51.私は元の世界に帰りたい
――全てに片がついた後、どうするつもりだ?
ノエルの質問の意味が、一瞬、理解できなかった。
ぽかんと口を半開きにして固まって、それでも頭の中では言葉の意味を噛み砕こうと、思考回路を必死に働かせる。
え、何、いきなりどういう話?
「悪い。抽象的な聞き方になった」
ノエルはわずかに瞳を伏せた。
「お前をこの世界に呼び戻した人間が判明して、元の世界へ戻れるとなったら。やっぱりお前は、元の世界へ帰りたいのか?」
元の世界へ――。
帰る。
当たり前だ。
それ以外に、答えなんてあるはずがない。
なのに何故、ノエルは今更そんなことを言い出したのだろう。
混乱しすぎて、すぐには言葉が出てこなかった。
「そりゃ、帰るよ」
私は未だ驚きから抜けきれないまま、それでもどうにかそう呟いた。
「……もちろん、帰る。そのために、今、頑張ってるんだから」
「そうか」
ノエルは頷いた。
その表情に、驚きは露ほども見えない。私の答えなんて、初めから分かりきっていたのか。
「お前、孤児だって言ってたよな。義理の両親とは、うまく行っているのか」
「え、うん。よくしてもらってる」
「お前のことだから、向こうに友達も多いんだろうな」
「そんな別に、多くはないよ。むしろ、少ない方だと思うけど」
答えながら、ますます私は訳が分からなくなってくる。どうしてノエルは、いきなり私の世界の話なんて始めたんだろう。
「彼らのために、元の世界へ帰りたいのか?」
義両親や、友達のために――。
そうだ、とはすぐに頷けなかった。
何のために帰るのか、なんて、考えたこともなかったから。
だって、帰ることがそもそもの大前提だったのだ、前回も、今回も。そこに理由なんていらなかった。むしろ私にとっては、一時的とはいえ、この世界に居座ることの方に、しっかりとした理由が必要だった。だから、前回はまだよかったんだ。巫女として求められ、私の存在に意義があった。
でも、今は。
私は何故ここにいるのか――その意味が、分からない。
今ようやく、分かりかけようとしているところだ。
そして全てを理解する瞬間は、きっと私の帰還と同時期になる。
黙ったままでいる私に、ノエルは苛立ちを見せることはなかった。
ただ静かに、言葉を続ける。
「向こうの世界には、こっちにはない便利な道具が色々あるんだろ。なんだっけ、馬車の代わりに自動車、だったか。それとか、飛行機とやらで、魔力を使わず空も飛べるんだったよな」
「よく、憶えてるね」
「憶えてるよ。お前の話は、色々とな」
そんな大層なことを話した覚えはないのだけれど、「色々」って他にはどんなことだろう。自分に覚えがないから、ちょっとだけ不安になる。
「そういう便利なものがここにはないから、元の世界へ帰りたい?」
「そうじゃないよ」
「じゃあ、元の世界に恋人でも置いてきたか?」
「――っ、あのねえノエル、さっきから何の話?」
「お前が元の世界に帰りたがる理由を探してる」
訳が分からなさ過ぎて、頭が痛くなってきた。
「帰るのに理由なんて必要ないでしょ。だって、ここは世界が違うんだから。異世界なんだよ、異世界に骨を埋めるって、普通に考えてあり得ないでしょ? ノエルだって、逆の立場だったらどうするの。突然何の前触れもなく私の世界に連れてこられたら、帰らなきゃって思わない?」
「そうだな――、そのままそっちに居座ってもいいかもな」
だめだ。
今日のノエルとは話ができない。
「言っておくけど、魔術が使えない、魔道具もないって、相当不便なんだからね。それに、国民全員きっちり身元の管理をされてるから、突然降って湧いた人間に、まともな職なんて見つけられっこないし。都会は空気も淀んでて、夜空に星もろくに見えないし、緑だって少ないし」
「そんなところなら、お前だって帰らずこっちに残ればいいんじゃないか?」
ああ言えばこう言う!
「一応、あっちはあっちなりにいいところもあるから!」
「じゃあ、俺もそのいいところを楽しめるだろう」
「というかノエルこそ! この世界に置いていけないものが色々あるでしょ? 国の出世頭で、巫女様の護衛でもあって。そうだよ、アルディナ様を置いていけるわけがないじゃない」
「俺がいなくなれば、また別の人間がアルディナの護衛に就く。それだけだ」
何だ、その言い方。
私は人事のように嘯くノエルに腹が立った。
「ノエル、さすがにその言い方はひどい。自分の恋人を、簡単に捨ててもいいみたいなのは」
「は? 恋人って?」
「アルディナ様! ……と、付き合ってるんだよね?」
やや雲行きが怪しくなってきたので、私は語尾を若干弱めた。
あれ、なんだかおかしいぞ。
「――付き合ってない。どこでそんな話を拾ってくるんだ、お前は」
「え!? だって、街の皆がそう言ってて」
「街の皆が、俺たちの何を知ってる?」
「違うの?」
「違う」
言いながら、ノエルは心底呆れたような顔をした。
え、え、え、ノエルとアルディナ様って、付き合ってなかったの!?
だけど、お互い気を許しあってる風だったし、仲睦まじく世間話をしてるところだって何度か見せつけられたし。世間話って……まさかただの世間話だった?
「お前、いつからそう思ってた?」
「……再召喚された数日後くらいに、街で聞いて」
「どうりで」
納得だ、と言わんばかりにノエルは頷いた。
「お前の考えてることが全然分からなかったが、今ようやく、少し分かった気がする」
いや、そんなこと言われても。
今度は私の頭が真っ白だ。
「今更こんなことを説明する羽目になるとは思わなかったが、はっきり言っておく。俺はアルディナとは付き合っていないし、そういう感情も持ち合わせていない。アルディナの面倒を見ているのは仕事だからであって、それ以上でもそれ以下でもない。それは、向こうだってよく分かってる」
ノエルは少し怒っているのかもしれない。
「とりあえず、まずはそれだけでも理解しろ。頭の中を切り替えろ。じゃなきゃ、それより先の話なんて何もできない」
それより先の話? まだ聞かされていない何かがあるのか。
その時、不意にノエルが腰を上げた。
片手で弄んでいたティーカップをチェストの上に置き去りにして、こちらへと歩み寄ってくる。
私も反射的に立ち上がって、思わず自分の空のカップを胸の前で強く握った。
「――」
ノエルは私の目の前で立ち止まった。
大きな手がこちらへ伸びてきて、握り締めていたカップを緩やかな手つきで取り上げられる。
「警戒するな、何もしない」
そう言われると、自意識過剰みたいで恥ずかしい。
「いいから、今日はもう寝ろ。明日は移動もあるからな」
そう言うと、ノエルは私のカップと、それから自分のカップを手にして踵を返した。
「今更焦っても仕方がないのは分かってる。でも、お前はもう少し俺のことも考えろ」
「……」
「じゃあ、お休み」
ノエルは行ってしまった。
パタン、と扉の閉まる音が、やけに大きく響いた気がした。
・ ・ ・
――そして、その晩私はほとんど一睡もできなかった。
翌朝。
完全に寝不足な頭で、私は窓の外からかすかに聞こえる鳥の鳴き声を聞いていた。
なんだろう、この既視感。
私はベッドの中で仰向けに横たわりながら、ほぼ一睡もできなかった昨日一晩を振り返っていた。
前にも同じようなことがあったなあ。
ノエルめ、いつも夜の気の緩んだタイミングを狙ってやってきたりして。おかげで、そのあと全然眠れないし、あれは夢だったんじゃないかって、朝になって変に思い悩まないといけないじゃないか。
私は重い体で寝返りを打った。
隣のベッドで眠るクインさんは、すやすやと可愛らしい寝息を立てている。
昨日、ノエルが立ち去ってまもなく戻ってきた彼女は、「全て分かってます」みたいな顔でニコニコしていたけれど、具体的な詮索はしてこなかった。でも、むしろ何か言ってほしいくらいだった。ノエルが一体何を言いたかったのか、客観的意見を仰ぎたかったのに。
だって、そうだろう。
ノエルとアルディナ様が付き合っていないというのは分かった。
でも、それを理解して、じゃあその先の話っていうのは一体なんだったのか。今更焦っても仕方がないとノエルは言っていたけれど、それも意味が分からない。
本当にもう、分からないことだらけだ。
それなのに、私の鼓動は早鐘のようにどくどくと大げさに響いて、否が応でも気持ちを煽り立ててくれる。
変に、期待しそうになってしまう。
ノエルは、ただの義務感とか同情心とかじゃなく、私を助けてくれているのだろうか。
そこに、もっと近しい感情はあるのだろうか。
もっと近しいって――。
(あああ、もう!)
もう少し俺のことも考えろ、だなんてノエルは言っていたけれど、そんなの、卑怯だ。何のヒントもなくいきなりそんなことを言われたら、少しどころか際限なく思いっきり考えてしまうに決まってる! 何だか腹が立ってきた!
(ノエルがあんなことを言わなければ、何も悩むことなんてなかったのに)
あともう少しで、巡礼の旅が終わって。
何らかの答えが、アルディナ様にもたらされて。
私にも、この再召喚の理由が語られたことだろう。そうしたら、それでよかったんだ。
ノエルと私の間の全ては、最初の召喚で終わったこと。
そのはずだったのに。
(くそう、完全にぶり返しちゃったじゃないか)
どうしてくれようか。
この、ノエルへの恋心。