58.退場のタイミングは難しいものです
色々と、ままならない。
せっかく『気脈』の歪みが正され、ようやく平穏が訪れるかと思われたのに。
どうやらあともう少し、やっつけなければならない問題が残っているようだ。
あれから間もなく日が昇り、皆は各々の部屋へと散って行った。
今日これから王都に戻るのならば、荷物の整理をしなければならない。
頭ではそう分かっていても、やる気を失った身体が言うことを聞いてくれず、私は亀の歩みで身支度を進めていく。
クインさんとの相部屋はさほど広くもない。のろのろとした支度は、それでも十分ほどで終わりが見えてきた。
その時だ。
部屋の窓から見える中庭の景色、その片隅に、二人の人影があることに気が付いたのは。
細い木々が目隠しをして、二人の姿がはっきりと見えるわけではない。
けれど、それがノエルとアルスさんであることはすぐに分かった。
二人きりで、何やら話し合っているようだ。
ノエルはこちらに背を向けるような立ち位置だったが、対峙するアルスさんの方は、その表情をかろうじて窺い知ることができた。――どうも、楽しく談笑しているわけではないらしい。
どころか、遠目に見ても明らかに緊迫した、険悪な雰囲気で話し込んでいる。きっと今後のことについて、色々と打ち合わせをしているのだろう。そしておそらく、話題の中には私の身の振りについても含まれている。
もともとアルスさんは、宰相のフラハムティさんに命じられて、私を連れ戻しに来たという立場である。ノエルたちに阻まれたために一旦はそれを断念した――というスタンスだけれど、実際のところ、彼の真意はよく分からない。本当にその気になれば、アルスさんはいくらだって私を連れていくことはできただろうに、そうしなかったのは何故なのか。
もし、巡礼が落ち着くタイミングを見計らっていたのだとすれば、今がまさにその時だ。
アルスさんは、いよいよ私を連れ出そうとしているのかもしれない。
だとすれば、ノエルは何を思っているのだろう。今、彼らは何を話しているのだろう。
(だめだ)
これ以上、熱心な視線を二人に向ければ、覗き見ていることに気づかれかねない。
私はそっと窓のカーテンを閉じ、瞼を伏せた。
・ ・ ・
昼過ぎには、王都へ向けて出発することになった。
アルディナ様も回復し、長時間の馬車移動も大丈夫そうだという。
自室で仮眠を取っていた私は、わざわざ部屋を訪れてくれたアルディナ様に寝ぼけた顔を晒すハメになってしまったが、とにかく、出発前に二人で少し話をすることもできた。
アルディナ様は、改めてこれまでのことを謝罪してくれた。
私を再召喚してしまったことも、『聖域』でのレイバーンさんのことも。
レイバーンさんのことについては、アルディナ様が謝るようなことでもないと思うのだけど、本人にとってはそういう訳にもいかないらしい。全ては自分の責任だと、アルディナ様は言い切った。
私は、もう謝らないでほしい、とだけ伝えた。
許す、と言えなかったのは、再召喚されたことについては、まだまだ複雑な感情が渦巻いているからだ。
どうしてこの世界の人達の都合に巻き込まれ、振り回されなければならなかったのかと、釈然としない気持ちもやっぱりある。でも、もう二度と会えないと思っていた人達と再会できたり、全く新しい人達と出会えたりと、嬉しい出来事があったもの確かだから。
アルディナ様は頷いて、最後に、ありがとうとお礼を言ってくれた。
そして――、私の今後の身の振りについて、彼女の口から何かを伝えられることはなかった。
・ ・ ・
王都までは、最短ルートを通って二日程度。
これまでの長旅を思えば二日なんて短いものだと思ってしまうのだから、私も随分旅慣れたものだ。これまでの人生、一番長い旅行でも、修学旅行の三泊四日程度しか経験したことがなかったというのに。
更に言えば、馬車移動の間の退屈を紛らわすのも随分と上手くなった。
初めの頃は、周りに目を向ける余裕が全然なくて、俯く時間が多かったりもしたけれど。
今では、遥か彼方の地平線まで続く青い空や白い雲を眺めてみたり、なだらかな丘陵を覆う草花に見入ってみたり。そんな風に、変わりゆく景色を楽しむ、ささやかな余裕も生まれてきている。
その日の夕暮れ時、一定の速度を保って走っていた馬車が、緩やかにスピードを落とし始めた。
私は馬車の中で軽く身じろぎをする。
目標の街に着くのは日が暮れた後になるだろうと聞かされていた。だからおそらく、今は休憩のために止まるのだろう。
本当に、移動ばかりの一日だった。
やがて止まった馬車から降り立ち、一つ大きく伸びをする。
私と同じ馬車に乗っていた巫女の世話役の女性たちも、わずかにリラックスした表情を見せた。……前巫女の私が馬車の中でずっと一緒だったのだから、彼女たちの気詰まり具合は相当なものだっただろう。申し訳ない。
せめて短い休憩の間だけでも皆の邪魔をしないようにと、私は少し離れたところへ移動した。もちろん、アルスさんの動向はチェックの上だ。彼は今、クインさんと言葉を交わしている様子だから大丈夫だろう。
巡礼の一向が立ち寄ったのは、馬で旅路を行く人々向けに設置されたらしい、簡素な休憩所のようなところだった。
と言っても、特段何の施設があるというわけではない。
平地に、日よけのためだろうか、背の高い木々がいくつか密集して植えられている。あとは、丸太でできた形ばかりのデーブルとイスが備え付けられている程度。それと、馬を繋いでおくための杭も数本並んでいる。
私はその中でも、ただ丸太を横に倒して置いただけ、という体の簡素なイスに腰掛けた。
「あの、お隣、宜しいでしょうか」
少し冷たい風に吹かれながらぼうっとしていた私は、不意に声をかけられ、思わず肩を揺らした。
顔を上げれば、一人の女性がやや緊張した面持ちで私の隣に佇んでいる。ナタリエさんだ。
「あ、もちろんです。どうぞ」
どうして急に、アルディナ様付の世話役である彼女が私に話しかける気になったのだろうか。まるで見当がつかなかったけれど、断るわけにもいかないので、何でもないように頷いた。
少し体を横にずらすと、お礼を言いながらナタリエさんが腰を下ろす。
「ハルーティア様と並んで座らせて頂く無礼をお許しください」
「いえ、そんな。私は普通に接してもらった方がありがたいので、全然気にしないでください」
あたふたと告げれば、ナタリエさんはぺこりと頭を下げた。
本当に、何故彼女が私なんかに。
だっていつものナタリエさんならば、一番にアルディナ様の側へ行って、旅の疲れを労い、お水の一つでも渡しているはずなのだ。周囲を確認してみれば、アルディナ様はここから相当離れた場所で腰かけ、他の世話係の人達に囲まれている。
「あの……、ハルーティア様」
「は、はい」
私は緊張と共に居ずまいを正した。
「ハルーティア様が仰ったお言葉、信じても宜しいのでしょうか」
「え?」
「もはや巫女になられるおつもりはない、と。そう言い切られたお言葉を」
ああ、そうか。
彼女の問いかけに、ようやく合点がいった。アルディナ様を信奉しているナタリエさんだからこそ、私の今後の出方が気になって仕方がなかったんだ。
それで、私の真意を確認しようとこうして声をかけてきたのか。
「もちろんです。私はもう、巫女じゃありませんから。アルディナ様がいれば、私なんて必要ないと思っています。誰に、何を言われようと」
ナタリエさんを安心させたくて、精一杯明るい声でそう答えた。……けれど。
「――ありがとうございます」
ぎこちない表情のまま、ナタリエさんはわずかに頷くようにして頭を下げた。
「それを聞いて安堵いたしました。けれど、ソティーニ様が仰られたように、ハルーティア様のご意思とは関係なく、あなた様を巫女の座に引き戻そうとする輩がいるというのも、やはり事実なのですよね?」
「そ、それは。何とも言えない……と、思いますが」
ナタリエさんの核心をつく質問に、今度は明るく頷くわけにもいかず、つい口ごもった。
私を巫女の座に引き戻そうとする可能性がある人物といえば、真っ先に思い浮かぶのは、やはり宰相のフラハムティ様だ。そして、彼が一筋縄ではいかない人だというのも間違いない。
でも、彼は一度だって、私をもう一度巫女にすると明言したことはない。言ってしまえば、私が勝手に警戒しているだけで、そのつもりがあるのかどうかなんて分からないのだ。
「であれば、ハルーティア様。どうか、王都に戻る前に、元の世界へご帰還頂くことはできませんでしょうか」
ここからが本題だと言うように、ナタリエさんは私にしっかり向き直った。
「え……」
「王都へ戻れば、色々と画策する者たちに狙われてしまうのならば。いっそ、今のうちに」
切羽詰まったその声に、私は何も返せなかった。
喉の奥で、言葉が詰まる。
「あなた様を呼び出されたのがアルディナ様なのでしたら、アルディナ様さえいらっしゃれば、あなた様を元の世界へお返しすることが可能なはずですよね?」
「それは……」
多分、その通りだ。
私は眩暈を覚え、右手で顔を覆った。
「おうい、お二人さん、そろそろ出発しますよ!」
遠くから、ガンヌさんの良く響く低い声が聞こえてきた。
私とナタリエさんは、はっとして彼らの方へ顔を向けた。もう、皆集合している。話し込んでいるのは私達二人だけだった。
「ハルーティア様。どうか、どうかお願い致します」
ナタリエさんは素早く立ち上がり、私に向かって一礼すると、彼らの輪の中へと走り去ってしまったのだった。
・ ・ ・
夜遅くになって、ようやく一行は目的の街へと到着した。
私が巫女だった頃には立ち寄ったことのない街だ。けれど今回の巡礼では最初から予定していたルートだったらしく、宿も既に手配済みで、すんなり部屋に通された。
レイバーンさんは特に問題を起こすこともなく、静かに一行につき従っている。
ただし、皆を刺激しないためか、今日一日で彼が人前に姿を見せることはほとんどなかった。私が彼を見かけたのは、今朝街を出発する時に馬車へ乗り込んだ時と、道中何度かあった馬車休憩のうちの一度きりだ。
今夜の宿に着いた時も、表情のないレイバーンさんは、視線を一度も上げることのないまま無言で宛がわれた部屋へと消えていった。当然、彼の部屋の前には見張りがつく。
残りのメンバーは、まもなく各自の部屋へ引き上げていった。
夕食の時間帯も既に過ぎていたので、せめて夜食にと、宿のご厚意でサンドイッチのようなものがそれぞれに配られたのがありがたい。私もそれを受け取って、同室のクインさんと自室で遅い夕食を頂いたのだった。
結局、サンドイッチは半分近く残してしまった。
空腹だったはずなのに、食べ物が喉を通らない。理由は自分でも分かっていた。昼間のナタリエさんの言葉が、思いのほか私に重くのしかかっていたからだ。
もう間もなく、私は元の世界に帰らなければならない。
それは、ちゃんと分かっている。
でも、どんなタイミングになるのかまでは分からなかった。できることならば、定食屋のご主人達に会って直接お礼を言ってからにしたいと思っていたけれど。
(それじゃあ、遅すぎるのかもしれない)
このまま私が王宮に戻れば、いろんな人に迷惑がかかってしまうのだろう。元巫女であるという事実は、ただそれだけで、皆を混乱の渦に巻き込んでいく。
(それくらいなら)
私から、元の世界に戻りたいと、申し出るべきなのではないか。
アルディナ様は、きっと私を再召喚したことに後ろめたさを感じているから。彼女の方から、私に帰ってほしいとは言いづらいのかもしれない。
「ハルーティア様、顔色が優れないようですが」
ベッドの上で膝を抱え込んで黙り込んでいた私に、クインさんが声をかけてくれた。クインさんは、変わらずずっと私に優しい。でも、私が元巫女だと知られた時から、わずかに壁が生じたことに、気づかないわけにはいかなかった。
私は、この世界にいる限り、ただの人として過ごすことはできない。
「食欲も落ちていらっしゃるようにお見受けしましたよ」
「あ、いえ、大丈夫です、ちょっと疲れが出てきたみたいで」
「今日は、もう休まれた方がいいのでは?」
「そうですね……」
私は曖昧に笑みを浮かべつつ、逡巡した。
「その前に。少し、アルディナ様と話をしてきます」