43.女心を探るのは、霧の中を彷徨うようなもの
翌日から、アルディナ様の本格的な祈祷が始まった。
朝も早い時間にノエル達と宿を出たアルディナ様は、そのまま教会の『聖域』に単身閉じこもり、ひたすら神への祈りを捧げているらしい。
らしい、と伝聞調なのは、もちろん私はそのお供に選ばれなかったからだ。
アルディナ様と一緒に教会へ向かったのは、ノエルと警備の兵士達、それに神官のレイバーンさんとソティーニさんである。ただし神官の二人も、まもなく宿へと戻ってきた。あまり大人数で側に控えて、アルディナ様の集中を乱すことがあってはならないという配慮だそうだ。
このままアルディナ様は、夜まで戻らない。
途中、休憩代わりに食事を挟むようだが、その準備も全て教会側でしてくれるという。
そうなると、アルディナ様のお世話係である私やクインさん達は、完全に手持無沙汰となるわけだ。つまり、全くやることがない。ではその間に町の観光でもしてこよう、なんて発想を持ち出す人は当然ながら一人もおらず、神に祈り続けるアルディナ様を思いながら、皆で静かに宿にて過ごす運びとなった。
しかし、それでもただ目をつむって座っているわけにもいかず、人によっては編み物を始めたり、本を読んだりして時間を潰すことにしたようだ。
私はといえば、残念ながらどちらも苦手だったし、仕方がないので宿の手伝いをさせてもらうことにした。
宿の手伝いを申し出た当初は、宿の人にとんでもないと固辞されてしまったのだが、ならば勝手に床拭きでもしようとしたところで猛烈に止めに入られ、朝も早い今のうちに庭の草花に水をやってくれると助かる、と(半ば強引に)仕事を分けてもらうことに成功した。さすがに少々無理やり過ぎた。手伝うつもりで邪魔をしてしまったなあと反省しつつ、私は庭へと向かった。
水は井戸から自分で汲み上げなければならない。
宿の厨房には魔道具で水を引っ張ってくる設備があるようだが、さすがに庭にまでは水を引いていないようだ。が、今は逆にその方がありがたかった。魔道具で簡単に水やりができてしまっては時間つぶしにならない。
鼻歌を歌いながらのんびりと井戸から庭へ歩いていたところに、私を呼びとめる声があった。
「ハルカ、ちょっといいかしら」
ソティーニさんだった。
「あ、どうも、こんにちは」
数日ぶりに言葉を交わすソティーニさんとの距離が、微妙に分からない。
私は若干あたふたしながら、とりあえず小さく頭を下げた。ソティーニさんが感情の読めない無表情でこちらへと歩み寄って来るから、余計に身構えてしまう。
「一体、何をしているの?」
ソティーニさんは、私の手の中にある、水でいっぱいの桶を怪訝そうに見下ろしながら問いかけた。
「庭の花に水やりをしにいこうかと。やることがないので、無理を言って宿の人に仕事をもらったんです」
「庭の花に? なら何故庭で水を汲まないの? この宿には、庭にも水汲み場があったはずよ」
信じられないというように、ソティーニさんは目を見開いた。
しかし、私は私でびっくりだ。庭に水汲み場! そんなこと、考えもしなかった。定食屋で働いているときにもよく水汲みを手伝っていたが、井戸は周辺の家との共用だった。だから、この宿の裏手で井戸を見つけた時、そこが唯一の水源だと勘違いしてしまったのだ。
よくよく考えれば、井戸の水を引き上げるのはかなり力のいる重労働だもんなあ。巫女様の付き人に床拭きをさせられないからと、代わりに与えた仕事が井戸と庭を何往復もする仕事だなんて、そんなはずがなかったのだ。多分、簡単に庭の花に水やりができるようになっているのだろう。ちゃんと宿の人の説明を聞くべきだった。
「まあいいわ、それより、少し話がしたいのだけれどいいかしら?」
気を取り直したように、ソティーニさんは言葉を続けた。
彼女が声をかけてきたのは、当然ながら、水汲みをしている私をたしなめるためではなかったようだ。彼女の表情が一段と引き締まったことに、私は内心怖気づく。だが、否と断るわけにもいかず、ただこっくりと頷き、重い桶を地面へ置いた。
ソティーニさんの話というやつに、心当たりは嫌というほどにあった。
私がアルディナ様ご一行のもとに飛び込んできてしまったあの晩。ソティーニさんには一切説明をしないまま、うやむやに事態を収めてしまっていた。ソティーニさんの中では、事態が全くもって収まっていないことは、火を見るよりも明らかである。
「いい加減、話して下さるわよね?」
「えっと」
「あの後、ノエル様は『この巡礼の旅が終わったら全て説明する』と仰っていたけれど、そんなに先まで待てるはずがありませんわ! いくら問い詰めても、あの人ってば頑として譲ろうとはしないんだもの、本当に嫌になってしまうわよ。ハルカ、あなたはもっと素直ないい娘よね?」
ソティーニさんの怒りのこもった笑顔が恐ろしい。
うわー、ノエル、どうにかしてよ!
じりじりと、物理的にソティーニさんに追いつめられる。私の後ろは大きな柱だ。
「あなたを疑い続けるのには疲れてしまったの。もう、はっきりさせてちょうだい。あなたにやましいところがあるのか、ないのか。あなたは一体何を考えているのよ?」
夫の不貞を疑う妻との修羅場――そんな構図が頭に浮かぶ。だが、その修羅場のど真ん中に立たされているのは、他ならぬ自分自身である。
「あの、本当に、私自身も分からないんです。気がついたらここにいて」
「そんなことがあるはずないじゃないの」
「嘘じゃないです! 巫女巡礼の邪魔をするつもりなんて、これっぽっちもなかったですしっ」
「ではその問題はひとまず置いておくとして。別の問題についてお聞きしますわ。あなたとノエル様の関係は一体何なんですの? 前からの個人的な知人だと、ノエル様は仰っていたけれど」
「……えええーっと」
「こちらまで『分からない』では済まされませんわよ? さあ、答えてもらいますわ」
どうしよう、困った。
あの晩以降、ノエルはノエルなりにソティーニさんへのフォローをしてくれたみたいだけれど、全くもって不十分だったようだ。彼女は一ミリたりとも納得していない。こうなっては全部話してしまいたいところだが、さすがに私が前の巫女だと言ってしまうのはまずい気がするし。というか、そもそも言ったところで信じてもらえる気がしない。
言葉が見つからず、図らずも口を結んでしまうことになった私に、ソティーニさんはひどく落胆した様子を見せた。ソティーニさんにがっかりされるのって、辛いなあ。
「二人とも、そんなところで何をしているのですか」
その時、建物の影でこそこそと身を寄せていた私達に、別の声が降りかかった。
顔を上げ、声の主を確認した途端、私は――そして隣のソティーニさんも――うっと顔をしかめた。
神官のレイバーンさんだった。
「ソティーニ様、不用意にこの娘とは二人にならぬようにと、お願いしていたはずですが」
レイバーンさんは、温度の感じられない瞳で私とソティーニさんを交互に見やりつつ、こちらへと歩み寄ってきた。そのまま通り過ぎてくれればいいのに。
「……たまたますれ違ったので、ちょっとした世間話をしていただけですわ」
「ちょっとした世間話をしていたようには見えませんでしたが?」
「あら、あなたに女同士の会話の何が分かるというのかしら」
ソティーニさんは全く折れる様子もなく、ぽんぽんと言い返している。レイバーンさんは大きな溜め息を一つ落とすと、それ以上この件に突っ込むのは控えることにしたようだ。
「アルディナ様の昼のご休憩の際に、二名ほど女性を側につけることになりました。クインと、もう一人はソティーニ様、あなたにお願いしたいと思っております。教会側からいくつかお伝えしたいことがあるようですから、これから教会へ向かって頂けますか?」
「……そうですか。分かりましたわ」
憮然とした表情ながらも、ソティーニさんは頷いた。
「では私は準備のために一旦部屋へ戻ります。ハルカ、あなたも、あまり水やりに精を出しすぎないようになさってね」
「あ、はい」
あっさりと、行ってしまったなあ。
歩き去っていくソティーニさんの後ろ姿をしばらく眺めていた私は、同じようにして隣に佇んだままのレイバーンさんを、ちらりと横目で見上げた。
何故レイバーンさんは立ち去らない。
これは、軽く会釈でもしてさっさと私の方から逃げてしまうのがよさそうだ。そう判断し、地面に置いたままだった桶を拾い上げようとした時だった。
「あなた方お二人は、かなり親しい様子ですね」
レイバーンさんから声をかけられ、私はぴたりと動きを止めた。
うう、逃がしてくれるつもりはないのか。むしろ、私と話をするために、ソティーニさんをわざわざ追い払ったのかもしれない。
「親しいというか、それなりに、良くして頂いています」
観念して、私は改めてレイバーンさんと向き直った。この人と二人というのは怖すぎるが、明るい朝の陽ざしに小鳥のさえずり、のんびりとした宿の軒先ということで、多少は気持ちも落ち着いている。
「ソティーニ様があなたに弁当の配達を頼んだことが、付き合いの始まりだったと聞いていますが」
「ええ、まあ、そうです」
本当に本当の始まりは、ソティーニさんにオルディスさんを巡るライバル認定されてしまったことなんだけれど、余計にややこしくなるから黙っておくことにする。
「しかし、不審には思わなかったのですか? 身分ある神官が、市井の弁当屋に弁当を届けさせようなどと」
「それは……まあ、驚きましたけど」
「最終的にはアルディナ様のお口にも入ることになったそうですね。私に言わせれば、言語道断、全くもってあり得ません。毒見はしたと聞いていますが、そういう問題ではない。出どころの分からぬ食材を使って、正体も分からぬ人間が作ったものを、清浄なる巫女様に差し出すなど」
清浄なる巫女様って。
いや、まあ、言いたいことは分かるんだけども。
だからといって、霞を食べて生きてるわけじゃないんだし、たまにはアルディナ様だってジャンクフードを口にしたい時もあるだろう。いやいや、もちろんうちの弁当は、ジャンクフードどころか、栄養のバランスをしっかり考えて、新鮮な食材で(ご主人達が)作った一級品なんだけれども!
「そもそもソティーニ様は、人付き合いとは疎遠なところのある方です。まさか一般市民に自ら声を掛け、仲良くしようなどと、そういう類の人ではない」
「つまり何が言いたいんですか?」
レイバーンさんのソティーニさん批判はまだ続くようだ。いい加減、私も気分が悪くなってきた。
「レイバーン様は、ソティーニさんのこと、ちゃんと知らないんだと思います。 私だって、友達なんて言ったら怒られてしまう程度のお付き合いしかまだないですけど、でも、ソティーニさんに素敵なところがたくさんあるって、知ってます」
「私が言いたいのは、そういう話ではありませんよ」
レイバーンさんは冷静に私の言葉を遮った。
「彼女がわざわざあなたに声をかけ、弁当を運ばせたのには、何か考えがあるのではないのかということです」
「……考え?」
「あなた、弁当を運ぶ以外に、何か彼女から頼まれたことはありませんか」
「ないですよ! もし毒を入れろと指示されたんじゃないかとか、そんなことを言いたいんなら」
「違います。少し落ち着きなさい」
話の通じない子供に、辛抱強く説教をしようとしているかのように、レイバーンさんは私の肩へ手を置いた。
「あなたが懐に毒や短剣を隠し持っているとは、今のところ思っていません。私が危惧しているのはもっと別のところです。例えば――あなたは、ソティーニ様から、アルディナ様と仲良くなるよう言われてはいませんか?」
アルディナ様と、仲良く?
全く思わぬ方向へと話が飛んで、私は言葉が見つからなかった。
「王宮とは何の関係もない一般平民のあなたという存在は、アルディナ様にとって、巫女になる以前の静かな暮らしを思い起こさせる。あなたがアルディナ様に近づけば近づくほどに、アルディナ様のお心は乱される可能性があります。――言っていることが分かりますか?」
真剣な表情で見下ろされ、私は唇を引き結んだ。
一瞬、レイバーンさんの言葉の意味が分からなかった。
だが、すぐにああそうかと頭が理解する。
アルディナ様は、もともとごく普通の家庭に育った女性だという。その能力が見込まれ、巫女に大抜擢された。そして、生まれ育った環境からは切り離されて、今、王宮で「巫女様、巫女様」と崇め奉られながら暮らしている。
それがどんなに窮屈なことなのか――私が分からないはずがない。
それに、今のアルディナ様は、上手く能力を操ることができず苦しんでいるのだ。どんなに強いアルディナ様だって、きっと心細いことだろう。そんな折に、王宮とはほぼ無縁の、普通の娘が側にやってきたら? 巫女だとか国だとかは関係なく、作法も気にせず、気楽に世間話のできる「友達」のような存在ができたら?
(もう、全部嫌だって、昔に戻りたいって、思ってしまうかも)
レイバーンさんのいう、“心乱される”とは、そういうことを指しているのではないか。
でも、だとしたら、どうしてアルディナ様を惑わせるようなことを、ソティーニさんが望むというのだろう? ソティーニさんは確かに素直な女の子とは言い難いかもしれないけれど、少なくとも、アルディナ様のことは大切にしていると感じていた。
「私は、ソティーニさんに、アルディナ様と特別仲良くしてほしいと言われたことはありませんよ」
きっぱりと、レイバーンさんに言い切った。
本当は、アルディナ様が私を気に入ってくれている様子だとか、そういう程度のことならば、ソティーニさんの口からも聞いたことがあったけれど。でも、彼女が強引に私達の仲を取り持とうとしているような様子を感じることは一切なかった。
「どうしてそんなことを気にされるんです? ソティーニさんが何だっていうんですか?」
ほとんど喧嘩腰に問いかけると、レイバーンさんは、取りつけていた冷静な仮面を初めて歪ませた。
「どうして? ――当然のことです。あなたが何も知らず彼女に利用されているとするのならば、これだけは心に留めておくべきですね。本来、異界の巫女の後任となるのはソティーニ様でした。出自も能力も問題ないと見られていた彼女が、後任の巫女になるのはほぼ当確と見られていた。……ですが、突然現れたアルディナ様という存在により、ソティーニ様は地位を“奪われた”。彼女にとって、アルディナ様は、栄光の未来を潰した憎き存在なのですよ。今のところ、大人しくアルディナ様の補佐をしている様子ですが、腹の中ではいつだって巫女の地位を奪ったアルディナ様を憎んでいるに決まっている」
いいですか、とレイバーンさんは私の肩へ置いた手に力を込めた。
「あなたはソティーニ様に利用されているかもしれない。それだけは、心に留めておくべきです」
私はといえば、結局ただの一言も、返すことができなかった。
ソティーニさんが、本当は私の後任の巫女になるはずだった?
ソティーニさんは、心の中ではアルディナ様を憎んでいるかもしれない?
まさか、そんなはずがない。
そう思いながらも、私は目まぐるしくこれまでの出来事を頭の中に思い浮かべているのだった。