37.召喚師は相変わらずのぶっ飛び具合でした
夜明けが来た。
というよりも、間もなく陽が昇るという時間帯に、勝手に目が覚めてしまった。
昨日は夕食も食べないまま眠ってしまったので、体が空腹を訴えていたようだ。
どうやら私は、気落ちしたからといって食欲がなくなるほど繊細な作りにはなっていないらしい。半熟とろとろの目玉焼きを焼きたてのトーストの上に乗せて食べたいなあなどという妄想をしていたら、ぐうと大きくお腹が鳴った。
しかし、さすがに朝食まではまだまだ時間がありそうだ。
もはや眠気はなかったが、私はベッドの中で再び目を閉じることにした。
ああ、昨日はアルスさんに変なところを見せてしまったなあ。
今更悔やんでも、まさに後の祭だけれど。
アルスさんは何も言わずに立ち去ってくれたものの、かなり引いたに違いない。直前までしれっと自分ををあしらっていた娘が、急に泣きだしてうんともすんとも言わなくなる。結構なホラーじゃないか。でも仕方がない、自分でも止められなかったのだから。
恥はさらしたが、その分ちょっとだけ元気になった気がする。
過ぎたことを考えるよりも、これからどうするべきか、先のことを考えよう。
オトゥランドさんの屋敷へ来てから、何だか変にやる気が抜け落ちてしまっていた。
何も考えず、ただ用意された服を着て、用意された料理を食べて、用意された部屋で眠っていたけれど。私は何のためにフラハムティ様のところへ乗り込んだのだ。何も変わらない現状を打破するきっかけを見つけるためだったのではないか。
(うん)
私は閉じていた目を開いた。
だいぶ窓の外は明るくなっているようだ。
まず、もはやフラハムティ様に頼ることはできない。
むしろ一刻も早くこの屋敷を出て、フラハムティ様の息のかからないところから再スタートせねばならないだろう。彼の下にいても、一向に元の世界へは帰してもらえなさそうだ。
しかし、ならばフラハムティ様の息のかからないところとはどこなのか。
オトゥランドさんはこの通りだし、オルディスさんも、積極的とは言い難いがフラハムティ様の配下であるのに違いない。というか、王宮にいる人間の中で、かの宰相様と渡り合えるような人などほとんどいないだろうから、これは非常に難しい問題だ。
(あとは……)
ノエルの顔が思い浮かんだが、私は慌ててそれを打ち消した。
だから、ノエルは駄目だってば。
くそう、こんなことなら前の召喚の時にもっと人脈作りをしておくんだった。
自分から誰かと関わろうとはしなかったから、個人的に頼りにできるような人が思い浮かばない。
残った手段はといえば、王宮のど真ん中で「私は元巫女のハルーティアです」と叫んで自己主張し、逆に召喚の犯人に見つけてもらうぐらいだろうか。もしかしたら、フラハムティ様よりも、本来の犯人の方が話の分かる人物かもしれない。
……いや、やっぱり危険すぎるよなあ。
うーん。
あともう一つ。
これも危険すぎる賭けではあるけれど。
いっそ、アルディナ様に事情を打ち明けるというのはどうだろう。
自分が経験したことだからよく分かるが、巫女というのはこの国のヒエラルキーを超越した存在だ。宰相であるフラハムティ様でさえも、アルディナ様を蔑ろにすることは許されない。つまりは、フラハムティ様の手から逃れられる唯一の避難場所は、アルディナ様のお膝元。
帰りたがっている元巫女である私を、アルディナ様ならば受け入れてくれる気がする。邪魔だから始末してしまえだなんて、間違っても彼女はそんなことを言い出さない……と思うのだが。いや、あまりに楽観的な憶測なのかもしれないけれど。
どうなのだろうか。
名案なのか“迷”案なのか、悩むところだ。
うーん、どちらかといえば迷案のような気がする。
いずれにせよ、まずはこの屋敷から出られなければ話は始まらない。
困ったなあ、と私は大きな溜め息をついた。
だが。
意外なところから、事態は急展開を迎えることになるのである。
・ ・ ・ ・
それから数日の間、成す術もなく、私は相変わらずの引きこもり生活を続けていた。
それでも、いくつか変わったことはある。
例えば、頻繁に窓の外を眺めるようになったこと。
うん、分かっている。未練がましいと言われればその通りである。もしかしたらまたノエルの姿が見られるのではないかと、私は密かに期待しているのだ。
しかし、見える景色はいつも同じだった。
綺麗に手入れされたアプローチに、望む人影は見えない。
あとは、庭の散策にも積極的に出るようになった。
以前はお付きのメイドさんに遠慮していたけれど、そんなことを言っている場合ではないと頭を切り替えた。散歩にかこつけて、この屋敷から逃げ出す抜け道はないかチェックすることにしたのだ。
もともとオトゥランドさんの屋敷には人が少ない。主人であるオトゥランドさん以外は皆使用人であり、その人数も、いつも駐在しているのは両手で数えるにも満たない程度なのだ。だから、彼らの目をすり抜けて外へ出るのはそれほど難しいことではないと思われた。
問題は、警護の人間の方だった。
これは本格的な散策を始めてから知ったのだが、どうやら私を見張るために何人か王宮から送りこまれているようなのである。
屋敷の門のところに常に一人。屋敷の中にも一人。散策途中で見つけた屋敷の裏門にも一人。彼らの包囲網をかいくぐるのは素人の私には難しそうだ。
が。
もう私の方も限界だった。
何か行動を起こさねばならないという焦りは、ここ数日で募るばかりだ。
私は部屋のソファに座って窓の外を眺めながら、左手にはめたブレスレットの感触を確かめていた。
このブレスレットは最初の頃にオルディスさんから貰ったもので、ここへ来る際にも取り上げられなかったので、そのまま身につけている。
私の身に危険が迫ればオルディスさんに知らせてくれるというブレスレット。
実際、ノエルに強く肩を掴まれた時にこのブレスレットは反応した。
あの時は、命に関わるような場面ではなかったから、オルディスさんには捨て置かれてしまったけれど。本当に死に迫るような切羽詰まった状況になったら、どうなるのだろうか?
私は先程からそのことばかりを考えている。
例えば、何者かに突然襲われ刃物で刺されそうになったとしたら。
そんな緊急事態に、ただオルディスさんに知らせるだけというのも考えにくい気がする。オルディスさんに連絡が行った頃には私は刺されて死んでいる。
であれば、オルディスさんへ知らせると同時に、私の身を守るための術もこのブレスレットには備わっているのではないだろうか。その可能性は十分にあると思うのだ。
(てことは、一回はチャンスがあるよね)
私は真剣に窓の外を見つめる。
すっかり日も暮れ、窓の外は漆黒の闇が広がるばかり。
ここは三階だ。
窓の外には、飛びつける程度の距離に背の高い木が見える。
その木に飛び移り、こっそり屋敷からの逃走を図るのはどうだろうか。
もちろん、そんなアクロバットな動きを試したことなど生涯で一度もないから、失敗して落下する可能性もある。というか失敗する見込みの方が俄然大きい。でも、その時はこのブレスレットが反応して身を守ってくれ、更にはオルディスさんにも連絡を取ってくれる。……かもしれない。
オルディスさんと連絡さえ取れれば、その時は土下座でもして助けてもらえる見込みがでてくる。助けるのが無理なら、せめてアルディナ様のいる神官居住区まで連れて行ってくれと懇願してみよう。オルディスさんはフラハムティ様の配下だと諦めていたけれど、もはやなりふり構っていられない。
無駄かもしれないが、やってみる価値はあるはずだ。
その目論見が外れても、この屋敷で私が無茶をしたと知れれば、状況はまた変わるだろう。
より厳しい監視がつくかもしれないが、それはそれで構うものか。保護も軟禁も監禁も、私にとっては同じである。状況が変わるタイミングで、何か新しい動きを試すことができるかもしれない。
一番の懸念は、そもそもこのブレスレットに身を守るための術など備わっていないという可能性だった。
その時は、窓から飛び出した途端に本当に死んでしまうかもしれない。
(……怖すぎる)
でも、動かないと何も変わらないわけだし。
どうしよう。やってみちゃおうか。やっぱり止めておこうか。
私はのそりとソファから立ち上がると、緩慢な動きで窓に手をかけた。
窓を開けると、夜特有の湿った空気が私の頬を包み込む。
私はゆっくり深呼吸をした。
夜の闇の中で見ると、すぐ近くにあると思っていた大木は、想像以上に遠く感じられた。
あそこまでジャンプして枝にしがみつくだなんて、やはりどう考えても一般人には無理っぽい。
いや、無理は承知の上だ。
……でも。
うーん。
「さすがにそれは、止めておいた方がいいんじゃないのー?」
その時、全く無警戒の背中に声がかかり、私は文字通り飛び上がった。
変な汗がどっと噴き出す。
声も出ないままに振り返ると、私がつい先程まで掛けていたソファの背もたれに腰を預けて佇む人の姿があった。男とも女とも区別のつかない整った顔立ちの、ひらっひらした衣装を身にまとった若者である。
「ル、ル、ル、ルーノさん!?」
「ひっさしぶりー。元気だったー?」
にこっと相手は微笑み小首を傾げた。明るい金の髪がさらりと揺れる。
私は思いもよらぬ人物の登場に、続く言葉もなくまじまじとその姿を見つめた。
「え、本当に、ルーノさん、ですか」
「あったり前じゃーん。なに、こんなに美しい姿をした別人がこの世に存在するっていうの?」
しれっとルーノさんは言い放った。
あ、これは本人だ。全く全然変わっていないこのぶれないキャラクター。
ルーノさんは、前回私を巫女としてこの世界に呼び出した召喚師その人である。
風変わりな格好と言動から、人々はルーノさんのことをつい遠巻きにしてしまいがちなのだが、その召喚の腕は国随一と各方面から太鼓判を押されている。といっても、異世界から巫女を呼び出すのは五十年に一度の大仕事。普段は主に移転の術でもって人や物を動かすことが仕事らしく、その関係でルーノさんはしばらく王都を離れていたという話だった。
ああ、しかし、本当にすっかりルーノさんの存在を忘れていたな。
「うわー、そっちこそ本物のハルちゃんだよね。懐かしすぎるんだけど! あれ、でもなんか縮んでない? 色んなとこ」
「ち、縮んではいません……多分」
ルーノさんはまるで女子高生のようなノリで私にじゃれついてきた。
断っておくと、彼の性別は男性である。
「それより、どうしてルーノさんがこんなところに? 地方での仕事は……」
「もうほとんど終わったから、切り上げてきちゃった。てか、ハルちゃんがこっちに戻ってきたって聞いたら、会いに来るしかないでしょ?」
「そ、それはどうも」
「でもびっくりだよねー、移転の術で数年ぶりに会いに来てみたら、いきなり窓から身投げしようとしてるハルちゃんに遭遇するんだもん。僕を驚かせるなんて、ハルちゃんってば腕磨いたじゃん!」
「はは……」
ええと、前はどういうノリでこの人のテンションに付き合っていたんだっけ。
数年ぶりなのでいまいち勘が戻って来ない。
「でもさ、今回は大変だったよねー。まさか加護も何もなくこっちの世界に戻ってきちゃうなんてね?」
ルーノさんはさらさらの前髪を右手で軽くかき上げた。
――そう、そう、そうなのだ!
いきなりこの世界に呼び戻された私は、今まさに現在進行形で大変な目に遭っているのだ!
ルーノさんは勘定から外していたが、これは千載一遇の大チャンスなのではないか。国に数人しかいない召喚師である彼ならば、私が元の世界に戻るためのいい方法を知っているかもしれない。
私は窓に背を向け、ルーノさんの両手を強く握りしめた。
「ルーノさん、私、元の世界へ帰りたいんです。でも、今回私を呼び出した人が誰だか分からなくて、帰れなくて。何かいい知恵をもらえませんか!?」
「やだもう、そんな熱いまなざしで見つめられたらときめいちゃいそう」
「いや本当に、真面目な話なんです。お願いします、助けて下さい!」
「えー、そう言われてもなー」
ルーノさんは少し考え込むような表情になった。
「そもそも、もう帰らなければいいんじゃない?」
「はっ?」
ルーノさんはしれっと言葉を続けた。
「だってさー、一度元の世界へ帰った巫女がもう一回呼ばれるなんて、多分これまで一度もなかったことだよ? なんか運命感じちゃうよねー。ハルちゃんは、この世界に愛されちゃったんだよ。てことはー、もうずっとこっちで暮らしちゃえば丸く収まるよね! 名案じゃない?」
「全然名案じゃないですっ。身寄りもないこの世界で、異世界の人間が一生暮らしていくなんて無理に決まってるじゃないですか!」
「何で? しっかり働き口見つけて生計立ててるらしいじゃん。全然一人で生きていけるでしょー。不安だったら、僕がまた後見人になってあげてもいいしさ。ていうか、ノエル君に一生養ってもらえば?」
「そういう冗談は止めて下さいよ」
ああ、何だかもう泣きたい。
せっかく出会った希望の光は、話の通じない人外の存在だった。
「冗談じゃなくてさ、なーんでバラバラに過ごしてるのか、意味分かんないんだけど」
ルーノさんはまだノエルの話題を続けたいらしい。
「だって、お互い立場が前とは違いすぎるじゃないですか」
「立場なんてねえ、吹けば飛ぶようなものだと思うけど。だってハルちゃんは前の召喚の時、ノエル君がいるならこっちの世界で暮らしてもいいって思ったわけでしょ? だからこその、あの帰り際の一大告白だったわけでしょ? 世界越えてもいいとか思っちゃったわけでしょ?」
だああああ、その話を引っ張り出さないでほしい!! 私の中の黒歴史なのに!!
「あれはっ、何というか、ピンポンダッシュみたいなものっていうかっ。ついカッとなって言ってしまったというか……。若気の至りで……」
ああもう、私は一体何を言っているのだ。
「とっ、とにかく。私は帰りたいんです!」
色々な過程は全て置いておいて、一言で言えばそれに尽きる。
私は帰りたい。帰りたいのだ。
「ふーん、まあいいけど。どのみち、召喚した人間じゃないと帰すこともできないし。そのセリフは犯人に言ってもらわないとねー」
やっぱり駄目か。
前にオルディスさんが言っていた通り。ルーノさんにもどうにもできない……。
「だからさ、ちょっと手助けしてあげるから、あとは自分でどうにかしてみてよ」
ん?
私は俯きかけた顔を上げた。
手助け、してくれる?
その時、部屋の外で複数の足跡が響くのが聞こえた。
耳を澄ましてみると、その足音はまっすぐこちらへ向かっているようだ。
どうやら私とルーノさんで騒ぎすぎてしまったらしい。それもそうか、あれだけ大声でわあわあ騒いでいれば、屋敷の人間の耳にも入るだろう。
「やだもー、誰か来ちゃったみたいだね。せっかく久しぶりにハルちゃんに会えたのに、残念すぎ。ま、落ち着いたらまたゆっくり話そうね。こっちに戻ってからのこと、色々聞かせてー」
近づく足音に身構える私とは対照的に、ルーノさんはいつもの落ち着き払った調子を崩さない。すると、今度は彼が私の両手を取り、ぎゅっと力を込めて握りしめてきた。
「はーい、じゃあ、深呼吸ー」
――げ! 移転の術を使う気だ!
まるで心構えのできていなかった私は、深呼吸どころか息を止めて術の発動に備えてしまった。
次の瞬間、大きく歪む私の視界。足元にぽっかりと穴があいたような心許ない感覚。脱水症状でも起こしたかのようなひどいめまいに襲われて、私は悲鳴を上げそうになった。
ルーノさんの術だけはいつもスマートで、転移にそれほどの衝撃はなかったはずなのに。何なのだこれは、一体どこへ私を飛ばそうとしているのだ。
「行ってらっしゃい」
待って、待って。
もうちょっと事情を説明してよ――。
そんな私の言葉は、空しくも空間の狭間へと吸い込まれていったのだった。