39.色々な意味で寿命が縮まってしまいます
小屋の柱に縛り付けられ身動きの取れなかった私を、ノエルはすぐに助け出してくれた。
短剣で縄が断ち切らた途端、私はその場に崩れ落ちそうになる。自分でも気付いていなかったが、足ががくがくと震えて上手く立てなかったのだ。すかさずノエルが手を貸してくれて、私はどうにかその場に立っているという有様だった。
げっそり、という言葉が、今の自分にはこれ以上なくぴったりだと思う。後のことはノエルにすべて任せて気絶してしまいたい気分だったが、そういうわけにもいかない。
「ハルカ」
ノエルが私の名前を呼んだので、私はのろりと顔を上げた。
立ち位置が変わって、彼の顔が月の明かりでよく見える。声と同じように、彼の表情もまた強い怒りに塗れていた。
「あの男に何かされたのか」
力なく、私は首を振って否定した。恐らく先程の場面はノエルに見られていたのだろうから、改めて大仰に騒ぎ立てる必要もないだろう。それに、騒ぎ立てたくとも、今の私は声を上げることがかなわない。
ノエルの方でも、私が喋ろうとしないことに気づいたようだ。
「レイバーン殿の術だな」
そう言いながら、ノエルは大きな右手を私の首元へそっと伸ばした。あの時レイバーンさんに首を絞められそうになったことを思い出して一瞬体が震えたが、大丈夫、これはノエルの手だ。きっと私を傷つけない。
じんわりと喉元に熱が広がり、つかえていたものがふっと外れるような感覚があった。
「――あ」
試しに小さく囁いてみると、驚いたことに、きちんと声が通る。
ノエルが騎士として攻撃の魔術をたしなんでいることは知っていたけれど、こういう術まで使えたとはなあ。
「ノエル、ありがとう」
ほっと息を吐きながら、私はかすれる声で礼を告げた。
「でも、どうしてノエルがここに?」
「レイバーン殿から不法侵入者の報告を受けたんだ。その時に、彼の手にこの腕輪があるを見て」
ノエルは懐からブレスレットを取り出した。私がレイバーンさんの寝室で落としたものだ。まさか、ブレスレットを落としてしまったことがいい方向に転がるとは思ってもみなかった。
それよりも、とノエルは改めて私に向き直った。
「ハルカ、体が辛いだろうが少し状況を確認させてくれ。お前こそ、どうやってここへ来たんだ?」
「ええと、ルーノさんが、私の部屋に突然現れて。それでいきなり転移の術で送りこまれたの」
「ルーノ殿が?」
ノエルははっきりと顔を歪めた。
昔からノエルは、変人気質で行動の読めないルーノさんのことがあまり好きではなかったもんな。こんな状況下だけれど、変わらない二人の関係性に、何だか笑えた。いやほんと、笑っている場合じゃないんだけれど。
「あの人、相変わらずめちゃくちゃだよ。全然詳しい説明もなく、本当にいきなりだもん。今、皆は巫女巡礼の途中なんだよね? レイバーンさんが神経を尖らせているのも当然だよね」
「だからと言って、女性に対してこの仕打ちはないだろう」
「この小屋で柱に縛り付けたのは、あの人の指示ではないと思うけど」
でも、人の首を絞めるような素振りで脅してきたのは、フォローのしようもなく非道な行動だよなあ。まあ、巫女様の暗殺者に対しての仕打ちと思えば仕方がないのか。
「ルーノ殿は何故こんなことをしたのか、本当に一言もなかったのか?」
「うーん」
霞みがかったような重い頭でルーノさんとの会話を思い出す。
「大したことは何も。私が元の世界へ帰りたいって言ったら、じゃあ少しだけ手伝ってあげる、みたいなことは言ってた気がする。フラハムティ様の手から逃がしてくれたつもりなのかな、と思ったんだけど」
「そうか」
ノエルは難しい顔をしたまま黙り込んでしまった。
「これが普通の時だったら、フラハムティ様の権力が及ばないアルディナ様のところは、ある意味安全だったのかもしれないし。でも、まさか巫女巡礼の途中だったなんて。ごめんなさい、こんなことになっちゃって」
「……」
「ノエル?」
「――いや、お前のせいじゃない。それに、ルーノ殿がお前をここへ送りこんだことにも重要な意味があるはずだ。とにかく、今後のことは心配するな。俺が何とかする」
「……ありがとう。でも」
私は浮かない顔で頷いた。
ノエルには極力迷惑をかけたくないと思っていたのに、とうとうこんなことになってしまった。
自分一人ではどうにもならない状況なのは間違いないが、ノエルに助けてもらうということは、彼を困難な立場に追い込むことにもなるのは明白だった。巫女巡礼という大切な儀式の中で、突如現れた身元不明の娘を庇おうとすれば、相当の無理を通すことになるに違いない。
歯切れ悪く言葉を濁した私に、ノエルは胡乱な眼差しを向けた。
「お前、この期に及んでまだ俺を頼りたくないなんて言うつもりじゃないだろうな」
「う、いや、その」
「俺は後悔してるんだ。最初から、無理やりにでもお前を手元に置いておくべきだった。お前の意思を尊重して後から悔やむなんて、一度きりの経験で十分だったのに。……いいか、随分遠回りをしたが、今後はもう二度とお前をフラハムティ殿のもとへ帰すつもりはないからな」
「う、うん」
ノエルの収まらない怒りがこちらへ向かい始めたことを察し、私は大人しく頷いておいた。
確かに、今更フラハムティ様の所へ連れ戻されるのは勘弁願いたい。それに、とにかく今は、彼の助けを借りなければ前にも後ろにも進めない状態だ。腹をくくって――なんて、私が言うのはおこがましすぎるけれど――ここはノエルに頼るしかない。
「まあいい。とにかく、まずはここを出て体を休めよう」
言いながら、ノエルが私を抱え上げようとした。
「あ、いやちょっと、自分で歩くから!」
「立っているのも辛いんだろう。こんなところで無理をするな」
「いや、これはレイバーンさんの術がかけられてるからで……」
声を戻してくれたついでにこちらの術も解いてくれないかという期待を込めて訴えてみたところ、ノエルの眉間のしわが一層険しくなっただけだった。
「拘束の術までかけられていたのか。……見たところ、俺では解除できそうにないな。後で魔術に長けた者を呼ぶから、それまで我慢していてくれ」
「そっか、ごめん。あ、でも、自分で歩けるから本当に大丈夫」
「お前なあ、つまらないことで意地を張るなよ」
「意地を張ってるわけじゃないけど」
何というか、無駄にノエルを頼りたくない気持ちなのだ。
そんなことを言えばまた怒るだろうなと思ったから口をつぐんでみたのだが、こちらの意図などすっかりお見通しらしいノエルは、更に抗議の声を上げようとした。
その時だ。
何者かがこの馬小屋へ駆け寄って来る足音が聞こえた。
私とノエルは瞬時に警戒の眼差しを小屋の入口へと向ける。
姿を見せたのは、神官のソティーニさんだった。
「ハルカ、あなた……!」
「ソ、ソティーニさん!?」
思いもよらぬ人の姿に、私はその場で固まった。
久しぶりに顔を合わせたソティーニさんは相変わらずの美女っぷりだったが、なりふり構わず大慌てで駆けつけたのがありありと見てとれる様子だった。長いワンピースの裾は藁と泥で汚れてしまっているし、丁寧に編み込まれていたであろう髪も、ややほつれが目立つ。
「ソティーニさん、どうしてここに」
そう呟いてから、急速に合点がいった。考えてみれば、巫女巡礼の途中ということは、アルディナ様付きの神官であるソティーニさんも同行していて当たり前だ。いや、それはともかく、何故この馬小屋に彼女がやって来たのか、そちらの方が問題か。
「どうしてって、それはこちらの台詞ですわよ! 侵入者があったというからレイバーン様から詳しく聞き出してみれば、それが弁当配達の娘だというじゃない。まさかと思って飛んで来てみれば!」
「それでわざわざ……」
「ハルカ、あなた、本当にアルディナ様を暗殺しようとしたわけではないわよね?」
「ち、違います!」
「じゃあ何故……」
お待ちください、とノエルがソティーニさんの言葉を遮った。
「ソティーニ殿、あなたお一人でこちらへ?」
ノエルは厳しい表情のまま、私を庇うようにして前に立った。
その態度に苛立ったように、ソティーニさんはノエルに噛みつく。
「当たり前ですわ、だってもし『侵入者』が本当にハルカなのだとしたら、ハルカのことを一番よく知っている私がまず話を聞かなければならないと思ったんですもの。もちろん、アルディナ様のお側には別の者をつけておりますからご心配なく。それよりも、あなたがここにいることの方が驚きですわ、ノエル様。あなた、ハルカをどうするおつもりなの?」
ノエルは一瞬言葉を詰まらせたが、すぐに口を開いた。
「……彼女は私の知人なのです」
うおっ、いきなり際どいところを!
「知人ですって? それは個人的に?」
「ええ、そうです」
ソティーニさんは大きな瞳を更にまん丸に見開いた。
「どういうことなの?」
「詳しくは追々話しましょう。とにかく今言えることは、彼女は全くの無実だということ、そして、訳あってこのまま保護する必要があるということです。今は、それ以上の説明をするよりも、彼女を休める場所へ連れていくことが先決だ」
「でも……」
納得の行かない様子のソティーニさんだったが、ちらりと私に視線を向けると、それ以上の反論は呑み込んでくれたようだった。そんなにやつれた格好しているのか、私。
「ちょうどよかった、こちらへ来られたついでにあなたのお力をお借りしたい」
ノエルは私を抱え上げながら、小屋の隅を顎で指した。
「あの藁の山の中で、警備兵が一人気絶しています」
「えっ?」
ソティーニさんはぎょっとしたようにうず高く積まれた藁の方へ顔を向けた。そういえば、警備兵の存在をすっかり忘れていたな。
「この小屋でハルカに乱暴を働こうとしていたので、私が気絶させました。私は彼女を休めるところまで運びますので、あなたにあの兵の処分を任せます」
「アルディナ様の警備兵が、女性に乱暴を……」
先程から驚くことが続きすぎて疲れてしまったのか、ソティーニさんはとうとう力なく肩を落とした。いやでもちょっと待って、そんな男をか弱いソティーニさんに任せるだなんて、危なすぎる。
「――分かりましたわ」
そんな私の心配とは裏腹に、ソティーニさんは簡単に頷いた。
そして、改めて溜め息を一つ落としてから、藁山へ向かって右手をかざす。すると、ほのかに彼女の手が光に包まれたかと思った次の瞬間、藁の中から警備兵が乱暴に放り出された。すごい、指一本触れることなくあの巨体をぽんと動かすだなんて!
男はまだ気絶しているらしく、だらしなく手足を投げ出したまま床へと転がった。
「この男の後始末はお任せを。ただし、後ほど詳しく事情を説明して頂きますわよ」
ソティーニさんは鋭い眼光をノエルに向け――それから、彼の腕の中にいる私へと落とした。
当然ながら、ソティーニさんは納得していない。私が果たして本当に悪意のない人間なのか、今も彼女は疑っているのだ。それは仕方のないことだと分かっているけれど、彼女の視線が私の胸に突き刺さった。
・ ・ ・ ・
連れられた先は、ノエルの部屋だったらしい。
先程のレイバーンさんの部屋と作りは全く変わらない。ベッドとチェスト、小さなテーブルに、一人掛けのソファが二つ。
私は促されてベッドへと腰掛けた。
本当は、馬小屋ですっかり汚れた服のままベッドに座るのは気が引けたのだが、着替えを用意できるまで時間がかかるからと強くノエルに言われて、断りきれなかったのだ。
すぐにノエルがコップに水を注いでくれたので、重い手でそれを受け取り一気にあおった。水でぬらしたタオルも受け取り、ゆっくりと顔や手足を拭く。ようやく人心地ついた私は、密かに深い息を吐いた。
「とにかく、今夜はもう寝るんだ。明日の朝までにはレイバーン殿たちと話をつけておくから」
そう言いながら、ノエルは私をベッドの中に押し込めようとした。
「ちょっと待って」
「拘束の術もまだ解けていないし、着替えもできないままでは気持ちが悪いのも分かる。だが、まずは暗殺者という誤解を解いてこなければどうにもならない」
「いや、そうじゃなくて、私、ノエルが戻って来るまで起きて待ってるよ」
自分はどうしようもなく無力だが、だからといって、ノエルに苦労させている間、温かいベッドの中でのうのうと眠っていられるはずがない。
「お前な……」
しかしノエルは、心底頭が痛いというように、指でこめかみを押さえた。
「少しは俺を頼れと、何度も言っているだろう。そんなに俺が頼りないか?」
「頼りないとかっていう問題じゃなくて。人様に迷惑をかけてるんだから、それなりの態度ってものがあるでしょ、って話」
「人様? お前の中で俺はもう赤の他人になり下がったのか」
どうもノエルは私が全然頼ろうとしないことがよほど気に食わないらしい。
ベッドに私を押しこんだらすぐさま部屋を出て行こうとしていたはずが、しっかりと私に向き直ってしまった。観念して、私も居ずまいを正す。
「そんなわけない、恩人だと思ってる。だからこそ、出来る限り迷惑をかけたくないんだよ」
「恩人ね」
ノエルは、ふん、と鼻を鳴らした。
何だそれ、その態度!
そりゃあ何の恩返しもできていない私が「あなたは恩人」なんて言うのも白々しいかもしれないけれど、この場を流すための適当な言葉だとか、そんな風に思われたのなら心外だ!
「薄情な言い草だな。帰還の際には、俺のことが好きだと言っていたのに」
――はああああ!!??
全くもって想定外の方向へ飛んでいったノエルの言葉に、一瞬で頭の中が真っ白になった。
というか、信じられない。信じられない!!
今更その話を蒸し返すか普通!!??
「な、な、な、何でそういうこと言うわけ!? 今この場には全く全然欠片も関係ない話じゃない!?」
私は動揺のあまり上ずる声で、それでも猛烈に抗議した。
「ていうか、それはもう時効でしょ! 死にたくなるから止めてよもう!」
「時効ってなんだよ。お前の気持ちは期限付きだったってことか」
「あのねええ、人のこと振ったくせに、よくそんなこと言えるよね!?」
うわああ、振ったとか振られたとか、ノエルとそんな話をしていること自体、こっ恥ずかし過ぎる!! 自分で言いながら、顔が茹でダコのように真っ赤に染まっていくのを感じた。
「あんな場面で言い出したお前が悪い」
「はあっ? 何それどういう意味!? ていうかもういいから! この話はナシ! 私ちゃんと大人しく寝てるから、もう後はよろしく頼みます!」
これ以上生真面目な顔でノエルと恋愛論争を続ける気力など欠片も残っていない。私は掛け布団を頭からすっぽりかぶると、甲羅に篭った亀のごとくだんまりを決め込んだ。
はあ、と布団越しにノエルの溜め息が聞こえてくる。
「大人しくしているのなら構わない。絶対にこの部屋から出るなよ」
そんな言葉と共に、ぼすりと布団がはたかれた。それでも布団にくるまったまま微動だにせずにいると、まもなくノエルは部屋から出て行ったようだった。
……。
おのれノエルめ。
告白の件は、すっかり忘れたフリをしてくれているものだと思って、密かに感謝すらしていたのに。まさか今更蒸し返してくるとは、まさしく畜生の仕業である。
よもや今後、私がノエルにつっかかろうとする度に、この話題をちらつかせて黙らせてやろうという魂胆なのではなかろうか。だとしたらひどすぎる。オーバーキルにも程がある。
ああ、もう。
体制を立て直さなければ。
とにかく、今はそれどころじゃないのだ。
暗殺を企む侵入者という容疑をかけられていて、明日を無事迎えられるかもわからない状況だというのに、過去の痴態を思い出してのたうち回っている場合じゃない。
忘れよう。今のやりとりはすっかり忘れて気持ちを切り替えよう。
そして、ノエルの言葉に甘えて、今日は眠ってしまおう。
だがしかし、色々あり過ぎたこの晩にすんなり眠れるはずもなく、私はベッドの中で何度も何度も寝返りを打つことになったのだった。