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海に積もる雪  作者: 大宮ゆあ
第1章 曖昧な境界線
1/1

1.人か魚か

登場人物

柳瀬ヤナセ ソラ・・・24才。国際海洋研究所 IOC(International Oceanography Center)勤務

谷川タニガワ 澪太郎レイタロウ・・・25才。宙の同僚であり友人

 人か魚かわからない。生命進化の概念の外にある生物。水中を優雅に泳ぐソレを、なんとも複雑な気分で柳瀬 宙は眺めていた。

(彼女は、いや、彼か?)

 そんな馬鹿らしいことで悩むなよ、と我ながら思うが。

「はぁ・・・」

 目の前の生物を指し示す人称を選びかねて、顎にあてていた手にもう片方の手も添えると、彼は無造作にゴシゴシと顔を擦った。

 「どっちだろ?」

 呟く指の隙間から、もう一度、ソレを見る。青く輝くイルカのような下半身は、とりあえず置いておくとしても。上半身の、人間に酷似した上半分は、自分と同じ男のように見えるのだが。でも、顔は、どちらかと言うと女?みたいな?

「ホント、わっかんねぇ」

独り言を言いながら、眉根を寄せて彼はさらに考え込んだ。

「てか、」

  そもそも、この生物に性別なんてあるんだろうか?

「両性具有かもしんないし?」

 詳しく調べてみなければわからない。少なくとも地上の哺乳類にあるような、性別を簡単に特定できる器官が肉眼で確認できないのは確かだ。

「ぅあぁーもう!」

 彼はもう一度ガシガシと顔を両手で擦ると、唸り声をあげた。ぶっちゃけ、男か女かなんてどっちでもいいんだよ。

「問題はさ、」

「人か魚か?ってことでしょ?」

「おまえ、どっちだと思う?」

 宙は振り向きもしないで、背後に立つ声の主に問い掛ける。いきなり後ろから声を掛けられたというのに、これと言って驚きもしないのは、彼の唐突な言動に慣れ切っているからだ。

「どっちだろうねぇ?てか、俺にわかるわけねぇじゃん」

 独特の笑い声を含ませながら言うと、彼は小柄な宙の肩に腕を回し、うりゃっ、とばかりに体重を掛けた。

「そらちゃ〜ん、顔が恐いよ?考え過ぎるなって」

「谷川さんちの澪太郎さん、物凄く重いです」

「失礼だな、重かないだろ」

「重いよ、アンタ食い過ぎ。そのうちゾウアザラシみたいな体型になるぞ。バカの上、ゾウアザラシなんて救いようがない」

「バカって、ちょっとそれ酷くない?てゆうかゾウアザラシ?面白れぇじゃん。俺がゾウアザラシになったらここで飼ってよ」

 澪太郎は宙の軽口を気にもとめず、しかも楽しそうに大声で笑った。が、急に真顔になり呟く。

「な〜んて嘘。ここにだけは入れられたくないな」

「普通に、人間なら、そう思うよな」

 いまだ肩に掛けられている体重のせいで不自然に傾いた姿勢のまま、水槽を眺め続けていた宙は誰に言うともなくボソリと呟いた。じゃあ、コイツは?この、人間とも魚ともつかないコイツは、今、この中で何を考えているんだろう?人か、魚か。澪太郎の登場で一度は途絶えていた不毛な問いが、再び彼の脳内でリフレインし始める。コイツは人か?魚か?魚だとしら、半分は人のなりしてるコイツでも、心なんてものはないんだろうか?

 その時、水槽の中でクルリと踊るように身を回転させたソレと目が合って、宙はぎょっとし固まった。水中に生きる物ならではの、濡れてきらめく水鏡のような黒い大きな二つの瞳は、何か物言いたげで。今にも泣き出しそうにさえ見えて、思わず宙は目を逸らした。

「ねぇ、魚にも心ってあると思う?」

 さあ?と首を傾げつつ澪太郎はきっぱりと言い切った。

「コレが魚だとして、おまえさ、コイツを塩焼きにして食える?俺は無理。だから、コイツはどちらかって言うなら・・・少なくとも俺にとっては、人間なんじゃないかと思う」

 宙は感心したような顔で、にんまり笑う澪太郎を見遣る。

「おまえにとっては人間?すげぇな、その基準が塩焼きかよ」

「感心した?」

「呆れた」

「またまた」

 可笑しそうに笑うと澪太郎は宙の肩から腕を外し、難しいこと考えてないで昼飯食いに行かねぇ?と、その猫背をポンと叩いた。

「ああ、そんな時間か」

 そういや腹が減った。朝から何も食ってねぇや。空腹を思い出した宙は水槽から視線を外し、自分のお腹をひと撫でする。

「そんな時間だよ。いったいどのくらいここで水槽を眺めてたの?まさか朝からずっとじゃないよね?」

 澪太郎の言葉に、宙は答えに窮して苦笑した。

「えぇマジで?」

 だって仕方ない。どうにも気になるのだから。気になる?いや、違う。そんな生易しいもんではない。ここで認識を誤れば、俺は生涯、後悔することになるんじゃないか、だから…。

 宙の逡巡する気持ちを察している澪太郎は、ことさら脳天気に声を張り上げた。

「食堂が混む前に早く行こうぜ、急がないと定食がなくなる!ホラ、早く早くっ」

「うるせぇよ。おまえ、声デカ過ぎ。」

「声がデカいのは生まれつきなんですぅ。今日の日替わりはなんだろうねぇ。…人魚の塩焼きだったりして」

「おまっ!」

「うひゃひゃ。冗談、冗談。そんな顔すんなって。安心して。今日は豚の生姜焼きだよ〜」

「おまえが焼かれて食われちまえ!」

「え〜、そらちゃんたらヒド〜い」

「うるさい」

 自分の気持ちを盛り立てようとしてくれていることを充分に感じながらも、宙は憎まれ口を叩き、澪太郎の尻を蹴り飛ばした。

「先、行くからな」

「いってぇ。こら待て、置いてくな!」

 そうだ、考えたって答えは出ない。なら、自分の感性に従えばいい。彼のように。そう割り切れば、幾分、気持ちも軽く、

(なんねぇよなあ…)

 追いついてきた澪太郎のタックルを交わし、宙は後ろ髪をひかれながらも出口へと向かった。

「ねぇ!」

 くんっ、と白衣の袖をひかれ、戸口で宙は振り返る。

「すご…キレイ、だね」

 見れば、澪太郎が子どものような顔で水槽に見惚れていた。

「ああ、綺麗だな」

 澪太郎の視線を追った宙の目に映った、人とも魚とも、男とも女ともつかないソレが、クルクルと水中を自在に泳ぎ舞う姿は幻想的でやけに綺麗だった。『少なくとも…』先程の澪太郎の言葉を思い出しながら考える。少なくとも。俺にとってコイツは、人ではない。だけど、魚でもない。鮒を解剖するように、平気で体のしくみを探るなんて。

(できるわけない)

 体の半分は、どう見ても人間なのだから。

(このプロジェクトから外れたいな)

 宙は大きくため息をつくと、未だソレに見惚れる澪太郎の腕を引っ張って、半日も居続けた部屋をあとにした。

 人か、魚か。彼を悩ませている曖昧な境界線上の生物が、独り残された水槽の中で、ぶ厚いガラスに手をつき一点を見つめている。その様はどこか切なく、まるで確かな意志を持って、宙たちの後ろ姿を目で追っているようにも見えるのだった。

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