夏至に殺せ
耳を劈くような悲鳴が聞こえた。女か男かわからないその声はピーコックの鼓膜を、脳を揺すぶった。
ガンガンと痛む頭に響いたその声をかき消すように止むことのない雨音がピーコックを濡らしていった。
ーーあぁ、もう。ツイてない。
今日は雨なんか降る予報じゃなかったはずなのに。と、大きく緑色の葉を広げた大樹の下でエプロンドレスの裾を絞った。冷たく湿ったエプロンドレスはキツく絞られ水滴を吐き出す。
ーーまいったなぁ。
愚痴るようにつぶやいた一言は大きな雨音にかき消されることもなく再び自分の元へ帰ってきた。右手に持ったバスケットを目の高さまで持ち上げる。ズシリとした重さの正体はこの森になっている林檎である。
明日は大好きな祖母のために林檎のパイを作る予定なのに。真っ赤に熟した林檎は雨の滴に濡れ光かがやいていた。
葉と葉の隙間から、冷たい雨の滴がピーコックの頭を濡らす。葉に溜まった滴に耐えきれず、大樹は枝を揺らす。
ーーやだ、濡れるじゃない。
頭上を見上げた後、ピーコックは慌てて周りを見渡した。他に雨宿りの出来そうな樹がないことはわかっていた。そして視界に映った大きな館。
白い壁は黒い煤により暗い灰色へ変わり、黒い屋根には雨が弾かれていた。広い庭には野薔薇が咲き誇っている。気味悪いこの館の存在は知っていた。村の大人達が言うには、ここには魔女が住んでいると言う。
ピーコックが迷い、一歩前に踏み出す。それと同時にまた一粒の滴が頭を濡らした処で、ピーコックは決意したように館へ駆け出した。
館の屋根下へ入り込む。近くから見上げると、中に人が住んでいないことはすぐにわかった。雨戸のしまった窓、錆び付いた鍵穴。ひとつだけ雨戸の着いていない三階の窓から覗く白いカーテンは劣化し、ボロボロと崩れていた。
ーーこんなところ、住んでいるとしたら本当に魔女か屍体くらいね。
雨が止む気配は、まだない。もう少ししてもこのままなら、急いで帰ってしまおうか。ピーコックがそう思い始めた頃、雨足は急激に弱くなった。
これくらいなら。と、ピーコックは林檎の入ったバスケットを両手で持ち、雨の中を走った。
先程雨宿りをしていた大樹の横を通ろうとしたとき、館から耳を劈くような悲鳴が聞こえた。この森に入ってからよく耳にする悲鳴である。
ーー魔女の唄だわ!
弾かれるように、ピーコックはその場を走り出した。バスケットいっぱいの林檎が転がる音がしたが、拾い上げる余裕もなかった。
喉奥がひゅうひゅうと音を立てる。肩で息をしても追いつくことのない呼吸が身体の節々を痛めた。
森を抜けると同時に、ピーコックは崩れるようにその地面に触れた。若い芝生はチクチクと白い足をつつく。その芝生は雨の存在など知らないとでも言うように滴ひとつ、ついては居なかった。
火照る身体とは対照的に頭は冴え渡る。あの甲高い悲鳴のような音は、本当に声なのだろうか。家鳴りではないだろうか。それとも…。そう考えると、そこまで慌てて逃げた自分が恥ずかしくなって、早足に家まで帰ることにした。
バスケットの中の林檎と自分のエプロンドレスだけが、本当に雨が降っていたことを証明していた。
太陽が一旦家に帰り、再び顔を覗かせた頃。ピーコックは再びバスケットを手に家を出た。そして昨日と同じ、あの森の中へと姿を消していく。
真っ赤に熟れた林檎の樹の前で止まることはしなかった。今日、バスケットの中にはパンが入っているのだ。御伽噺のように道標に使うわけではない。これは単純にピーコックの昼食だ。
ーーだって、あの館の中に入れたのなら館の中を回るのに時間がかかるもの。
そう考えながら、バスケットを数回持ち直してようやく館にたどり着いた頃には太陽は空を青く照らしていた。昨日の悪天候とは違い、空は葉の隙間から私に鮮やかな青を惜しみなく見せた。
コンコン、と錆び付いた扉をノックした。少し強めに拳を当てると塗装された赤茶色のペンキが剥がれて足元を汚した。錆び付いたノブを軽く握り回してみる。想像とは違い、ノブは簡単に回った。そのまま軽く押してみる。扉がギィと歪な音を立てて開いた。長年閉じ込められた空気が埃と溶け合って私の肺を汚している気がした。
カンテラにマッチで火を灯す。ゆらりゆらりと弱々しく、それでも薄暗い館の中を照らしあげた。玄関の脇にあるランプに同じようにして火を灯す。ランプは壁脇の溝に塗られた蝋を伝い、館中のランプに火を灯す。薄暗かった館は一瞬にして赤色の柔らかい光に包まれた。
明るくなったことに安堵したピーコックは館の中へ大きく一歩を踏み出す。変な音は聞こえない。玄関から正面には大きな両階段がついていた。左側の階段は腐り落ちているのが見え、選択肢もなく右側を慎重に上った。
ギシギシと階段の軋む音がする。その度に不安になりながらもようやく二階へたどり着いた。途中で蝋が途切れたのか、階段を上がると少し先は薄暗いままであった。カンテラで廊下の奥を照らす。ゴトリ。と何かが動いた気がした。先程までの緊張が再び戻ってくる。それでも、音のなった方へソロリソロリと歩き出した。
ひとつめの扉には鍵がかかっているのか、ノブが回らなかった。中に入ろうと思わなかったのは、ノブの下の腐った木々から蛆虫が湧いていたからである。ピーコックは息を呑みながら次の扉へ急ぐ。
ふたつめの扉はノブが回り、扉はなんの抵抗も見せずにピーコックを部屋の中へ招く。ピーコックは雨戸の閉められた暗い部屋をカンテラで照らした。照らし出された室内は長い間風も吹かなかったからなのか、薄汚れていた。カビや埃の独特的な匂い。スン、と鼻を鳴らすとそれだけで胸のあたりが重たくなる。汚れた空気がピーコックの肺を蝕んでいくのだ。
元は白かったのであろうベッドは乱れ、所々に黒い染みが出来ている。中の綿がこぼれ、綿の中にはもぞもぞと動き回る虫々が見えた。ベッドの隣に佇む小さなテーブルの上にはこれまたボロボロになった茶色いウサギのぬいぐるみが置かれている。
触れたのは、指先だけだった。ボロボロながらも愛らしいそのウサギは、この場には不釣り合いで変な恐ろしさを感じさせる。だが無視することも出来ずに軽く手を伸ばした。中指と人差し指が軽く触れただけ。それだけなのに、ぬいぐるみは音も立てずにポロポロと崩れ落ちてしまった。瞬間にバシンと大きな音が響いた。クラルテは息を呑み、怪しげな呼吸で後ろに注意を払う。艶かしい息遣いが聞こえる気がした。それは、耳元で。それは、脹脛で。今にも肩を、足を、首を。何者かが掴み、私をこの大きな館の餌にしてしまうような、そんな気配。
どくん、と跳ねる心臓を抑えた。カンテラをもつ手に力が入る。振り向くことが出来ず、視線を少し下げた。カンテラに照らされた影はピーコックと、もう一人。ピーコックより背丈の小さな子供の影が、ひとつ。
驚きのあまり、大きく振り向いたその視線の先には、何も居なかった。ただ、何故か閉まった扉があるだけ。もう一度カンテラの光を見つめると、そこには自分の影しかなかった。
ーーバカみたい。
早とちりね、と自分に言い聞かせてピーコックはその部屋を後にした。それでも、感じた恐怖に痛む心臓は無視することも出来ずに、ピーコックは早足に階段を降りる。階段の下にはバスケットが置いてあった。
ーーいつの間に手放したのかしら。ああ、カンテラに火をともした時ね。
忘れてた。とうっかりしていた自分を叱る。あのバスケットは祖母にもらった大切なものだ。無くすなんて許されない。
階段をおりきったところで、昨日聞いた甲高い悲鳴が聞こえた。鼓膜がガンガンと揺れ痛みが走る。咄嗟に耳を抑えると、カンテラの光が揺れた。
ーーこの館、地下があるんだわ。この悲鳴、床から聞こえるもの。
不快な音に眉間にしわを寄せながらカンテラで扉を探す。両階段の左側、ちょうど腐り落ちた段の真下に、扉があるのを見つける。ピーコックはごくり。と息を飲んだ。行かないという選択肢は、ピーコックには無いに等しいものだった。
扉はピーコックの手により、すんなりと開いた。鍵穴は用意されて居ない。ガチャリと立った音に、心臓はドンドン速さを増していく。
カンテラで中を照らす。長くできる自分自身の影は頼りなく感じるものだと、ピーコックはまだ辛うじてある余裕で感じた。
木で作られた階段はピーコックの家にあるワインセラーとよく似たつくりをしている。ヒンヤリとした空気がピーコックの素肌を撫でていく。
コツン、とピーコックの靴音が響く。階段は十三段だけで、天井は近いところにあった。ぴちゃんと響く水音と微かに残る異臭から、ピーコックはここは元はワインセラーだったのだと知った。
ーーなによ。やっぱり何もないんじゃない。
口の中で悪態をつく。あの悲鳴はきっと風の音だろうと結論付けようとしたところだった。突然辺りが暗くなった。風も何も感じない中、カンテラの火が消えたことを知り、ピーコックは慌ててマッチを探す。
ーーバスケットの中だわ。
なにもいないとわかった後でも、人のいない薄暗い地下室というのは居心地の悪いものである。ピーコックは後ろを振り向き、階段の一段目に足を置いた。そのまま階段の真ん中まで焦る心を抑えながら慎重に上がった。カンテラの光がない中だと地下室の階段を踏み外してしまいそうになる。
そこまで上ったところで、一度足を止めて後ろを振り返った。幅の狭い階段の中で、首だけ後ろへ向けた。急に生暖かい風がピーコックを包む。まるで舐め回すように、ねっとりとしたその風に身じろいだピーコックは階段を踏み外した。大きな音を立てて階段から一気に滑り落ちる。身体中に痛みがはしり、うつ伏せたまま足を撫でた。
ーーでも、かすり傷だわ。骨は大丈夫みたい。
立ち上がろうと、両手に力を入れる。そのままお腹と床を離そうとしたが、それは出来なかった。ぐいっと、不可解な力が背中に働いたのだ。片足を乗せられているような気がした。先ほどと同じように、耳元で息遣いを感じた。生暖かい息が首筋にかかる。ピーコックは力を込めて逃げようと身を捩った。
顔を少しあげるとそこには赤いひとつの光があった。赤い光の周りには白い部分もある。目であった。赤い、血のように赤いその目は私をジィっと見つめているのだ。恨むように、憎むように。
なにかに弾かれたようにピーコックは階段をかけあがった。背中に感じていた感覚も振り切ることが出来た。
玄関前に置いてあったバスケットを拾い上げ、錆び付いた扉の外へ飛び出した。そのまま、痛む身体で森を抜ける。昨日と同じように森を抜けたところで座り込む。
何気無しに膝に乗せたバスケットの中身を覗くと、何かに齧られていた。