52.ささやかな昼食会
翌日は、昼前から再び激しい雷雨に見舞われた。
明け方に一度上がっていた雨は、その分空の上でたっぷりと準備を整えていたらしい。建物の屋根を突き破るのではないかと心配になるほどの激しい雨音に、窓を開いて空を覗く気にもなれない。
今日は、この街を発つ予定だったのに。
この分では、宿から出ることすらとても叶いそうにない。
当然、昼の出立は延期になった。
せっかくアルディナ様が頑張ろうと奮起していたのに、出鼻を挫かれたようでいい気持ちはしない。この雨が気脈の歪みのもたらした災害の一つならば、もうこれ以上彼女を傷つけないでと抗議したいくらいである。
そんなとりとめのないことを考えながら、時を過ごす。
することもなく、何とはなしに窓際へ腰かけていた私は、雨音を聞きながらぼんやりと時間が過ぎゆくのを待っているのだった。他の皆も、ほとんどが居間に集まっていたけれど、各自思い思いに過ごしていて、会話はない。
物憂げだけれど、どことなく穏やかな時間。
しばらくして、宿の厨房から得も言われぬ美味しそうな匂いが漂ってきた。
何もしないままに、もう昼時なのである。
せめて配膳の準備を手伝おうか、私はそう思い立って腰を上げた。
厨房を覗き見れば、宿の少ない人数で慌しく立ち回っているのが見える。
「あのー、何かお手伝いできることはありませんか?」
「あっ、いいえそんな、とんでもない。どうぞごゆっくりなさっていてください」
遠慮がちに声をかけてみたものの、慌てたように宿の主人たちから断りの言葉が返ってくる。まあ、それもそうか。私みたいな素人が首を突っ込めば、逆に邪魔になってしまいそうだ。
仕方がない、やっぱり居間に戻って大人しくしておこう。
「おい、こんなところで何やってるんだよ、あんたは」
肩を落とした私に、不意に後ろから声がかけれられた。
エリオットさんである。
「あ、お疲れ様です。いや、あまりに暇だったので、宿の方のお手伝いでもできないかなぁと思って」
「そんなもの、却って迷惑になるだろう。大人しくしておけよ」
「……はい。今まさにそれを実感して、退散するところです」
人様にまで指摘されてしまっては立つ瀬がない。私は引きつった笑みを浮かべた。
「第一、この状況下で、よく一人出歩こうなんて思えるな。その神経が信じられない」
「え?」
「あのアルスとかいう騎士に連れ去られそうになったばかりだろう。それが嫌で腹を切る切らないの騒ぎまで起こしたくせに、今こうして一人でうろつく危険を考えたりはしないのか?」
「う」
救いようのない能天気バカ、と言われてしまったような気がして、私は小さく背を丸めた。
でも、実際のところ、今の私の中にそれほどの危機感はない。
何と言えばいいのだろう。アルスさんは、今は大人しくしていると言っていたし、その言葉に嘘はないような気がするのだ。気がする、というだけで、確証があるわけではない。でも、短い付き合いながらも、アルスさんの言動の温度差のようなものは、何となく掴めてきたような気がしている。今のあの人は、恐らく本当に私を強制連行するつもりはない。
そんな風に考えてしまうところが、やっぱり救いようのない能天気バカなのだろうか。
「何かあれば、ノエル様が助けに来てくれるとでも思ってるのか? 残念だが、あの人は今、アルディナ様の側についているぞ。あんたのところには来てくれない」
「……分かってます。ノエル様にどうにかしてもらおうと思ってるわけじゃ、ないんです。それに、アルスさんの件の時だって、助けに来てくれたのはエリオットさんとシズルさんだったじゃないですか」
言いながら、まだきちんとお礼を伝えられていなかったと思い当たる。
「その、あの時は本当にありがとうございました。おかげで助かりました。ええと、今頃大変恐縮なんですが」
「いや、別に礼を言わせたかったわけじゃない」
「そうそう、お礼なんて腹の足しにもならないし、くれるならもっと他のものが欲しいなぁ。例えば、君とノエル様の関係とか、君が何者なのかとか、そういう情報なんかをさ~」
と、急に別の男性の声が割って入ってきたので、私とエリオットさんは目を点にした。
「シズルさん」
いつの間にやら私たちの背後に忍び寄っていたのは、私をアルスさんから助けてくれたうちの一人、シズルさんであった。彼は、細い瞳を笑みで更に細め、ひょいと片手を挙げる。
「びっくりした。何ですか急に」
「え? 俺たちに感謝の気持ちを示したいって話が聞こえてきたからさ?」
相変わらずの地獄耳だな、この人は。
「だから、気持ちの代わりに話を聞かせてもらえたらなーって思って」
「いや、私の話だって、全然腹の足しにはならないじゃないですか」
「知的好奇心は満たされるじゃん?」
ああ言えばこう言う人だ。
これまで私の周りにはいなかったタイプの人だから、切り返し方が分からない。口をパクパクさせていると、エリオットさんが助け舟を出してくれた。
「お前は、そうやって何にでも首を突っ込むな。ノエル様に睨まれるぞ」
「経験者は語るってヤツだね」
「うるさい」
あああ、ますます雲行きが怪しくなっていく。
「……とまあ、冗談はこの辺にして。二人を呼びに来たんだよ。すぐに昼飯だから全員集まれってさ」
言いながら、シズルさんは肩をすくめた。
昼食の知らせ。それだけならば普通のことのように感じられる。けれど、実際のところは非常に奇妙な話だった。
だっていつもならば、世話役や警備兵の皆は、お互い声を掛け合うでもなく何となく集まって何となく一緒に食べるという感じなのである。わざわざ(しかもシズルさんが)召集をかけるだなんて、今までには一度もなかったことだ。
そんな私の疑問は思い切り顔に表れていたのだろう。
シズルさんは苦笑を浮かべて言葉を続けた。
「アルディナ様が、皆で一緒に食事がしたいって仰ってるらしい」
「え!」
私とエリオットさんは顔を見合わせる。
「な……何でですか?」
「知らないよ。本人に聞いてよ」
「それはともかく、本当のことなら、急いで食堂へ向かわないとまずいぞ。アルディナ様をお待たせするわけにはいかない」
エリオットさんに諭され、それもそうだと気持ちを切り替える。
「私たちが使わせてもらってる食堂ってことでいいんですかね」
「そりゃそうでしょ? アルディナ様は今朝まで私室で食事してたみたいだから」
話しながら、私たちは小走りに廊下を戻る。
そうして食堂に飛び込んでみれば――果たして、ニコニコと上機嫌に席に着くアルディナ様と、緊張でガチガチに固まっている皆さんが、異様な空気でもって私たちを迎えてくれたのだった。
・ ・ ・
それは不思議な光景だった。
大きめの丸テーブルが二つ、アルディナ様は、そのうちの一つの真ん中辺りに座っている。
その両隣には、ノエルとソティーニさん。あとは、アルディナ様の護衛兼世話役であるクインさんや、警備兵のリーダーであるガンヌさん、その他の人々が少しという感じで席はほぼ埋まっていた。
もう一つのテーブルは、この道中であまり関わりのなかった人たちが中心に座っている。
そんな中、ちゃっかり一員として収まっているアルスさんの姿も発見。そのアルスさんにおいでおいでと手招きされて、私は観念してその隣へと腰掛けた。
「面白いことになったよね~」
気楽な調子で彼に声を掛けられ、私は何とも返事をすることができなかった。
だって、何が何だか分からない。これはどういう状況なんだと混乱しながら視線を彷徨わせると、向かいのテーブルのノエルと目が合った。
(うっ)
――しまった。
今、ものすごい勢いで目を逸らしてしまった。
(だって、何だか気まずいんだもん!)
誰にともなく、心の中で言い訳をする。
何をそんなに意識することがあるんだと自分で呆れてしまうが、今更もう一度ノエルに視線を送る勇気も出てこない。それでも私は、どうしても気になることがあって、恐る恐る周囲を見渡した。
そして確信する。
レイバーンさんが、いない。
たまたま、まだ来ていないだけなのかもしれない。
けれど、シズルさんが私たちに声をかけてくれたように、誰かが彼を呼びに行っている様子もなさそうだ。
「レイバーン殿なら、来ないみたいだよ」
戸惑いの滲む私の視線の意味を正確に理解したらしいアルスさんが、こっそりと耳打ちしてくれた。
「どうして?」
「巫女様が俺たち下々の人間と一緒に食事をするなんて、許せないってさ」
なるほど。あの人ならば、いかにも言い出しそうなことだ。
「それでもアルディナ様は、この食事会を強行した。だからレイバーン殿は、抗議の意味も含めて不参加を決め込んだってわけ」
「そんな……」
そうと分かってアルディナ様を見てみれば、笑顔の中に寂しさも感じられるような気がしてきた。彼女の意図は分からないけれど、せっかくなら、全員で食卓を囲みたかったんじゃなかろうか。
「皆さん、集まってくれてありがとう」
柔らかな笑みで一同を見渡したアルディナ様は、そう口を切った。
「突然ごめんなさい。急なことで、皆驚いただろうと思うわ。でも私、前からこうして皆で食事をしてみたいと思っていたの。一人で食べる食事は味気なくて寂しくて。……これまでは、それも巫女の勤めと思って黙って従っていたけれど、もう、そういうのは止めたいの」
そこでふと、アルディナ様は目を伏せる。
「……与えられた役目を果たさず、自分の希望ばかり主張するようなことはしたくないわ。でも、こういう機会もあまりないし。あの、もちろん、今日のことで皆が後から咎を受けるようなことはないと約束します」
「ただの昼飯なんですから、そんなこの世の終わりに立ち向かうような顔をしなくても大丈夫ですよ。それこそ折角の機会なんですし、楽しくやりましょう」
不意に、隣のアルスさんが軽い調子で声を上げた。
私をはじめ、一同はぎょっとしてアルスさんに視線を集中させる。
「だよね、ハルカちゃん」
うわ! ここで私に話を振る!?
と抗議したいところだったが、それよりも今はこの場を切り抜ける方が先決である。
「え、ええと、確かに、アルディナ様さえよければ、こういうのもいいんじゃないかなと」
私は、蚊の泣くような声で同意した。
いや、本当は、アルディナ様の気持ち、痛いほど分かるんだよ。だって私も同じだったんだから。
一人の食事がさびしくて、オトゥランドさんに同席してもらっていたくらいなのだ。だからこの昼食会も、いわゆる無礼講という形で、皆でワイワイと楽しめたら一番いいと思っている。
でも、今の私はこのメンバーの一番下っ端なんだもんなぁ。
どの口が「無礼講で」なんて言えるんだ、という話だし……。
「そうですわね。アルディナ様が望んでいらっしゃるのなら、何の問題もありませんわ」
そこへ、思いもがけずソティーニさんの援護が入った。
ツンとすまし顔の彼女の隣で、アルディナ様がぱっと表情を明るくする。そのタイミングで、宿の給仕の人たちが美味しそうな食事の数々と共に部屋へと入ってきた。
「まあ、美味しそうね!」
アルディナ様が、目の前に並べられていく食事を前に、瞳を細める。
「こんなに美味しそうな食事は、本当に久しぶりだわ」
独り言のように、アルディナ様は呟いた。
そんな彼女のささやかな呟きに、私は何だか泣きたいような気持ちになった。