第四話
「テツロー! おはよー!」
「ん……。(起きなくちゃ、呼ばれてる……。誰に?)」
今日は休日なんだから何時もなら惰眠を貪りたいが、今の自分が置かれた状況を思い出し、沸き起こる眠気を振り払い何度か瞬きをして、目を開けると晴れ晴れとした笑顔のヤタムナヤが居た。
実に良い。
寝起きの朝一番から最悪な気分を吹き飛ばすような、あんな可愛い女の子の笑顔を見れるのだから。
奇跡的な確率で自殺していなかったら出会えなかった少女。
昨日、ヤタムナヤ自身とクリクリさんから聞いた境遇、“姫”という呼び方の意味からは想像出来ない彼女の笑顔。
ヤタムナヤ達と僕の出会いに関しては、僕自身にプラスに働いたと思う。
勘違い、または彼女自身が無意識にとっている現実逃避の為に成り立っている今の関係も、まぁあんなに素敵な笑顔が見られるなら、許されるのだろう。
ただ、どうしても、ふと頭に浮かんでくるのは、あの世へと旅立った彼女。忘れられないのは当然か。恋人としての付き合いも三年、いや四年だったか。
今思っても彼女には苦労ばかりかけてしまっていた。
なんせ金のない当時の僕と彼女のデートと言えば彼女の家、それだけだった。学校終わりのバイトのない日には、貰っていた合鍵を使って部屋に上がらせてもらい、大学終わりのバイトに行っている彼女を待つ間は家事、掃除、洗濯、買い出し、その他諸々やっていた。
流石に連泊するのは気が引けたので、三日に一度は実家の帰りたくないアパートへと帰っていたが、彼女に「もう同居してるのと、変わらないね。」と、言われて顔を赤くして、彼女にからかわれたのも、今となっては良い思い出。
あの時は顔を俯けて見せないようにしたが、心の内では嬉しく思い、口角は上がっていた。
そういった様々な思い出が、現状に対する負い目を感じさせているのかも知れない。
何故、生き残ってしまったのか? この思いは、感情はいつか必ず答えの出る物ではないと、胸の内に実感として彼女に対する愛よりも重くのしかかって……。
「テツロー! わたしのくさり、とってー!」
っ! いけない……。まただ。
彼女が死んだ日の夜にも同じ感覚に陥った。
周りの音や景色がまるで僕を中心とした世界から弾き出され、自分自身を心の底へと押し込め、彼女への全ての思いを頭から浴びせかけ、自らの内面の全てを強く抉り出し、胸に空いた大きな穴の中から出てくる喪失感。
それらが僕を孤独な思考へと導き、僕は自分自身に囚われる。
それが今日、彼女の死から三日目で三回目。一日に一回のペースで必ずやってくる。
PTSDのような心理的な病気なのか?時間が解決するかも知れないが、その可能性はほぼゼロ。希望的観測は諦めるしかないだろう。
とにかく、この症状が悪化する前に山積みになっているであろう、これからの現実の問題を片付けよう。
まぁ、精神的に病んでいると冷静に思ったのは、恋人の骨壷を火葬場から強奪すると言う、世間一般から見たら十分に非常識かつ馬鹿げた行動は取ってしまっているから、自分自身、強く否定出来ないのもあるか……。
彼女を強奪する時に何人か殴り倒したような気もするが、深く考えるのは止そう。
とにかく、今は何としてもこの状況を突破しなければいけない。
今現在の僕はどんな状況か?
就寝時の位置を必死に思い出す。
僕は一応、カバンを枕にして床で寝た。
ソファにはヤタムナヤと僕の礼服の上着。
クリクリさんは恐らく帰った。何処に?
……妖精の国とか? 確か昨日は情報の奔流とか言ってたな。
そこには僕の世界の情報もあるのだろうか? 今度会った時は聞いてみよう。
つまり、本当なら僕は床で寝転がっていなければいけないのだが、それが今は僕が彼女の上に居て、ヤタムナヤが僕を見上げながら朝から大きな声で話しかけてくれている。
今の説明をもっと正確に伝えよう。問題なのは彼女のいる場所。
何故か彼女は僕の真下に居た。
『ふふっ……。君がヤーちゃん達を助ける男なんだ? こんなに弱いのに?』
「はははひいほふへひは?(新しい妖精か?)」
首を声が聞こえた左に向けると、頭胸部と腹部で2mはある天井に細長い八本足で立っている白い蜘蛛。
腹部の先端部分から、尻尾のように腰が繋がっている女性。
蜘蛛の足と足、胴体と天井の間、要するに、僕から見て蜘蛛の体の下に頭胸部へと人の体部分を伸ばして、胸を強調するように腕を組み、僕を愛玩用の小動物を見るような眼で観察してくる。
彼女の肌は灰を塗したかのように独特の艶のない白みを帯び、極彩色の長髪の隙間から見える爛々と輝く黒い瞳がクリクリさんとはある意味で、一線を画するのだと実感させる。
僕は彼女が出したと思われる蜘蛛の糸で簀巻きにされ、天井に蜘蛛の巣で張り付けにされているのだろう。
ご丁寧に蜘蛛の糸で作られたと思われるギャグボールらしき物も咥えさせられている。あ、涎垂れた。
……ヤタムナヤも流石に涎は避けるか。
しかも、僕の全身の肌の感触が正しいなら、全裸。
糸に包まれているのに、体に一糸も纏っていないように涼しい。この糸が通気性抜群なだけで、白のワイシャツと黒のネクタイ、黒のズボンを着ているのかもしれないが、実際に糸の中を見なければ何とも言えない……。
ただ、親切にも朝から極端な恐怖体験を味わわせてくれているのは、間違いなく目の前にいる蜘蛛女さんの仕業だろう。
『因みに僕は男は範囲外だから。近付かないで? ブ・タ?』
その言葉で理解した。異世界の神と仏は仕事をせずに何処かに行ったらしい。多分、溜まりに溜まった有給休暇の消化の為に下界に降臨なされたのだろう。Tシャツとジーパンで。
一瞬だけだが、本当に一瞬だけ! たわわに実った胸の塊を見て、え? 朝から? とか、初めてが縛られながらボクっ娘となんて……!とか、青年期特有の妄想を色々と考えてしまった一秒前の自分が恨めしい。
と言うかそれなりの妄想をしてるが、今だに彼岸の恋人に対する思いは消えていない。
俺はそんな、浮気性な男じゃない! 浮気性な男じゃない!
『ねぇ? 聞いてる? 答えないと僕の朝食にしちゃうよぉ? かぷ』
「ふご!?」
「もーちゃん! テツローいじめたら、ダメだよ!」
噛んだ!? 今噛まれた!? チクってした!脇腹がチクってしたぁ! 少し気持ち良かったのが癪に障る! くっそ! 解けろ!
目の前の女の拘束から逃れようと暴れる。が、ビクともしない。
やはり蜘蛛の糸の頑強さが半端じゃない。確か普通サイズの蜘蛛の糸も、束ねればジェット機ぐらいは引っ張れると聞いたことがあるぞ。
僕を天井に貼り付ける為には、一、床に寝ていた僕が起きないように床ごと糸で拘束する。二、運ぶ為に床板を破壊。三、そのまま僕を床板ごと持ち、天井と破壊した床板を接着。
出来ないと言えない。この巨体ならあり得るとは考えてしまう。
だからこそ、恐ろしい……!
『あははは! ほらほら、男の子なら注射ぐらいは我慢するぅ? ねぇ?』
「おー! ゆっくりー、ゆっくりー」
「へぇ? ひゃへえよ!!(ねぇ? じゃねえよ!!)」
この女、絶対楽しんでやがる!しかも、人の口じゃなくて、蜘蛛の身体の方の口で噛まれた!!
僕の記憶が確かなら蜘蛛は毒を持っている筈。この大きさで、それが威力を増幅されていたら……!
(やっと、死ねるのか……?)
思えば、死ぬ筈がいきなりこんな妙な所に連れ去られて、彼女を救え。とか、僕には出来ない。大切な人を置いて、生き永らえてる僕なんか……!
そんな僕の様子を見て、何か思ったのか蜘蛛女は僕の耳元に近寄り、
『因みにぃ……? 毒は注入してませ〜ん!』
「ませ〜ん!」
「ほふはぁ!?(毒はぁ!?)」
囁くのかと思わせて、人と話す時の声量で耳元で叫ばれた事より、毒は注入してないと言われて、思わず叫んでしまった。確かにさっき注射を我慢しろとか言われたが……!
な、何だろう? 噛まれた脇腹、いや身体中がか、痒い!
熱や寒気などは無いが、とにかく身体中が痒い。噛まれた箇所も熱を持ったりすることはなく、何も変化はないと思ったのだが、まさか上げて落とす遅効性の物質なのか?
兎に角、不安しかない。ヤタムナヤは目の前で相変わらず朗らかな笑顔を見せて……。
……目の前で?
『どう? やーちゃん? 特殊な人質さんにお注射ごっこは?』
「たのしかった!」
「…ヤタムナヤは将来、大物になるな。あっ!」
蜘蛛女はヤタムナヤの後ろに移動して、女性の身体を蜘蛛の体と脚を使い、ヤタムナヤと同じ高さの位置になるよう調整して喋りかけていたが、ギャグボールで口が塞がれていた僕も喋れている。
しかも、見てしまった。床に転がっているギャグボールの役目をしてた糸の塊が、消えていく!比喩でもなんでもなく、確かに存在して居た筈の糸の塊が砂が崩れるように消えていくのだ。
さらに、思わず手を出して摘み上げようとしてハッとする。
身体に巻き付かれていた糸も同じく、正しくは僕が身体を少しでも動かすだけで、簡単に言うと手を伸ばす。
そんな動作で崩れ始めた。あんなに暴れてもビクともしなかった糸が、こんな……あっさり……。
僕が驚きで床に座り込み唖然としているのを見て、白い女郎は話し掛けてくる。
『どう? 気に入ってくれた? 僕の名前は“もーる”。ヤタムナヤの友達。ま、僕はそれ以上の関係でも、い・い・け・ど? いやん!』
「いやん、いやん!」
「……ヤタムナヤ、彼女の真似はいいから、こっちに来て?」
「テツロー、なぁに?」
か、可愛い、超可愛い。何とか踏み止まったが、思わずムツゴロウさん的なスキンシップを取りたくなるほどに首を傾げながらの、なぁに?は破壊力抜群だった。
もーる、さんのモノマネをしているヤタムナヤを手招きでこちらに呼んだ。
「……聞きたいことが有るんだけど、あの妖精さんはクリクリさんより沢山、会ってる?」
「うん! ここに来る前から!」
「こんな風には最初から、その、何て言ったらいいかな……?
うん、そう、一番初めにあった時から、もーるさんは変わってない?」
「うん、かわってないよ?」
あぁ、この妖精、本物なんだ……。
多分、今の僕は豊満な胸を抱き締めて、いやん、いやん言いながらお花畑な妄想に浸っている目の前の蜘蛛の尻から生えてる、ロリコンレズ残念痴女を心底突き放すような、そんな目になっている筈だ。
本当に残念だ。美人なのに。
しかし、なぜ僕は床に居るのだろう? 確かに天井に貼り付けにされていた筈だ。全裸で。
なのに、今は服を着ている。
火葬場から逃げた時の礼服、黒のスーツの上下に白のワイシャツ、黒のネクタイ、黒の靴下、黒のスニーカー。
ソファの方を見ると黒のスーツの上着がある。では、今着ているスーツは何処から……?
『何で自分が床にいるのか分からないって顔をしてるねぇ?』
……考え事が顔に出やすいのかな?
そう思い、僕の腕に仔犬を思わせる懐き方で両腕で抱きついているヤタムナヤに顔を向ける。何故か彼女は頭を撫でてきた。
まさか、年下に慰められる日が来る事になろうとは。
そんな僕の心境など梅雨知らず、蜘蛛女、もーるは自分の力について話し出す。
『僕の力は糸を体の好きな所から好きなだけ出せ、その糸を自由自在に操る事。硬さも柔さも、伸縮はもちろん、変形も遠隔操作だって思いのまま。』
そう言いながら、彼女の右手に白い糸玉が瞬時に現れる。
あんな出し方もあるのか…。しかも、糸玉は色、形を変えて、色鮮やかな翠色のハチドリになる。糸で形作られたハチドリはなんと彼女の手から離れ、飛び立った。ヤタムナヤはそれを見て、目を輝かせている。
『やーちゃん?ちょっとこの鳥ちゃんと遊んでてくれない?僕、テツローとお話があるの』
「うん! もーちゃん、ありがとう!」
……ヤタムナヤにとって俺は糸で出来たハチドリ以下の存在らしい。
ヤタムナヤは僕の腕から離れ、滞空飛行で待機していたハチドリは彼女が離れるのを見た途端、僕ともーるさんから引き離すように部屋の中を飛び回り始める。
もう少しヤタムナヤの温さを感じていたかったのだが、子供の好奇心を体現したような彼女の天真爛漫な行動は大人の常識などでは縛れない。その愚直な純粋さは一種の羨望を覚える。
『さて、君とお話したいんだけど、いいよね? 答えは聞かないよ? これは、命令だから』
……あの時に感じた、クリクリさんとは違う感覚を覚えたのは錯覚ではないらしい。この妖精は僕に対して一つの感情しか持ってない。“敵意”。クリクリさんとは違う好意的な|味方(妖精)ではないと、感じた。
目が同じだった。
子供の頃、両親のいない僕は周りの子供の悪意に晒された。その程度はまだ良い方の、当時の僕にとっての社会からの攻撃。本当に辛いのは、両親がいないと分かっただけで、態度や目線、自分との接し方を変えられる事だ。そういう奴らの感情は二つに一つ。“卑下”と“憐憫”。卑下して、いじめ仕掛けてきた奴は、自分をまるで選民のような特別な存在とでも思っていたのか、僕を捨てられた動物を見る目で見下してきていた。もちろん制裁はしたが……。
憐憫の感情を持つ奴は行動では示さない。だが無自覚の内に視線や、何気無い言葉で攻撃する。それは慰めの言葉の中にも感じたのが、とても、悲しかった。
つまらない事を思い出した僕を無視して、もーるさんは未だ消えない敵意の目で見ながら先を続ける。
『私はあの子が人としての名前が有った頃からの長い付き合いなの……。
だから、異世界から来たなんて言うぽっと出の怪しい男が、私の嫌いな男が、あの子達を救う可能性を持っているなんて、そんなの信じられると思う?』
彼女の言っている事は至極真っ当。自分も今の状態を正直に言うと信じ切れてはいない。何故なら自分がまだ、生きているからだ。
『その様子だと、自覚はあったんだ?』
「僕の身体が今も動けているのは、もーるさんのお陰でしょ?
多分、僕はこの世界に来る前に川の中には落ちて、その衝撃で最低でも肋骨に軽くない罅位は入ってたんでしょうね。
昨日、こっちに来てある程度は平然としていた理由は、異常な状況に脳が混乱していて、鎮痛剤の役割をする物質が脳からそれなりに出ていたからなんでしょうね。
あの蜘蛛の口から注射したのは、恐らく軽い麻酔と僕の全身の怪我を治す為の手術用の単分子? とかで出来た細胞レベル迄に細く、瞬時に操れる人体にすぐ馴染む糸、なんて思ったんですが、合ってました?」
『……へぇ。あの目玉親父が気に掛けるから、どんなに悪趣味な野郎なのかと思ったら、私の説明と実演を観察して、自分が経験したことを突き合わせて、そこまで能力について推察、ほぼ間違いない解答まで得るなんて。
元いた世界では何をしてたのか、ヤーちゃんの保護者としては気になるなぁ?』
もーるさんは僕にその巨体で歩きながら近付き、顔を上から覗き込むように見てくる。彼女の腰部分は蜘蛛の身体がお尻を上げているので僕の身長を超えた位置にあり、自然にもーるさんの頭は僕の頭より上となる。獲物として見られていそうで、かなり怖い。
しかし、僕の考えはあっていたらしい。間違っていたら、……どうなっていたのだろう?
「はは……。ただのしがない大学生ですよ。それとこの服、ありがとうございます。あの糸の拘束は僕の身体にあった服を糸で作る為の採寸だったんですね?」
『あら?それも分かるんだ?』
「当たり前ですよ。この服、着心地が着ていた服と段違いに違いますよ。
通気性も良いし、だからと言って寒いわけでもない。
それで糸玉がハチドリに変わったのを見て確信したんです。色も形も自由自在であそこまで自由に動かせるなら、特定の服の形をして色まで再現可能だろうと。
まぁ、裸にされていたのと、天井に張り付けられていたのには本当に驚きましたが?」
もーるさんを睨み返す。
『あんたを脱がしてなんていないわ?糸を操って、あんたが着ていた服と肌の間に糸を侵入させて、あんたの身体を糸で雁字搦めにしてから内側から着ていた服を全部破いたのよ。
それに天井には糸を操って、あんたごと運んだだけよ?
私が重労働なんかする訳ないじゃない?
それに脱がしたのは手術の為に身体全体に糸を貼る為よ。あんたを包んでいた糸も手術用だったの。残念ね、豚』
……どうやら、僕が得意げに喋っていたのが気に食わなかったらしい。話題を変えよう。
「……態度も喋り方も大分違いますね?僕って言うのはヤタムナヤ限定ですか?」
『当然。それと、気安く彼女の名前を呼ばないでくれる? 豚の分際で……』
───────馴れ馴れしいわよ?
「う!?」
完全にもーるさんの癪に障ったらしい。蜘蛛の足に両足をすくい上げられ、派手に尻餅を着いてしまった。しかも、目にも留まらぬ速さで組み伏せられ、僕の首に手をかけられている。殺す気だ。
「なにしてるの?」
正に天からの采配。ハチドリと遊び飽きたヤタムナヤが僕達に話しかけて来た。
どうする、もーるさん?
『やーちゃん? そろそろ首の鎖を外そうか?テツローはもう準備出来てるって!』
「な、何を……!?」
「ほんと!? はずしてはずして!」
くそ! 上手く話を逸らされた!
ヤタムナヤの鎖についてはまだ不確定な要素ばかりだから、幾つかの検証をしてから、壊そうと……。
しかも、僕が喋れないように、手の部分から見えない細さの糸で首を絞めてきてる…!
そんな僕にもーるさんは耳元で囁いてきた。
『良い? 彼女の鎖を壊すにはあんたが心の中から壊してやる! って思わないとダ・メ。
もし壊れなかったら、ヤーちゃんの目を盗んでお前を殺す。徹底的に痛め付けて、生き延びたいって思うような苦しみを与えて、……殺す。
分かったら、早くあの子をこのくそったれな牢獄から出しな。テツロー』
そう言い終えると息苦しさは消えて、拘束から解放される。
……選択肢なんか、無いってことか。
身体を起こして、ヤタムナヤの顔を見る。
視線が合うと、彼女は見つめてくる。僕に欠片の疑いも無い、純粋な感情を宿している瞳。最初に出会った時に言われたヤタムナヤの言葉が頭の中で再生される。
(「ねえ? きこえてる?」)
聞こえてるよ、君の可愛らしい声も。
(「ねえ? みえてる?」)
うん、ちゃんと見てる。君の姿、君の心。
(「…ねえ? たすけてくれる?」)
…大切な人を助ける事さえ出来なかった、僕でいいなら、何回でも。
「助けるよ。ヤタムナヤ」
手の平を見つめながら、零れた言葉。
多分、これは神様が僕に与えてくれたチャンス。最初で最後の、奇跡。囚われている女の子を助ける哀れな男の足掻き。
君の代わりになる女の子なんて居ないけど、君の代わりに目の前に居る女の子を助けても、いいかな?
…夜雨。全部、破壊するよ。常識も。社会も。世界も。
───────異世界の女の子の為に。
僕は立ち上がり、ヤタムナヤに近付き、有無を言わさず、ヤタムナヤの首を締める金の鎖に両手で触れる。彼女の首を締めるように。
『きゃあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!』
鎖が痙攣でも起こしたように震え、甲高いとも野太いとも聞こえる悲鳴を上げた。
それに驚き、思わず鎖から手を離してしまう。
そして、鎖の環が爆発するように弾け飛び、床に落ちる。幾つか僕の方にも当たる。
すると、鎖だった物はその場で空中に浮かび出し、僕の頭位の高さで滞空し始める。
突然の怪奇現象に身動きが取れずに唖然と立ち尽くしてしまう。
ヤタムナヤも同様に驚きで目を見開いたまま、放心してしまっている。その首には鎖どころか、傷も見当たらない。汚れもなく、不自然な程に綺麗だ。上手く行った。
そして、昨日のクリクリさんの予言を思い出す。
(『全ての鎖を両の腕で壊し、人に戻す武器にする妖精が現れる』)
周りに浮かんでいる鎖。これが全部武器になるのだろうか? そんな疑問が出てくる。
途端に両腕を襲う激痛。なんだ!? と思いスーツとワイシャツの腕を痛みに耐えながら片方だけ捲り上げた。
鎖が、腕に食い込んできた。比喩的な表現ではなく、鎖が皮膚を突き破り、筋肉を棘で突き刺し、骨へと入り込もうとするような勢いで、腕の中へと消えていく。
「があぁぁぁぁぁぁぁ!?」
今度は僕が悲鳴を上げることになった。トマトを思い切り潰した時の音。氷を口の中で噛み砕いた時の音。僕の悲鳴と腕が鎖に侵食される音が合わさり、凄惨な歌が出来ていた。
人生で味わった事のない種類の痛みに耐え切れず、僕は仰向けに倒れ、意識を何処かへと飛ばすように気絶した。
気絶する直前に見たのは、倒れた僕に駆け寄り、目から大粒の涙を流し、鼻水やら涎を撒き散らしながら僕の名前を呼んでくれている女の子だった。
その後、時間経過による覚醒と、鎖の暴虐による痛みによって気絶と言う行程を、記憶から消え去る程に繰り返したそうだ。
今の僕はまだ痛みに囚われている。