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リンコちゃんとアキラくん

作者: 大宮ニコル

私は暇な人間だと思う。

時間と余裕ならいくらでもあるかのように私は生きられるのだ。


私の名前はリンコ。

そして私には彼氏がいる。


彼氏の名前はアキラ。家はかなりの資産家と聞くが別に興味はない。そもそも私が望んで付き合い始めたわけではないのだ。少々長くなる話だが聞いていただきたい。


そもそもの発端は半年前のバレンタインのことだった。

SNSとは便利なもので、グループに入っていればメールアドレスを知らないクラスメートにもメッセージが送れるらしい。私は家族や友人といった限られた相手との連絡手段として使っていたので、その時まだクラスメートであったアキラくんからメッセージが来た時には少し身構えた覚えがある。

前述の通り、アキラくんの家はお金持ちだ。まして異性である彼に私とはクラスメートという以外の接点はない。話したことも、挨拶したことすらないクラスメートの彼から連絡が入るなど、なかなか無い事である。はっきり言って、私の中で彼はモブだった。

『時間があるなら僕の家に来てください』と、彼の住所らしき位置情報が送られてきた。反射的に開いてしまったから、既読はついてしまい返信はしたほうがいいだろう。……もしかしたら誰かと間違ってメッセージを入れたのかもしれない。そう送ったら『リンコさんにちゃんと送っていますよ』と返されたからもう逃げ場はない。

…………その日の朝、親と大喧嘩したこともあってか家に帰る気にもなれず私は彼の家に行くことにしたのだ。喧嘩の内容は……そんな可愛げのない性格のままだと彼氏なんてできないとか、義理でもいいから男子に配って来いとか、バレンタイン特有のものだった。ミーハーな親め、自分の娘に可愛げのないとは失礼な。

今思えば、友達にも同行して貰えば良かった。それか断って大人しく変えればよかったのだ。今までそんなことがなかったから異性に対する危機感が薄くなっていたんだと思う。


彼の位置情報を頼りにたどり着いたのは学校からほど近い高層マンションで、彼は玄関口で私を待っていた。この時、私は彼の顔をまともに見たのだ。

……確かに、女子が騒ぐのも無理はない。男らしいというよりも綺麗目な顔立ちで鼻筋も通っている。長髪はすっきりポニーテールでまとめられて、これで御曹司なのだ。なるほどね。

挨拶もそこそこに、私は彼に手を引かれセキュリティを抜け彼の部屋に連れ込まれた。最上階の部屋ってこうなっているんだ。部屋というより家といったほうが良いくらい広い空間がそこにはあった。


「荷物を置いて、ソファにどうぞ」

「……お邪魔します」


高級そうな革張りのソファは私が座っただけでふわりと沈み込んだ。リビングに大きな窓、というよりガラスの壁は下界を一望できる。……落ち着かない。


「コーヒーと紅茶、どっちがいいですか」

「……コーヒーで」

「砂糖とミルクは?」

「お願いします」


カチャカチャという陶器がぶつかる音が響く。ここでケータイをいじるのはマナー違反だろうが、何もすることがない。

……そもそもなぜ私が呼ばれたのか、わからない。


「どうぞ」


いつの間にか前に立っていた彼からマグカップを受け取る。温かい。私がしっかり受け取ったのを確認したのち、彼は私の隣に座った。


「あ、ありがとうございます……、っ」


…………嫌がらせ、だろうか。マグカップの中を覗いてみれば赤に近い透き通った橙色の液体が揺らいでいる。これは誰が見ても紅茶だ。私はコーヒーを頼んだはずなのに、紅茶、しかもストレートであろうものが出てきた。さらに言えば、アキラくんのマグカップには多分ブラックだろうコーヒーが入っている。

紅茶派の人には悪いが、私は紅茶など色と匂いがついた温かい水のようだと思う。いや、味はあるだろうがその味は私の舌に馴染まない。要するに私はミルクや砂糖を入れられても紅茶は飲みたくないものなのだ。


「どうしましたか」

「い、いえ、なんでもないです」


なんでもありまくりだろ。こいつ、まさかこんな嫌がらせするために喋ったこともない奴を呼び出したのか、なんて怒りすら湧いてくる。

一気に飲み干すのは失礼にあたるだろうか。私は息を止めてその紅茶をマグカップの半分まで飲んだ。


「……っ」


噎せそうになる。こんな匂いが鼻に突き刺さるのはいい気分ではない。マグカップを目の前のローテーブルに起き、彼をちらりと見た。


「あの……」

「今日はバレンタインでしたね」

「……はい?」


ニッコリと笑顔を浮かべ、アキラくんは私に向き直った。いや、バレンタインだけど急になんなの。


「リンコさんは誰かにチョコレートをあげましたか?」

「いや、渡してませんが」

「もらったりは?」

「してません」


私にとってはバレンタインなと平日だ。誰かからもらうなんて……あ、友チョコはもらったけどそれはカウントすべきだろうか。そもそもバレンタインは女子が男子にチョコを渡すイベントだと思うが……。

そうですか、と彼は立ち上がり再びキッチンへ。戻ってきた彼の手には女子がラッピングしたような、カラフルなリボンがかけられた小さな袋だった。


「差し上げます」


半ば押し付けられるように、渡された中身は透けて見える。トリュフチョコレートだ。……かなり歪な形の。ぎっしり詰められて一個になりかけている。


「食べてください」

「はい?」

「今ここで食べてください」


……彼は一体何をしたいんだろうか。しかし、紅茶の件で口内は口直しを求めている。だけどこれは彼が女子からもらったものだろうか。甘いものは好きだが横流しをもらうほど飢えてはいない。だけど紅茶の味を塗り替えたいし……。

私はラッピングを解き、なんとか一つ取り出し口に運んだ。


「どうですか?正直な感想をどうぞ」

「…………普通に美味しいです」


私は舌が肥えている方ではないから、こういうとき困る。しかし、彼はニッコリと嬉しそうに笑い、そうですか、と言った。……まさか、変なものが入っていたんじゃ……。少し悪寒がした瞬間、私はソファへと押し倒された。


「?!」


私の上に乗るのは、アキラくん。長いポニーテールを解き、私に顔を近づけてきた。

しまった。彼がいる位置は足が届かない。私はなんとかして彼の肩を押すが、不自然な体制のせいで力が入りにくい。


「ふふ、抵抗ですか?」


彼は私の顔に手を伸ばし、私の眼鏡を奪った。あろうことかそれをかけたのだ。


「ちょっと、っ!目が悪くなりますよ?!」

「ふふふ……右のほうが度がきついんですね……」


私のメガネはもちろん女性用だが、彼がかけるとスタイリッシュにも見える。が、それは私の視界を補助するものであると同時に常人の視力を持つであろう彼の目が悪くさせる可能性があるのだ。私のせいで視力が落ちるたら困る。

手を伸ばし、取り返そうとしたらあっさり返してくれた。


「君は優しい人ですね」


再び彼は覆いかぶさってきた。今度は腕を掴まれ頭上でひとまとめにされて、動けなくなる。彼の吐息がかかるまで顔を近づけられ、私の肝は久々に冷えた。


「キミはミルクと砂糖が入ったコーヒーを望んだ。でも僕はストレートの紅茶を出した。けれどもキミは何も言わずに半分も飲んだ」


何も言わずに、じゃなくて何も言えずに、だ。

しかし、いくら暴れても彼には届かない。ソファの上に放り出されたあの袋を取り、一粒チョコレートを取り出し私の口につけた。


「食べてください」


自分の口についたものを吐き捨てるわけにもいかず、押し返すこともできないまま私は押し付けられたそれを口内に迎えた。

瞬間、口を押さえられ私の頭はパニックに陥る。


「ーーんんっ?ぐっ!」

「キミは今日がバレンタインだと知っている。そして、僕のチョコレートを受け取り、食べた」


これ、僕の手作りなんですよ、と彼は言いながら口から手を離してくれたが次は目の前に彼の顔が。


キス、されてる……っ?!


「ーっ!」

「……ん」


嘘でしょ。なんでこんなことになっているの。なんでこいつにキスされているの。ぐるぐる頭が回って沸騰しそうになる。

呼吸ができなくなり口を開いた瞬間、ぬるって濡れた生温かいものが口の中に潜り込んできた。それはあのチョコレートの甘さと香りを伴って私の舌を絡め取る。ぎゅって目を瞑ると粘着質な水音が響いて、背筋が粟立った。

……ファーストキス、こんなやつにこんな形で奪われるなんて。


「ぷはっ、あ……はは、リンコさん、すっごく色っぽい顔してますよ……」


いつものキミからは想像できないです。

そう言って満足そうな顔で口元を拭うアキラくん。……嘘だ、今ので私、腰が抜けてる。


「もう暴れないんですか?」

「……っ、はなし、て……」

睨んでも全く怖くなさそうに怖い怖い、と笑う彼は笑顔のまま私の耳に口を寄せてきた。


「キミ、僕のこと、好きでしょう?」


…………はい?

クスクスと笑う彼に、怒りどころか呆れを感じる。彼はなんて言った?


私が、彼のことを、好き、だと?


いやいやいやいやいや!

どこからどう飛躍してそうなるの?!

あまりの吹っ飛び様に私は声すらも出ない。今日初めてまともに顔を見たのに、目がうっかりあっちゃうことなんてなかったのに、そもそも喋ったこともないのに?!

口をぽかんと開いて天井を見つめていると、ちゅ、と軽くキスをされた。


「いいですよ、付き合ってあげます」


…………ダメだ。相手の目が完全に据わっていて狂気すら滲み出ている気がする。こうなったら私の答えなんて彼はどうでもいいのだろう。しかも否定をするときっとややこしくなる。


結局、私とアキラくんは彼の一方的な押し付けで恋人の関係を結んだのだ。


◾︎◽︎◾︎


さて、ここからは現在の話。

アキラくんと付き合って半年になるが彼についてわかったことがたくさんある。

……簡単に言うと、彼は子供だった。

子供な部分を例に挙げると、それこそ枚挙に暇がないというもので……。


まず、私の拒否は受け付けてくれない。さすがに夜中とかにはないが学校がある日ならば放課後、休日ならほとんど不意に呼び出しをくらい彼の部屋に行く。断ると次に呼び出された時が怖いため塾にいる最中ならば終わるまで待ってもらい、ちゃんと会いに行く。つまり、彼は断ることは許さないが後回しならまだ我慢できるのだ。


そして、ここからの内容は人としてどうかと思うが……。

デート?の約束時刻に毎回遅れてくるのだ。それは30分だったらは5分だったり1時間だったりまちまちだが、酷い時には5時間待たされたことがある。まあ、暇だったから私も待てたのだが普通の女子なら帰っているところだろう。連絡しても繋がらないし、来たら来たで悪びれもしない。怒る気にもなれない。

次に、私の誕生日を聞いておいてすっぽかしたことだ。聞いた時にじゃあお祝いしましょう!とほざいていたのに当日は故意的に忘れたふりをしていた。まあ、別に私は誕生日なんて祝われ大はしゃぎするような人間ではなかったから良かったものの、恋人であれ友達、家族であれ自分の誕生日は少し覚えておいて欲しいとは思わないか。


そして、彼はそうやって私を計っている。私に対してどこまでやれば怒り、嫌うか計っているのが露骨にわかるのだ。

生憎、私は簡単どころか滅多に怒らない。今までの経験から多少は流せるのだ。そうでなければ別れるどころか彼のあのバレンタイン大暴走を一蹴し逃げていただろう。

つまり、私は彼のことは好きではないが嫌いではないので彼から別れを切り出すのを待っている、といったところか。


そして、半年経った今日はアキラくんの誕生日だ。私のはすっぽかされたが一応は恋人だし、礼儀として祝ってやったほうがいいだろうとこの間の休日に買い物をしてきた。

彼のお父さんの犬に殺られたらしい抱き枕の代わりを買ってきた。でろーんとだるーんとした黒猫の抱き枕。彼は猫派だと言っていたし、ちょうどいいだろう。大きな包みを紙袋に入れたところでタイミングよく呼び出されたので私は彼の家に向かった。


……彼のマンションにはいたるところに黒服がいる。そんな彼らとはもう顔なじみだ。挨拶をすれば返してくれる、コワモテばかりだがいい人たちだと思う。


「お邪魔します」

合鍵を使い部屋に入ると、リビングにはすでにコーヒーが用意されていた。


「いらっしゃい……ずいぶん大きな荷物ですね」

「ああ、ちょっと待ってください」

目をいつもより開き、小首を傾げる彼に私は紙袋を渡した。

「これ、誕生日プレゼントです。おめでとうございます」

彼は大きく目を見開き、呆然とそれを受け取った。

「…………これを、僕に?」


…………あれ。

何だろうこの嫌な予感は。

身構えようとした瞬間、渡した紙袋は宙を舞い私はリビングのソファに押し倒されていた。なんか、うん、もう慣れた。が、いつもと雰囲気が違う。

「誕生日プレゼント、ですか、僕に、僕なんかに」

ふふふふふふ……。……私は何か地雷を踏んだのだろうか。ぼんやり彼を見上げていると、彼は私のカーディガンを脱がしシャツのボタンに指をかけたところで私の顔を覗き込んだ。


「キミは、ほんっっっっとうに優しい人ですねぇ?! リンコちゃん!」


目を見開き、眼前まで迫ったその気迫の顔は彼が怒っていることがわかった。


「約束に対して大幅に遅れても怒らない。誕生日を忘れたフリをしても怒らない。僕の呼び出しにはいくら急でもほとんど応じ、さらには誕生日を祝わなかった恋人に仕返しもせず誕生日プレゼントですか?あっははははっ!君はどこまで出来た人間なのです?」

「そんな、ことは」

「あります。今まで付き合ってきた女性の中で一番完璧な人です。怒らない、束縛しない、わがままを聞いてくれ僕を第一に優先してくれる……ええ、ええ、完璧で素晴らしい女性ですよキミは!」

でもキミは、僕なんか好きじゃないんでしょう?と彼は嗤った。


「キミは僕がキミに飽きるのを待っている…………。知ってますよ、ええ知っています」


彼は私の胸に顔を埋め、脱力した。震えている。…………泣いている?


「なのに、誕生日プレゼント、ですか……。好きでもない相手に、贈り物……」


礼儀としてしたまでだ。私には彼を試す必要なんてない、プレゼントを贈る理由は礼儀としてあるが贈らない理由はないと考えてしたのに。


「そうですよ、キミが僕を好きなんじゃなくて僕がキミを好きなんです。キミは僕が好きじゃないのにこんなことをして、これでは錯覚してしまう。優しい上に酷い人だ……僕は、僕は……っ!」


アキラくんの白い手が私の首に伸びる。ぐ、と少し圧迫され彼は顔を上げ私を睨んだ。


「抵抗しないんですか、殺されますよ」

「…………」

「脅しなんかじゃないです。君も知っているでしょう?癇癪を起こした僕を……」


……どうすればいい。

彼を宥めるためにはどうすればいい。

彼は多分愛がよくわかっていないのかもしれない。私もわからないが、彼はさらに。要するに彼は酷く子供なのだ。

たまに母親を見失った子供のような顔で私にすがってくる。私を好きになった理由はわからないが、私に母親のような母性を求めるのは無駄というものである。

しかし、見捨てるほど私は鬼じゃない。確かに彼を知って絆されている部分はあるが……どうしようか。


「…………っ、僕を見ろッ!!!」


彼の長い爪が首に食い込む。流石に息苦しくなってきたので彼の手を引きはがそうと私は手を動かした。

彼を見上げ、睨みつけ、ただただ口をつぐみ続ける私を見て、彼はさらに顔を歪めた。


「早く僕を振り払ってくださいよ、キミならできるでしょう?なのに、キミは、キミは……ッ」


す、と私は解放された。アキラくんは私から離れ、背を向ける。


「…………もう、良いです。別れましょう」


彼は項垂れた。私は起き上がり、彼の背中を見つめる。顔は見えないが、きっと歪んだままだろう。


「別れてあげます。さっさと僕の前から消えてください」


淡々と、抑揚のない声で彼は呟いた。

……とうとう来たか。と、言うのが本音だった。ようやく、ではなく、とうとう。しかも彼が望まない形で。


「……わかりました」

「ーーーっ」


私は立ち上がり、彼に背を向け部屋を出る。言ってくれねばわからない、ということにしておこう。

彼は私をフったのだ。口が滑った、とか本心じゃないと言われても私にはどうすることはできない。


夜風に頬を撫でられ、私はぐっと背伸びをした。


◾︎◽︎◾︎



さて、その翌日。アキラくんは学校を休んだ。その次の日も、その次の日も、とうとう休日の前日まで無断欠席したのだ。

……彼のメンタル、ここまで弱かったか。なんて思いながら帰る準備をしているとケータイに着信あり。相手はアキラくんの黒服さんたちのリーダーだった。

彼の声は酷く上擦っていた。


『もしもし、リンコお嬢様ですか』

「はぁ、どうしましたか」

『申し訳ありません、今すぐにアキラ様のマンションへ来てもらえませんか』

学校前に迎えを手配しています。という電話の向こうが少し騒がしい。


「何かあったんですか?」

『……リンコお嬢様は確か合鍵をお持ちでしたよね?』


そういえば、返すのを忘れていた。

どうやら私と別れた日から誰とも会わず引きこもっているらしい。鍵も特殊なものでたとえ開けられたとしても自分たちが彼の部屋に入るには彼が許可せねばならない。私ならば家の人間ではないため大丈夫だろうからとりあえず彼の生存確認をして欲しい。などという面倒極まりない理由で私は今日の放課後の予定を変更しなければならなくなったのだ。


「アキラくん、お邪魔しまーす」


ちらりと後ろを見ると、中を窺うように黒服さんたちがドアの隙間から覗いていた。……怖いな。

玄関にはアキラくんのローファーがことんと置かれているだけ。廊下を行けばリビングに着くけど、彼の気配はない。

……あれ?ソファの背もたれに私のカーディガンが放り出されてる。最後にここへ来た時に忘れてきたのだろうか。最近暑かったから頭からすっぽり抜けていたんだ……。

……………ん? あれ? 私のカーディガンがここにあるなら、彼への誕生日プレゼントはどこに行ったの? ゴミ箱を見ると、無残に引き裂かれた紙袋とラッピングがぐちゃぐちゃ突っ込まれていたけど肝心の中身がない。粗大ゴミに出されたの?でも黒服さんたちはアキラくんがあの日かは一度も出てきていないと言っていた。


……じゃあ、その肝心のアキラくんはどこ?


リビングにはいない。物置にもいない。浴室にもいない、となると、私でも入ったことがないような彼の寝室しか残っていない。


「アキラくん、いますか」


コンコン、とリビング奥の扉、アキラくんの寝室のドアをノックする。反応はない。けど鍵はかかっている。


「アキラくん、リンコです。いるなら返事をしてください」


返事はない。でも、なんとなく彼はこの向こうにいると確信めいたモノが湧いてくる。

返事がないなら、簡単に三つの答えが考えられる。一つは熟睡しているか、これが一番マシで望ましい答えだ。

問題は残る二つ。もう反応できないか、反応できない状況にあるか、この二つだ。


「…………」


あ、ヤバイ。脳裏がザリザリと冷えていく。悲観的な考えがグルグル回って、足が震えた。えーと、人間は三日水分を取らなきゃ死んじゃうんだっけ? 食物なら十日の猶予があるんだっけ? ……とっくにあの日から三日経ってるよね?


私は慌てて黒服さんたちを呼び寄せ、扉をこじ開けるように頼んだ。

ごめん、アキラくん、ドアと君の生存確認を天秤にかけたらやっぱり私は鬼じゃなかった。ちゃんと後者に傾いたよ。

ドアが力尽くで取り外され、私は真っ先に寝室へ飛び込んだ。初めて入るそこにあった大きなベッドを見て、駆け寄る。

アキラくんが、そこにいた。


「アキラくん、アキラくんアキラくん!」


肩を軽く叩き呼びかけても反応はしない。だが、生きていた。ひゅうひゅうと乾いた荒い息を吐き、胸をかきむしるように悶えている。とっさに彼の首に手を伸ばした。今日一番、肝が冷えた瞬間かもしれない。

彼の体は熱いのに、汗一つかいていなかったのだ。


「氷水と氷枕と濡れタオルを大至急! 誰かスポーツドリンクをお願いします! それから救急車も……! 早くッ!」

わっ、と黒服さんたちが動き出した。


「ひっ、ぐ、は、ぁ、ぁッ」


過呼吸を起こしているのか、のたうつ身体に持ってきてくれた濡れタオルをあてがい拭いていく。次は彼の後頭部に氷枕を置き、黒服さんが買ってきてくれたスポーツドリンクを受け取った。


「アキラくん、聞こえていますね?これを飲んでください」


しかし、彼は苦悶の表情を浮かべ首を横に振り吐き出すように呟いた。


「ぃ、やだ……」

「嫌じゃないんです、飲まなきゃ死んじゃいます」


体を縮こまらせ、彼はなおも首を横に降る。


「ぼく、な、んか……ぃらな、い」

「ふざけないでください。怒りますよ」

アキラくん、私が怒ったらどれだけ怖いか、知らないでしょう?

しかし、彼はあろうことか泣き出した。


「ぼくなんか、ぼくは……ただ、ッグ、ぅ、うぅぅぅぅッ!」


その水分があるなら汗に使いなさいよ!と叫びたいのを我慢し、私は静かに彼を睨んだ。


「泣かないでください、子供じゃあるまいし」


私はメガネを外し遠くへ投げ捨て、ペットボトルのキャップを取り、意を決して中身を少しだけ口に含みアキラくんの鼻をつまみ顔を固定させて彼に口付けた。


「んんぐっ!?う、ぐ、ぅ!」


彼は全力で暴れるが、咄嗟に二人ほどの黒服さんが押さえてくれた。私は少しずつ彼の口にドリンクを注いでいく。中身がなくなればもう一度。二回、三回と繰り返していくにつれてアキラくんの身体の痙攣は治っていき、呼吸がわずかながらも穏やかになっていった。


バカだ。アキラくんは。

何が要因かはきっとロクなことじゃないしなんとなく想像がつくから追求しないが、その結果脱水症を起こし過呼吸に陥るとは呆れるしかない。

だけど、間に合ってよかったと私は安堵しつつ機械的に彼にドリンクを飲ませていった。


ペットボトルの中身がなくなる頃には救急車が来てくれて、私は担ぎ出される彼をぼんやりと見ながら床にへたり込む。

久々に生きた心地がせず肩に不自然な力が入っていたようで、私はただ脱力するだけだった。



◾︎◽︎◾︎



「お疲れ様です、お嬢様」


黒服さんリーダーが、リビングのソファに座り大きな窓からぼんやり外を眺めていた私にオレンジジュースのペットボトルを差し出してくれた。


「病院に付き添った者から連絡が来ました。大事には至りませんでしたが念のため今夜は入院するそうです」


ああ、そうですか。

私はペットボトルを開けて中を少しだけ飲む。オレンジの酸味とペットボトル飲料特有の甘さが舌に絡み、冷たいそれは私の体に歓迎された。


「…………お嬢様」


女性黒服さんが台所から出てきた。彼女には氷や濡れタオルを用意してもらったから、それの始末をしていたのだろう。


「どうか、アキラ様のもとへ戻っていただけないでしょうか」

「……なんですか、ヨリを戻せと言うんですか?」


女性黒服さんはこっくり頷いた。


「でも、私が彼をフったのではなく彼が私をフったんですよ?」


私は自嘲気味にペットボトルのキャップを閉めた。

そうだ。彼から別れましょうときたのだ。散々振り回してきて、理由はなんとなくわかるが結局フったのだから、私からヨリを戻そうと持ちかける理由はない。


「しかし、リンコお嬢様は唯一アキラ様のワガママに付き合える方でしたよ」

「ええ、私、暇人なんでね」


時間と余裕はいくらでもある主義を掲げ、私は生きているのだ。大抵のことは流せるが、逆を言うと危機感が薄い面もある。ロクでもない主義だが時間がない余裕もないと嘆いているやつよりマシだと思う。


「でも、あんな露骨に試されたらなにくそと思うじゃありませんか」


お前も他の奴同様逃げるのだろう?という目で見られたら腹立たしくなる。


「……それでも、アキラ様にはお嬢様が必要です」


もう、あなたを試すようなことをするなと注意します。あなたの心の広さに甘えないように、我々からもいいつけます。だからどうか。


彼らの真摯な瞳から視線をそらすように壊されたドアの向こうを見た。

……あれ? ……………ああ、あんなところにあったんだ。



◾︎◽︎◾︎


夜の9時。とは言っても昨日の次の日だが、私はアキラくんのベッドサイドに座っていた。

背後には安らかな寝息を立てるアキラくんと、そのアキラくんに抱きしめられている彼にあげた猫の抱き枕がいた。黒いシーツとお布団に溶けているようだ、と俯き気味に思った。


「…………ん……、?」


アキラくんがゆっくり眼を開く。ぼんやりふわふわと視界を彷徨わせながら、ついにこちらを見た。


「…………りんこ、ちゃん?」

「おはようございます。と、言ってももう夜ですが」

水を持ってきます、と立ち上がろうとした時、ゆっくりと手を伸ばされて首を掴まれた。掴まれた、というより添えられたと表現する方が正しいくらいアキラくんは手に力が入っていない。


「ゆめ、ですか……」

「はい?」

「だって、ぼくはキミに非道いことを……だから、キミがぼくのそばにいるなんて……」


まだ夢と現実の境界を彷徨っているのか、うつろに呂律が回らず舌足らずにブツブツ呟く彼を私は見下ろしていた。

ああ、と悲しそうな、納得したような感動詞を口にして彼はフニャリと笑う。


「やっぱり、ぼく、キミのことが好きなんですね」


アキラくんは身体を動かし寂しそうに、すり寄ってくる。

……私も応じるようにベッドへ上がり、彼に膝を貸した。


「キミが好きだから、こんな夢を見る……。夢の中のキミは変わらず僕が望むことをしてくれる。優しいキミを、僕が自ら手放した……」


愚かですね、と太ももに擦り寄る彼の長い髪を撫でる。彼は視線を今も抱きしめているデフォルメされた猫を見つめた。


「嬉しかったんですよ、誕生日プレゼント。今までもらった贈り物の中で一番嬉しかった。でも、僕はキミの誕生日におめでとうの一つも言わなかった。僕の気持ちを押し付けられ振り回されても怒らないキミが、これなら怒るだろうかと思っていたのに……キミは自分に無頓着なんですか?歳をとるのが嫌なんですか?それとも、どうせ僕のことだから祝わないだろうと諦めていましたか……?何にせよ僕はキミに生まれた日を祝ってもらえる権利なんてなかったはずなのにキミは……」


やつれた頬をそっと撫でると彼はくすぐったそうに、そして幸せそうに笑った。


「キミが僕を助けてくれる夢を見ました。別れを告げてからキミが出て行った後、僕、子供みたいに泣いちゃったんです。泣いて、泣いて、泣き疲れて眠って、目が覚めてもキミがもうここにはきてくれないということを真っ先に思い出して泣いて……息が苦しくなって、涙も枯れて、猫ちゃんを抱き締めてキミを思い出しても思い出の中のキミはやっぱり優しくて、気がつくともう動けなくて、そしたらドアの向こうから君の声がして手を伸ばしても届かなくて、ドアが開いてキミが駆け寄って僕を呼んでくれても返事が出来なくて……そこから覚えてないんです……ああ、もしかして僕、死んじゃいましたか?」


でも、こんなにあったかい。幸せです。と彼は毛布を手繰り寄せた。


「リンコちゃん」


確かな響きを持って、強い意志を帯びてその声は私の耳に届いた。


「………はい、なんですかアキラくん」

「好きです、キミのことが……リンコちゃんがいなきゃ僕は生きていけない……」


……その、よくある恋愛小説や漫画で見る使い古された誰かがいないと生きていけないというフレーズは、アキラくんが言うと真実に聞こえた。実際、生きてはいけないことはない。だけど、彼が仕出かしたことを加味され私は背筋が冷えるのと同時に諦め、そしてあろうことか彼の絶対依存対象にされた満足感を覚えた。


「もう、キミは僕のところには戻ってきてくれないのに、夢なら……甘えてもいいですかね……?」


彼はベッドに手をつき、震え揺らぎながらも身体を起こしこちらを見た。長い髪がパサリと肩に落ち、うっとりとした婀娜っぽい笑顔を浮かべ彼は顔を寄せてくる。


ぺち。


と、寸のところで彼の額を叩き、静止した。


「あんまり好き勝手しますと、怒りますよ」


彼は鳩が豆鉄砲を食ったように、狐につままれたように目を見開きキョトンとしていた。


「………夢、じゃ、ない……?」

「残念ながら」


全部聞いちゃいました。と彼の額に置いたままの手を頭へ移動させる。


「…………リンコちゃん」

「はい」

「好きです」

「はい」

「大好きです」

「そうですか」

「僕はキミと、別れたくなんかない」


涙を溢れさせ、突撃する勢いで抱きついてきた彼を受け止める。


「もう、キミを試すようなことはしません。嘘でも別れるなんて言いません。ずっとずっと僕と一緒にいてください。キミがぼくのことをいやになったら、ぼくがかわるようにどりょくを、するから……ッ」

「あんまり泣くと、悪化しますよ」

「だって、だって……!」

「別に、私の顔色を伺う必要なんてないですし、ワガママがあるなら言ってくれた方が楽です」

「も、リンコちゃんのばか、そんな優しいこと言うから……僕は……ッ」


結局彼が泣き疲れて眠り私も眠ってしまったのだ。


翌日。


「リンコちゃん、メガネはどこに行きましたか?」


そういえば……。

確かアキラくんに口移しで飲ませる時に邪魔になって投げ捨てて……。いつもより距離感が曖昧な視界に私は首をかしげた。

朝食に私が焼いたパンケーキを頬張るアキラくんの隣に控えていた黒服さんリーダーがバツが悪そうに目を泳がせる。


「………すいません、あの混乱の中私が踏み潰してしまいまして」

と、ポケットからハンカチに包まれたみごとにぐちゃ!となった私のメガネを取り出しテーブルに置いた。


「………リンコちゃん、見えるんですか?普通に料理してますけど」


右目の度が強かったですよね?と確認される。


「残念ながらそのメガネをかけると視力が2.0になるくらい良好ですよ。ただ、右目が悪いので入れているだけで……左と合わせたら日常生活に支障はないです」


あと、ブルーライト対策とかUVカットとかのオプション重視で使っていたし。

ふむ、とアキラくんは口に手を当て私をちらりと見た。


「じゃあ、今日、お出かけしましょう」

「まだ安静にしておかないと」

「もう平気ですよ」


目を細め、伏せ目がちに彼は手を胸に当てた。


「新しいメガネを買ってあげます。一緒に選びましょう」

「別にいいですよ。スペア、ありますし」


アキラくんは頭を横に振り、笑った。


「遅くなりましたが、君に誕生日プレゼントをあげたいんです」


ずっとずっと後悔していたんですよ。

そういうアキラくんの変わりように黒服さんリーダーは目を潤ませ鼻をすすった。


「僕、リンコちゃんに本当に恋してもらえるように、本当の恋人になれるように頑張りますよ」


そう胸を張る彼に、私は苦笑した。


・fin

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