第一話
「最善を、尽くしました……!」
やめてくれ。
その台詞を聞いて瞬間的に思った。
しかし、執刀医の先生の言葉には聞いている側が深く暗い水底に沈むような、胸の真ん中を抉るような感情を呼び起こす悲壮感があった。
手術室から出て来たのは、生きていれば腕や顔に付けているはずの点滴や呼吸器を外され素顔になった彼女がいた。
思わず彼女の手に触れる。何故だろう。少し、冷たく感じる。そういえば、最近、冷え性だ。って言ってたな。温めて、やらないと。
手をさする。少し温かくなる。
「尾口さん……」
ほら、どう? まだ、ダメか? なぁ、どうしたんだよ? 演技なんて、いつの間に覚えたんだ? 悪ふざけしないでくれ。
先生まで付き合わせて、なぁ? 先生も迫真の演技で、困るだろ? こんな、こんな笑えない、冗談。
「尾口さん……離れて」
先生!先生からも、言ってやってください。こいつ、まだ、目開けないんですよ?こんなに、こんなに強く、そろそろ痛がってもいいのに。こすってるのに……。
「尾口さん!」
「目の前の現実を、認めてください……!」
さすっている彼女の手に僕の目から溢れた涙が落ちた。
彼女にしがみつきながら、声が枯れるまで彼女の名前を叫んだ。
本気で惚れた女が、たった数メートル先で、僕の目の前で死んだ。
それでも僕は生きてしまっている。彼女のいない世界で。大切な人がいない世界で。
手術の二日後のはずだった。
手術が成功していたら、今頃、二人の婚姻届を出す予定だった。執刀医の先生と彼女の両親には証人欄に名前を書いてもらっていた。
両親のいない、後見人もいない僕の証人になって欲しいと頼まれた時の先生は「照れ臭いですねぇ?」って優しそうな顔を赤くして照れて、笑顔で了承してくれた。
婚姻届を見た時の彼女の反応を見てみたかった。そしたら、バイトで貯めた金で買っていた、安い指輪を渡す筈だった。
俺の方が年下でも、そういうことは男として、きっちり決めないといけないと思っていたから。多分、顔を真っ赤にしながら言葉も出せないんだろうな。それで、指輪を彼女の左手薬指に嵌めたら、泣き出す。うん。シュミレーションは、完璧……だった。
「高いなぁ……」
ここならいいと思って選んだのは、落ちたら死体は上がらないって言われてる川に架かる橋。
橋の欄干の上って、景色だけなら最高だなぁ。天気は春に相応しい雲一つない快晴。下の川の水面に太陽光が反射して輝いている。今の時期なら川魚はヤマメなのかな。
どうせなら二人でキャンプにでも来たかった。僕は目が悪くて免許が取れてないけど、来年ぐらいには取れるようにと普通自動車の勉強はしていた。眼鏡も新しい、運転用の物を買っていた。
でも、彼女はいない。これからの人生に何の意味も見出せない。他の女性では決して、ここまでの行動は出来なかったと思う。彼女の遺骨の入った骨壷を火葬場から奪って、ここまで来れたのは奇跡的としか言えないな。あらかじめ、逃走用のまとまった現金を用意しといたのも良かった。
最寄り駅で貰ったティッシュには自殺撲滅にご協力をなんて型紙が入ってたけど、これから自殺する人が受け取るなんて思ってないんだろうな。
彼女の入っている小さな骨壷を撫でる。
なんか、隣に置いてある小さな骨壷に彼女の全てが入ってるなんて、今だに信じられない。小学生の時に読んだ、はだしのゲンで描写があったけど、放射能の影響で骨が残らないってことなのかな。多分、違うな。あれは当時の話だし、彼女は関東地方出身だし……。
「あっ。落ちた」
撫ででいた骨壷が踊るように宙に飛び出す。
そう錯覚を感じる程に橋の欄干から落ちた。
骨壷を追って思わず、反射で手を伸ばしてしまう。あぁ、僕も落ちたな。まぁいいか。本当なら一緒に落ちたかった。バイバイ現世。そして、さよなら、「ーーー」。君に会えてよかった。
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「……待ってるから。」
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彼女の声が聞こえた気がした。
飛び降り自殺した。うん。間違いなく橋の上から飛び降りた、……筈。でも生きている。文字通り彼女の後を追い、自殺。でも生きている。まずは一旦落ち着く為にその場に座る。そして頬をつねる。痛い。
勢い良くやり過ぎた……。次は呼吸…はできてる。目も見える。鼻をほじって鼻くそを丸めて指で弾く。顔に当たる。……仕方ない自殺の名所として有名な橋の最寄り駅の駅前で配られてたティッシュを使おう。えぇと、確かスーツの右ポケットに入れたよな……。
〜五分経過〜
ティッシュを探して自らの服と持ち物と五分の格闘。
まず、何を考えてた飛び降りる前の僕!? なん……!? 何で、ティッシュを、パンツの中にしまってんだ!? 通りで広告の型紙が当たって痛いわけだ! 最悪だよ! 何て日だ!? 恋人には先立たれたし、後追い自殺に失敗するし、パンツの中に自殺撲滅をうたった広告の型紙入ったティッシュを入れるし、何処で入れた!? トイレか!? それとも飛び降りる直前か!? 警察呼ぶぞ、この野郎!
「ねえ」
「なんだ!」
「おじさん、だれ?」
「……!……!?……っあ……」
見られてた? 全部? 床に転がっていたカバンの中に頭突っ込んでたのも、カバンを頭に被りながら「な〜い〜な〜い〜」って言いながらヘッドバンキング気味に前後左右に揺れてたのも、五分間の格闘の末、履いてるパンツの中から発見したティッシュを取り出して床に叩きつけたり踏みつけたりしてたのも?
僕の、黒のスーツを着た男のありとあらゆる奇行が目の前の美少女に見られていた。うん。通報された。絶対。おじさんとか言われたけど、それは気にしない。後で注意するけど。というか、さっきまで居たか? こんな綺麗な金髪の色白な女の子。居たんだろうね。彼女に気付かずに僕が興奮と混乱の奇行に走っていただけだね。
「ねえ?へんなおかおしてないで、これとって?」
「変顔の練習じゃない!それに、と、取るって……!!」
やばい。綺麗とか美しいとかを体現した美少女に話し掛けられ緊張して、どもっちゃったのもやばいけど。目の前の女の子に取り付けられてる物の方が百倍やばい。だって、彼女の首には……。
「ねえ? きこえてる?」
どう贔屓目に見ても俺の腕力でも折れてしまいそうな彼女の細い腕よりも太く、
「ねえ? みえてる?」
彼女の美しさと競うかのような大仰で奇怪な幾何学模様とルーン文字を組み合わせたような彫刻を施された、
「……ねえ? たすけてくれる?」
刺々しい金色の鎖が、彼女の首に幾重にも巻きついていた。