46.あなたは私の敵ですか?
「いやあ、いい走りっぷりだったね。ちょっと本気で見失いそうになって焦ったよ」
「ア、アルスさん……」
私はよろよろと顔を上げた。
以前と変わらない、明るい笑顔のアルスさんが、私のすぐ側に佇んでいる。
――もう駄目だ、終わった。
「大丈夫、立てる?」
そう言いながら手を差し出すアルスさんから、なけなしの抵抗で目を逸らす。そしてふらつきながらも自分の力で立ち上がり、改めて彼と向き合った。
そのアルスさんは、全く呼吸を乱すことなく、更に言えば何の緊張感もなく、のほほんと私に視線を送っている。白いシャツにベージュのパンツ、そしてブーツと、カジュアルな格好は、初めて街中で出会った頃と同じだ。
「久しぶりだね、元気だった? ……ていうか、その走りっぷりを見ると、オトゥランド殿の屋敷にいた時よりむしろ元気そうだね。安心したよ。まさかこんなところまで来てるなんて、びっくりもしたけど」
「……そっちこそ」
「あはは、だよね~」
くそう、爽やかな笑顔が癪に障る。
「でも、俺も大変だったんだよ。こっちは自力でここまで来ないといけなかったからね。結界の張られた巫女巡礼の場周辺への移転術なんて、ルーノさんくらいしか使えないからさ。あの人、俺のことは送ってくれなかったし」
暗に、私がどうやってここへ来たのかお見通しだと告げられる。
しかし、それもそうだ。突然私がオトゥランドさんの屋敷から消えたとなれば、フラハムティ様だって放ってはおかないだろう。ルーノさん、勝手に私を屋敷から逃がしたこと、責められたかな。まあ、あの人の場合、誰に何を言われようが全然堪えたりはしなさそうだけれど。
「どうだった? 久々の巫女巡礼は」
「そんなことより、私のこと、どうするつもり?」
呑気に近況報告なんてするつもりはない。アルスさんを睨みつけて本題を切り出すと、彼は眉尻を下げつつ、ひょいと肩をすくめた。
「そんなに怖い顔しないでよ、久しぶりに二人でゆっくり話せる機会なのに。こんなところで立ち話もなんだしさ、どこかでお茶でもしない?」
「するわけないでしょ」
人影のない、閑散とした裏路地。
私の苛立ちを含んだ声だけが、空しく響き渡る。
「まあ――どうするかと言えば、君を王都に連れて帰る以外にないわけだけど」
アルスさんは、あくまで軽い調子を崩さない。
「できれば、君にも気持ちよく同行してもらいたいんだ。ハルカちゃんが怒ったり悲しんだりしてるのを見るのは、俺もつらいし」
「だったら、見逃してよ」
「ごめん、それはできない」
「……」
笑顔のままバッサリと切り捨てられた。分かってはいたけれど、アルスさんを説得するのはとても無理そうだ。
かといって、もう一度逃走にトライしても、ものの数秒で捕まってしまうだろう。
もう諦めるしかないというのは、分かっている。
だけど――。
「ハルカちゃん、ごめんね。でも、無理なんだよ」
左手のブレスレットに指先で触れた私に、アルスさんは首を振った。
「その腕輪の守護機能は、発動しない」
――見抜かれてた!
「それ、オルディスさんが渡したものだろ? 無差別に機能するものじゃなく、ちゃんとオルディスさんの管理下に置かれてる。今君が対峙しているのが俺だってことは、あの人も理解しているだろうからね。例え俺が無理やり君を連れ去ろうとしても、その腕輪が君を助けてくれることはない」
何、それ!
ああもう、何だか色々腹立つ!
私の味方はどこにもいないの!?
「……フラハムティ様のところに戻ったら、私はどうなるの?」
「どうもならないさ。君に危害が加えられることはない。ただ静かに生活してもらえれば」
「結局、フラハムティ様は何をしたいの」
「『気脈』の歪みを正し、世界をあるべき状況に保つ。そのための最善の道を探っていて、それには君の協力が必要なんだろう」
「でも、私、何の力も持ってないよ。何をしてほしいとも言われてない。私自身、全然訳が分かってないのに――そんなの、『協力』を求められてるなんて言えないでしょ?」
「そう感じるのも無理はないと思う。でも、君は特別な存在なんだ。ただそこにいるだけで、大きな意味がある。それが、最も重要なことなんだよ」
アルスさんが、らしくもなく真面目に私を諭そうとしているのが、また腹が立つ。
「それって、私は道具か駒でしかないって言ってるのと同じだよね?」
「ハルカちゃん」
アルスさんの腕が伸びてくる。私は反射的にそれを振り払おうとしたが、逆にその左手を掴まれてしまった。
「痛いよ!」
大げさにわめいてみたが、離してくれるつもりはないようだ。
「ごめんね、ハルカちゃん。手荒なマネはしたくないんだけど。恨み言なら、帰りの馬で君の気の済むまで聞かせてもらうから」
私の手首を掴む彼の右手が、仄かな光と熱をまとった。
――魔術を使うつもりなんだ!
「やだっ」
そうと気づいた私は、身をよじって激しく抵抗した。だが、こういう場面に慣れきっているに違いないアルスさんから逃れることはできない。
アルスさんが何か呪文のようなものを呟いたのが、わずかに耳に届いた。同時に、体が鉛のように重くなる。目の前も少しずつ暗くなり――嫌だ、フラハムティ様のところには戻りたくない!!
その時だった。
アルスさんに掴まれたままだった私の左手が、彼の術を飲み込むほどの青白い光を放った。正確に言えば、私の左手ではなく――オルディスさんからもらったブレスレットだ!
「!」
青白い光は、稲妻にも似た火花を散らした。
アルスさんは気圧されて私から手を離す。目に見えない重圧から解放された私は、一気に体が軽くなるのを感じた。アルスさんの魔術が解けたんだ!
「おいおい、マジかよ、オルディスさん……」
引きつった笑みを浮かべるアルスさんをよそに、ブレスレットの放つ雷光は止まなかった。むしろそれはどんどん大きくなっていき――天へ向かって、一際大きい稲妻を走らせた。
「うわっ」
「きゃっ」
晴天に伸びた稲妻は、すさまじい音とともに、町中にその存在を轟かせた。
その稲妻の源であるブレスレットは、私を傷つけることはなかったけれど、それでもアルスさんは近寄ることができないようだ。こちらに向かって伸ばされた彼の手は、幾度となく雷光により阻まれる。はっきりと、ブレスレットはアルスさんを威嚇していた。
「ハルカちゃん、そのブレスレットを外すんだ。このまま巫女巡礼に参加しても、君の助けには絶対ならない。むしろ、君が呑み込まれてしまうぞ。今は理解できなくても、俺についてきてほしい。このままじゃ君は――」
爆ぜる光の向こう、アルスさんの必死の説得が遠い。
私は一歩、後ずさった。今なら彼から逃げ切れるかもしれない。
(オルディスさん、助けてくれてありがとう。あなたのこと大嫌いだったけど、私の中の好感度ランキングをかなりの勢いで駆け上ってます!)
おざなりな感謝の言葉を胸の中で唱えながら、私は雷光を身にまとったままその場を駆け出した。
「ハルカちゃん、待つんだ!」
しかしアルスさんも諦めない。
ああもう、諦めが悪すぎるよ、この人!
青白い小さな稲妻が幾度となく彼を攻撃しているのに、それをものともせずにアルスさんは私に手を伸ばし続ける。そしてその手に再び捕まった瞬間、何かが爆ぜるような音が耳元で響いた。いやだ、アルスさんの手が、雷の攻撃のせいでどんどん傷だらけになっていく。
「ハルカちゃん、君はいったいどうしたいの?」
アルスさんは、自身の手が傷ついていることなど全く厭わず、落ち着いた声で私に問いかけてきた。
「このまま巫女巡礼に混ざって、どうするつもりなんだ?」
「ど、どうするって、そんなの」
私が教えてほしいくらいだ。
「ハルカちゃんは、フラハムティ様の『道具』になるのが嫌だから、こうして逃げているってことだよね。でも、『道具』になることの何が悪いの? それで救われるものがあるなら、それでもいいとは思わない?」
「だ、だけど。本当に何かが救われるのかもわからないのに。フラハムティ様の考えてること、読めなさ過ぎて、とても信じられない」
「なら、こんな風に逃げ回っていないでフラハムティ様ときちんと向き合ったら? 真正面から、何のために自分が必要なのか聞けばいい」
「私だって、フラハムティ様と話し合おうとしたよ! でもダメだったじゃない。それはアルスさんだってよく知ってるでしょ? フラハムティ様は、私のことなんて全然取り合ってくれなかった!」
必死に弁明する自分が、ひどく情けなく感じられた。
喚くようにして言い繕ってしまうのは、自分自身、後ろ暗い気持ちがあるからだ。このままアルディナ様やノエルにくっついて旅を続けたところで、皆の荷物になるだけで、事態は何も好転しない。分かってるんだ、そんなこと。
「ノエルに何か言われたの?」
思いがけずノエルの名前がアルスさんの口から飛び出して、私は体をこわばらせた。
いまだ、アルスさんに捕えられた私の手――ブレスレットからは、火花が止まない。
「あいつが何を言おうとも、今のあいつに君を守れるとは思わない。ノエルはやめて、俺について来なよ。俺なら、ちゃんと君を守ってあげられるから」
「フラハムティ様の命令が変われば、守ってなんかくれないくせに」
「まあそれは、そうだけど。でも多分、君を傷つけるような命令は下されないよ」
何とも頼りがいのない言葉である。
「――アルスさん」
私は渾身の力を振り絞って、アルスさんに掴まれたままの手を振り払った。
ようやく、稲妻は鳴りを潜めた。
ブレスレットは、沈黙した。
「私、誰かに守ってもらいたいわけじゃない。むしろ、私に守れるものがあるなら、私が守りたいと思うよ。だって、この世界には、大切な人達がたくさんいる。……でも、今の私には、もうなんの力もないから、それもできなくて」
私はぐっと拳を握った。
「かつて巫女だったっていう肩書だけでも役に立つのなら、それでもいい。だけど、それで守れるものは一体何なの? 分からないまま、誰かにいいように利用されるのは嫌だ」
アルスさんはふっと笑った。
「昔、巫女だった君は、仕事熱心ではなかったけど、最後には頷いてくれる素直ないい子だったらしいけど?」
「私にだって色々あったの。多少はひねくれもするよ」
「――そこで何をしている!?」
その時、鋭い声が私たちの間に割って入った。
どこかほっとしたのは、その声に聞き覚えがあったからだ。
振り返ると、警備兵のエリオットさんとシズルがこちらに駆け寄ってくるところだった。