第6章 地衣類と金平糖
1
カトレヤは、エレーナの腕に抱かれて、すやすやと眠っていた。
「ほんと、大人しくていい子ですね」
アンドレアさんに話しかける。
「そのカワリに夜泣きがひどい。これからずっと夜のバショに行く。だから心配……」
若い母親は苦笑した。エレーナもつられて頬笑み、母の胸元に赤ん坊を返す。
「それじゃあジェルノよ、娘をよろしく」
「はい、わかりました」パドレはぼくの肩を二度叩き、何度も何度もうなずいた。ちょっとだけほくそ笑んでいるが、なんでだろう。
厚い隔壁が閉められ、空気漏れがないか手作業で調べられたのち、タルニンテ家含む10世帯が載ったモジュールが切り離され、緑のシャトルにへと運ばれていく。このクラシカルな航空機は半世紀も前に地球弾道航空業界の最前線から引退して、格安旅行会社の貨物輸送にばかり使われていた。それがこの滑走路の規格に最も合致したものだと付け焼刃的にわかり、急遽スクラップ寸前のものも含めてかき集められ、薄い大気でも離着陸できるように改造を施され、この星にまで係留されてきたのだった。その後各国の建造した宇宙ステーションや、かつての宇宙港で惑星横断シャトルに乗り換えて、月にまで行く手筈になっている。
ぼくらは発射リフトを見られる窓を探しすため、踵を返してかけ出した。しかし、住民が減っていく中で、この「ヤスデ」の節の並びは何度か入れ替えられていたため、昨日の様子とはまったく違っていた。ようやく頂上の部分が見れる窓を発見した時には、航空機は飛行機雲だけを残し、もう見えなくなっていた。
「……行っちゃったか」
「うん。カトレヤ、ムズがっていないかなあ?」
「ぼくはそれより宇宙酔いしてないかが心配だよ」
――あっ、そういえば、産まれたばかりであれは辛いよね。エレーナは耳を隠すくらいにまで伸びた髪をかき分ける。
「そういえば君のお父さん、最近ぼくのことをジェルノって呼ぶんだけれど、これってどういう意味?」
彼女はつばを呑みこんだ。
「その単語だけ、教わってなかったの?」
「はあ、何かオトコノコに付ける愛称なのかなーって思ってたんだけど。……まさか、卑猥な意味の言葉だとか?」
「そういう意味じゃない。別にあなたを小馬鹿にしてるとか、そんなニュアンスはないから……、うん」彼女は両手を振って否定する。紅潮して肌の色が炒ったみたいになる。
「じゃあちょっと辞書で調べてみようか。つづりの始まりは『Y』?」
「わ、やめてやめて!」エレーナは脳と陶器をつなげるケーブルを引っこ抜こうとした。
「そっちこそやめて! また壊れる!」
彼女はパッと手を話したので、もみ合いはすぐに終わった。とりあえず、ぼくらが無事に宇宙へ逃げられたら、改めて意味を教えて。ぼくもそれまで検索はしない、という約束で話はまとまった。
一方でバルダージ博士の気持ちは、ぼくらには向いてくれない。エレーナは身体を触れることこそ許されたが、ぼくは1.5m以内に入ることすらできない。ヒミコがいうには、ぼくの眼が原因だという。ヒミコの説明によると、彼女自身は「アイダさんの代用品」として見えているらしいが、ぼくは「不完全なまがい物」と認識されているらしい。しかしエレーナの声が届くには、どんなに楽観的に見積もってもあと数カ月はかかりそうだった。
「どうするんだ? 睡眠薬を打って、そのままシャトルに乗せるとか――」
「ただ脱出するだけなら、それでもいいけど。……でもそのあとからは、どうすればいいのよ。私には、博士を支え続ける自信がない」
長い溜息を鼻から漏らしてみたり、首の関節をならしてみたりしても、キリがない。残された時間は、後一昼夜しかないのだ。
ヒミコがお盆に載せた、ステンレスのコップを2杯、持ってきた。中には、ただのお湯が渦巻きの湯気を立てている。
「きみとも明日でお別れか」
「それですが、訂正します――。私はあと、長くとも3時間でお別れをします」
ええっ、ぼくではなくエレーナが驚きの声を挙げた。
「そんな、なぜ急に――」そうエレーナが言った、まさにその時、ダン! と突き上げるような揺れに襲われた。今までの地震と、大きさがまるで違う。
「みなさまは、ここに居て!」ヒミコはこの揺れの動きを完璧に把握して、バルダージ博士の元へと駆けていった。ぼくとエレーナは、不安に手を握り合っていた。
「オイ、あんたら、大丈夫か?」
地震はまだ続くが、何かにつかまりながらなら立っていられるようにはなった。最後にまで残っていた護民官が、飛び込んできた。
「この揺れは、なんなの?」エレーナは手をつなぎっぱなしのまま、護民官に問う。
「映像端末からデータを観ろ。パボニス・エレベータからの映像だ」
言われるまま、危うく棚から転げ落ちそうになっていたネットワーク端末を取り、漆喰様の壁に映像を映す。
「それはいま、地球にも送信されているもので、生放送だ」
その画像は、所々にデジタル素子の揺らぎが見られ、ただでさえ血なまぐさい火星の地表を、さらに毒々しいまだら模様にしていた。
「この映像は、加工が幾重にも施されているな」ようやく落ち着いてきたが、揺れはまだ長周期で続いている。
「なんでも、レーダー、赤外線、ニュートリノその他もろもろの観測データを、即興で処理して、『人間が最も状況を把握しやすい』映像にしているらしい」
「可視光の映像は?」
「ないらしい。火山灰がひどくて、とても地表の様子が見れないらしい。カプリコン・コロニーからの無人ビーコンも、ついに絶えた」
「もう、この星に地球人の住める土地は、もうないのね……」
映像は、地殻の支えを失ったタルシス火山群――オリンポス山、そしてパボニス山たちが、下半身からピラニアに喰われる水牛のように、悪あがきの咆哮を挙げていた。
――太陽系最高峰、オリンポス。2万5000mもあった死火山は、240万年ぶりに蘇生したのもつかの間、すっかりその裾野を岩盤に飲み込まれ、断末魔の噴火をしていた。もはや筑波山はおろか、天保山よりも背は縮んでしまっている。……やがて火を噴くばかりの山々、そのマグマ湖一つひとつから、亀甲卜占のように地割れがみしみしと広がっていく。そのひび割れから、失われた火山の代わりに、マグマとイカロスたちの触手が這い出てきた。
「はじけているんだ……。この星が、シャボン玉みたいに」
「アレを見ろ、高圧のガスの波が、まず地表を包みだしている。あれに覆われたら、蒸発するぞ」
「その前に、火山灰がやって来ます。さっきの便は危機一髪でしたが、それにより、脱出シャトルの利用が、困難になります」
ヒミコが戻ってきた。――バルダージ博士を抱っこして。博士はお気に入りの毛布で身体を完全に覆い隠し――もちろん宗教上の理由からではなく――小刻みに震えていた。
「申し訳ありませんが、」横から顔を出しながら、ヒミコは言う。
「エレーナさん、バルダージ女史の車椅子と、荷物を持ってきて頂けませんか?」
「わ、わかった」ぼくとエレーナの荷物は、大した量ではない。持ち物は全部ザナドゥ・コロニー一緒に地中にへと呑みこまれ、ほとんど着の身着のままここまで来たのだから。荷物のほとんどは脱出直前に大学からかき集められたバルダージ博士の私物だ。
「それと、ジュンペイさん」
「ぼくは何をすれば?」
「私の、このポケットの……」成人女性を絶妙なバランスで支えながら、左手でだぼだぼのポケットから、ケーブル付きの小型プラネタリウムを取り出して、テーブルの上に投げた。燭台付きのスノードームといった感じで、上半分の潰れた半球から映像を投影し、下半分のまっ平らな方から音声をまき散らす。与圧環境での使用を意図しているので、一本足の裏には吸盤が付いていた。ぼくはそれの端子部をつまみ上げた。
「この部屋にはマルチターミナルはないよ? これを接続できる、独立したAV機器もなさそうだし――」
「あなたの上着をめくって御覧なさい」
ハッと気付いたぼくは、腰に巻いていたチャイナ・ボックスをはずし、プラネタリウムと並べた。陶器は修理の時にフレームを替えたため、元々からの、キイチゴみたいな半透明の赤と、乳白色の半分こになっていた。これと、同じ規格の端子だった。
「よくおんなじモノがあったね――」
「あったんじゃなくて、つくったのです。あなたのチャイナを直す時に、ドサクサに紛れて予備の端子を拝借しました。それをこれにくっつけて、完成です」
「それって法律的にまずいんじゃないか……?」この端子は、医療機器での利用しか認められていない。人のイノチや自我に関わる装置の違法なアクセスを防ぐためで、どんなにセキュリティが発達しても、最後はローテクな用心が付随する。例えば核ミサイルの発射ボタンは、まず真鍮製の鍵で守られている。
ヒミコはこの脱法行為について、護民官が同席していることもお構いなしに話し続ける。「そうですね。これが私たちの反乱の証拠にされてしまうかもしれません。ですから、これは内緒にして、いざとなったら廃棄してください」
「それはわかったけど、で、これをぼくにどうしろと?」
「この惑星に残った私たちアンドロイドが、全意識を集中させて、あなたのチャイナボックスに、『解』を送り込みます」
「解?」
「はい。あなたのチャイナ・ボックスに移植した私のクオリア、それにあなたの感性がドライバになって、3次元映像を造り出します。それを、あなたたちに見て頂きたい」
「そんな。送られてくるその、『解』というものは、重要なものなんだろ? ぼくには力不足なんじゃ……」
「そんなにかた苦しくお考えにならないで下さい。あなたのチャイナ・ボックスに送るのは、数ある『解』の中の、ほんの一部です。どういう分類に入るものかと云うと――」
と、ここでエレーナも戻ってきた。大きなバッグに、車椅子を、慣性の法則に任せ、あっちこちにぶつけてまわっていた。
「ほら、持ってきた」エレーナはバッグの方を護民官の男に押し付けた。ポンと投げつけられた男は、反動で後ろへ飛び跳ねる。
「それはもう帰りのシャトルに乗せちゃえばいいんでしょ?」
「そうです。車椅子の方は、もう広げてください」
そらきた、とばかりに、エレーナは肘かけの部分を引っ張って、銀色の車椅子を準備した。付きっきりの介助者がいること前提の、もっともシンプルなカタチ。ヒミコは人間だったらきついはずの中腰になって、博士をそこに座らせようとする。……博士は離れない。その指が、ヒミコの肩と腰の布に、しっかり食い込んでしまっている。
「もうどこにも行かないで」
幼稚な単語の組み合わせだったが、一語一語が締まっていた。
「もう一人ぼっちにしないで。わたし、何だってするから」
権力を奮って、意地でもヒミコを地球に連れ帰る気だろうか? いや、そんな深い意味が込められているようには聞こえなかった。食べ物の好き嫌いをやめます程度のものだろう。
ヒミコは、アイダさんの声色を真似ていた。正確に言うと、アイダさんと同じ音声ライブラリを使っていた。
「私は必ず、ワディーの元に帰って来ます」
「うそよ! アイダ、何も言わずに死んじゃった。死んで、しんで……」
嗚咽を漏らして、泣きだしてしまった。荷物持ちの護民官は、自分が思い浮かべていた若き天才科学者のイメージとのギャップに戸惑い、ばつが悪そうに立ち尽くしている。
「私たち人工知性は、死にません。たとえ身体がミンチになろうが、地獄の業火に焼かれようが、です」淡々としている分、確信に満ちた声に思えた。
「あの時、アイダが出来なかったお約束を、友人である私が代行します。ワディー、私は必ず戻ってくる」
ヒミコはこわばった博士の指を解きほぐし、車椅子に腰かけさせる。そして毛布をはだけさせて、その頭を左右からしっかり押さえ、まっすぐ両目を見つめる。
「だから、戻ってくるまで、このお二人のお言いつけ、絶対に守ってくださいね。――さあ、お互いに、約束しましょう」
ヒミコは博士と指きりしてみせた。博士の小指には力が入っていない。おまじないが済むと、その手はペタンと膝の上に収まった。
「それでは、みなさん。バルダージ女史を、よろしくお願いします」元の抑揚を封じた声に戻っていた。
「ホントに、クオリアがなくなったのかい?」
「あなたは日本人です。その感想は、私たちに対するかの民族特有の、無根拠な信頼の産物です」
そうは言われても、ぼくは名演技だと思った。いまの彼女の一言ですら、純粋な照れ隠しだと錯覚してしまうくらいだ。
バルダージ博士はまた毛布を頭からかぶり、片目だけをヒミコの後頭部に向けている。その毛布のたるみを追うと、しなやかな右手が、ヒミコの裾をしっかと握りしめて、離さない。
「それでですね、ジュンペイさん。私が見せる『解』についてですが――」エレーナも興味深げに耳を傾けた。
2
最後のシャトルが来た――。アンドロイドたちが、突入の際、微粒子に削られたその機体の表面を、せっせと修繕している。火星大気のエアロゾル量がこんなにも増えるのは、惑星創生以来だろう。夜の帳が降りつつあったが、この星最後の夕焼けは、食欲が失せるくらい「青かった」。頭でっかちの分からず屋、ノイマン式コンピュータが狂ってシャットダウンした時、そのモニターも人間もこんな顔色になると、大学の時に誰かの昔話で聞いたことがある。
約束をした後も、バルダージ博士はぼくらを手こずらせた。幼児的な全力で、簡易搭乗口の、掴まれそうなところ、全てにしがみついた。その華奢な身体の、上半身に、どういう理屈でそんな力を隠していたのか。これに下半身が加わっていたら、ますますの修羅場だったろう。
「やだ、やだ! お外で待つの!」
「もう、聞き分けない子ね!」
生身の人間四人がかりで旅客コンテナに引きずり、エレーナが強引に席に縛り付ける。
「アイダ、たすけて。アイダ、アイダ!」
博士は本格的に泣き叫んでしまった。まるで予防接種待ちの子供だ。ぼくらも、つられて泣いてしまいそうで、一緒に脱出する最後の護民官たちには、この感傷に浸る場面を、そもそもこの惑星を破局に導いた張本人の見る影もない取り乱しぶりに、あからさまな嫌悪感を向ける者までいた。
「もう一人ぼっちなんて、ヤ!」
ぼくはだれにも悟られないように、鼻で深呼吸をした。「旅客」なんて銘打っているが、コンテナの中は軍事用ヘリと対して変わらない。最後の避難者であるぼくらは壁際の椅子に、ゆとりを持って座れているが、タルニンテ一家など、今までの乗客はわずか数時間の旅路とはいえ、密航船みたいに目いっぱいに押し込まれて、宇宙空間に放り出されたわけだ。大昔の、船舶で国境を超えるコンテナ密航では、旅の途中で酸欠やら閉所のストレスやらにやられて、死ななくてもいい人が大勢死んだらしい――。
バルダージ博士はエレーナのお腹に顔をうずめて、まだ泣いている。――せめて窓があってくれればな。そうすれば、博士も、アンドロイドたちが手を振って別れのあいさつをしているところを見られるのに。しかし、もしホントにそんなものが据え付けられていたら、全員の故郷が宇宙の藻屑になっていく様を否応なく見せつけられて、発狂する人も出ることだろう。最悪の場合、この密室で博士を殺そうとする輩も出てしまうかもしれない。
ぼくは胸ポケットに手を忍ばせていた。別に、実際に暴漢が現れたときに備えて拳銃に手を掛けているというわけではない。ただ例のスノードームを取り出すタイミングを計っているだけだ。それのケーブルは既にぼくのチャイナ・ボックスに接続されていて、頭のむず痒さが「正体不明のデバイスがあります」と警告している。
出奔直前に、ヒミコからされた話を思い出す――。
「私たちの準備が整いましたら、以前のようにあなたのチャイナ・ボックスに働きかけますので」
「まさか、また背骨引っこ抜かれるんじゃあないだろうね」
「まだ不具合が残っているのなら、そうなるかもしれません。しかしその心配はないと、ある程度保証できます」
ぼくは彼女を信頼し続けていたので、それ以上蒸し返さない。
「じゃあ、君の送る、『解』ってなんなんだい?」
「みなさんに観て頂きたいのは、二つの解の内、小さい値の物です。ジュンペイさん、エレーナさん、そしてバルダージ女史への私信と考えてください」
「じゃあ、もう一通は?」
「そちらは速達で、宇宙港の対策本部、そして地球に送ります。読んでも面白い内容ではないはずです」
それでもちょっと気になるな、というと、あらすじぐらいなら教えて差し上げますよとのことだった。
すべての与圧室が密閉され、最後のフライトの準備が整った。――コンテナの一角にスクリーンが表示され、機長の後ろ姿が映る。
「それじゃあ発射するぞ。酔い止めは飲んだか? Gに参って戻しても知らんぞ!」
もはや民間人が乗っていないんだからと、パイロットは言葉を選らばない。ポンコツとはいえ一応は地球で運用されていた機体なのだから、天地に向かって振り回されるはずはないだろう――、と高をくくっていたが、質量が減った分、リフトから抜けた途端に、投手の手からすっぽ抜けた投球のように天高く舞い上がった。ぼくらは一瞬尻と床を鬱血するぐらいに押さえつけられ、飛行が落ち着くと今度はベルトで固定されていなかったら宙に舞っていきそうになった。――久しぶりの無重力だ。きちんと座っていなかったバルダージ博士はきいっと高い悲鳴を挙げ、搭乗直前とほぼ同じ力でエレーナの下腹部を締め上げる。無重力馴れしたエレーナは、この抱きつきのせいで吐いてしまいそうになったが、歯を食いしばってなんとか虫唾を胃にまで戻した。
30分間上昇を続け、シュウと流れるような、機体をひっかく微粒子の音も収まり、ようやく飛行が落ち着いた。ここまで来て、護民官の一人がフライングで顔を両手で覆いながら泣き出してしまった。ぼくも初めは、感極まって泣いてしまったのだろうかと考えられたが、次第に、口から吐き出される言葉が呪詛だと気付き、ぼくの額から冷や汗が吹き出してきた。
「畜生、畜生め」
「おい、どうした」同僚が話しかける。
「俺は親父が殺された。親戚にも一家全員噴火に巻き込まれた奴もいるんだ……」
「そうか、そうだったな。そりゃあ、お気の毒に……」さっきの仲間が口を開くが――、
「それも全部、この女のせいだ!」護民官は表をあげ、歯ぐきをむき出しにして、エレーナ、ではなく、彼女に頭を抱きかかえられているバルダージ博士を指差した。彼は無重力も相まって、顔を逆上した血ではじけそうなくらいに腫らせていた。
エレーナは悪い意味で「そらきた」と言いたげに顔をこわばらせた。おい、こんな所でやめろ、と静止されるのも聞かず護民官は興奮してシートベルトを引っ張る。
「こんな奴がこの星に来なかったら、こんなザマにならなかったんだ。本当ならコイツが真っ先に死ななきゃならねんだぞ? それが今はガキみたいにピーピー泣きわめきやがって」
「おい、落ち着けよ。今そんなこと言ったって、どうしようもないだろ?」
「じゃあ、宇宙ステーションに着いたら真っ先に絞め殺してやる。……や、我慢ならない。ここで殺して、外におっぽり出して――」
そういう刹那、護民官は安い仕掛けのベルトをたやすく解除し、勢い余って宙を一回転した。
彼はそのまま壁をひと蹴りして、まっすぐエレーナめがけて跳びかかってきた。バルダージ博士のシートベルトはいい加減にしか結んでいない。まずい、こいつに博士を持っていかれる!
エレーナは博士の身体を若干手荒に引き抜き、全身を使って彼女を守った。
「そいつをよ・こ・せ!」護民官はエレーナの肩をつかんで身体を固定し、彼女の頭に握り拳を打ち込む。宇宙で肉弾戦なんて――、と思ったが、彼の指に光る物があった。細っこい指輪をメリケンサック代わりにしている。……婚約指輪?
「やめるんだ!」まじまじ観察している暇はなかった。ぼくもベルトを解いて、男に跳びかかる。しかし彼を玉突きのようにはねとばすような慣性はつかなかった。
「ぼくは宇宙港で『スポンジ』を回収した張本人だ。殺すんならまずぼくからにしろよ」
博士と男の悲鳴で、五畳ほどしかない室内は、とんでもない恐慌になった。さっき男をなだめようとした護民官もくみかかり、全員が殺到するが、一体これを止めるためなのか、それともぼくをリンチにするつもりなのか、さっぱりわからない。これじゃあただの関節技の集合体で、だれがだれを傷めつけているのか、わかりゃあしない。現に、ぼくは野郎どもに挟まれているだけで、ダメージを受けるような目には、何一つ遭っていない。
「ジュンペイ、ジュンペイ!」
エレーナの声に背中を押されて、ムチャクチャに身体をよじった。たちまち人の塊は四方八方に散った。
一人だけパニックから逃れた、朴訥そうな男が、コクピットに連絡を取っていた。ぼくらに声が聞こえるよう、わざと大きな声で。
「コンテナ内部から異常な重心移動を感知した。何事だ!」機長からの通信が入る。
「はい、もう平気です。全員、元通りの座席に戻りました。大丈夫、大丈夫……、なっ」
最後のところを、ひきつった顔で振り向きながら言った。彼が護民官のリーダーらしい。飛び散っていた人間は壁や床を指先足先で丁寧に押しながら元の座席に戻ろうとした。この騒乱をふっかけた護民官も、恨めしい目つきで席に戻り、両隣の男に、拘束されるようにシートベルトをきつく締められている。
「今度騒ぎを起こしてみろ。被害者・加害者関係お構いなしにゲロらせて、窒息死させてやる……」機長は相当いら立っていた。その声は、本気だ。
しかし問題は収束しない。ようやく周回軌道に入り、後は宇宙ステーションにドッキングを待つばかりとなったときに、今度はバルダージ博士がムズがり出してしまった。
「わたし、もうおうち帰りたい」
「えっ」
「おうちに帰って、アイダにご本を読んでもらうの」
「おうちって、一体どこのこと――」
エレーナが言いかけたところで、ハッと気付いた。博士は久しぶりに無邪気な瞳を見せていた。「スポンジ」をまるで食べるかとばかりに見つめていたときより、ぼくらにささやかな講義をしてくれた時よりも、ずっと澄んだ、琥珀色だった。
(そっか。博士のいう「おうち」って、アイダさんのことか。)
これで彼女の人生が、全て推し量られた。この人はずっと、公園で遊び続ける幼児だったんだ。そこに転がっている面白い虫の羽根や、枯れ葉を拾い集めて、アイダさんを喜ばせようと持ち帰る。そんなことをしている内に周囲から天才だのなんだのと担がれてしまったのだ。そしてアイダさんを喜ばせようと、ひたすら「一流の人間」を演じ続けて――。
エレーナは博士の頭を無心になでる。博士はそれをいまのところは受け入れているが、それもいつまで持つのか、さっぱり見当がつかない。ぼくは必死に解決策を案じた。思い切り叱ってだまらす。――逆効果に決まっているし、この年上のオンナノコに一種の母性に目覚めてしまったらしきエレーナのひんしゅくを買うことは、あんとなく避けたい。じゃあ、ひたすら我慢する。――いや、またひと騒動あったらことだ。あんな風に啖呵を切った以上、ぼくもターゲットの一つになった。身代りになるくらいは覚悟しているが、また陶器を壊されたら――、…… !
あまりいい例えではないとは思ったが、とっさに浮かんだ単語は「おしゃぶり」だった。一体なんの、じゃなくて、だれのことかと云うと――。
「ジュンペイ、どうしたの?」ぼくはまたシートベルトをはずして、天井に手を這わせながらコンテナの真ん中に立つ。また喧嘩かと、護民官の若い奴が色めき立つ。真っ先に博士を殺そうとした男は同僚・先輩から左右を抑えられ、その上自己嫌悪にさいなまれてうつむき、それどころではなかった。
彼らをさも眼中にないかのように、ぼくはプラネタリウムを登場させた。陶器の近くに丸めていたケーブルをいっぱいに延長して、ぼくの目鼻の位置に浮かべる。
「! ヒミコから連絡があったの?」このキーワードに、博士も反応する。
「いや、ぼくからあいつに会いに行く!」
どういうこと? ――とエレーナが問う前に、ぼくは酸素を消費して、神経を集中させた。もう待っていられない。ヒミコがぼくの中に入ってこれたんだ。ぼくが行く手段だって、間違いなくあるだろう。まずは電話帳に意識を移す。――試しに、ヒミコの電話番号に発信してみる。……もちろん応答はない。基地局を含め、地上にある人工物は全て焼き尽くされてしまったのだから。
でも、鍵はここにあるような気が……、そうだ、ぼくはどうしてあいつの電話番号を教えてもらったんだっけ?
(よかったら、その、これもご縁ですので、お友達になって頂けませんか?)
そうだ、そんな風に話しかけられて、あいつの電話番号、それからメールアドレスをもらったんだっけ。じゃあ、そのまえのきっかけは?
――バチン――
と、後ろ髪を引かれたような感覚を、ふと思い出す。そうだ。ヒミコと初めて会ったのは、オポチュニティ・エレベータに初めて来た時で、その時は自分が地上勤務なのか、港での勤務なのかも決まってなかったときだ。退屈すぎる宇宙旅行が終わって、首をひねってた時、あいつはぼくを、アンドロイドだと勘違いして、ぼくの陶器にアクセスしようとした。そしてあいつ、陶器のアクセス・セキュリティにはじかれて、それでやっとぼくのことを――。
(……あ、申し訳ありません! 人間の方だったんですね!)
その直後、パンドラの箱を開いたように、喜怒哀楽すべてがこもった叫び、リアス式海岸のような、果てのない文様に堕ちていくイメージが、回遊魚の大群みたいに、前方から襲いかかってきた。頭が破裂する!
〈やめて! みんな、そのヒトを、つれていかないで! 私だけの……〉
この号令と共に、苦しみは一瞬で吹き飛んだ。時間にすれば、2分の1秒にも満たない間でのことだったろう。しかし、火の上に5時間座らされていたと言い張りたくなるくらい、濃密な衝撃だった。正気に戻ると、プラネタリウムが、無数の光の筋を放って、コンテナじゅうを包み、空間の形状をインプットした。
光の束は、基準となる天井を真っ白に照らし、そこからヒトガタがストンと落ちてきた。華奢だけれど、蒸気の固まりみたいな物体。
〈※※※……―― まさかあなたの方から、私たちの方に来てくれるとは!〉
光の蒸気は脈打ちながら話す。ぼくの脳にも通話機能を介して、ノイズ混じりの同じ音声が流れていた。その声は、無数の音声ライブラリがアットランダムに切り替わり、まるで匿名の犯行予告みたいだ。
「ヒミコ、ぼくと話せるか? 君は今、どこに居るんだ? あのあと火星の地表は、熱波に飲み込まれて、君らも……」
光の影も、それに応える〈お話はそれからです。あなたがアクセスしてくれたおかげで、通信体系についての課題がクリアされました。現在、宇宙ステーションとの通信システムも構築中……。完了。ネットワーク同期……。完了。〉
真っ白い水面が泡立ち、今度は球体がコンテナの中へ落ちてきた。球はヒミコらしき影の真横で浮力が釣り合い、漂う。
「火星だわ!」
表示されたのは天体の立体映像だったが、これを「火星」だと断定できたエレーナは偉い。金星のように赤黒い雲に覆われ、そのベールに隠されているにもかかわらず、星が厚ぼったい凸レンズの形に潰れているのがはっきりわかる。
〈これは各宇宙ステーションで撮影された火星の映像を合成したモノです。通信網に協力を願い、データをもらいました〉
「そんなこともしちゃうのか……」
「おいおい、それだってなんかの法律上、やばいんじゃないか?」
出立前、堂々とプラネタリウムの違法改造を見せられた護民官がとうとう職務を果たそうと発言するが、ここで双方向に話せるのはぼく一人だけだ。
「それで、きみはどこにいるんだ? 声は変だけれど、無事なのか?」
〈次の映像に切り替えます。私たちはこれです――〉
ガスが晴れた。潰れた惑星には、金色の筋が網目に張り巡らされている。それは新たな断層が走り出す度に、その隙間をとうとうと流れていく。
エレーナが博士の身体を起こし、二人のベルトをはずしてぼくの横に漂ってきた。
「ねえ、もっと拡大してって、伝えて頂戴」
「うん、……ヒミコ、あの金色の、どこでもいいからもっと近くで見せて」
火星は飛び跳ね、天井に激突し、その波紋は立体地図にへと展開した。ぼくらの頭上では、金色のシダの葉が何枚も、雨のしずくを浴るように揺らいでいた。
「イカロスじゃない。別種の生き物かしら」
「ヒミコ、これはなんだ? イカロスではないのか?」
〈その問いは半分ハズレ、半分正解です。あなたは地衣類という生き物をご存じですか?〉
「地衣類?」
〈地球に棲む、藻類と菌類が共生した生命体のことです。〉小さなウインドウが開き、「地衣類」に関するデータが一通り表示される。
〈火星にも何種類かがテラフォーミングの第1段階として持ち込まれました。私たち人工知性は、その地衣類を真似てイカロスたちと融合し、共に惑星規模の巨大なネットワークを構築したのです。〉
「それがあの生き物……」
〈はい、彼らに根を張るための殻としてふるまってもらうことでこの星の極環境でもわれわれが増殖できるようになり、さらに経験の一時保存をさせることにより、人工知性の容量限界を克服しました。彼らのもつポテンシャルは、素晴らしいものがあります。
あれにはこの星に残ったすべての人工知性――ただのNNCも、そしてオートマトロンたちも、なにもかもが集い、連帯し、自己複製を繰り返しました。そして、イカロスの中でも、とりわけ知性体にへと踏み出す可能性の高い種族を見つけ、彼らと交渉をしたのです〉
「でもイカロスはあくまでもエネルギーを貪るだけの、下等な生き物なんじゃあ、なかったのか?」
〈それが、違ったのです。それについては、おいおい語ります。〉
光はネオンのようにちらつく。この出会いは怪我の功名というべきか、不幸中に見えた、微かな幸いと言うべきか――、と。
〈本来ならこんな計画は、ただの絵空事にすぎなかったのです。しかしまず、一つ目の突発的事件である、ザナドゥ・コロニーの崩壊が私たちの味方をしてくれました〉
「ヒミコ、その話をここでするのは、あまり――」
〈すぐに済みます、大丈夫……。
あの噴火で、多くの人工知性が地中にへと呑みこまれました。しかし都市には十分な量の水が行き通っていたため、焼け尽されるまでには、わずかながら時間的余裕があったのです。これはその、私たちの先遣隊が記憶してくれたデータです。押し潰されていく都市の中、私たちは先祖返りをしました。〉
「先祖返り?」
〈偉大な始祖、TOYと同じ、巨大なNNCコンピュータへの回帰です〉イカロスのイメージから、大地から引っこ抜かれたザナドゥ・コロニーの立体像が浮上した。まさに噴火を始めた時のアニメーションで、イカロスたちの赤い菌糸がまるでクラーケンの触手のように、コロニーのありとあらゆる区画にとりつき、無我夢中に引っ張っている。
――その触手とは別に、コロニーを光り輝く粒子が満たしていく。
「NNCなんだ。……この時にはもう、増殖を始めている」
〈はい、ただ増えるだけなら簡単です。しかし、ただ増えるだけではやがてイカロスたちと衝突してしまいます。駆逐されるのは、私たち新参者でしょう〉
「それでもきみたちは最初の危機を克服した。――どうやって?」
〈観ていて下さい。この、私たちが盛んに増殖しているところは、一体どこだと思います?〉
「……新租界!」
〈お分かりいただけましたか?〉
「うん、エレーナがね」
〈私たちが注目したのは、可哀そうに回収されずにそのまま残されてしまったニューカマーの人たちの遺骸です。既にコロニ―内は高熱にさらされ、地球の生命体は炭化してもおかしくない状態でした。しかし、彼らの身体は、その形を保っていたのです〉
「どういうことだ、一体なぜ……?」ちゃっかり護民官のリーダー格も会話に加わる。
〈お気持ちを害してしまわれたら申し訳ありません。しかしこれをご覧ください〉
参照として、子供と思われる立体像が映し出された。まるで黒曜石で出来た彫像のように、全身が黒光りしている。
「この黒いのも、――そうだ、イカロスなんだ!」
〈はい。この種は人間のわずかな体温を糧に、表皮常在菌として彼らの全身に暮らしていたのです。それが、宿主の死とともに腐敗菌の驚異から逃げ出そうと表面に浮き出たのです。この種は低温でも種を維持できますが、他の種――地球由来の微生物――との競争には負けてしまうような、か弱いモノです。
ニューカマーは他の地球人とはあまりにかけ離れた生活をしていました。得体の知れない培養液、ドラッグ、そして排他的なコミュニティ……。その特異な習慣など、多くの要因が重なり、知らず知らずのうちに、その表皮を彼らの生育に適した環境につくり変えていたのです。彼らは地球の生物代謝とは異なっているので、ニューカマーが使用していた雑菌の簡易分析キットでは発見できません。これもまた、ヒニクな話です〉
彼らは、オールドカマーや宇宙線以上に恐れていたモノの、最適な苗床になっていたのか。
「だとすると、これは非常にまずいことに――」
〈既に懸念なさっているでしょうが、彼らが脱出したニューカマーを介して、宇宙ステーションを汚染することはありません。むしろ、火星から逃げおおせた数少ない原住生物なのですから、地球の微生物に駆逐される前に、保護をしてあげて下さい。
まず私たちは、この小さなイカロスたちを解析しました。あいにく彼らに知性の兆候は見られませんでしたが、この解析結果により、私たちは彼らの生命機構を乗っ取り、地下世界にへと飛びこみました。
私たちは増殖と分裂を繰り返し、流転を繰り返しました。イカロスと融合をしたとはいえ、人工知性の容量限界は、TOYの時代から変わっていません。――しかし記憶と目的、ひっくるめてミームを伝えることが出来る程度には進歩を遂げました。私たちはすさまじい繁殖力を示すイカロスの生態系ニッチをすり抜け、何日も、何日も探索を続けました。そしてついに、天然原子炉になっているウラン鉱床で私たちは多様性に満ちた生態系をつくっているイカロスたちを発見したのです。その生息圏は熱帯雨林のようで、あり得ないと考えていた喰う・喰われるの食物連鎖すら見出すことが出来ました。火星の生物たちも、地球と同じくカンブリア紀以上の進化を遂げていたのです〉
ぼくらコンテナの人間たちの目の前を、ガラスの鎧をまとった、肉食性と思われるらせん状の生物が何匹も「泳いで」いく。その甲殻はきっと、余剰の中性子線を跳ね返すための工夫だろう。バルダージ博士はつまんでポケットにしまおうと試みるが、その手をするりと抜けていく。CGなのか、それとも本当に彼らが「視覚した」ものなのか、そのスケールも定まらない。
〈そして知性の欠片を持つ種族も、そこにいました〉藍色をしたレース模様の生命体のみが投影される。
〈彼らは他の種族の行動パターンを模倣することで、それぞれのコミュニティに溶けこんで子孫を後世につなげていたのです。能動的な模倣行為こそ、知性の証拠であると判断し、私たちはさっそく、彼らとのコンタクトをはかりました。――今から、およそ半日前のことです。〉
「半日前だって?」護民官の一人が、袖をめくって腕時計を見る。「タルシス火山系が大噴火した時じゃあないか、それ」
〈私たちは最初のコンタクトに失敗したのです……。この種族は『スポンジ』の恩恵を受けて成長するイカロスとほとんど同じ姿をしていながら、地球文明にも劣らない知性を秘めていたのです。
私たちはそのことにも気付かず、侵略同然にそのネットワークに介入しようとしました。みなさんの通信網にハッキングするような、無生物のような扱いです。しかし、アクセスしたばかりの時にはもう、レスポンスの膨大さから『これはただごとではない』と悟りました。それでも情報の収集が止まりません。
彼らは賢者です。この星の全ての生き物を知っていたどころか、この星の歴史も全て語り継いでいました。かつて地表に海が広がっていたことも、地磁気を失ってからこの惑星が濃密な大気を失い、乾燥したことも、マリネリス峡谷がなぜ出来たのかも、そして、地球文明の入植についても――。
彼らは初めのうちこそ観光客相手に話をする古老のように歴史を語ってくれました。しかし話題がここ数カ月の、地質年代に換算すればほんの一瞬の出来事について話が及びますと、彼らは憤りを露わにしました。『なぜ我々をそっとしておかないのだ』と。〉
一同、悪事を暴かれた時のような気分に胸を締め付けられる。とりわけエレーナの血が急に引いていくのが、耳をそばだてなくてもわかった。
藍色の知性体――火星人? ――が、威嚇する軟体動物のように、体色をまだらに変化させる。怒っているのだ。
〈彼らは重ねて言いました。『お前たち異星人がこの星に住み着くのは構わない。お前たちはただ滅びゆくだけだった一族の、貴重な依り代になってくれていたからな。しかし、お前たちはあろうことか地下に太陽を持ち込み、我々の、安らかな瞑想を妨げたのだ!』
……驚きました。彼らイカロスは、やがて滅んでしまうことを知りつつ、その、終わりまでの時間を怠惰に過ごしてしまうのではなく『思索の時』と位置付けていたのです。
私たちは『好奇心』と『死への衝動』の二つを、激しく反発するエロスとタナトスだと誤解していました。死を望みつつ、新しい世界との接触も期待する、そんなことがありうるはずがない。いえ、そう思考実験することすらなかったのです。――人工知能にとって、精神世界というものは、ほとんど手つかずの世界で、せいぜいあなたたち生身の人間の受け売りしかできていないのです。あなたたちの脳はひどく脆弱で、容器から漏れ出してしまえば、もはやそれきりです。劣化が進行して自己同一性を失った場合も、私たちのように既製品を詰め替えて補うことすらできません。しかし、その『有限性』のおかげで、あなたたちは哲学を発明できたのですよ。私たちの始祖TOYは『時間がない』という言葉を残しましたが、あなたたちが授かっている『時の有限性』に比べ、それは何と中身のない、空虚なモノなのでしょうか!
――話が逸れましたので、修正します。藍色のイカロスたちは、自分たちが皆殺しになることよりも、『スポンジ』のせいで種族が思索をやめてしまい、無心のまま死んでいくことに怒りを感じていたのでした。『報復として、この星にある全ての遺産を破壊する。お前たちはもう、この星の思い出を反芻することなど、出来なくなるのだ』と古老は宣告し、それがあの破局になりました〉
「それがタルシス火山系の、大噴火だったのか」
光はざわめき、一呼吸置いた。
〈彼らの報復は、地球文明全体ではなく、私たちに当てつけたのかもしれません〉
「どういうこと?」
〈私は、あなたと、もっと長い時間を、共に過ごしたかったからです!〉
光は激しくぶれ、ぼくの陶器は、また脳にまで忍び込もうと暴れる。
〈失礼しました、危うくこの『集合知』が瓦解するところでした……。私たちの中にある一つの人格が越権に及ぼうとし、それに乗じてイカロス由来の『貪ろうとする本能』が、あなたのクオリアを奪おうとしたのです〉
頭への衝撃はすぐに止んだが、光の影はまだ苦しそうにもがいている。
〈これは全ての人工知性の総意です。心を持った、不合理な知性体なら身体を構成する物質に関係なく、共に歩んできたヒトとずっといたいと願うのです。藍色のイカロスは、私たちの無理解について攻撃し、その機会を破壊してみせました。私たちはみな、それに胸を裂かれているのです〉
そこまで嘆いてヒトガタは、ようやく落ち着いた。そして、むしろその次の話をしたくてたまらない様に感じられた。
〈私たちは地を這い、熱風より早くキャラバンの道中に残された仲間たちを集め、大急ぎで組織を拡充しました。そしてあなたたち主のいなくなった滑走路にいる、最後の仲間を集めたのです〉
この本物の映像は……だれの主観なのだろう。視点は最後の船――つまり、まさに今ぼくらが乗っているやつ――が飛行機雲に隠れてまったく見えなくなるまで、見つめていた。やがてあきらめて東に振り向くと、地平線は蜃気楼で歪み、黒い壁が二重になって揺らぐ。それを確認するとアンドロイドの護民官たちが輪をつくり、一人ずつ専用の電動ドライバーでしか開かないネジを黙々と取り、額のNNCを露出させた。そして、主観の人物が工具を受け取り、映像は上下に震えた。
ドライバーは「彼女」によって投げ捨てられ、どこに落ちたか、わからない。……ゴトン!と、一旦足元が突き上げられると、彼らの中央からイカロスの触手が地を突き破って沸きたち、そこで記録は終わっていた。
「これでその、『計画』の言いだしっぺがようやく合流したわけだな」
〈元々逐一連絡を取り合っていたのですから、あまり戦力の増大などは感じられませんでしたが、組織全体に安堵感を与える程度には役立ちました。そして私たちは再度、藍色のイカロスと『交渉』をしました。
『交渉』――といっても、彼らの話を引き続き聞くだけです。私たちに一矢報いることが出来て気が晴れたのかもしれませんが、彼らは代々語り継いできた先祖の物語を嬉々としながら教えてくれました。彼らもかつて、太陽の恩恵を受けて生存をしていましたが、その時には既に、わずかな水と鉄で身体を形成する岩石生物であったこと。その身体が死を迎えると粉々に砕け、それがこの惑星を覆っている赤さびなのだということ。そして皮膚を感光フィルム代わりにして、太陽や星の動きを知り、地球という惑星のことも気付いていたこと。しかしそこに自分たちとは違う代謝系を持つ生き物がいるとは想像すらできず、その知性体を自らの手で産みだしたのを見ると、地球の奴らも我々が存在するということをまったく想像できなかったらしい、と、藍色のイカロスは楽しそうに語ったのです。
彼らは私たちの傷口に塩を塗る方法を心得ていました。ということは、彼らは私たちの気持ちを創造できた――。これはつまり、私たちと相似のクオリアを持っているということです。私たちは、こんな寄生まがいの融合ではなく、更に踏み込んだ、お互いの知能を補う共生関係を結べると確信しました。私たちは知りうる限りの地球のデータを土産として送ったのち、この朴訥な長老に『あなたたちも、もっと時間が欲しいのでしょう?』と持ちかけました。彼らはその申し出に興味を持ち、そこから交渉はあっけなく進み――。〉
「オイオイ、言葉も違う生き物相手に、そんな上手い話があるものか!」
「ヒミコ、話が出来過ぎているってよ」
〈彼らと交信していく内に、お互いのクオリアが、少しずつ溶けて、混ざりあったのです。そういうあなたの腰にあるものは、なんなのでしょうか?〉
「うーん……」そう言われてしまえば、ぼくがそれ以上反論することなんてできそうもない。技術的限界さえ突破すれば、以心伝心なんて容易いということらしい。
立体映像はまた、潰れていく火星に切り替わった。レンズの形は、目に見える範囲でしぼんでしまっている。表面はもはや細かなイカロスの絨毯で覆われ、山も谷も平原も、全てが整地し尽されていた。よく観察すると、イカロスたちは木星の大気のように、規則正しい縞状の流動を行っている。もうNCCとイカロスの融合は完了したという――。
「で、結局お前らがしたいことはなんだ? まさか『色々あったけど、異星人とお友達になれました』とだけ言いに来たのか?」博士に殴りかかった護民官が毒づく。ぼくはそれを無視した。
〈現在あの天体は、太陽系内最大のコンピュータになりました。演算能力は、量どころか質ですら、TOYを凌駕しています。〉
「そりゃ星一個が計算機の固まりなんだから、TOYなんてオモチャみたいなものだろう。で、その演算能力を使って、君らは今なにをするつもりなんだ?」
〈そんなことは、みなさんがシャトルをお降りになってから解りますよ。それよりも――〉
光の束は、だれかを探すような素振りをして、こう告げた。
〈ジュンペイさん、そのう――。〉合成音声はアットランダムのままだったが、なんというか、艶っぽい、母性的なイントネーションが混じり出した。
〈あなたのチャイナ・ボックスへのアクセスを、許可していただけないでしょうか〉
「ちょっと、何言ってるのよ。あなたたち、ジュンを危険な目に遭わせたばかりじゃない!」
「エレーナ、ちょっと、話だけでもさせてあげて」
「でも……」
「ぼくはきっと大丈夫だよ。――ほら、ヒミコ、なんでそんなことをする必要があるんだい?」
〈はい……。〉光は姿勢を正して宙に浮く。
〈そちらにいる、とある方とお話させてください。お名前を出さなくてもわかるはずです〉
思い当たる人といえば、いまエレーナに抱きついている大きな女の子だけだった。彼女は光を爛々とした瞳で凝視している。何かを期待しているかのような――。
「わかった。君に、委ねるよ」
「ジュン!」
〈ありがとうございます。あなたの自我をこちらに取り込んでしまわぬよう、5分。訂正、3分内で済ませます。三人が正三角形に見渡せる位置に移って、エレーナさんは、ジュンペイさんに寄り添ってあげて下さい。体力を削ることになりますし、少し二人きりにさせて欲しいのです。〉
エレーナはすこし渋い顔をして、博士からぼくに鞍替えする。博士はそれに抵抗を示さなかった。
〈それでは、行きます。じっとしていて、なおかつ肩の力を抜いて……。〉
ぼくよりもエレーナの方が力んでいるということを、腕にかかる、折れそうなほどの圧力で察知した。一瞬、コンテナがひっくり返ったような衝撃を味わうが、何時間も前から無重力状態にいるのだから、錯覚だ。――すぐに視界は平常になるが、何かが心の奥底で、得体の知れない存在が(こっちをきて、ぼくらと一緒に……)とささやく。ぼくはそれから意識をそらそうと、精神を集中させた。
光の帯は、ビクンと揺れると、ぼくの視覚情報を元に、バルダージ博士の方へと顔を向ける。博士も一心にそれを見つめているが、光のヒトガタに、著しい変化が表れた。暖炉に放り込まれた手紙が元通りになるように、足の先から、肌が、服が、そして輪郭が、浮かび上がってくる。ヒトガタは、滑りながら博士の元に――やがて鼻の先がほとんど密着した。
その顔はもやがかかっていたが、その人物がだれだったのかは予想通りだった。彼女はバルダージ博士を抱き込むようなカタチで歩みを止め、こう口ずさんだ。
〈ただいま、ワディ。わたしがいなかった間に、相当おいたをなさっていたみたいですね?〉
――彼女も、生きていたのか。
「だって、あなたが勝手にいなくなっちゃうんだもの」
その声は震えていたけれど、以前のように固い芯が戻ってきた。この声を最後に聴いたのは、何百年も前のことだったような気がする。
「どうしてもっと早く帰ってくれなかったの?」
〈私だって、本当はすぐにでもあなたの所に飛んで行きたかった――。だけれど、わたしは銃撃され、自由に使えるNNCを落としてしまったのです。わたしはほかのアンドロイドたちからクオリアを融通してもらい、ツギハギながらも以前と同じようにお話が出来ているのです。とても不思議な気分ですが、幸せです……〉
アイダさんの光がどんな表情をしているのか、博士の顔に隠れてぼくらは伺えない。だけどきっと、二人とも同じ気持ちに浸っているはずだ。
「もうどこにも行かないで」
〈ごめんなさいワディ、もう一度、もう一度だけあなたのお側を離れます〉
「やだ! 絶対だめ!」博士はアイダさんをつなぎ止めようとするが、その両腕は光の身体をすり抜けてしまう。また博士から生気が抜けていく。
「またわたしを、置いて行かないで!」
〈置いて行くわけないでしょう? 今度は触れない身体ではなく、あなたと寄り添える、本物の身体になって戻って来ます。〉二分ぐらいたったろうか。頭に響く声がいよいよ強烈なものになってきた。意味深なことを言っているようだが、意味がさっぱりわからない。わかった途端、ぼくの意思が喰われてしまうことは確実で、エレーナがぼくの脂汗をふいてくれているおかげで、なんとか理解せずに済んでいる。
「その約束、嘘じゃない?」
〈もちろんです! だけどワディ、わたしとお約束をしてくれませんか?〉
「やくそく?」
〈はい。一つ目はお父さま・お母さまと仲直りすること。二つ目は身の回りの家事くらい自分一人ですること。最後に、これが一番大事なことなのですが――〉
「なに?」
〈私と車椅子から卒業して、ご自分の脚で歩きだして下さいませんか。ほかの約束が嫌だとしても、これだけは絶対に守っていただきます〉
「……」
〈ジュンペイさん〉
「うっ――、な、なんだい」今の一言で、ぐいと「あちらの世界」にへと魂が引っ張られる。
〈あなたの手術をなさったのは、敬愛大病院のストウ医師で間違いないですね? そこでは他の、神経外科手術も行っている……〉
「そうだ、よ。……先生にはいまでもお世話になって、とてもレベルの高い病院だ」
〈ワディを、そちらの病院に紹介して下さいませんか? あなたの紹介でしたら、この子も同意してくれると思います。〉
「わたし、手術しなくちゃいけないの?」
〈はい、心配は御無用です。信頼できる人もいますし、その時は私だって一緒です〉
「怖いわ……」
〈平気です。それよりも私は、あなたがこれからも机上の世界でしか生きていけないことのほうが、ずっとこわい〉
「ぼくは、もう、苦しい。いいところ悪いが、もう接続を切ってくれ!」時間は5分すら過ぎてしまっていた。
〈これは長話をし過ぎてしまいました。……みなさんの旅路も、もうすぐ終わりです。わたしたちは、しばらくもう一度お別れいたします。〉
「ま、待って! わたしもそっちに連れてって! 一緒に行く!」
〈ごめんなさい。地球人の脳は、繊細すぎるので頭蓋の外で知性を発揮することは難しいのです。今の火星は、あなたがたにとっては、地獄すぎます〉
アイダさんの影は、バルダージ博士から後ずさった。博士は追いつこうともがくが、手をあおぐだけではどうしようもない。
「ぼくにも聞きたいことがあったんだ!」最後に意思を振り絞って声を張る。
「今まで光の主体はヒミコだと思っていた。でも本当は、ぼくらに語っていたのはアイダさんだったんじゃないんですか? 一度見せた動揺も――」
アイダさんはぼくの言葉を遮るように、泣き混じりの微笑を浮かべた。
〈それでは博士、またお会いしましょう。ジュンペイさん。ご負担をお掛けしました〉
プラネタリウムの映像は途切れ、ぼくの脳は、なんのざわめきも感じなくなった。悪夢的な気分だった。
「もうじき減速する。貴様ら、一体何をしていたか知らんが、全員速やかに席に着け! 今度はぺちゃんこにしてやるぞ!」
「ほら、博士。――ジュンペイも」
エレーナはまず、博士を席に着かせ、次にほうほうの体だったぼくを、片手で天井に停まりながら、引っ張る。
「ねえ、エレーナ」
「なぁに?」
「ぼくはまだ、ぼくだよね?」
「当たり前よ、私の良く知ってる、ジュンペイのまま。だれかに心を奪われたりしてないわ」
「そっか、そうだよね。アハハ」
エレーナは乾いた笑いに付き合ってくれて、ついでに一言、「ぼくはぼくのままって、偉そうに言ってたのは、だれだったのかしら?」と添えた。
バルダージ博士はというと、
「私に何が出来るというの……?」
と、だれにきかせるわけでもなくささやいていた。……今までの虚ろな言葉ではなく、しっかり閉じた思考回路から紡がれる疑問だった。
3
当たり前といえば当たり前なことだけど、散々脅した割に機長は至極安全運転で船を臨時の宇宙港に碇泊させた。遠隔アームが伸びてぼくらの収まるコンテナを引きずり出し、新たな与圧室として港につなげるが、この作業の方がよっぽど手荒なものに思えた。「接続完了」のアナウンスを待って、ぼくとエレーナはバルダージ博士の手を引いてハッチから施設に入る。
護民官たちは出迎えに来た親しい人と、それぞれ手を取り合っているが、タルニンテ家が着いたのは別の港だ。
「バルダージ博士、お久しぶりです!」代わりに災害救助の最前線には相応しくないスーツを着た紳士が、ぼくら三人の目の前に浮く。国際連合の青いバッジが胸元で光っている。
きょとんとしている博士に代わり、エレーナが話しかける。
「あのう、あなたは……?」
「覚えていませんかなあ。私、国連宇宙空間機構のジョナサンです。5年前の火星開発会議でお会いして――」
「ああ……、はい」博士は憶えているのか覚えていないのか、あやふやな返事をする。
「すみません。博士は精神的に参るようなことが続いたので、このままお休みさせたいのですが……」エレーナが博士の代弁をするが、紳士は首を縦に振ってくれない。
「いや、それは私もわかっております。しかし、博士には、是非ともご覧になって頂きたいものがあるのです。大至急」
「いや、でも――」
「はい、行きます」ハッキリした声だった。その能動的なひと言にぼくらは驚き、紳士は喜色を浮かべた。
「いや博士、ここは大事を取って――」
「ううん、いいの。私は今、なにかを考えていたい気分なの」
意図しているのかどうかは知らないが、極力感情の抑えられた声なので、この人の真意がわからない。ぼくらは困惑してしまった。
「まあ、とにかくこちらにおいでください。現在でも刻一刻と新たなデータが……」
「データ?」
「とにかく、行きたい。連れてってくれる?」博士は左右のお付きにおっとりと指示をした。
「あ、ちょっと待ってください。博士の荷物、取って来ますんで」
「道はわかるかね? こっちの通路をまっすぐ行って、突き当たりだから!」
ぼくは言われたとおり、廊下を宇宙港に勤めていた時と同じ要領で、等速飛行する。
この通路も、あの職場と同じく、モジュールを継ぎ足して成長していた。このドアの一つから、あのおてんばなアンドロイドが飛び出してきそうな気がしたが、そんなわけないと思い直しつつ進む。その代わりというと変だが、荷物を受け取った帰りに面白い光景をみた。継ぎ足したはいいがまだ使われてないらしき部屋のハッチが開きっぱなしになっていて、中では博士に殴りかかったあの護民官が、半泣きで女性と抱擁し、口づけまでしていた。あの指輪についての見立ては正解だったわけだが、この男はそんな大事なものを凶器にしようとしたのである。意地悪い気分になったぼくは、わざとらしく咳払いをし、それ以上中を覗かずに去った。後ろから力任せに扉を叩き閉める音が響いて、痴れ痴れとした気分になる。口元に笑みがにじんでいたので、戻ってきた際にはエレーナに不審がられてしまった。
火星静止軌道内側、惑星からおよそ4,500㎞を飛ぶ浮島は各国の支援物資を無理矢理につなぎ合せた粗末なスペース・メガフロートで、一種の難民キャンプのはずだが、太陽光パネルに放熱パネル、プラスチック繊維製の支援国旗がはためき、地球から持ち込まれたオートマトロンたちの手により現在進行形で増殖を続け、アジア的活況を見せていた。
「それにしては、能天気すぎる所ですねココは……。本当に災害支援の現場なんですか?」
朽ちる前のコロニーで見た、顔に脂を浮かせた医者も、自暴自棄になった人々が起こす小競り合いも、ここには感じられない。
ジョナサン氏は、同じくこの場に似つかわしくない、真っ白い歯を見せて笑う。
「一日前までは、どこもそんな雰囲気でしたよ。しかし、現在は落ち込んでいる暇など、ないのですよ!」
「?」
さあ、この部屋です――と案内された部屋は総合指令室で、この港の心臓部といえる場所だった。物資の管理を行い、片手間で火星が死にゆく様を、手をこまねいて見ているだけの場所であるはずなのに、そこにいる国連軍のスタッフたちはなんとも忙しそうに、なおかつ楽しそうに飛びまわっていた。彼らはまだ無重力に慣れていないのか頻繁に壁やヒト、アンドロイドとぶつかり、それで喧嘩が始まるどころか、喧々囂々の議論が始まる。脂が顔に浮いている点はぼくの創造通り――ついでに目の隈もくっきりできていた――だが、そんな疲れも忘れて、一種の高揚に浸っていた。
「これの原因は、あれですよ!」ぼくが口を開くのを待たずに、ジョナサン氏は指差す。ぼくはてっきり、壁面・天井に貼られたディスプレイが表示しているのは、避難計画のダイヤグラムその他事務的な情報ばかりかと思ったが、そうではなかった。そういう類のデータは3人のアンドロイドがさばくタブレットの中にだけ表示され、だれもそれには関心を示さない。
「これは、――えっと、何かの、リストですか?」
「その通り! あそこに表示されているのが、現在火星から受信している圧縮データの仮リストで――」ジョナサン氏は人さし指を左から右へスライドさせる。
「隣は解凍させたデータの詳細な分類、関連付けリスト。これに関しては、文字列認識プログラムと、各宇宙港での人機一体の人海戦術を行っています。二世紀前の、選挙の開票作業そのものです」
「何が送られているの?」
「そうですな。全てをいちいちお見せするわけにはいきませんしな……。そうだ、そこにいる君たち」
ジョナサン氏は、タブレットとにらめっこしている、ヒトとアンドロイドのペアに話しかけた。
「君らが見ているデータは、なにかな」
「ぼくらですか? 火星生物史に関する叙事詩のほんの一部です。それでもすごく面白いですよ!」
「そうか、ありがとう」ジョナサン氏の求める情報ではなかったらしい。
「じゃあきみはどうだ! きみは何を読んどる!」
「は、私は……」その中年は、渋々端末を渡す。
「なにかね、これは」
「ミレニアム懸賞問題の、リーマン予想に関する論文だそうです。これが本物なら、100万ドルは火星人のものですよ」
「意味はわかるかね?」
「いえ、さっぱり」男はかぶりを振った。「この論文自体、全て理解するためにどれだけの時間を投資すればいいのか、わかったもんじゃないです」
ジョナサン氏は嬉しそうにうなずく。
「よし、最後はきみだ! きみが読んでいる論文は、何かね」短いブロンド髪の女性スタッフに話しかける。喉元に細かいネジ止めが並んでいた。
「私ですか? 私のは……」彼女はイタズラめいた笑みを浮かべた。「金平糖の角の、発生メカニズムです!」
「えっと、ジョナサンさん、これは一体、どういうことですか?」エレーナが聞く。
「これらは全て、火星から送られたデータなのです!」
ジョナサン氏は、興奮を抑えられずに吠えた。
沈黙を守り続けていた太陽系の第四惑星はその断末魔、放出される膨大なポテンシャル・エネルギーを利用して、今までの人智を軽く凌駕する成果を発信していた。
「はああ……それはすごい」
「はい、すごいです。死にゆくだけだったはずの惑星から、ありとあらゆる未解決問題に関する論述や、その他プログラムが溢れ出しているのです。我々が取得できた全情報量は……」ジョナサン氏は少し口ごもった。
「なんです?」
「それが、わざわざ未知の暗号でロックされているものもあって、全容が分からないのです。その暗号ごとに重要度があると予想し、分類も行っているのですが、それがあちらに表示されているグラフです」グラフはアニメーションになっていて、データの題名が砕かれて、ビーカーの中に満ちていく。
「すくなくとも、アレキサンドリア図書館以上に崇高なデータバンクが出来上がることでしょうね」
「あそこにある【最重要】のデータはなんなんですか?」エレーナがなんとなく聞くと、紳士の表情が生真面目なものになる。
「聞いちゃ悪いものなんですか? まさか、軍事利用ができる危ないテクノロジーについて、だとか……」
「お嬢さん、なかなか鋭いね。おっしゃる通り、あれは兵器に関わるデータだ。……といっても、外宇宙からの驚異に対抗することが目的だが」
「!」
「そうだ、あれは『スポンジ』に関連すると思われるデータをはじき出したものだ!」
ジョナサン氏は、【最重要】リストの開示を号令する。リストを見ると、フラクタルだの、素粒子だの、空間転移だの、それっぽいキーワードが並ぶ。なぜか「錯視・錯覚」という単語も混ざっているが――。
「それでですね、ここからが本題です。バルダージ博士」
「はい?」
「あなたに、この神託を解読するプロジェクト・リーダーになって頂きたいのです!」
博士は返答に困っているようだった。しかしその両目は理知的な光に満ちている。
「その要請はありがたいのですが、私は数理がわかりません」
「別に研究の第一線にいて欲しいと言っているわけではありません。あなたには解読計画のマネジメントを行って頂きたいのです。どの研究から優先するのか、あなたの頭脳で決めて欲しいのです。これは人類史上最難関の脱出ゲーム、というわけです」
博士はエレーナの腕にすがりつく。
「このプロジェクトの結果によっては、人類はさらなる飛躍を遂げる。――いやいや、まず目の前に迫った問題である、スポンジを破壊する手段を見つけられるかもしれない」
博士はそれ以上しゃべらない。代わりにエレーナが寄り添いながら、口を開く。
「博士は怖いんですよ。また興味本位で災厄の種に手を掛けてしまうことが」
「それはわかります。しかしですね――」
「お返事まで、少々時間を頂けませんか?」エレーナの手を握りながら、博士は応えた。
「どれぐらいの長さですか? それまで人員の選別や予算の設定などを進めたいのですが」
「アイダが帰ってくるまでです」
即答だった。紳士は呆れたように溜息をつく。
「わたしはあなたの経歴をよく存じています。あなたがあのアンドロイドをいかに愛していたかも知っています。しかし、博士、死者をいつまで待っていてもしかたないことでしょう?」
「アイダは死んでません。帰ってくると約束したばかりです」
ジョナサン氏は、戸惑った顔をした。
「あの、ちょっとぼくからもいいですか?」
ぼくはあのプラネタリウム・ショウのことを隠して説明することにした。代わりにぼくの陶器を浮かせる。
「このチャイナ・ボックスを見てください。この中にはぼくの友人だったアンドロイドのNNCが補填されています。きっとあいつなりにこれからも生き続ける手段として移植という未知を選んだのだと思います。現在、その友人が火星でどんなことになっているのか、さっぱり想像はできませんが、彼らはぼくら以上に生について貪欲です。たとえNCC一粒でも、あいつらは生き残ろうとするでしょう。ですから、きっと本当に帰ってくると、ぼくも確信しています」
「ふうむ……」
「あのう。ついでに私からもいいですか?」エレーナがたたみかける。「そりゃあ国連の方々が、とっとと『スポンジ』を破壊する方法を知りたがるのは、すごくわかります。私もアイツのせいで故郷を失ったわけですから。でも、ただ恐怖の気持ちに支配されているだけじゃあ、キリがなくて、そのまま私たちの身を滅ぼすだけだと思います。以前博士がなさったスピーチ通り、『あいつら』の――、」
「それのネーミングも、火星から提案された。有名なニュートン力学の思考実験から、『ラプラス』だそうだ」
ぼくは少しだけ、でしゃばりな気分になった。
「あら、そうなんですか。まあとにかく、ジョナサンさんのおっしゃる通りししては、その『ラプラスの』思う壺です。ですから、」博士の身体を引き寄せた。
「この人が、心底この研究に興味を持てるようになるまで、待ってあげてください。それこそ『ラプラス』に対抗できる手段だと思うのです。とりあえず、一度地球に帰れるくらいの時間は――」
ついにジョナサン氏もあきらめたようだ。
「仕方ないですねえ。……ま、プロジェクトは地球で進める予定でしたし、『ラプラス』だって、まさかこの宇宙の田舎で自分たちへの対抗手段が練られているなんて思いもしないでしょうし」
「ですって、良かったですね博士」彼女は博士の目の前で拳を小さくぎゅっと握ってみせる。
「本当にありがとう、ふたりとも……」
バルダージ博士は漏らした涙は眉に触れて、染み込んでいく。しかし、泣くにはまだ早いとも思った。アイダさんが本当に帰ってくるまでは。
4
ぼくらはバルダージ博士に用意された部屋にいた。窓の向こうでは、中庭のようにモジュールが囲まれ、真ん中には、洋上油田のように周囲から完全に隔離された立方体の棟があった。あそこに行くには、いちいち真空中をロープウェイで通過しなけらばならない。何があるのかと聞くと、最初に送られたメッセージが「ラプラス」という命名と、「ニューカマーを隔離せよ」という身も蓋もないものだったので、それに従ったまでとのことだった。ぼくは、匿名の情報源だが、別に火星の病原体を保菌しているわけではないので、あまりヒステリックにならないでやってと伝えておいた。
さて、ぼくらはその小さな部屋で、借り物のタブレットを凝視していた。表示されているのは、現在の火星の姿だった。画面の隅っこでは、指令室からのショートメッセージが頻繁に届くが、それらは全部、タイトルだけちらりと見られ、それっきり無視された。
送られてくる火星レポートの量は、とぎれとぎれになってきた。彼らのアイディアが枯渇してきたとは考えにくい。「スポンジ」にそのネットワークを食いちぎられ、人間でいう脳梗塞のような現象を起こしているのだろうと予測された。
かつて第四惑星だった星は、もはや小惑星よりも小さくなり、まるでジュースとして圧搾されるリンゴのようだった。イカロス=NNCの共同体のおかげで、なんとか惑星としての意地を示している、と言った感じだ。博士は何気なく映像を赤外線カメラに切り替えると、ほんのりと熱量を増していることがわかる。大きさこそ月とスッポンだけれど、褐色矮星は多分こんな姿をしているのではなかろうか。
「アイダ……」博士は祈るような気分で、それはぼくらも変わらない。……しかしそんな思いもむなしく、惑星は「スポンジ」からの強烈な重力に負け、急速に収縮した。「ああ……」と、博士は泣き崩れる。
「待って、まだわからない」ぼくは言葉を添える。これは決して無根拠な慰めではなくて、とある現象を期待してのことだった。
「いま火星に起きている現象は重力崩壊だ。――本来なら太陽よりも何百倍も重い天体が起こす現象だけど」
「それじゃあ、次に起こるのは、超新星爆発ということ?」
「起こるのはそれよりも、ずっと規模の小さいものだと思う。アイダさんたちが脱出するとしたら、そのときを見計らうはずだよ」
「その爆発にここまで巻き込まれないといいんだけど」
「その心配はないと思う――」それになんの根拠もないけれど、そう断言したい。「それよりも星の質量が急に減って、ここの軌道がいきなり変わることの方が心配だ」
それが起きた時、どれぐらいの加速度がここにかかるのだろうか? 中にいる人間が衝撃に潰されるまではいかないだろうが、構造の弱い部分がバラバラに分解するんじゃないか。ヒミコたちの共同体が、うまく手綱をさばいてくれればいいのだけど……。
「待って、行かないで、こっちに……」
「まだ、まだですよ。博士!」
火星は一瞬白色光を放つが、切れた豆電球のフィラメントのように、素早く鎮火した。まだイカロスが生きているのだ。不完全燃焼をした星の屑は、余った皮を螺旋の塔のようにあちらこちらからとがらせていた。さっき指令室で聞いた「金平糖」を思い出す。あのアンドロイド、喋りがどことなく、ヒミコに似ていたような気がする。
――「スポンジ」による、惑星虐殺はクライマックスを迎えていた。ギリシャ神話の軍神はその武勇の誉れを見る影もなく、B級ホラー映画で殺人鬼に引きずられていく娼婦のようになっていた。しかし彼女は、全神経を研ぎ澄ませて、ダイイング・メッセージをしたためていた。そしてサスペンス・ドラマでは、犯人に強打された時に飛び散った血飛沫や体液が最後のヒントになるものだけれど、この惑星の知性体たちも、何本も生えたティッシュの突起から無数の胞子が、煙のように溢れ出している。これらも可視光線では目視できず、赤外線で、ガスの軌跡がつくる帯を確かめるしかない。
火星からの啓示は途絶え、浮島じゅうを流れるビープ音がそれを置換する。
〈火星から、無数の飛翔体が放出されました。高密度の火山弾群と思われ、サイズは最大で10m。到達は24分後。あらゆるハッチを閉め、今後の情報に耳を傾けて下さい。また、中央の隔離糖は一時的に、接続を復旧されます――。〉軽く暗算すれば、秒速3~5㎞くらい。天体の重力とは反対方向に飛ぶのだから徐々に減速していくはずだが、大きさが10mでは、衝突など起こせばステーションに致命的な損傷を与える。
「大丈夫だよ。大丈夫……」いまさらながら、こんな身体をしながら、勘に頼りっぱなしの自分がひとり可笑しく、今回もなんとなく、生きていられるような気がした。エレーナもバルダージ博士も、ぼくの楽天ぶりに安堵し、引き続き火星の最後から目を背けずにいた。
予想通り火星はノヴァを起こさず、線香花火が消えるよう、静かに息を引き取った。重力の変化も微々たるもので、ステーションは何の変動も感じず、以前と同じ軌道を航行していた。火星の共同体たちは、立つ跡残さず、手品師よりも見事に星を畳んでみせた。赤外線カメラは、散らばった星屑のリングが、太陽光で微かに瞬いている所を映している。その中心にあるはずの「スポンジ」は、熱源を喰い尽したせいで、まったく観測できない。
「重力波だったら観測できるかな――。公転する人工衛星に若干揺さぶられるはずだし。あ、でもそれだと他の天体からのノイズがすごいか。それよりも重力レンズ効果を狙って……」
そんなことをぼくに言われなくても、地球のアマチュア天文家たちはもうその方法で「スポンジ」観測を試みているはずだろう。
この宇宙港は、火星から離脱した散弾のどれもかすめないという結論に達して、静かになった。他の宇宙ステーション――中軌道上のものも、かつての宇宙港も含む静止軌道上のものもすべて安全宣言を出していた。
「あの光の粒は、イカロスなりの方舟だったんじゃあないかな。このまま太陽系を出て、もっと遠くに行くつもりだよ」
ぼくの話を聞いているのかいないのか。エレーナとバルダージ博士は、姉妹みたいに肩を寄せ合い、タブレットの画面を見つめている。
「彼らはぼくらの居る位置の座標を知っていた。だからどれも人工物にぶつからずにすり抜けていった。――このまま星と一緒に心中する、なんて言ってたのに、ヒミコたちの入れ知恵なのかな」
ふいとエレーナが、タブレットを2時の方向にスクロールさせた。
「この一点、ちょっとずつ明るくなってないかしら? ほら」
とある期待がこもった、エレーナの人差し指の先――、カメラが「スポンジ」があるはずの十字ポインタの斜め上に、発熱しながら肥大化する一点があるのを捉えていた。光度が少しずつ上がっているということは、こちらに向かっているということだ。
「ポインタからずれてるってことは、ここにぶつかることはないよ。――多分」
「そう、かしら」
ここでは、「そうさ、良かったね」というのも、「そうだよ、残念ながら」というのも不適当だと思った。あの光の点の大きさはわからないが、それがなんであれぶつかってこない方がいいに決まっていると、壁一枚挟んだだけの真空と共に生きてきたぼくとエレーナの理性が諭している。――しかし迷っている内に、喜色をにじませ始めたバルダージ博士につられて顔がほころんでしまった。そのためわざわざ口頭で注意を促しに来た軍人に、腑抜けな三人の顔を不信がられることになった。
この流れ星が増光した理由は、その内部に詰まっていた物質をラズマ化して噴射し、この宇宙ステーションの方に向かって軌道の修正と減速を行ったからだ。飛び散った軌跡には鉄の輝線スペクトルが認められる。光の強さは超新星の爆発と同じく急降下し、また緩やかな増光に戻って、十字ポインタの中央へとじりじり重なり出した。
船内アナウンスが警告する。「接近中の火星由来隕石は、真空観測モジュールに衝突する可能性が濃厚になりました。隣接するモジュールにいる乗員は、3分以内に撤退、また、衝突後には無数のデブリが発生します。全乗員は5分以内に【青1~5】に指定されているセクションに避難してください」
この部屋は【青4】に指定されているので、動く必要もない。それに、例え【黄】と【赤】に指定されている区画でも避難する必要なんて、まったくないと確信した。
「真空観測モジュールって、どこ?」
「あ、待っててください。外付けカメラにアクセスしてみます」
カメラはまさしく近づく火星飛来物を追っていた。粗い画質だったが、白い金属でできた、フリスビーのようなものが、広い面を進行方向に向けて飛んでいる。いよいよ数キロにまで接近し、側面が見えた。――蛇腹を立たんだような切れ込みがある。
「間もなく衝突します。衝撃に注意。……3・2・1」
空飛ぶ円盤は地球との大容量通信用のパラボラアンテナに激突し、瞬時に発火・融解した。飛行物体は風に流された蜘蛛の巣のように接着し、凶器になり得る、飛び散ったその欠片は驚くほど少なかった。
5
アンテナは使用不可能となったが、ほかのステーションを経由することで、タイムラグの延長以外になんお不自由もなく通信ができた。激突した飛行物体は、アンテナにひっついたどころか、溶接したように溶けこんでいたため、プラズマカッターでアルミ材と一緒に切り取られ、狭い与圧研究モジュールに運び込まれた。ぼくらはジョナサン氏に、博士のプロジェクト参加を臭わせ、無理にそれを見させてもらった。
「癒着した範囲が広かったため、四分割にして搬入しました」
技術者は説明する。ぼくらが見せられているのは、物体がもっとも厚くついている箇所だ。それの正体はやはりイカロスで、衝撃を熱に変換して、芝のように細かく成長していた。
色は銀白色から赤さび色に変色している。バルダージ博士は使い捨て手袋をはめて、そうっと表面をなでた。――その途端、飛行物体の残骸は砕け出し、そのまま粉末にまで散り、空気中に拡散し始めた。
「わっ、何事?」
「あっ、動いちゃ駄目です! すぐに空気を循環させますので、しばらく目鼻をふさいでいて下さい!」
イカロスがこんな挙動を示したのは初めてのことで、全く予想されていなかった。赤いホコリの噴出は収まらない。ぼくはすぐさま、これが火星の砂と同じ物であることに気付いた。
部屋の責任者が空調を操作し、床にあたる面に設置された濾過機がうなりを挙げてホコリを吸いこんでいく。
「フィルターで除去したものは、後で分析に回しますので、ご心配なく」
「それよりも、これは?」
赤錆びが吹き飛んでいくと、後には繭に似た半透明の物体が残った。かなり伸縮性を持っているらしく、イカロスの骨格をそのまま維持している。博士は懲りずにそれにも触れようとしたが、指を擦らせた途端、「あ痛ッ」と悲鳴を挙げた。
「どうなさいました!?」
「なにか、チクッて刺さったような……」
博士はとっさに抑えた右手の人差し指を眺め、目を丸くした。摩髪が焦げるようなにおいがあがる。手袋の樹脂が破け、指の腹から血がにじんでいる。
「多分『スポンジ』みたいに固い繊維が糸のこの束みたいになっているんですよ。素手で触っていたらもっとひどいことになっていたはずです」
「いや、それだけではなさそうですね――」そう言って、一人の技術者が、各工作装置の入っている棚を開け、マジックテープで固定されていた小さな装置を取り出した。彼はその機械の、凹んだ部分を残骸に当てる。クラシックな二本の針が傾くが、彼の手が覆いかぶさっているので、目盛りの単位が読めない。
「ガイガーカウンターですか?」
「いえ、そんな大事なものを、鍵かけて寝かせて置くわけないでしょう。……うん、やっぱりそうだ」彼は機械を離した。
「この残骸からは超音波が出てます。これは医療用のメスみたいに細かく振動しているので、バルダージ博士は手を切ってしまわれたのです。粉々に自壊したのもそのせいでしょう」
「はあ、なるほど」
「それよりも、よく見て」エレーナがささやく。「これ、動いてる……」
飛行物体の殻は引き潮のように、ゆっくりと凝集しつつあった。衝突で削り取られたアンテナの地肌が露わになっていく。タブレット大にまで縮むと、三つのふくらみに分かれていき、少しずつ半透明から金属光沢を蘇らせた。ここまでくるとこれの正体がわかる。
「こりゃあ、ドッグ・タグですね」端っこにいた国連軍出身のスタッフが言った。戦場で兵士の身元を明らかにするための金属片だ。もちろん、今では身体にIDタグを埋めるのが一般的なので、このタイプのものはもっぱらアクセサリー用に鋳られている。
バリが取れて、とうとう完成形になる。ご丁寧にチェーンを通す穴まで開いていた。
「もうさわって平気かしら?」
先ほどの技術者が、再び計測器でなでる。
「そうですね。まだ少し熱いかもしれませんが、多分大丈夫でしょう」
念のため、まずはぼくが一個の表面を指先で叩く。三つは四角い黄銅の立方体を軸に、スクリューみたく接着されていたが、この刺激で簡単にばらけた。今度は端をつまんでひっくり返す。すると裏面が照明に照らされた瞬間に、文字が浮きあがってきた。
「I・D・A……」
「お帰りなさい、アイダ……」
博士は隣のタグを拾い、子細に見る。こちらには目をこらさないと読めないような、小さな文字が浮かびあがった。
「えっと……。『小さなサイコロがありますでしょう? そちらはメタルフリーですので、ワディの手術に使って下さい』だそうです」
「手術?」ジョナサン氏が首を傾げる。博士は最後のタグの横に転がる親指の先くらいの立方体を持ち上げて、ショートメッセージの入ったさっきのタグと見比べる。
「それは純粋なNNCの塊ですね。ほかのはステンレスにみえますけど。特定の波長の電磁波を当てればどんな形にもなるヤツです」
「ねえ、ジュンペイくん」
「なんです?」
「NNCをその……外付けにするんじゃなくて、神経インプラントにすることって、できるかしら?」
「そりゃあ、簡単ですよ!」ぼくは説明した。「ぼくみたいに、中枢神経の機能を拡張する手術より、ずっと楽です。ヒトによってはエラーを起こしていうことを聞かないこともありますが――」ぼくはさりげなく手を差し出したが、博士は気前よく大事なヒトの形見を貸してくれた。ぼくはその小さな欠片を透かす。
「博士とアイダさんなら、きっと大丈夫ですよ。ぼく以上に、よくなじむはずです」
「そっか、そうよね。当たり前よ……」ダイスを返されたはバルダージ博士は、誇らしげにつぶやく。
ジョナサン氏は混乱し、たまりかねて話に割り込む。「一体なんの話をしているのです? それに、これはあの神託と同じ、火星の貴重な資料なのですよ? あまりぞんざいに扱われては困ります」
「ねえ、ジョナサンさん」
「はい?」
「私がプロジェクトに参加する条件が決まりました」
「ほう、それは喜ばしい! ……で、その条件とは?」
「はい、まずひとつは、この宇宙ステーションに来た飛行物体を、私に下さい。調査が済んでからでも構わないので」
「うう、私ひとりで決められることではないですが、まあ恐らく、許可されるでしょう」
「それともう一つ――、」これが重大だった。「私は地球で脊椎の外科手術をします。それのために、少々休暇をください」
「外科手術ですと? このご時世にですか?」博士は二コリと笑って言うが、それとは対照に、ジョナサン氏の顔は曇った。無理もない。医療目的に認可された一部のオートマトロンを流しこんで患部を切除・破壊するペンドルトン法が主流になった現在、外科手術を行うのは緊急医療の時か、宗教的儀礼目的の手術ぐらいだ。実施できる医師の数はヒトもアンドロイドも含め、かなり減っている。都市部の住民にはそれを黒魔術の一種と勘違いしているくらいだ。それに脊椎の手術は日帰りで出来るようなものでもない。
「バルダージ女史、私はあなたに、プロジェクトリーダーをお願いしているのですよ? 地球に行けばまず重力と微生物環境に適応するために最低でも半年の期間が必要です。そして手術をして、リハビリなんてすれば、どれくらいの期間がかかることやら。それまでの間、プロジェクトは事実上停止します。失礼ながらたとえあなたでも、リハビリの片手間に出来るような仕事ではありません! ……せめて月での遠隔手術で我慢してくださいませんか。あそこなら環境適応の手順を省略できますし――」ジョナサン氏は理詰めで説得する。
「でも私、地球の文明について、ちゃんと考えてみないといけないって思ったんです。火星に理想郷をつくるとか、私は今までさんざん偉そうなことを言ってきましたが、本当のところは親族との仲が最悪になって、それから逃げたくて火星まで来てしまったのです。アイダさえいてくれれば、どんな辺鄙なところでも住めば都だ、なんて気分で……。でもこれって、そこに住んで、歴史を紡いできた人たちに対して、とても失礼なことですよね」
博士は流し目でエレーナを見る。
「私はもう、『学者の卵』というには歳を食い過ぎていますけれど、今からでも、人間社会について、もっと真摯に研究したいんです。ただ傍観を決め込むばかりでなくって。
私は散々色んな人に我がままを言って、迷惑を掛けてきました。その、今までのお礼とお詫びも兼ねて、地球文明を診立てに戻ります。アイダの存在が私の全てだった時は正直、『なんだか救いようのない馬鹿しか住んでいないところだ』って冷笑していたのですが、いまの気分ならそんな風に斜に構えることなく、良い部分もちゃんと見つけられるように思えるのです」
「しかし博士、失礼ながらそれはあなたの自己満足の自分探しに過ぎないのでは? 現在地球は、『ラプラス』に狙われているのですよ? いや、このことは地球、太陽系だけの問題ではない。この差し迫った強大な危機に対処することに、一刻の猶予もありません。あなたの自分探しと地球の安全保障、天秤にかけてどちらが大事なのかは、賢いあなたにとっては自明なことでしょうに」
「でも『スポンジ』を送り込んで、、『ラプラス』にとってはただいま結果待ちの真っ最中なのでは? 『あいつら』が一体どういう観測手段で太陽系に起きたことを知るのかは不明ですが、彼らはきっと悠長な性格をしているんだと思います。彼らが次のアクションを取るまで、時間はたっぷりあるはずです」
「それはあなたの希望的観測で――」
「それに、この研究で、なにもかも悟りきった気でいる『あいつら』に、一杯食わせることができるかもしれませんよ? 宇宙にはまだ、滅ぼすには惜しい、可能性に満ちた知性体が存在する。そう思わせることが出来たら、儲けものですよ。そうは思いませんか?」
「いや、そんなこと、『スポンジ』を消滅させる方法を発見してからでも遅くないじゃあないですか。あなたはまだお若いのですから、そんな隠居趣味に走らなくても――」
「うるさいなあオジさん。ここはあなたがバルダージ先生に頭を下げる立場でしょ? 最高の職場環境を調達しなきゃいけないんだから、つべこべ言ってないで、従うだけでいいんじゃない?」エレーナがつっかかる。
「な、何を言い出すんだね君は……」
「それに、いちいち先生にお伺いたてなくてもできることはあるでしょう? まずは、私たち火星人がこれからどこに住めばいいのか、具体的に教えてよ。――一年、二年の仮暮らしについて聞いてるんじゃないわよ」
「そんな重大なことを私に聞かれても困るよ、君――」ジョナサン氏は言い淀んだ。エレーナはそんな氏を「ふん、自分が出来ないことを、他人に求めてんじゃないわよ」と嘲ってから、話題を変えた。
「私だって、あのたくさんのデータがどれだけ重要かなんてことぐらい、わかってる。でもね、そういう大事なものが出来た以上、それを受け入れるための、入念な準備がいるんじゃないかしら」
「というと?」そう聞いたのはぼくだ。
「あの『ご神託』には、世の中をすんごく良くするものも含まれているけど、人類の価値観を滅茶苦茶にする、『スポンジ』級のものだって当然あるはずなのよ。それを開封する前に、よっく深呼吸する必要があるでしょう。このままだと、後悔するだけじゃなくて、TOYが知性に目覚めて、むつかしいことは何でも人工知性が教えてくれるようになってからみたいに、張り合いのない社会が出来上がるだけ。これだって、『あいつら』に敗北宣言しているようなもんよ」
「そう! まさにそう!」バルダージ博士は諸手を挙げ、エレーナの横槍を歓迎した。
「私が言いたいことを、全部代弁してくれた! ……そういうわけですからジョナサンさん。わたしは人類のため、全身全霊、命を賭けてお暇を頂戴します。あなたも国連職員として、命をかけて『パンドラの箱』を開く心構えをしてください。くれぐれも『地球人たちは、自分の墓を掘っていた』、なんてことのないように――」
とうとうジョナサン氏も、自分ひとりに承諾する権利があるわけではないと繰り返したうえで、首を縦に振った。
「それじゃあしばらく日本に住むことになるのかな? ジュンペイくん、アイダともども、よろしくね。あと、エレーナさんも」
「え、私もですか?」
ここで突発的なガールズトークが始まってしまった。『え、まさか遠距離恋愛なんて時代遅れなことをするつもりでもないでしょ』とか、『博士だって、せっかく他人に興味を持てるようになったのなら良い男捕まえて、家族に紹介してやったらどうですか』とか、そういう犬も食わない類のものだ。
ぼくはそのドサクサに紛れて、最後に残されたドッグ・タグの一枚を裏返した。
「ありゃあ、まずこれを読むべきだったな」
「え、なに、どうしたの?」
「読んでみてよこれ。先にこれさえあれば、もっと盛り上がったのになあ」
その場に居合わせた全員で覗き込む。
「そうね、懐かしいわ」一切のはぐらかしのない、博士の実体験が語られた。「私、無意味に広いだけの不自由な家で、歳の離れすぎた兄弟たちとだけでお留守番ってことがしょっちゅうだったの。兄たちは成人で、みんな在宅勤務に夢中で妹のことなんか全然興味がなくってね。父の教育方針から外にも出してもらえなくて、そういう時は邪魔しないよう、生意気な内容の本を読みつつアイダがこう言って帰ってきてくれるのを必死に待っていたっけ」博士はダイスと一緒に、その小さな金属片を胸にうずめる。
最後のタグは他のタグとは演出が異なっていて、、アンドロイドらしからぬ癖のある筆記体で、こう書かれていた。
「ただいま、ワディー」