妄想女は異世界にいつでも行けるのです
雨宮上総、25歳、女、地方銀行勤務。
趣味は休日の図書館通いと、退勤後のジム通い。たまに登山やキャンプ等のアウトドア。まとまった休日を取ることができれば、全国各地の神社仏閣及び不思議スポットを訪ねることもある。この年の女としては一般的なものだ。
ただし、上総の場合その趣味は全て、ある目的の為に行っているだけであった。
それは、いつか異世界に、剣と魔法のファンタジー的な異世界に行って、困らないだけの、出来たら食べていけるだけの知識と、ある程度の体力と、アウトドアスキルを身に着ける、その為なのだ。
上総の鞄は、大きい。
出勤するだけにそんな大きな鞄は必要だろうか、ちょっとしたボストンバッグ位あるけど、みたいな大きさだ。
因みに上総の言い分はこうだ。退勤後にジムに行くので。その為の着替えとか入っているんです。鞄を分けて持つのって私好きじゃなくて。これで大抵の人間はふーんと納得する。そう言われた以上、そこまで人の鞄の中身に興味もないのでそこで話は終わる。時々、車通勤ならジムでの着替えだけ別の鞄に入れて車の中に置いておけばいいじゃん、まで言うのが居るが、それも分けて持ちたくない、という言い分で押し切る。
実際は、上総だって出勤には不釣り合いな大きさの鞄を持ち歩くことに若干の抵抗感はあったが、それでも上総は思ったのだ。
勤務中に異世界に飛ばされたときの為に、と。
なお、さすがに勤務中鞄はロッカーの中なので、デスクにもうひとつ、小さ目の予備鞄が備えられている。基本膝の上だ。これでデスクに座っているとき突然異世界に飛ばされても安心だ。
鞄の中身は、というと。
まず、非常持出袋だ。市販品だがこれは優秀である。乾パン・金平糖等の保存食。水2L。手動充電式のLEDライト。スマフォの充電もできる。マッチにロウソク。軍手。包帯や消毒液等の救急用品。防寒防暑に必要なアルミブランケット。
そしてアメリカ人が大好き、何にでも使える魔法のダクトテープ。ついでに有ると安心、だけどまず日常生活では使わない、ビクト○ノックスのキャンパー。方角・高度も測れてしまうソーラー充電が可能な腕時計も外せない。
おおよそこれだけのものが鞄に入っている。本当はもっと色々と必要だが、手荷物としてはこれが限界である。
でも、手荷物でなければ。
そう、車だ。
上総の車の中は、というと。
親元を離れ、一人暮らし、彼氏もいない女の車だというのに、大型ミニバンである。本当はキャンピングカーがよかったが、流石に財政面や世間の視線も気になったので諦めた。
これまた人に色々と詮索されるが、よく友達を乗せてキャンプとか行くので、荷物多く乗せられるのがよかったんです。大きい車の方が、乗り心地もいいですし。と言っている。
少し、本当だ。友達とキャンプに行くこともある。年に1回位。
あとは、いつ車のまま異世界に行くかわからないので、その備えとして色々載せているのだ。鞄の中身をさらに大げさにしたものだ。
非常持出袋は当然として、簡易テントと、ロープ。毛布に寝袋。LEDランタン。ヘッドライト。簡易調理器具とファイアグリル、ガスグリル。予備のガスボンベもばっちりだ。そして長期保存が効く食料品に水を満載。泥水を飲料水に変えられるというボトルや、ペットボトルに装着するだけで浄水できるフィルターも用意した。水が一番大事だ。そしてポータブル冷蔵庫なんてものも買った。カセットガスで冷蔵庫を使えるなんて凄いと思った商品だ。そして折り畳み自転車も入れてある。車では行けない場所への移動手段だ。本当はスクーターも載せたかったが、流石に諦めた。
つまるところ、アウトドア用品を思いつくだけ買って、車に載せてある。あれもこれも…と載せる内に、あっという間にいっぱいになってしまったので、ハ○エースとかキャ○バンにすればよかったかな、とも思った。
ただ、車について心配なのは燃料である。ガソリンを携行缶で用意することは基本的にアウトだし、異世界に行ったとき、よくある不思議パワーでどうにかなればいいな、という具合だ。
そういった感じで、アウトドアグッズを用意したので、上総は予行演習的に時折キャンプに出掛ける。もちろん1人だ。だって、異世界に行くときはきっと1人なのだから、1人で出来るように練習が必要だ。
今ではもう、一人でテントも建てられるし、コンロを持ち込めなかった場合に備えて、昔の人のように火を起こすことだってできるようになった。「もみぎり」だって「ゆみぎり」だって「まいぎり」だって「火打石」だって完璧だ。その道具だって作れる。飯盒でご飯をおいしく炊く方法も完璧だ。魚釣りも、捌くのも完璧だ。
そして実は知り合いの知り合いの知り合いの猟師さんに頼んで、動物の解体も教えてもらった。大分疑問を持たれたが。動物の解体は結構キツイものがあったが、ウサギや鳥程度なら、きれいに解体することはできるようになった。鹿やイノシシともなるとまだ難しい。上総は思った。大学は農業畜産系の大学に行けばよかった、と。上総は大学では経営学部だった。これも異世界で商売とかするなら、という考えのもとである。
因みに、上総はキノコや山菜採りはやめた。山菜はまだしも、キノコは危険だ。図鑑を見ても違いが難しいものが多い。触らぬキノコに祟りなし、だ。そして異世界の植物がこちらと同じとは考えにくい。
とにかくこうした調子で、上総はアウトドア(サバイバル)スキルを磨いていた。
さて、上総はアウトドアにはある程度体力が必要だと考えている。
基礎体力は、あると思う。小学生の頃から、空手(フルコンタクトの方)を続けてきたのだ。流石に小学生の頃は、異世界行きたいとか考えていなかったので、これは純粋なものだ。ただ、中学生になって、いつしか異世界に行きたいと考えるようになってからは、空手により一層熱が入った。ある程度身を守れて、かつちょっとした芸位にはなると思ったからだ。今でも週1回、稽古に通っている。
そして上総はもう少し、総合的に体力をつけようと考えた。結果、週3日程退勤後にジム通いをしている。まず、多めに歩くと足が痛くなることがあるので、それを克服するために、足を鍛えるトレーニング。もし、異世界に行って、山登りとかをするハメに陥らないとは限らないので、腕の筋トレに併せて室内ボルダリングも。加えて海や川で泳ぐことになる可能性もあるので、スイミングもしている。
おかげで若干筋肉もついてしまった気がしないでもないが、誰に見せるわけでもないので、良しとする。
大体の体力はついたので、まとまった休みが取れた時などは少し遠出をして、そこかしこを歩き回っている。
詳しく言うと神社仏閣教会や、神隠しがあったと言われる森や、誰も帰ってこなかったというトンネルなど訳ありスポットを訪ねているのだ。
理由は単純だ。異世界に行けるかもしれない。この1点である。だからこの行動の事を、異世界探索と自分では言っている。今のところアタリはない。
勿論例の鞄は装備済みである。体力をつけた体のおかげで、歩き回っても鞄の重さは平気だし、多少険しい山道も平気だ。
ただ、この探索の途中に異世界に行けてしまうと、車の事が惜しいな、というのは望みすぎであろうか。
休日はジムには通わない。キャンプや探索をしない日は、基本図書館に通っている。むしろ大体の休日は図書館で過ごす。
上総は図書館が大好きだ。大量の蔵書、自分では到底何冊も買い揃えられない高価な本や専門書が、無料で読めるなんて素敵だから。これだけで納税している価値はある。
上総の位置取りは、辞書類が並ぶ参考図書の棚の机辺りだ。辞書類というのは大体借りることができないので、必死に目を通し、気になったことであれば、コピーするなり、ノートに書き写すなりしている。
このノートであるが。大事な大事な厚めのA5サイズのノートは、上総の異世界行きには欠かせないものである。あいにく頭に全てインプット出来るほどの頭はない。鞄や車がもし持って行けなくても、このノートさえ持って行けたら、最低限は行動できると思っているし、うまくいけば、異世界生活が素晴らしいものになるだろう、と思っている。だからこのノートは、ジャケットを羽織る季節なら、その内ポケットに。そうでない季節は、ズボンのポケットに押し込んでいる。ちょっと変だけど、致し方ない。因みに鞄と車にも同じノートを入れてある。
ノートに書き込んだ知識は、異世界ライフものでは定番の、ガラスの作り方や、あらゆる種類のお酒の造り方、陶磁器類の作り方、日本人には欠かせない醤油・塩・味噌の仕込み方、製塩の方法、紙作りの方法、糸作りから織物まで、とにかく思いつくものはなんでも調べて書いていった。
ひとえに、このノートが役立つ時を夢見て。
因みに、スマフォにもローカルで見られるように、画面メモとして必要な情報を入れてある。手動充電できる充電器をストラップとしてつけてあるので、少しは安心だ。保険は何重にもかけておくものである。
こういった調子で、上総の毎日は過ぎ去って行く。
退勤後のジム通い、空手道場での稽古、予行演習を兼ねたキャンプ、異世界探索、図書館通い。
こうして並べてみると、実に多忙だ。自宅アパートにはまともに居ないのではないだろうか。だが上総は少しも苦にしてはいない。全て自分の夢の為の行動なのだ。苦であるはずがない。
それに自宅でもちゃんと過ごしている。異世界行きの準備の為に、自宅でもしっかり過ごしているのだ。自宅ごと異世界に、みたいなのもあるかもしれない。異世界行きは何時、如何なる時にでも、急に訪れるはずだ。しっかり、自分が出来ることを、前もって準備しておく。
上総のアパートの賃料は、地方だからか都会の賃料と比べても安い。都会でワンルームを借りるお金を出せば、地方ではそこそこいい部屋が借りられる。上総は、その都会ならワンルーム位の賃料を出して、2LDKの1人暮らしには広い部屋を借りている。勿論、普段過ごさない部屋に、あれこれ入れておくためだ。だから基本的に来客は泊まらせることはできない残念仕様だ。
自宅では、異世界行きのあれこれの点検や確認をして過ごす。保存食や水は賞味期限が切れそうになったら交換し食べ、カセットガスも使用期限よりは早く交換して使っている。電池類も液漏れが怖いので、定期的に交換。その他色々あるが、やることはいっぱいあるのだ。
このようにして自宅で過ごしている上総だが、当然寝る時間というものがやってくる。
就寝スタイルだが、上総のような女が、呑気にパジャマだけで、布団をかぶって、はいオヤスミ、とはならない。
上総の就寝スタイルとはこうだ。
服装は、いつでも山に登りに行けます的なスタイル。抱き枕の代わりに、いつも持ち歩く必要最低限が詰まった鞄。流石に就寝するときに靴は履きたくないので、これも鞄に入れている。小型のLEDライトだけは首から下げている。目覚めたら真っ暗闇の森とか洞窟だったら困るからだ。
ここまで上総は完璧に準備して眠りに就く。
上総が異世界行きの準備を、異世界行きの準備なんかをし始めたのは、親元を離れて大学に行き始めたころからだ。
正確に言うと、高校に入ってからは図書館に入り浸って例のノートを作り始めてたし、大学の頃は自由に使えるお金もあまりないので本格的な準備などは、仕事に就いて、自由に使えるお金が入るようになってからだが。
こんなにも異世界に行きたいのは、別に何かに呼ばれている気がするとか、この世界は自分の居場所じゃないとか、家族との折り合いが悪いとか、友達に恵まれていないとか、今の私は本当の私じゃないと思っているとか、そういう訳じゃない。
ただ、小さな頃からマンガやアニメやファンタジー小説が好きで、気が付いたら空想もとい妄想に耽っていたのだ。インターネットに触れるようになってからは、夢小説にもはまった。色々なネット小説を読むようになって、さらに異世界へ行きたい思いが加速した。なんてことはない、それだけのことだ。人より妄想力と行動力はあるかもしれないが。
だがそんな日々がもう、小学生の頃から含めるとざっと15年は経っている。
上総は、自分自身の事をアホらしい、と考えながらも、それでも異世界への想いは尽きない。
だから今日も上総は、山登りスタイルで、抱き枕代わりの鞄を抱いて、眠るのだ。
そして起きて、目を開けて、鞄を持って家を出て、車に乗って仕事に行き、ジムに行って汗を流し、空手の稽古をして、異世界探索やキャンプに行き、図書館に行き。
目を開けて飛び込んでくる世界が、一歩踏み出した世界が、異世界であることを願うのだ。