第九話
何なんだ! この鎖は!?
そう思うのは何度目だろう。人の身体に文字通り入り込むは、変な籠手に変化するは、終いに牙が生えて死体を貪り始めるなんて無茶苦茶だ。
って、のんきに感想を述べてる場合じゃない!!
「やめろ!! くっそ!? やめろって!?」
鎖を引っ張り捕食行為を止めようとするが、鎖は自身に触れた手も見境なく牙を突き立て噛んできた。
しかし、幸運にも指先まで籠手の装甲がある為、食い千切られるようなことはないが、気分の良いものではない。
鎖を止めようとしたのは、この世界に置ける自分達の立場を教えてくれた恩人?恩獣?の死を、命を穢された気分になったからだ。
そして、ヤタムナヤも衝撃を受けている様子だ。
牙を生やした鎖の捕食光景を目の当たりにしたヤタムナヤは口に手を当て、吐き気を我慢しているように見える。当たり前だ。巨体生物の首切断からグロテスクな十八歳未満お断りな出来事を、現在進行形で約十三歳の女の子が体験中なのだ。
こうなったら仕方ないと鎖を無理矢理に引っ込めようとする。
───────ここまで約一分。手遅れだった。
一心不乱に欲望のままに貪り続けていた筈の鎖がピタッ!と動きを止め、鋭い尖った牙を収めて、満腹になって眠くなったのか、巣穴に戻る蛇のように出て来た籠手へ地面を滑りながら戻り始める。
それと同時に真紅の籠手は漆を思わせる重厚な黒へと変化し始める。
何度目かの嫌な予感……。
完全に漆黒に変色した時、僕の体にも異変が始まった。
鼻が熱い。別に鼻血を出してる訳でも、照りつける真夏日に日焼けを敢行した訳でもない。
僕はこの感覚に身に覚えがある。それは蜘蛛女こと、もーるさんに始めて会った時の細胞レベルの手術。くしゃみが出そうで出ない時のむず痒い感覚にも似ている。
それはまるで細胞が書き換えられたかのようだった。
鼻の感覚は直ぐに治ったが、入れ替わりに無数の匂いが一気に鼻に飛び込んできた。周りにあるメアリー以外の血の臭い、ヤタムナヤを含む周りに居る全ての人間の汗の中に含まれる成分の匂い、その他にも鼻に匂いの元を直接押し込まれたかのように数多の臭気が鼻を突き刺す。その情報量の多さに頭の中で火花が弾けるような音が鳴る。
意識が飛びそうになり、身体中から冷や汗が流れ始め、力が抜けて崩れ落ちそうになる。そんな僕をヤタムナヤが支えてくれた。
……暖かい。とても暖かい安らぎが胸に灯る。身体が密着しているから彼女の鼓動が直に伝わる。そして、溢れる一つの思い。
守り切った……! 彼女を……!! 誰かを守り、救う事が出来た。こんな惨めで無力な僕にも……!!
涙で視界が揺らぐ。堪えようとするが出てくる声に嗚咽が混じってしまう。
ただ嬉しかった。守る事の出来なかったあの時の自分をどれだけ呪ったか。
胸を焦がす恋人に何もしてやれなかった僕が罪滅ぼしの為に異世界の女の子を救った達成感。
鼻水が出て上手く喋れないかも知れないが、言おう。
「ヤタムナヤ、ふぐっ……! 逃げよう、ずっ……! 一緒に!」
「うん!」
彼女と逃げ出す為に、僕と彼女は手を繋いだ。
やっと、自由だ!!
「盛り上がっている所に水を差すようで悪いが、その“姫”と共に拘束させてもらうぞ?
不確定要素?」
ぞわっ!!!!
『身の毛もよだつ』
何て言葉があるが、その女の醸し出す空気はそれを体現していた。
胸当ての付いたノースリーブセーターの裾を捲り上げ腹を見せ、奇抜な髑髏のベルトで止めたジーパンを履いた三十代くらいの女。
その女は黒の短く切り揃えた短髪で、顔だけ見れば男と間違えてもおかしくない凛々しさ。
見える手足は綺麗な肌と、素人目でも分かるくらいに鍛えられた筋肉に覆われ、見えている腹筋は見事に六つに分かれている。
それでも女と断言出来るのは、胸当てを押し上げて形成されている双子山のお陰か……。
そして、異様さを放っているのは彼女の全身にある傷痕。
その数は目に映る物だけでも無数と思える量。小さな切り傷、刺し傷は当たり前。
抉られたような後が脇腹と右肩に一つずつ。
顔にも傷は刻まれており、顔の右側は爛れて右の瞳は黒い眼帯で隠され、左腕に至っては肘の先から存在しない。
完全に迷い込んだ一般人とか、この施設の事務員じゃない。
“姫”を、ヤタムナヤを狙ってやって来た存在。
すなわち、僕の敵……!!
咄嗟に臨戦体制に入るが先程の悪寒を思い出し、本能的に戦闘は無意味と悟った。
なら残された道は一つ。逃走!!
「無意味だ。不確定要素」
逃げる為に地面を攻撃して土埃を上げようと右手を振りかぶった時には終わっていた。
「先の戦闘で貴様の事を見ていたから、よぉく分かる……」
後ろから聞こえる見た目通りのハスキーボイス。
「お前の動きは血を見た事のない、実践経験ゼロの素人。だから検体伍号雄型に不意打ちを喰らい、一時、再起不能に陥った」
ヤタムナヤを左手で抱き締め、僕の右側を見せないように努力する。
「だが貴様は何故か復活し、あろう事か、男なのに“姫”と同様に異能を持つと言う不確定要因」
ヤタムナヤを左手で庇うように抱えながら、傷だらけの女の方へ振り向く。
「お前、その“姫”と何処で知り合った?」
女は僕の右腕を物差し代わりに、肩先から腕がない僕に、僕の一部だった物を突き付けていた。