65.一番会いたい人たちに、会いに行きます
「遅かったな」
「す、すみません」
オルディスさんの凄みのある声に、思わず私は背筋を伸ばした。
定食屋への挨拶よりも先にこちらへ足を運んだというのに、それではご満足頂けなかったようである。
「あの、こっちに戻ってからも色々あって、ちょっとバタバタしてしまって。もちろんすぐにでも、オルディスさんのところには挨拶に行かなくちゃと思っていたんですが」
ルーナさんではないけれど、焦りから無駄に雄弁になってしまった。
そんな私をつまらなさそうに一瞥した後、オルディスさんは再び机に向き直り、手元のペンでトントンと書類をつつく。
「おやおや、オルディス様は我々に退出せよと仰せですよ、コリー」
「え、あ、うん」
すぐに反応したのは、ルーナさんとコリーさんだった。
「ハルカさんには不在の間の身の上話をたんまりお聞かせ願いたいところですが、我らが師のご要望とあらば仕方ありますまい。ではコリー、行きますよ」
「はいはい。それじゃハルカさん、また後で。ぜひ君の田舎のお土産話聞かせてね」
ひらひらと手を振って、二人は研究室を出て行った。
もっと彼らと話したかったけれど、仕方がない。逆に彼らの気づかいに感謝しなくては。
「巫女巡礼は、成功したらしいな」
オルディスさんは書類から顔を上げないままに、そう呟いた。
「あ、はい。『気脈』は無事に正されたみたいです」
「みたい、とは? お前がやったことではないのか」
「私は何もしてないですよ。きっかけくらいにはなれたかもしれないですけど……。『気脈』を正したのは、アルディナ様です」
「きっかけでも十分だろう。あの巫女は、もはや八方塞がりで、音を上げる寸前だったのだからな」
「でも、立ち直ってくれました。もう大丈夫です」
そんなに簡単なことではないと分かっている。でも、きっとアルディナ様はもう折れたりしないと、そう信じたい。だからあえて、言い切った。
「あ、それで、この腕輪、ありがとうございました」
私は長らく左手にはめていたブレスレットを、久しぶりに外した。
「アルスさん、いえ、フラハムティ様の部下に連れ去られそうになった時、オルディスさんがこの腕輪で助けてくれなかったら、今ここでこうしていられなかったと思います」
「それは、そのまま身に着けておけ」
「え、いいんですか?」
「――お前、このままこの世界に残るのだろう」
オルディスさんは、再びペンを止め、こちらを向いた。
「何故帰らなかった?」
「え……」
「勝手に帰って、アルディナが更に糾弾されるのを気の毒に思ったか? だが、お前にしてみれば、アルディナもこの世界も、どうなろうと知ったことではないはずだ」
「……他の人にも、似たようなことを言われました」
やっぱり私、おかしいのかな。
無理やり私を再召喚したアルディナ様を嫌いになれないことも。かつては巫女として、そして今は「元」巫女として私を利用するばかりの王宮を、少し離れがたいと思い始めていることも。――嫌なことは色々あったけれど、それでも、この世界の行く末をもう少し見守ってみたいと思っていることも――。
「オルディスさん。魔術師は、美しく整ったものよりも、混沌としたものに惹かれるんだって、昔言っていましたよね」
不意に思い出したその言葉が、今の私に妙にしっくり当てはまる。
「混沌にこそ、世界の真理が潜んでいるから、って」
「……」
「私は魔術師にはなれそうもないですけど、でも、少し分かる気がします。私は多分、ようやく、本当にこの世界と向き合い始めたんだと思います」
かつて、巫女様巫女様と崇め立てられ、美しく着飾られ、人形のように大事にされて過ごしてきた私。その当時の私は、最後までこの「世界」そのものに興味を惹かれることはなかった。毎日の中にささやかな喜びや楽しみを見出し、それに幸せを感じることはあっても、私をこの地に結びつける決定打にはならなかったのだ。
(でも、今は違う。後ろ髪を引かれるみたいに、縫いとめられる)
作り物のように感じていた世界が、息をしていることに気づく。
人の優しさに触れた。そして人の身勝手さにも触れた。助けてくれる人があれば、突き放す人もあった。
(ああ、何だか、ようやく自分の気持ちが分かってきたかも)
私は、この「世界」を、割と気に入り始めているのだ。
「――面白い」
オルディスさんは、唇の端をわずかに持ち上げた。
これはポジティブな意味での「面白い」なのだろうか。いや、むしろ皮肉なのかもしれない。この人の考えていることは、大概分からない。
「この世界に残るのならば、魔術研究所にも通うがいい」
「え?」
「コリーとルーナにお前の面倒を見るよう伝えておく。魔術をもう一度学びなおせ」
「でも、私はもう魔力なんてないですよ。それは、オルディスさんと再会した時に、オルディスさん自身が言っていたことじゃないですか」
「私は、『神気』が見られないと言ったのだ」
それって何がどう違うのだろうか。
「以前のお前は、『異界の巫女』としての『神気』を魔力に代えて術を行使していたようだからな。『神気』が邪魔をしなくなった今、眠ったままのお前自身の魔力を引き出す努力をしたらどうかと言っているのだ」
「えっ、巫女とか関係なく、私にも魔術が使えるってことですか?」
「才能次第だがな。自身の魔力の制御方法を身につけることができれば、その腕輪の効力も格段に上がるはずだ」
私は手元のブレスレットに目を落とした。
……既に十分超強力だったと思うのだけれど、更に威力が上がるのか。ちょっと怖いんですけど。
でも、それってすごく、ありがたい提案だよね。
「ありがとうございます。ぜひ通わせてください」
私は勢いよく頷いた。
オルディスさんのところに通うのであれば、フラハムティ様も文句はないだろうし。
それに、また魔術が使えるかもしれないというのはワクワクする。
「オルディスさん。これからも、よろしくお願いします」
ぺこりと頭を下げると、オルディスさんはふんと鼻を鳴らした。
ほんの少しであっても、彼が私を認めてくれたような気がして、それが何より嬉しかった。
・ ・ ・
その後、間もなくしてノエルが私を魔術研究所まで迎えに来てくれた。
事務的な会話を少し交わす程度の他人行儀なノエルとオルディスさんを見比べながら、やはりこの二人は馬が合わないのだろうなあ、などという感想を密かに抱く。
とはいえ、どちらかと言うと、苦手に感じているのはノエルの方なのかもしれない。オルディスさんは、何となく意味ありげな視線をノエルに向けている……ような気もするのだ。
なんだろう、私の知らないところで二人に何かあったのかもしれないな。
・ ・ ・
それからは少し、慌ただしかった。
色々とあったけれど、結局私は、王宮内で生活していくことになった。
定食屋に住み込みで働き続けたい気持ちはあるものの、状況が状況なので、王宮を離れて暮らすわけにはやっぱりいかない。フラハムティ様には「好きに暮らさせてもらう」と啖呵を切った私だけれど、周囲に迷惑をかけてまで好き勝手したいわけではないのだ。
でも、全く定食屋と縁のない毎日を送ることになったわけでもなかった。
ノエルが陰で尽力してくれた結果、表向き、私は定食屋から派遣されて王宮内の食堂で働く形になり、王宮の中に使用人としての部屋を貰えることになった。
私自身が料理のスキルを持っているわけではないので、定食屋からの派遣という肩書を貰うことは心苦しくもあったのだけれど、定食屋に通い続けていた料理人のリックさんがご主人の技を習得して活躍し始めていたこともあり、また、彼が私を歓迎すると言ってくれたことも相まって、食堂でお世話になる決心がついた。
早速顔合わせをした際も、久しぶりに会ったリックさんは、私との再会を思いもがけず非常に喜んでくれた。この食堂にハルカちゃんがいるだけで、定食屋の温かい空気を思い出して仕事に精が出る――なんて。リップサービスだと分かっているけれど、それでも嬉しい。
それに、彼曰く、弁当配達時代も相まって、私の存在は既に王宮内で割と有名なのだそうだ。「美味しい定食屋の看板娘がこの食堂にいるんだぞ」という宣伝効果での客引きが大いに期待できるということで、そういう意味でも私の存在は大歓迎だということだった。
うん、多分、マスコットキャラクターみたいなものだよね。そんな形でよければ、いくらでも私を使ってもらいたい。
それに、定食屋でご主人とおかみさんの働きぶりを見ていた私だからこそ、気づくことがあれば食堂の料理人たちにも積極的にアドバイスをしてほしいとも言われ、改めて身が引き締まる思いだった。
新しい環境。
何だかすごく、楽しみになってきた。
そして――。
・ ・ ・
王宮へ戻ってから一か月と少し。
久しぶりに、定食屋へ足を運ぶことになった。
本当は、王都へ戻って真っ先に定食屋のご主人やおかみさん、そしてセナさんに会いに行きたかったのだ。でもその前に、まずは自分の身を落ち着けなければならない、彼らに会いに行くのはそれからだと、何度も何度も自分に言い聞かせて。
今日、ようやくそれが叶う。
「定食屋の主人達に会うのは随分久しぶりだよね。ハルカちゃん、ちょっと緊張してるんじゃない?」
何故か私の隣でにこやかに話しかけてくるのはアルスさんだ。
……どうしてこの人がここにいる!
と、声を大にして訴えたいところだが、それもできない。
というのも、久々に王宮を出ての単独行動となるため、誰かしらが側についていた方がいい、という話になってしまい、その「誰かしら」に抜擢されたのが、他でもないこのアルスさんというわけなのだった。
これはフラハムティ様の提案だ。私の後見人であるノエルとしてもあまりいい思いはしなかったようだけれど、話としては別におかしなところもないので、むやみに断れば角が立つ。
むしろ、腕は確かな上に、ノエルのように街中で有名になり過ぎてもいないし、どころか一庶民に紛れ込んでの活動が大得意なアルスさんだ。人選としては間違いない。間違いないのだけれど……。
「アルスさん、絶対に、ご主人達との再会を邪魔しないでね」
「ひどいなー、ハルカちゃん。むしろこれでノエルがついて行くってなったらどうするの? 大騒ぎになって再会の余韻に浸るヒマもないのは目に見えてるでしょ? むしろ俺が一緒でよかったと感謝してくれてもいいはずなんだけど」
「……」
一理どころか二理も三理もあるので何も言えない。
複雑な気持ちを抱えながら、私はアルスさんと共に王宮を出発した。
王宮の正門を抜ければ、続く大通りはとても賑やかだ。
さすが王都、これまで巡礼で回ったどの街ともスケールが違う。
王宮を出入りする商人たちや、左右に構える店の軒先で立ち話に勤しむ女性たち。大道芸を披露している若者のすぐ側を、馬車がガラガラと音を立てながら走り去って行ったかと思えば、ご老人が石造りの花壇の淵に腰かけてのんびりと日向ぼっこをしている。
見慣れたはずの風景が、とても新鮮に感じられた。
ああ、いいな。やっぱりいいな。
「それにしても、ハルカちゃん、結局こっちに残ることにしたんだね」
護衛とは思えないほど気の抜けた様子で隣を歩いていたアルスさんが、不意にそう呟いた。
「いいの? 多分、あの人の思う壺だと思うけど」
あの人、というのはフラハムティ様のことだろう。
「……うん。別に、あの人のやることなすこと何でも反対したいっていうわけじゃないし。今回はたまたまお互いの利害が一致したっていうことだから、別に構わない」
「そう? 気づかないうちに、いいように操られてるのかもしれないのに?」
「そんなのいちいち気にしてたら、生きていけないよ」
「はは、生きていけない、か。それは大問題だ」
「笑い事じゃなくて。……誰だって、周りの誰かの思惑に引きずられて、巻き込まれて生きてるんだと思う。私は生まれてからずっとそうだったし、この世界へ来たことだって、やっぱりそうだった」
でも、これからは違う。
この二度目の召喚で、そう思えるようになってきたんだ。
「この先も、きっと誰かに引きずられて、巻き込まれて生きていくのは変わらないんじゃないかな。でもその時に、自分が自分で考えて、自分の意思を持っていたかどうかが、後悔のない人生の決め手になるんだと思う」
「なるほどねえ」
嫌味とも感嘆とも区別のつかない調子で、アルスさんは唸り声を上げた。
「うーん、やっぱりいいね、ハルカちゃんは」
「どういう意味?」
「ん? ほんの十数年の人生で、そこまで悟りを開けちゃう辺りとか、尊敬するってこと。それが正しいかどうかは別としてさ」
「それ、嫌味?」
「あと、そういう、とにかく俺に冷たいところとかグッとくるよね」
「……」
私はわずかにアルスさんと距離をとった。
「まあまあ、逃げないで。そういうわけでさ、やっぱりノエルはやめて俺にしとかない?」
「しません」
「少しは考えてくれてもいいんじゃないかと思うんだけど」
「これまで散々な目に遭わされた男に靡く女の人がいたら見てみたい」
「じゃあ、これから名誉挽回していかないとな~」
道のりは長そうだ、とアルスさんは大きく伸びをした。
本当に、この人の考えていることもよく分からない。フラハムティ様といいオルディスさんといい、私の周りには謎思考の男連中ばかりが集まりがちなようだ。
そんな軽口を叩きながら、通りをゆっくりと下っていくと。
まもなく、懐かしの定食屋が見えてきたのだった。