63.交渉の時
「失礼します」
渇いた喉から声を絞り出し、私は扉を開いて執務室へと立ち入った。
かつて見た光景と同じだ。
フラハムティ様は悠然と机に向かい、その後ろにはアルスさんが控えている。
――アルスさん、私を拉致するのに失敗したけれど、クビにはならずに済んだんだな。
そんな皮肉めいた思いで彼にちらりと視線を送ると、それに気づいたらしいアルスさんがほんのわずかに口角を上げた。
前回、アルスさんが能面のような表情を動かすことはなかったので、少したじろぐ。
そうだ。あの時とは違うんだ。同じことを繰り返しているわけじゃない。
だから、大丈夫。
「これはこれは、お揃いで。わざわざお越し頂きありがとうございます」
フラハムティ様は立ち上がって私達を招き入れてくれた。
そして促されるままにソファへと腰掛ける。
改めて向かい合ったフラハムティ様は、やっぱり威圧感が凄い。
わざと私を脅しているわけではないのだろうけれど、その立場やこれまでの経歴が、彼のまとう気配を独特なものに仕立て上げている。私の普段の生活では、まるで接点のないような人なのだ。
「まずは何より、長旅お疲れ様でした。皆さんの無事のご帰還に、私も心から安堵いたしました」
「……ありがとうございます」
「特にハルカ様におかれましては、思わぬ形でご出立されましたからな。巡礼の地でどのように過ごしておられるのかと、気が気ではありませんでしたよ」
「皆さんのおかげで、問題なく過ごせました」
本当は色々とあったのだけれど、フラハムティ様に細かく報告することもあるまい。
それに、心配をかけたと彼に謝るのも何だか違う気がしたので、私は簡単に答えるに留めた。
「フラハムティ様。この度のことは、全て私に責任がございます。大変申し訳ありませんでした」
大人げのない私とは対照的に、隣のアルディナ様が深く頭を下げる。
「取り返しのつかないことをしてしまったと……反省しています」
「アルディナ様、巫女様ともあろう方が、簡単に頭を下げてはいけませんよ」
フラハムティ様は、いかにも優しげな声でそう返した。が、まさか本心からの言葉とも思えない。
「いいえ。自分のしでかしてしまったことの罪の重さは、承知しているつもりです」
「なるほど。それでは、此度のこと、アルディナ様ご自身が全て認められるということで宜しいですかな?」
「――はい」
「お認めになれば、今後、ご自身が糾弾されることも十分考えられますよ」
「はい。覚悟の上です」
きっぱりと、アルディナ様は言い切った。
「それは、今の立場を退かれる覚悟――ということでしょうか」
フラハムティ様の切り返しに、つい私が肩を揺らした。
それは暗に、巫女を辞めると自分から言え、と脅しているのだろうか。
そんな誘導尋問みたいなやり口は、ひどい。感情のままに口を開こうとしたところを、けれどノエルに押し留められる。
「本来、そうするべきであると思います。ですが……私は、巫女を続けさせて頂きたいのです」
アルディナ様は、真っ直ぐフラハムティ様を見つめてそう言った。
「今回『気脈』を正すにあたって、ハルーティア様に支えて頂いたのは紛れもない事実です。私一人では、力不足ゆえに巫女としての役目を果たすことは叶いませんでした。そのような身でこんなことを申し上げるのは、おこがましいと承知しています。それでも」
アルディナ様は、ひざの上でぐっと拳を握った。
「私は、巫女を務め上げたい。もう一度やり直したいのです」
「……」
「ハルーティア様に支えて頂いたのは、巫女としての力だけではありません。私の心もまた、『ハルカさん』の存在に支えられてきました。もう過ちは繰り返しません。今度こそ、巫女としての覚悟ができたのです。あまりにも遅すぎたのかもしれません。ですがどうか、もう一度だけ機会をお与え下さい。そのほかの、どんな罰でも甘んじて受け入れるつもりです」
一生懸命に思いを口にするアルディナ様は、ただ偏に、一人の普通の女性なのだと思った。
かつて、華やいだパレードの中で見た、神々しいまでの彼女はいない。女神のように悠然と微笑み、全てを受け入れる包容力を持つ、そんな彼女はいないのだ。
必死に、がむしゃらに、自分の身一つで訴えかけるアルディナ様。だからこそ、彼女の訴えは私の心に強く響いた。
「そのお心は、よく分かりました」
フラハムティ様は冷静だ。
「しかし事実として、アルディナ様は巫女にあるまじき行いをされてしまった。そしてまた、あなた様の腹心の部下とも言えるレイバーン殿のこともある。このまま全てを水に流し、もう一度やり直しましょうと言うわけにはいきません」
「……はい、仰る通りです」
「これは、私の一存ではありませんぞ。この国そのものの考えだと捉えて頂いて結構。例え私個人がアルディナ様の続投を望んだところで、他の者達はきっと黙っておりますまい。特に国王は、アルディナ様が巫女を続けられることに、既に不安を抱いておられる状況です」
初耳だった。
国王とは全然接点がなかったから、あまり深く考えていなかったけれど。当然ながら、彼の耳にも今度のことは入っていて――そしてアルディナ様に対して、否定的なのか。
「最終判断は、私どもで会議を重ね、国王のご意見も頂戴し、それから下されることになるでしょう。万が一の際には、ハルーティア様に復帰頂くことも十分考えられます」
――来た。
やっぱり、フラハムティ様は――この国は、そういう心積もりで私を見ていたのだ。
「フラハムティ様、それはいつから考えていらしゃったんですか。最初からですか?」
私の問いかけに、フラハムティ様は曖昧な笑みを浮かべた。
「最初からと言えば、そうでしょうな。ただし、あなた様がこちらの世界に戻られたと分かった当初は、まずは何より、何者による再召喚だったのかを突き止める必要がありましたので、それが判明した以降にこの件を考えるようになった、と言った方が正しいかもしれません」
アルディナ様とルーノさんが犯人だということに、フラハムティ様が確信を持ったのがいつなのかは分からない。でも、そんなに時間はかからなかったことだろう。
「ハルーティア様に復帰頂くというのは、長らく、私の心のうちでの『可能性』でした。あなた様の存在を公にするのはあまりに危険でしたので、国王をはじめとする、ごく一握りの人間にしか知らせておりませんでしたからね。しかし――アルディナ様の今後を論ずる上で、もはやハルーティア様の存在を伏せ続けることはできません。この辺りが潮時であると考えております」
つまり、異界の巫女がこの世界に出戻っているという事実を、王宮内で公表しようということだ。
フラハムティ様の主張に、間違いはない。
正しいと思う。
この国の宰相として、冷静に考え、対処しているのだから。
でも。
(アルディナ様の決意を、聞けてよかった。私も改めて、心を決められたから)
「――私は、受け入れられません」
はっきりと、私は告げた。
迷いを微塵も感じさせないように。
「私は違う世界の人間です。この世界の政治的なお話は、私には全く関係ありません。なので、例え国王が私にもう一度巫女になれと命じたって、私がそれに従う義務はないでしょう」
フラハムティ様は相変わらず涼しい顔だ。
でも、それで怖気づくなら、こんなところへ来なかった。
「私を頭数に入れて、今後のことを色々と考えているみたいですけど、私は、関係ありませんから。無理強いしようとするなら、今すぐもとの世界へ帰るだけのことです」
「しかし、あなた様のご意思のみで帰れるものでもないはすだ」
「ルーノさんが帰してくれます」
私は即座に言い切った。
「私を呼び出したのは、アルディナ様とルーノさんですよね。ルーノさんの話によれば、彼単独でも私を帰すことは可能だということでした。ルーノさんは、私の気持ち次第で、いつでも私を帰すと約束してくれたんです」
本当は、そんな約束はしていないけれど。
でも、こんなもの、言った者勝ちだ。それに、いざとなったらルーノさんに頼み込んで帰してもらえば「事実」になる。
「……彼と、会いましたか」
「はい、昨日」
そこは、本当だ。
「なるほど」
フラハムティ様はふっと笑った。
「仰りたいことは分かりました。それでは、あなた様の条件とはなんですか?」
「え?」
「何か、交換条件をお考えなのでしょう。そうでないのなら、わざわざこのような話をしに来られずとも、昨日のうちにでも実際にお帰りになればよかっただけのこと。あなた様が巫女候補となって頂くにあたっての条件があるのならば、私にお聞かせ願いたい」
さすが宰相様。
とんでもなく話が早い。
私の両隣に腰掛けているノエルとアルディナ様が、息を呑んで私を見守っている。
私は二人に頷いて見せた。
「一年、時間を下さい」
考えに考え抜いて出した結論はこれだった。
「確かにアルディナ様は、大きな過ちを犯してしまったかもしれません。でも、その『過ち』というのが私の存在で、その私が、ほんの少しでも、この国とアルディナ様にとって、役に立ったというのなら。どうか、アルディナ様に挽回する機会を与えてあげてほしいんです」
小娘が何を知ったようなことを、と思われるかもしれない。
実際、難しい政治のあれこれなんて、私に分かるわけがないし。
だけどそれでも構わない。これだけ訳の分からないイザコザにつき合わされ続けたんだ、幼稚な発想であろうと、いい加減、私は私の思いを貫いたっていいだろう。
「私は、アルディナ様ならば立派な巫女を務められると信じています。それを証明するのに、一年です。きっとアルディナ様なら、その一年で、誰にも文句を言わせないくらい、とびきり素晴らしい巫女になってくれるはずです」
「では、その一年で、不足があると見なされた場合は?」
「私を、巫女の候補に入れてくださって構いません」
「ハ、ハルカさん……」
アルディナ様がかすれた声で私の名を呼んだ。
驚くのも無理はない。昨日の三人での話し合いの時には、ここまで断言する予定にはなっていなかった。――でも、それじゃあ駄目だ。フラハムティ様を納得させるのに、中途半端な話はできない。私は私なりの覚悟が必要なのだ。
「その一年の間、私は逃げも隠れもしません。前みたいに軟禁されるのは困りますが、私の意思で、思うように暮らすことを許してくださるのなら、一年はこの世界に残ります。そうでないなら、私のことは手駒から外してください。元の世界へ帰りますから」
それともう一つ、と畳みかけるように私は続ける。
「元の世界へ帰ろうが、何度だって呼べばいいとお考えなら、それは無理だそうですよ。ルーノさんはもう二度と私を呼ぶことはないと約束してくれましたし、そうでなくても、時が経つ毎に私が『異界の巫女』である気配は薄れていって――私はおろか、次の五十年後まで、新たな巫女も呼ぶことはできなくなるということです。もちろん、フラハムティ様ならご存じでしょうが」
「……」
フラハムティ様は、考え込むような様子を見せた。
確かな手ごたえを感じる。
前回は、私に言いたいことをほとんど言わせず、煙に巻くようにして話を自分の都合のいい方へと持っていった人なのに。ちゃんと今度は、考えてくれている。
「……確かに、悪い話ではないでしょうな。色々ありましたが、最終的に、アルディナ様は『気脈』の歪みを正すことに成功なさった。ならば、今すぐに巫女の座から降りて頂くべきだという声も、ある程度は抑えることもできましょう。――特に、『異界の巫女』であるハルーティア様に残って頂けるというのならば」
やった。
フラハムティ様が、私の意見に頷いてくれた!
「――しかし」
けん制するような鋭い視線が、私を射抜く。
高鳴りかけた胸の鼓動が、違う意味で大きく響き始めた。
「その一年の間、私どもの保護下から離れられるというのは、あまりに危険です。あなた様の存在を可能な限り伏せるとして、それでも人の口に戸は立てられません。既に、巫女巡礼の参加者はあなた様の正体を知ってしまった。どれだけ厳しく緘口令を敷いたところで、いずれこの件は少しずつ広まっていくことでしょう。それを考えれば、やはり、ハルーティア様は私どものもとにて過ごして頂くのが一番だと考えております」
ぐ、と私は言葉に詰まった。
雲行きが怪しくなっていく。
このままじゃあ、結局、フラハムティ様の手のひらの上だ。
彼はもしかしたら、もともとある程度の猶予をアルディナ様に与えるつもりだったのかもしれない――駒としての私をキープしながら。
いや、既にこれまでだって、そうしてきた。判断を下す時期がほんの少し後ろにずれるだけならば、フラハムティ様にとっては痛くもかゆくもないのだろう。
「彼女は、私が護ります」
その時、ずっと成り行きを見守っていたノエルが声を上げた。
その場の全員の視線が、彼へ集中する。
「私だけではありません。ハルカはこの二度目の召喚で、たくさんの『仲間』を得てきました。命じられて側についているだけの人間じゃない。ハルカが、一人の人として、真摯に向き合ってきた結果に得られた仲間達です。彼らは、ハルカに万が一のことがあれば、きっと惜しまず力を貸してくれることでしょう」
その言葉に、私は強く胸を打たれた。
私の『仲間』――かけがえのない、人たち。
「ルーノ殿は、既にハルカ個人につくことを表明しています。……オルディス殿も、明確な言葉こそありませんが、巡礼中、あなたの命令よりもハルカの安全を優先する行動をとられました。アルディナ様と並んで巫女候補と数えられているソティーニ殿も、ハルカの危機には必ず力を貸してくださるはずです。それに……」
ノエルが、ちらりとアルディナ様に視線を送った。
それを受けて、アルディナ様が強く頷く。
「私も同じ気持ちです。どうにか巫女を続けたいと申しましたが、それより何よりも一番に願うのは、ハルカさんの無事と幸せです。ハルカさんを苦しめた元凶である身で言えたことではありませんが、それでも。――これからは、彼女に恩返しをしていきたいと思っています」
フラハムティ様は表情を動かさない。
だが、ノエルも引こうとはしなかった。
「ハルカは、もはや我々の知っている『異界の巫女』ではないのです。自分の力で、自分の居場所を切り開きました。街中にも彼女を慕う者たちが多くいることは、フラハムティ様もご存知のはず」
「……」
「従順な巫女としての彼女を求めているならば、もはやそんな彼女はどこにも存在しないと理解するべきです。狭い籠に閉じ込めても、ハルカはそれを良しとはしない。最後には、籠からするりと飛び出して――二度と手の届かないところへ飛んで行ってしまう。それだけです」
本人の真横で繰り広げられる舌戦というのは、何とも居たたまれないものだ。
私、ノエルにそんな風に思われていたんだなあ。
でも、確かにそうかもしれない。私はもう、フラハムティ様に捕らえられては過ごしていられない。だって、知ってしまったんだ。王宮を飛び出した外の世界の生活を。巫女としてじゃない、ただ一人の人としての毎日を。――この、異世界で。
「なるほど」
フラハムティ様は、静かに頷いた。
「これ以上、無理強いするわけにはいかんのでしょうな」
え。
と言うことは。
「――分かりました。全面的に、あなた方の提案を受け入れましょう」
――本当に。
本当に!?
私は立ち上がらんばかりに驚いた。
「ただし、一年後です。もしアルディナ様に不足ありと我が国が見なした場合――あなた様は、今一度『異界の巫女』となって頂く可能性を拒めない。宜しいですね?」
フラハムティ様は、最後に釘をさすのを忘れなかった。
私はぐっと唇をかみ締め、それでもしっかりと頷いた。
今更引かない。迷うくらいなら、初めから言わない。
私は信じる――アルディナ様を。
始めは、訳も分からず連れられてきたこの異世界だけれど。
今度は、私の意思で、ここに残る。
見捨てられないから。
同じ『巫女』として、苦しみ、もがいてきたアルディナ様のことを。
それに……。
(この世界のこれからを、もう少し、見てみたい)
巡礼の間は、つらい思いをしてばかりだった。
それでも今すぐ帰りたいと思わなかったのは、王都での暮らしがあったからだ。
温かいあの場所。定食屋の皆。一人ぼっちの私を迎え入れてくれた彼らの優しさは、長く離れてしまった今でも、消えない灯火のように私の胸の中でほんのりと輝き続けている。
だから私は、この選択を後悔しない。