66.私の帰りたかった場所
久しぶりに、定食屋へ帰って来た。
私は一人、建物の前で仁王立ちして、じんわりと喜びに浸っていた。
少し薄汚れた壁に、古ぼけた看板。
立てつけが少しずつ悪くなってきた扉には、「準備中」の札だ。
「入らないの? ハルカちゃん」
私の斜め後ろから、アルスさんが呆れたように声をかけてくる。
もう少しこの喜びに浸っていたいのに、水を差さないでほしい。
と、その時だ。
「あらあ、ハルカじゃない。久しぶりね」
アルスさんをじろりと睨みつけていた私の背中に、若い女性の声がかかった。
振り返れば、なんとなんと、私に声をかけてきたのは、懐かしのミディさんだった。
彼女はハーブ屋のお嬢さんで、この世界に出戻ってまだ間もない頃、女の子の知り合いが欲しかった私にできた、初めての友人である。そうだ、彼女に連れられて、街の若者たちが主催するダンスパーティーに行ったりもしたんだったっけ。
「ミディさん! うわあ、本当に久しぶりだね!」
「最近うちのハーブ屋にあまり顔出してくれてなかったけど、どうしてたの?」
最近どころか随分と長らく、この定食屋すら留守にしていたのだけれど、まあその辺りの事情はわざわざ話さなくてもいいだろう。
このミディさんのドライな感じ、懐かしい。
「この子、友達?」
隣のアルスさんが私にそう問いかけると、一気にミディさんの目の色が変わった。
「まあ! まああ!」
「?」
「やだ、ハルカってば!」
そして一体何事だろう、ミディさんは私の腕を掴むと、一気にアルスさんから距離をとった。
アルスさんは頭の上に「?」を飛ばしながら、そんな私たちの様子を離れたところから見守っている。かくいう私も訳が分からずされるがままである。
「びっくりしたわ! 今の、例の彼じゃない!?」
例の彼? と更に訳が分からずにいると、ミディさんにバシバシと肩を叩かれた。
「ほらー、前にダンスパーティーで知り合った彼よ!」
あああ、そう言えば、あのパーティーにアルスさんもいたんだっけ。あの時からアルスさんはフラハムティ様の命令で私を監視していたんだけれど、そんなことを知る由もないミディさんは、私とアルスさんがいい雰囲気だったと喜んでいたのを思い出した。
「おめでとう、ハルカ! 何よもう、そうならそうと報告してくれないと」
「いや、あの、ミディさんが思ってるような関係ではないからね? 第一あの人、とんでもない人なんだから」
「どこが? 爽やかで素敵そうじゃない」
「いや、まず、身分偽ってたし」
「まあ、王宮勤めじゃなかったの!」
「人のこと、知らないうちに監視してるし」
「やだ、今話題の付きまといってやつかしら!」
「挙句の果てに、無理やり連れ去ろうとしてきたり」
「きゃあっ、それでどうなったの!?」
「逃げてるところを、別の人に助けてもらった」
それはちょっと怖いわねえ、とミディさんは身を震わせた。
「でも、それほど一途にハルカを想っているってことじゃない?」
何だそれ! 事実を知らないとは言え、その発想はどうなんだ。つまり愛があればストーカーでも構わないと、ミディさんてばそういう思想の持ち主だったのか。
「おいおーい、ハルカちゃん。何だか随分な話してない?」
さすがストーカースキルの高いアルスさん。地獄耳でもあるようだ。
やれやれとでも言いたげにこちらへ合流してきたアルスさんに、ミディさんはぐっと拳を握って見せた。
「あなた、程度には注意してあげて下さいね。でも、応援しているわ」
「? ありがとう」
「アルスさん、分かってないのにお礼を言わないで!」
「まあとにかく、あまり長く立ち話に付き合わせちゃ悪いわね。今度、またうちにも寄ってちょうだい。ダンスパーティーに一緒に行った子達も、それぞれ進展があったみたいなのよ。久しぶりに集まって、一緒に話しましょ」
ミディさんは可愛らしくウィンクを一つ寄こして去っていった。
「あの子、ハーブ屋の子だよね。俺は一応向こうを知ってたけど、向こうも俺を知ってるとはちょっと驚いたな」
密かに戦慄した様子のアルスさん。女子力というやつをナメては駄目ですよ。少し、いやだいぶ意味合いが違うけど。
まあいい。
とにかく今は――。
帰って来たのだ、この定食屋へ!
・ ・ ・
「こんにちはー……」
私とアルスさんは勝手口へとまわり、鍵を開けて、ゆっくりと扉を開いた。
何となく、小声で挨拶してしまう。無人の廊下からは、当然ながら返事は聞こえてこない。
廊下の突き当たりにある窓から燦々(さんさん)と日が差している。
少し埃っぽい匂いが鼻をついたが、魔術研究所のそれとは違う。とにかく全てが、温かさに満ちているのだ。
廊下から店の方へ回ると、甘酸っぱい、食欲をそそる匂いが漂ってきた。
ご主人達が、夜の営業のために仕込みをしているのだろう。
「あの、ただいま戻りました」
ひょっこりと厨房へ顔を出すと、案の定、大きな鍋をかきまぜているご主人、それに大量の野菜をみじん切りにしているおかみさんの姿があった。
「ご主人、おかみさん――」
二人は私の顔を見るなり、驚愕の表情で固まった。
「ハ、ハルちゃん……?」
「お久しぶり、です」
そう言って笑って見せると、ご主人とおかみさんは、それぞれ手にしていたお玉や包丁を放り投げる勢いでこちらに駆け寄ってきてくれた。いや、お玉はとにかく包丁は慎重に扱って下さい、おかみさん。
「ハルちゃん! 本当にあんたなの!」
「久しぶりだなあ! 元気にやっていたのかい!」
「はい、はい。本当にお久しぶりです!」
おかみさんが、その恰幅のいい体で思い切り私を抱きしめてくれた。
ご主人も、そんな私とおかみさんを包み込むようにして、うんうんと何度も頷いている。
「もう、あんたって子は。こんなに長く帰って来ないなんて、聞いてないよ!」
「ごめんなさい、おかみさん」
「いやいや、いいんだ。いいんだよ。こうしてまた元気な姿を見ることができたんだから、それだけで十分だ。お帰り、ハルカちゃん」
――温かい。
私、ずっとずっと帰って来たかったんだ、この場所に。
いつの間にか流れ出した涙を、拭う気にもなれなかった。
ご主人達の「お帰り」の言葉が、あまりにも嬉しかったから。じんわりと胸に響いて、言葉にならない。
「ああ、取り乱して申し訳ありません。そちらは、王宮の方でしょうか?」
おかみさんが私の涙を大きな指先で拭ってくれている間に、ご主人はアルスさんへと向き直り、彼に声をかけていた。アルスさんの存在、すっかり忘れていたけれど、そういえば一緒に来たのだった。
「はい、仰る通り、王宮からハルカさんとご一緒させて頂いた者です。お伝えしていた予定よりも少し早く到着してしまい、申し訳ありません」
「いえ、こちらこそ表の入り口を閉じたままで失礼しました。さあ、どうぞ客間の方へ」
「しかし、仕込みの最中なのでは?」
「ああ、それはどうぞお気になさらず。実はもうほとんど終わっているんですよ。ハルカちゃんが来るまでの間、ただ待つのはどうにも落ち着かず、いつもの仕事をして気を紛らわせようとしていた次第で……お恥ずかしい」
「さあハルちゃん、あんたもそこのお兄さんと少し待っていてちょうだいな。私達もすぐに手元を片付けてしまうから。それに、セナちゃんもそろそろ来る頃だしね」
「セナさんが!」
この定食屋で共に働いていたセナさんにも会えるんだ。
私はスキップでもしそうな勢いで、言われた通り客間へと向かった。その後ろをついて来るアルスさんは、呆れを通り越してもはや苦笑いだ。
「よっぽど嬉しいんだね、ハルカちゃん」
「そりゃあね。ここは私にとって、第二のホームだから」
「ほーむ? 故郷とか、そういうこと?」
「うん、まあ、そう」
アルスさん、やるな。たまにわざと会話に挟み込む異世界語にも順応し始めている。
「まあ、そうだろうねえ。表情が全然違うもんな、王宮にいる時と」
「そうかな」
「凄く活き活きしてるよ。この定食屋は、自分の故郷と似てるから?」
「ううん、そうじゃないよ。全然違う。私のこれまでの人生で、こんなに温かかった場所は他にない」
「……結構壮絶な人生送ってきてるんだね」
「全然壮絶じゃないよ。普通だった」
「普通、か~」
アルスさんは、また少し苦笑した。
それから間もなくして、セナさんも店に顔を出してくれた。
セナさんは私を見るなり歓声を上げて、両手を取って飛び跳ねながら再会を喜んでくれた。男付きで帰ってくるなんてやるわね! だなんて物凄く不本意な評価まで飛び出してきたので、そこは丁寧に否定しておく。
留守にしていた間のことを私から詳しく話すことはできなかったけれど、逆にご主人やおかみさん、セナさん達が近況をたくさんたくさん話してくれたので、時間はあっという間に過ぎてしまった。
そろそろ中休みも終わり、お店を開ける時間が近づいてくる。
当初の予定では、今日はこのままお暇して、また少しずつ定食屋にも手伝いに顔を出すという流れになるはずだったのだけれど、やっぱり何だか離れがたくて。
アルスさんの許可を貰って、今夜の営業にも顔を出させてもらえることになった。
・ ・ ・
その日の夜も、以前と変わらぬ繁盛ぶりだった。
明るい照明のもと、所狭しと並べられたテーブルは早くも満席だ。その席の大半を、ガタイのいいオジサン達が占めているのだから、店内はますます狭く感じられる。その合間を縫うようにして行き来するたびに、皆の笑い声やら話し声が前後左右から飛んでくるのだった。
馴染みの客達から「どこへ雲隠れしてたんだ」などと野次を飛ばされることさえ何だか楽しい。うん、セナさんの体育会系好きな気持ちがちょっと分かって来たかもしれない。そのセナさんも今夜は出勤しているから、満席になっても割と接客に余裕がある。
「どう? 久々のお店は」
接客の合間にセナさんが訊ねてくれる。
「はい、やっぱりここにいると何だか落ち着きます」
「だったらもう、ここの子になっちゃいなよ」
「あはは」
「私は本気で言ってるのよー?」
セナさんは空いたお皿の積まれたトレーを両手に乗せながらも、器用に肘で私をつついてきた。
「ここのご主人達に会って、私も実感したわ。身分とか血とか関係なく、人は家族になれるんだって」
「そうですね」
私は深く頷いた。
心からそう思う。長く離れていても、会えば一瞬で打ち解けられて、安心できる。家族というのはきっと、そういうものなのだろう。
「あー、でも、ハルカはもう別の家族ができるのかな~?」
セナさんの視線が、チラリとアルスさんの方を向く。
アルスさんは、私がこうして接客に出ている間、ここで夕食を食べて時間を潰してくれているのだ。最初は隅のテーブルで一人軽く飲んでいた様子だったが、あっという間に陽気なオジサン連中の餌食になっている。
「いや、だから本当に違いますって、アルスさんは」
「そうなの? でも、こっちにいない間色々あったんじゃないの?」
そう言って茶化しながらも、セナさんは足を止めることなく、くるくる器用に動き回りながら料理をテーブルへ運び続けている。
「もしさ、そういう人ができたんだったら、絶対教えなさいよね」
「もしできたら……そうします」
そこでふと、あることを思い出す。
「そういうセナさんはどうなんですか? いい人が見つかったんですか?」
「私ぃ~?」
セナさんの好みはムキムキゴツゴツの肉体派な男の人だというのは知っているけれど、それとは正反対に位置する青年魔術師コリーさんが、密かに彼女へ想いを寄せていたりすることも知っている。この間コリーさんと研究所で会った時の様子では、何も進展がなかったような気はしたけれど。
「……私ね、強い男が好きなのよ」
「はあ」
「強いっていうのは、へこたれないってことね。根性があって、芯が強い。……そういう精神は、鍛えられた肉体にこそ宿るものだって思っていたけど」
「はい」
「……そうとは限らないのかもしれないわね」
「えっ?」
どういう意味だろう。
セナさん、まさかの宗旨替え?
「まあ、何もないわよ、私も! あったら報告する!」
この話はここでお終い、とでも言うように、セナさんは厨房へと引っ込んでしまった。私は私で、向こうの客に呼ばれているし、セナさんを追いかけていくわけにもいかない。非常に気になるところだけれど、……きっとタイミングが来たら、お互い話もできるよね。
その後も慌ただしく時間は過ぎて、とうとう閉店時間まで働き通した。
久しぶりの労働ですっかりへとへとだけれど、とても心地のいい疲れだ。
客の引いた店内、椅子に腰かけて天井を仰ぎ、ふうと一息つけば、おかみさんが温かい夜食を用意してくれた。
「ハルちゃん、このまま泊まっていくわけにはいかないんだよねえ」
「ありがとうございます。でも……、すみません」
スープを飲みながら、私は少し項垂れる。
そうしたいのは山々だけれど、色んな人の尽力があって今の私の居場所があるわけだから、あまり好き勝手はできない。
「おまえ、ハルカちゃんを困らせるんじゃないよ。またここへ通ってくれるというんだから、会える機会はいくらでもあるだろう」
「わかってるけどさ」
ご主人がたしなめると、おかみさんは口を突き出して拗ねた様子を見せた。
「ハルカ、王宮の兵士向けの食堂で働くんでしょ? 私も弁当配達は続けてるから、そっちにも顔出すよ」
私の向かいで同じく夜食を食べていたセナさんが、思い出したように声を上げる。
「ご近所なんだから、いつでも会えるよ。ね、ハルカ」
いつでも会える。
その言葉に、私は笑って頷いた。