなと思っただけだ。僕はよくあっちの屋上に行くのだけど、君みたいな子は初めてだね。僕にそっくりだ」
「貴方に?」
彼女は卑屈な笑みを浮かべる。
「いずれは貴方になってしまうのかしら?」
「はは、君はまだそうやって笑えるんだ」
良い事じゃないか、と僕が言えば、彼女は面倒そうに目を背けた。彼女の腕や足は痛々しい包帯姿だが、良く見れば引き締まった良い体をしている。
運動でもしていたのかな、と言えば、彼女は今にも泣きだしそうな顔をした。
「そうよ、家族や友達の為に全国に行ったの。祝われる事は無かった上に、私だけつまらない怪我をしたわ」
だから、ずっとこの屋上を上っているの、と吐き捨てて、彼女はこちらを見た。
「懐かしい思い出も、頑張った証も、全部全部無駄になっていくの。こんなつまらない事で」
彼女は嗄れた声でそう言った。僕は緩やかに微笑んで見せた。
「そうか、だからあの人たち、君に手を翳していたのか」
僕が何気なくそう言うと、彼女はクッとニヒルに笑った。
「そうよ。待っているの。貴方もそんな私を早く見たいんでしょ?」
「どうしてそう思うんだい?」
僕は静かな声でそう告げた。
「僕はね。消えてしまいたいと思うけど、他人に消えて欲しいとは思えないよ。もう見飽きてしまったし」
彼女が訝しげに僕を見詰めていたが、僕はそれをしっかりと受け止めた。
「僕に似ていると言ったのはさ、他人の意思を勘違いしている所、そしてその勘違いのまま憂鬱になっている所を言ったんだよ」
僕はそっと空を指さした。
「どうかな、君の御両親や友達は君が来ないように制しているように僕には見えるけれど」
■置き去りにされた九十九の歳月
そこには様々な物が捨てられていく。レジャーシートを広げ立て看板が置かれている程度の店構えだ。
『供養に困ったものを回収致します』という看板は、一般的な人にとって意味が解らない文言だろうと思う。
実際、不法投棄と同じように扱われてしまう事もしばしばある。店主である祖父は、何も言わずにそれを見詰めている。
祖父には、それが本当に困った末に置かれたものか、邪魔だから捨てられたものか解るらしい。ゴミのように捨てられた物に関して、祖父は怒る事はしないものの、その持ち主を捜しあてて、直々に回収させている。深夜や、時間外に捨てていく事が殆どだと言うのに、彼は探し出してしまうのだ。
「なぁに、物の言葉を聞けば、そんなのは簡単だ」
などと彼は言うが、昔の僕にはやはりさっぱり解らなかった。けれど、歳を重ねる事に僕にもそれが解ってきて、と言っても言葉は聞こえないのだが、その物が何故此処に流れ着いたかの過程が見える様になった。
大層大切にされていたであろう箪笥は、良く見れば赤黒く変色していた。それは紛れも無く血だったが、勿論乾き切っていた。随分昔に浴びた物であろうが、時折その赤黒い跡が瑞々しい赤い色を取り戻して、涙のように血を流していく。
それを目の当たりにしていた時、後ろで見ていた祖父が「嗚呼、それは大層辛かっただろうね」と呟いていた。
その瞬間涙は止まったのだ。
次の日の深夜、祖父はその箪笥を解体して、静かにマッチの火を付けた。灯油をたっぷり浴びたその箪笥は、実に呆気なく炎に包まれていった。常闇の中、美しく焼かれていく姿に、僕は意味も解らず泣いてしまった。
その炎が辛さと悲しみを、煙が苦しさを必死に教えているようで、言葉にも出来ず泣いたのだ。
「これはお葬式だぁな」
祖父は煙の行く先を眺めながら呟いた。
「あの子も、本当はずっと在り続けたかったのだろうね」
ぽつぽつと彼は話し続ける。
「あの子の持ち主はね、それはそれはあの子を大事にしていたのだそうだ。親から子へと受け継がれ続けたんだけどもねぇ……人生は残酷だねぇ」
祖父は溜息を吐いてから続けた。
「下らないいざこざに巻き込まれて、持ち主は死んでしまったようだよ」
僕はふと、あの赤黒い染みを思い出していた。
「あの子は、辛くて、悲しくて、……そして怒り狂った。とうに九十九の命を迎えていたその子はね、その犯人を押し潰して殺したのだそうだ」
祖父は悲しそうに顔を歪めた。
「だからね。裁かれたかったんだよ。この爺に燃やしてくれとしきりに頼んできた」
それを叶える事にしたよ、と祖父が言うと、燃え盛る火の奥で、返事をするようにパキッと音が鳴った。
「人生も残酷だが、物の生はもっと残酷だよ。動かす手も話す言葉も無いのだからね」
祖父はしかし、そっとこちらを見てこうも言った。
「けれど、これだけは覚えておくといいよ。九十九の生を受けた物達は、その大半が気前の良い優しい神様なのだけれど、時には人を戸惑わせ殺そうとする神様も居るんだ」
祖父は目を静かに伏せて続けた。
「そういう物を見つけたらね、躊躇ってはならないんだ」
炎は静かに消えていこうとしていた。
「しっかり壊さないと伝染していってしまう」
その一言を最後にして、闇夜を灯していた光はフッと消え失せてしまった。
その後も物は置かれていった。時折物を置く時に「お願いします」と言って渡してくれる客にも出会えた。
「最近この仏壇が勝手に開くのです」
そう言う客に祖父は朗らかに笑った。
「この子は仏壇の中の塗装を直して欲しいんだよ。修理してあげようかね。何お代は要らないよ。その代り大切にしてあげなさいな」
そう言って修理して返した仏壇は、その後戻ってくる事は無かった。
「何だか、良くないものが紛れているねぇ」
ある日、祖父がそう言った。
「しかも小さい割に、質が悪い。物と言うより寄生虫のようだ」
祖父の言う悪い気というものは、実際に僕にも感じられた。酷く冷たい気が取り巻いていた。店の近くにある何処かの会社の倉庫から漂うそれを確認しようと、僕は向かう事にした。すると祖父はこう言った。
「いいかい、躊躇わない事だ」
その倉庫の管理室に行くと、威勢の良い事務のおばさんが居た。
「お隣さんじゃないか!どうしたの?」といった具合で話しかけられたので、「中に居る人、入ったきり出てこないですね」と告げてみた。
実際、よく店にも来る中年の男性が此処で働いているのだが、朝倉庫に入ってから今に至るまで見ていないのだ。
「そういえばそうねぇ、お弁当持ってなかったし」
「なので、ちょっと心配なんですよ」
僕はこの倉庫の奥から感じる不気味さを語らずにそう言った。
「あらそう、まぁ貴方なら大丈夫よね!見て来てくれる?」
おばさんは元気にニコニコ笑いながらそう言った。僕は一つ会釈をして「はい、行ってきます」と言った。
僕が倉庫の奥の方へ向かうと、二つの影が見えた。一つは探していたおじさんで、もう一つは先ほど会ったばかりの事務のおばさんだ。
「何なんだ急に!どうしたんだ!」
おじさんはただ驚いて逃げ廻っていたが、おばさんは何も言わずに刃物を向けていた。しかし僕にはもっと大きな歪みが見えていた。
物なんて小さなものではない。これはこの倉庫の物達の圧縮された憎しみだ。それが、ナイフに注がれている。
そしてその物自体にも人を殺したいという欲が垣間見えた。
「お前は偽物だ!」
僕は大きな声を上げて、おばさんの方を見た。もう一度見れば、それはただのマネキンだったと解る。
そのマネキンが標的を変えて、僕に襲いかかってきた。そのナイフが冷たく光り、僕の目の前へと振り下ろされる。これは避けられない、と思っていたが、見ていたおじさんがマネキンの腰にしがみつき、一緒に倒れていた。
僕はしばし呆然としてしまったが、すぐにその手に持たれたナイフを蹴り飛ばす。
蹴った感触は、思いの外柔らかかった。ナイフを手放した瞬間に、おじさんもハッとした様子でマネキンを放り投げた。きっと彼にも人ではないと解ったのだろう。
僕は肩で息をしながら、ゆっくりとナイフを見下ろした。相変わらずそのナイフの周りは黒く歪んでいて、思わず固唾を飲込んだ。
そしてそっと手に取ると、僕の中で色々な光景が広がった。
柔らかい手に納められたナイフ。
果実を丁寧に切っている映像。
その手で作られる工芸品のような食べ物たち。
丁寧に手入れをされた刃。
しかし違う手に握られた瞬間、そのナイフは鮮血に染まった。以降そのナイフは赤く色付くばかりだった。
嗚呼、君は自分で終わる事も、仇を打つ事も出来なかったのか。
涙が流れそうになったが、僕はすぐにハッとした。倉庫に在る物達が一斉に僕を糾弾するように見始めたのだ。ナイフから放たれる歪みに共鳴しているようだ。
「躊躇わない事だ」
それは祖父が僕に言った言葉。
あまりにも悲しい言葉だ。
けれど、確かに躊躇ってはならないのだと思えた。このナイフは、あまりにも血を吸い過ぎている。自分の意思を持って尚、その殺意が消えていないという事は、きっと取り返しのつかない所まできてしまっているのだろう。
僕はナイフを床に転がした。その冷たい刃物が僕をギロリと睨んでいる事が解る。
「こんな形で、終わらせるしか、出来ないんだ」
僕はそう言い放って、そのナイフを踏み砕いた。躊躇わず、一思いにとは出来なかったが、刃が粉々になってしまうまで何回も踏んだ。その度に「痛い」「怖い」「助けて」という声が聞こえたが、最後には「そう」「ああ」「有難う」「やっと……やっと」という声に変わった。
粉々になった鉄片を掻き集めて、僕は静かに息を吐いた。振り返れば、おじさんはすっかり意識を手放してしまっていた。
倉庫の物達も、僕を見つめる事を止め、沈黙していた。
彼らには言葉を話す口は無い。何かを制する手も無い。逃げ出せる足も無い。ただ考える力だけが有って、それ故に悲しく残酷な生き物だ。
歳月だけ貪り、置いて行かれるだけの九十九年で、こうして感情だけ膨らませる事さえも許されないというのは、やはり悲しい。
そんな事を、鉄片を持ちながら祖父に話すと、彼は悲しそうに顔を歪めて鉄片を炉にくべた。
「だからね、躊躇わない事だよ」
祖父は鉄を溶かしながらそう言った。
「やはり、ほら、……伝染ってしまうからね」
■散文:それ幸いと、
僕はあなたに好かれるような価値ある人間ではない
愚鈍で、冷淡で、無感動な僕に
君の温もりは熱すぎるのだ
この世界を愛せた試しのない僕に
君が語る愛は大きすぎる
それでも尚僕を好いてくれるなら
僕がどれだけ情けない奴か教えようか
僕は人を愛せない
僕は世界を憂う事が出来ない
僕は常に生を見つめていられない
そんな僕が唯一愛せる時間は
僕が消えた世界を描く時間だ
その世界に僕はいない
存在すらしていない
名前を呼ぶ声すらもなく
手を引く人すらもいない
長らく僕が愛してきた世界は
そんな何でもない世界だ
僕は死にたいと感じたことはない
消えたいと、そう祈ったことは沢山ある
生まれ落ちてしまったら
死んだとしても
その痕跡を消すことは出来ないから
静かな消失を願って
何度も都会の雑踏に身を投じる
君が僕を愛してくれるなんて
それは呪いで大罪でとんでも無い事だ
そもそも僕はそれを望んじゃいない
君にはもっと相応しい人が居る事でしょう
君の中の僕を今すぐに消すべきだ
僕はそれ幸いとして、
今日も僕の存在しない世界を生む
僕は生まれた時分から
いや物心ついた時分から
救われたいと願ってきた
その答えは解らないけれど
ただ助けてと
ただ泣きたいと
愛も人も尽かした癖に
散々散々訴えてきた
その叫びが聞こえないと知ると
そうか、僕はもう居ない人間なんだと
存在すら許されない人間だと思う事が出来た
そう思えば思う程
成る程どうして、気持ちが楽になる
この世界が僕に教えてくれた事は沢山ある
傷つく事を忘れさせてくれたこと
人を頼らず生きる力をくれたこと
それは僕に沢山の時間と知恵をくれた
居ても居なくても解らない人間は
総じて「空気」になるらしい
ならばその無色透明に
そんな不要な存在に
僕が成れたとするならば
どんなに幸福な事でしょうか
だから僕に愛は不要だ
君から吐き出される二酸化炭素は
僕の息を止める程度には濃度が高い
君が僕をそうやって殺すのならば
いっそ跡形もなく消してからにしてほしい
僕はそれ幸いとして、
ようやっと静かに消える事が出来る
それでもまだ君が僕を見つめるのならば
君が僕を感じるとき
それは何処を見て言っているのだろうか
僕は「」の中でしか語れない
僕はそれ以外で話す言葉を知らない
僕を消すのは本当に簡単な事だろう
君は文と文の間に何を浮かべる
その小さな隙間に何を馳せる
それが答えられないのならば
成る程どうして、生かしている
僕を在らせようとする
この僕の声に悩むその数秒を
それ幸いとして、僕はまた
僕の居ない世界を生んでいく
物語を司る彼らは、簡単に消えてしまう存在の癖
いっちょ前に生きようと声を上げていたのだとするのなら
書き手は何時だって殺人を繰り返しているようなもの。