60.私は元の世界に帰れない
「それじゃあそろそろ、ハルカちゃんは貰って行こうかな」
不敵な笑みを浮かべながら、さも当たり前のようにアルスさんがそう言った。
私はもはや、訳が分からない。
ただでさえ頭の中はパンク状態だというのに、ここへアルスさんが加わって、私の思考回路が正常に働くはずがないというものだ。
「言ったはずだ、こいつはお前に渡さないと」
一方のノエルは私よりもずっと状況を理解しているようで、毅然として言い放った。
混乱しながらも身じろぎをすると、ノエルは庇うように私をその背に隠す。
「でも、お前、フラれてる方向じゃなかったか?」
アルスさんが遠慮の欠片もなく言い放った。
やめてくれ。本当にやめてくれ。
そんな軽々しい状況ではなかったのだと訴えたいところだけれど、だからと言って、私が二人の間に口を挟んで反論するだなんてことは、とてもできそうにない。
「だったらなんだ? もう二度と、戻ってこないと思っていたんだ。この世界にこいつがいる限り――いくらだって時間はある」
「おーおー、言うね」
ありえない。私の知っているノエルはこんなことを言わない。
もはや、完全に私の中の限界値を振り切った。やっぱりこの際、アルスさんでいいから、ノエルの口を塞いでほしい。
私が一人で青くなったり赤くなったりしている間にも、話はどんどん進んでいく。
「ノエル、冷静になれよ。俺だって、ここの恩知らず御一行みたいに、ハルカちゃんをさっさと元の世界に帰そうとしてるわけじゃない。今朝、話をしただろう。このまま巫女側に置いておいても、ハルカちゃんのためにはならないって。もしハルカちゃんを護りたいんなら、ちゃんとした後ろ盾が必要だ。それが宰相なら最強じゃないか。――なあ、ハルカちゃんもそう思わない?」
不意にアルスさんの意識がこちらに向いたので、私は思いきり身構えた。
「この巡礼の奴らは、『巫女様のため』って言葉を、免罪符か何かと勘違いしてる。それでいいように使われて、ハルカちゃんばかり消耗するのは割に合わないと、俺は思うよ」
「……」
彼の言い分を、即座に否定できない。
多分、私も心のどこかで、同じように思っているからだ。
でも、このままアルスさんの挑発になんて乗ってやるもんか。
「……アルスさんについて行ったって、同じことじゃないの? フハラムティ様の道具にされて、いいように使われるのは嫌だ。私は彼と、対等に話をしたいの」
ノエルの背中からで情けないが、言いたいことは言うしかない。
「少し迷ったけど、私はちゃんと、王宮に戻るよ。それで、フラハムティ様に会いに行く。彼の言い分も聞くつもりだし、私の言い分だって聞いてもらいたい。そのためにも、真正面からフラハムティ様に会いに行かなきゃいけないの。だから、アルスさんにはついて行かない」
「お前もフラれたみたいだな、アルス」
ふっと鼻で笑ってから、ノエルは腰の剣をスラリと抜いた。
「無理やりこいつを連れて行こうとするのなら、俺が止める」
そんなノエルを見て、アルスさんはひょいと肩をすくめてみせる。
「ちょっとは躊躇しろよ、戦友に向かって剣を抜くの」
「抜き身の剣を持って人の背後に立ってたお前に言われたくはない」
やばい、この二人、今度こそ戦うつもりだ。
こんな夜更けに、旅先の、一般の宿の裏庭で。すぐ側には巫女様が休んでるっていうのに。
「ちょ、ちょっと、まっ……」
情けなくも震えてしまった私の声は、二人の剣がぶつかり合う音に、あっさりとかき消されてしまったのだった。
・ ・ ・
二人の剣さばきは、とても良く似ていた。
歳も近い二人だから、ずっと昔から、王宮で一緒に剣を振るっていたのかもしれない。
どちらか一方の剣が振り下ろされると、もう一方がそれを防ぐ音が鋭く響く。その音は絶え間なく、とても短い間隔で繋がっていて、もはや耳が痛いほどだった。
よくもまあ、この暗がりの中でここまで動けるものだ。
一歩間違えば、確実に刃が相手の肉を絶つ。これが二人の正真正銘の本気なのか、それとも相手に致命傷を与えない程度の余裕を持った剣戟なのか――私には分からない。
かくいう私はと言えば、いつの間にやら腰が抜けてしまっていた。
その場にへたり込んだまま、身じろぎ一つできやしない。
それに、下手に声でも上げようものなら、それが二人のリズムを狂わせて、この均衡状態を崩してしまうかもしれないと思うと、いっそ呼吸することさえ恐ろしかった。
アルスさんが剣を振り下ろす。ノエルが防ぐ。
もう何度目か分からない攻防。けれど、その瞬間は様子が違った。
アルスさんの剣が、突如不思議な光を纏ったのだ。それにどんな力があるのだろう、十分余裕をもって剣を受けたように見えたノエルが、急に押し負けそうになった。
しかしノエルもそのままでは終わらない。彼が何かを口の中で唱えたかと思えば、次の瞬間には、見えない衝撃がアルスさんを襲い、剣ごと彼を吹き飛ばした。
二人とも、魔術を使っているんだ。
アルスさんは、衝撃を自分の術で相殺すると、空中で身を翻して危なげなく着地した。それから息をつく暇もなく再び地を蹴って、ノエルの懐へと飛び込んでいく。
今回ばかりは、アルスさんにも引くつもりがないのだと分かった。
アルスさんもノエルも――二人がこんなに真剣に剣をふるっている姿を目にするのは、これが初めてだ。私が巫女だった時期も、護衛のノエルが私の前で剣を抜くような事態にはならなかったから。
それなのに、どうして巫女でも何でもなくなった今、こんなことに。
あまりに皮肉な光景に、それでも私は目が逸らせなかった。
ノエルが剣を横に薙いだ。
アルスさんは、魔術を使わず身を引いてそれを避ける。タイミングも距離もあまりにギリギリで、私のような素人などは、もはや切られたかと戦いてしまったというのに、当のアルスさんは全く怖気づくことなく、次の一撃を繰り出すのだ。
もう止めて。
どちらが傷ついても嫌だ。
そんな臆病な祈りが通じたのだろうか。
突然、建物の中から眩しいほどの光が放たれた。まるで蛍光灯のスイッチが入ったかのような、明瞭な明かりだ。
この時ばかりはアルスさんもノエルもそちらに気を取られたようだった。しかし、次の動き方の差が、全てを決することになった。
アルスさんがわずかに警戒を他所へ移した隙をつき、ノエルの剣が彼の手元を狙った。
一際鋭い音が夜の庭に響き渡る。
――アルスさんの剣が、その手元から零れ落ちた。
「ハルカさん!?」
アルディナ様の緊迫した声が、裏庭に飛び込んでくる。
アルスさんは足元に転がった剣を拾うことなく大きく飛びのき、ノエルとの距離を十分にとって、苦笑を浮かべた。
「あーくそ、ここまでか。……ったく、任務に失敗なんて経験、初めてだ」
それから、ちらりと私の方へ視線を寄越す。
「仕方ない。それじゃハルカちゃん、また王宮で」
それだけ言うと、もはやアルスさんはこの場に微塵も未練を残さず、足にバネでも仕込んでいるのではないかというくらいの驚異的なスピードで姿を消してしまった。
あっという間の、出来事だった。
「ハルカ、大丈夫か」
ノエルは彼を追うことなく、へたり込んだままの私の側へと歩み寄る。
私は頷くばかりで動けない。
「どうした?」
「……こ、腰抜けた……」
蚊の鳴くような声で答えると、ノエルは何も言わずに私を抱え上げた。
「わっ、お、下ろして!」
「下ろしたってお前、立てないんだろう」
それは確かにその通りなんだけども。
ぐうの音も出ずに黙り込んでいると、アルディナさんをはじめ、ソティーニさんやエリオットさん、そしてシズルさんやクインさんが次々と裏庭へと姿を見せた。
「ハルカさん、無事でよかった」
アルディナ様は心底ほっとしたように、ノエルに抱えられたままの私を気遣ってくれた。この構図、恥ずかしすぎるし情けなさすぎるしで、穴があったら入りたい。
「でも、一体何があったのですか?」
「アルスの奴が、ハルカを連れ去ろうとした。ハルカがこのまま王都へ戻らず元の世界へ帰る素振りを見せたから、動いたんだろう」
ノエルの言葉に、アルディナ様は顔を曇らせた。
「そうだったのですか」
よく見れば、アルディナ様は就寝用の薄手のワンピ―ス一枚だ。後から現れたナタリエさんが、そんなアルディナ様にストールをかけてあげていた。
「ノエル、あの、多分もう大丈夫だから、やっぱり下ろして」
ノエルに抱えられたままでは、落ち着いて話もできやしない。そう思って控えめながら主張してみるが、ノエルは私の訴えなど聞こえないとでもいうように、まるきり無視してそのまま話を続ける。
「ちなみにアルディナは、どうしてここへ?」
「魔力のぶつかり合いを察知したものだから、居てもたってもいられなくなってしまったの。またハルカさんに何かあったのではないかと」
これは相当、この巡礼で私が散々な目に遭い続けてきたことを気にしてくれている様子だ。着の身着のまま、身一つで私を心配して飛び出してくるだなんて。
密かに感動さえ覚えたのだが、それを聞き捨てなかったのはソティーニさんだ。
「アルディナ様が急に部屋を飛び出されたので、何事かと驚きましたわ! お気持ちは分かりますけれど、これでアルディナ様にまで何かあったらどうなさるのです! 無茶な行動は控えて頂かないと!」
「ご、ごめんなさい、ソティーニ」
「……それで?」
ソティーニさんの鋭い眼光が、今度はこちらを向いた。
「ハルカ、あなた、このまま元の世界へ帰ろうとした、ですって?」
うっ!
スルーされるかと思いきや、そういうわけにもいかないらしい。
「……もう私達には愛想が尽きたということなの?」
「そうじゃないです! ただ、これ以上私がいると皆に迷惑がかかるかと思って。でも、逆に今帰った方が良くないって、分かりましたから」
ソティーニさんは、怒っているというよりも、傷ついたような、揺れた目をしていた。それに気づいて、私はしどろもどろで弁明する。
そして、そんなソティーニさんの後ろでは、ナタリエさんが気まずげに俯いていた。ナタリエさんを悪者にしたいわけじゃないから、この話題はあまり続けたくない。
そんな私の思惑に気づいたのか、それとも私を抱える腕が疲れてきたのか、とうとうノエルが話を切り上げにかかった。
「元の世界に戻るかどうかは、ひとまず王都に帰ってからだ。それでハルカも納得している。アルスは任務をあきらめて単独でここを離れた。俺たちも今夜はもう休んで、とにかく無事に王都へ戻ろう」
ソティーニさんも、そしてその他の人達からも異論はないようだ。
「それじゃ俺たちは、宿の主人に話をつけてきますよ」
シズルさんとエリオットさんが、踵を返して宿の中へと戻っていった。
これだけ大騒ぎをしてしまったのだから、確かに宿の人達も気が気じゃないだろう。
「アルディナ様は、私がお部屋までお送りします。ソティーニ様、ナタリエさんも、参りましょう」
クインさんが騎士らしく、そう申し出てくれた。
彼女に促されて立ち去る間際、アルディナ様がこちらを振り返る。
「ハルカさん」
「は、はい」
「私……」
アルディナ様が、すがるように私を見つめた。
「……いえ。おやすみなさい」
けれど結局、その先の言葉は続かなかった。
・ ・ ・
もう戻っては来ないかもしれないという中途半端な覚悟で飛び出した寝室に、結局私は戻ってきた。
ノエルに丁寧な手つきでベッドの上へ下ろされた途端、私はどっと疲れを感じる。
それと同時に、改めてノエルと二人きりになったこの状況に緊張を覚えた。
どうしよう。
さっきはアルスさんが乱入してきたから、そこで話が立ち消えになったけれど。
私、何にも、答えていないままだ。
「ノエル。あの……」
「いいから、今日はもう寝ろ。クインが戻ってくるまで、側についててやるから」
それじゃあ余計に眠れないんですが。
そう思いつつ、ノエルに促されるまま、私はベッドの中にもぐりこんだ。
ノエルはベッドの脇に腰かけて、静かに私を見下ろしている。
いや、だから、眠れないってば。
「……あの晩、お前を無理にでも俺の手元へ連れ出していたら、今頃どうなっていたんだろうな」
独り言のように、ノエルは呟いた。
「あの晩?」
そう問いかけてから、定食屋の私室にノエルが乗り込んできた晩のことだと思い当たる。
差し出されたノエルの手を拒んだあの日から、ずいぶん遠いところまできたものだ。
「……きっと、今、あの日の晩に戻っても、私はノエルと一緒に行かないと思うよ」
「だろうな」
「だって私、自分の力で頑張ってみたいと思ったから。前みたいにノエルに護られてばかりじゃダメなんだって、そればっかり考えてた。全部がうまく行ったわけじゃなかったけど、自分で考えて動いたことが次の何かに繋がるって、すごく、嬉しかったな」
「ああ」
「私、元の世界にいた時も、ただ流されるように暮らしてたんだよね。孤児だったからさ、周りになるべく迷惑をかけないようにって、乗せられたレールの上から降りてみようだなんて、夢にも思ったことはなかった」
眠れないと思っていたのに、話しているうちに、どんどん睡魔が襲ってくる。
夢うつつのまま、私は口だけを動かしている。
「一度目の召喚では、できなかった。でも、今度は、できたんだ。自分の足で歩いてみて、遠回りもして、それでもこうやって、今、ノエルと一緒に過ごせているんだね。それが、すごく不思議……」
本格的な眠気に、私は抗うことができなかった。
深い深い眠りに落ちる寸前、ノエルの手が私の前髪に触れたのを、感じた。