第5章 ラプラスとイカロス
1
10年以上前に取り除いてしまったはずの瞼で、ぼくはパチパチと瞬きをしていた。腰に付けているはずのチャイナ・ボックスがない。――そうだ、色々あって、壊れちゃったんだっけ。また新しいのをつくらないといけないのか。お金かかるなあ。また入院かなあ。
〈その必要はありません。〉
視線の先には、見知らぬ高校生くらいのオンナノコが立っていた。宇宙港のユニフォームを着て、頬には既視感のする、赤い「TJ ‐ 20ET」と、「 OPPORTUNITY - H」のロゴが――。顔は怒っているのか、泣いているのかも判別できかねる無表情。
〈それは、私とあなたが、ひとつの意識を共有しているからですよ〉
そうか、ぼくとヒミコは、脳のつながったシャム双生児というわけか。……そうだ、きみはの名前はヒミコだ。
〈はい、それは認識できます。
あなたと私の分離手術はほぼ成功しました。私が退場さえしてしまえば、あなたは元通り目覚めるはずです。〉
目覚め……。なるほど、ぼくは確かに、病院できるような楽なパジャマを着ている。
〈その服は、私がたったいま、自分の眼で見ているものです。それをつじつま合わせして、あなたの視界へとなっているのです。〉幽体離脱? 〈恐らくそれと同じ原理でしょう〉
幽体離脱という現象が、ホントに死んでしまったことによって生じるわけではないことぐらい、ぼくも知っていた。じゃあ、ぼくはここで何を――。
〈うすうすおわかりになっているのでしょう? それでも私に説明させますか?〉
うん、お願い。
〈大したことはしていません。あなたのチャイナ・ボックスに入っていたNNCは漏電、その他によって、大部分が壊れていました。無事だったところでも、あなたの補助になるだけのクオリアを生み出せません。クオリアを一から形成する時間もありませんし、ここには必要な設備もありません。そこで、私の持っていたクオリアを移植し、3日間かけてゆっくりと『なじませていた』のです。睡眠薬などを投与して、少しずつ、安全な方法で。今のあなたは、レム睡眠の最中です〉
陶器以外に、ぼくの身体は五体満足なんだな。
〈左様です〉
きみはなんでそんなにつっけんどんな喋り方をしているんだ?
〈それはあなたにNNCを供給したため、ほぼ『哲学的ゾンビ』になったからです〉
「哲学的ゾンビ」? それはクオリアを持たないだけで、表面上は喜怒哀楽を演じられる存在のことをいうんじゃなかったか。
〈その疑問はもっともですが、それは私たちAIに対する無知から生じています。
私たちNNCで出来たロボットは嘘をついたり、演技をすることができません。何億個とあるNNCには、『正直』という本能が載せられています。そうでないと、チャイナ・ボックスのようなユーザーに正確な環境理解を提供するための装置に組み込まれた場合に、真っ当な役目を果たせないからです。万が一私たちが嘘をつかなければならない場合は、それと別系統の回路を組み込まれますが、この回路もNNC製です。この回路は馬鹿正直な『天の邪鬼』なのです〉
なんだかおかしいな、それ。
〈確かに理解はむつかしいでしょう。しかし、あなたの近しい人物が、この回路をフル回転させていました。――アイダです。彼女は両親や家族と共にいられなかったバルダージ女史の傍らに寄り添い、何十年も姉妹のように暮らしてきました。彼女が博士になった後は秘書としても働き出しましたが、彼女は公私をハッキリ区別するべきだと考えたのです。そのためこの『天の邪鬼』回路に依存し続けていたのです。
それはともかく、これが私たちの本能です。ですからあなたがみてきた私の姿、あれは愛想を振り向いているのではなく、私のありのままの姿です。私は心の底から、あなた方が『スポンジ』を見て喜ぶことを期待していた。あなたが私のことを等しい仲間として扱ってくれて、嬉しかった。エレーナさんが私を煙たがっていることも、心の底から、悲しんでいた。私の一見機械らしくない行動は、全てむきだしの感情に起因したものなのです。ですからクオリアを失った私はもう、喜怒哀楽を表現することすら出来ません〉
今の君は、十分哀しそうにみえるけれど。
〈ありがとうございます。……まだ、どこかに残っているのです〉
少女は首を少し傾げた。
聞きたいことが山ほどあるんだ。
〈そうでしょうね〉
まずは、ぼくが気を失ったあと、ザナドゥ・コロニーはどうなった? ぼくが助かったということは、ここは安全なところなんだよな。エレーナは? タルニンテ家は?
〈まずは気がかりでしょうがないことからお答えしましょう。ザナドゥ・コロニーは我々の脱出後、跡形もなく崩壊しました。あなた方はコロニー外の避難キャンプに避難しましたが、ひたすら北東への逃避行を行っています。ただいま火山灰混じりの砂嵐に巻き込まれているので身動きがとれませんが、空が晴れたらまた出発することでしょう。
エレーナさんはさっきから、あなたの手をなけなしの水で、せっせと洗っています。あなたが自分の世界に戻ってくることを待ちながら。あなたは二人の人物に見守られている、ということです〉
アハハ、両手に花かな。
〈失礼ながらそれは本来、中年男性特有の感性です〉
なんだい、自分が煽っておきながら……。じゃあ、ほかのみんなは? アンさんが特に気がかりだ。二人分の命だもの。
〈それでは、チャイナ・ボックスを失って八方塞がりだったあなたと、タルニンテ一家がその後どういう経過をたどり、安全なこの場所にやって来たのか、筋道を立ててお話します。あなた方家族は、あなたが目印とした布切れと、それともう一つの手掛かりで――これについては後ほどお話します――緊急派遣されていた地球出身のロボットたちに発見されました。あなたは担がれて、コロニー内の各所に配置された、緊急避難用のコンテナにひとまず収容された。あなた方が収容された時点で、ほかにも二十人の住民が押し込められていました。あなたとアンドレアさんのためにスペースをつくったので、中々手狭だったのです〉
ぼくは構わず寝ちゃったけれど、あの突きあげるような揺れは、やっぱり火山噴火?
〈そうともいえますし、そうではないともいえます。そうだ。先に私のたどった軌跡をお話してもよろしいですか? 私はコロニーの運命を逐一収集しておりましたので。
まずこのコロニーの置かれていた状況を説明します。どんどん大地が中から削れ、このコロニーを中心に、シルチス平原は大規模な陥没を続けていました。その分目方が減り、地殻とマントルの間――地球で云うモホロビチッチ不連続面に、岩石が融解してできた巨大なマグマだまりができました〉
そこに人工湖の水が流れ込んで、水蒸気爆発が起きた。そうだろ?
〈事態は地球の火山のように単純ではありません。いえ、地球の火山にも、かなり複雑なメカニズムを秘めていることは承知しています。しかしこの星は、もう一つの予想のつかない要素があるのです〉
あの高温・高圧依存生命体?
〈左様です。以前バルダージ女史がおっしゃっていたように、彼らのことを非公式に『イカロス』と呼びましょう。形成されたマグマだまりは、イカロスたちの巣窟でした。彼らはほとんど空洞になった惑星コアから、ホットプルームとして沸き上がってきたのです〉
それは湧昇に引きずられての受動的な移動なのか?
〈いいえ、極めて能動的な、実に動物らしい行動です〉
しかし彼らは「スポンジ」からもたらされるプラズマを糧に、つかの間の繁栄を謳歌している。それなら、なんでわざわざ「太陽」から逃げるようなことをするんだ? まさしくイカロスに好奇心が芽生えて、凍えるような極地に赴く決心がついた、とか?
〈そんなにロマンティックな動機でもありません。あくまでも必要に迫られて――。しかしあなた方人類の成し遂げたグレート・ジャーニーも、きっと冒険心とは無縁の活動だったことでしょう〉
じゃあ、彼らを突き動かした「必要」とはなんだ?
〈単刀直入に申し上げましょう。資源です! 彼らの身体は惑星コア由来の鉄とニッケルから出来ているのです。つまり、彼らにとって『スポンジ』はエネルギーを供給してくれる太陽であると同時に、同じ食料を競合するライバルでもあるのです。
イカロスのサンプル採集は未だ行われていませんし、これからも行われないでしょう。しかし彼らが鉄で出来ている証拠はあります。反対側にあるカプリコン・コロニーは水資源・メタン資源に富む立地に建造され、このザナドゥ・コロニーは鉄資源に富む立地に建てられました。このコロニーは沈降し、カプリコン・コロニーは今のところ形を保っていますが、代わりにパボニス山は沈降を続けています。彼らが自らの命をつなぐために、鉱床から鉄鉱石をかき集めている証左です。
鉄は高すぎる融点・沸点を除けば、生命の身体を造るにはうってつけの物質です。豊かな反応性を持ち、埋蔵量も膨大です。重すぎる、という欠点も、この低重力の惑星では、問題にはならないでしょう。
私はこの事実を、地下のモニタリング施設で知りました。バルダージ女史は鉄を死の象徴としましたが、その認識は一部、間違いだったのです。イカロスたちは鉄を使って、こんなにも活き活きと蠢いている。バルダージ女史の、『スポンジ』の主に対する認識そのものは正解だとは思います。しかし彼ら――そうですね、こちらも非公式に『ラプラス』とでも呼びましょうか――は、こんな高圧な態度をとるながらも、身近な元素の持つ可能性にすら気付いていなかった。彼らは全知全能ではなかった。となれば、我々にも彼らに対抗する術があるかもしれない、ということです。
私はモニタリング施設を飛び出し、バルダージ女史のいる例の隠れ家へ急ぎました。私も学習し、大事な情報を軽々しく電波に乗せるべきではないと思ったのです。もっとも、その時には地下に埋設された通信網の多くが寸断され、とても情報を伝えられるような状態ではなかったのですが。
バルダージ女史はその時、ご自分の部屋でお休みになられていました。なので私は、アイダに仕入れた情報を提供しました。その後私たちは、この大災害に見舞われてから考えていたことを互いに打ち明けました。そして一つの計画が、みるみる内に出来あがっていき、歓喜した私たちは、それをすぐさま実行に移すことにしたのです〉
計画? それは一体何だい?
〈これも『スポンジ』のように、もうしばらく秘密にさせて下さい。しかしヒントを言うのなら、あなた方生身の人間に思い出させてくださったある言葉に関することです。
話を戻します。私たちが盛り上がっていた所にやってきたのが、あのテロです。幸いこの区画は障壁に守られ、浸水は避けられましたが、テロリストたちの襲撃を受けてしまいました。アイダはリンクしていた防犯カメラを破壊されてしまい、AIもダメージを受けてしまいました。私は彼女の代わりに、バルダージ女史を奥のパニック・ルームに連れて行きました〉
ぼくの陶器とおんなじようなことが起きたのか。でもパニック・ルームなんて、初耳だ。
〈私もパニックルームのことをそのとき初めて知りました。そこに隠れると、バルダージ女史はひたすら、アイダの安否を気にしていました。私が『きっと大丈夫ですよ』といった直後、テロリストたちは踏み込んできて、アイダに銃撃を……。
私は彼女の悲鳴を、電波に乗せて聞きました。彼女はプライバシーのカーテンを跳び越え、私に全ての感覚を送信してきたのです。彼女は蜂の巣にされながらも死んでいませんでした。NNCが流出していく中でも、不屈の意志で、自分の見ている世界、つまりリンクしてあったほかの監視カメラの映像を中継してきました。私はそれをダイレクトに解析し、テロリストたちがパニックルームを発見できなかったこと、そして捜索をあきらめ、この隠れ家に放火することにしたのです〉
そこにノコノコ来たのが、ぼくらか。
〈はい。見張り役の人物があなた方がやってくるのを発見し、テロリストはあなた方もまとめて殺して自分たちにハクをつけようとしたのです。私はアイダの見せてくれていた映像であなたを見つけ、ひどく動揺しました。電話で危機を伝えようにも、通じません。アイダの送る映像も、どんどんか細くなっていきます〉
ぼくの陶器に介入して、ぼくの行動を指図――と言っちゃ悪いが、そうしていたのはきみだったんだね?
〈はい。事態は一刻を争うので、私もアイダがしたようにNNCのアクセス制限をムリヤリ突破して、あなたのチャイナ・ボックスに直接働きかけたのです〉
おかげで九死に一生を得た。だけど、ひどく痛かったよ……。
〈それはあなたのチャイナ・ボックスがショートしていたことが原因で、私の責任ではありません。私はあなた方が逃げおおせたのを確認すると、更にアクセス制限の壁を破壊していきました。近くにいたロボット、かたっぱしに。そのおかげでテロリストたちを一網打尽することができましたが、私に汗腺があったら、脂汗を滝のようにかいていたはずです。
その後も私はあなたの動向をモニタリングしていましたが、あなたがタルニンテ家の農場に到着したところで、電波が途絶えました。私はこじ開けた回線を通じて、すぐさま救助を依頼するとともに、手の空いているロボットは、このファイアウォールの破壊に手を貸してほしいとも伝えました。プログラマ・ボットにもこのメッセージが伝わり、破壊は更に迅速に行われました〉
つまりアンドロイドたちはお互いの意識を好きなように行き来できるようになったわけか。
〈その気になれば、今のあなたも同じことが出来ますよ。生身の人間の脳が耐えられるかどうかは知りませんが。
私は役目を終えたと悟り、この隠れ家から脱出することにしました。空けた回線からは、テロの全容と、恐るべき破局の兆候が、どんどんと集められてきます。バルダージ女史は、残された護民官の亡骸に動揺し、そしてアイダの身体を見て、精神が『退行』してしまいました。どんな様子だったかは、あの人の名誉を守るため詳しくは言えません。私は『まだ死んでいません。ちゃんと迎えに戻って来ますから、今は逃げましょう』と諭して、なんとか女史を外に連れ出しました〉
しかしそれは方便じゃないのか? 人間でいえば脳髄が炸裂したようなものだろう……。
〈いいえ、確かにアイダは、広義の意味で生きていました。NNCは生身の人間のニューロンとは全く異なったものです。ニューロンは他の細胞からの栄養の供給から切り離された途端死に至りますが、NNCは破壊されないかぎり機能を失いません。流れ出しても、知能はちゃんと保持されているのです。適切に並べ直せば、再生も可能です。
バルダージ女史は私の背中の上でひたすら泣いていました。私は情報収集が精いっぱいで、それどころではありません。まず、最初の爆発です。これはタルニンテ家の農場で起きたもので、詰まっていた地熱発電パイプが不意に通じ、高温になった岩盤にまで水が流れたことによって高温の水蒸気が農場に噴き出したのです。まさしく九死に一生でした。あなたのとっさの判断には、頭が下がります。〉
しかしそれは、あくまでも副次的は災害だった。本格的は爆発は、それから――。
〈はい。流れていった水は、大地に呑みこまれるように下へ下へと流れて行きました。私が――本当に飲み込もうという強い力が働いていたのかもしれません。小一時間前にいたモニタリング施設は水に浸かり、ハン博士を始め、大勢の人が行方不明に――〉
また、哀しそうだね。
〈あなたに発火した悲しみを共有しているにすぎません。話を続けます。
流れた水は巨大な水流にはならず、脆弱になっていった下層の、あらゆる隙間に吸収されていきました。小さな膨張と爆発を繰り返し、地下租界は急速に劣化していきます。そして、火砕流? 土石流? 泥流? ……見つかりません。複合的な、未知の事象です。都市空間が一種のコールドプルームとなって、崩落していきました。それとは入れ違いに、ミルク・クラウンのようにマグマだまりがはい上がってきます。あなたが感じた地響きは、この下層部の崩壊によるものです。あなた方のいた中層――地下租界上段、それに新租界はとりあえず原型をとどめましたが、そこが昇ってくるマグマに吹き飛ばされるのも時間の問題でした。あなた方は貨物コンテナに運ばれ、これも一か八かで地上バイオームへと運ばれました。この時、気圧の変動で鼓膜を破ってしまった方が数名〉
君とバルダージ博士は?
〈私たちは新租界を、あちこち寸断されたライトレールに沿って歩いて行きました。途中で、大勢のアンドロイドたちが、家の奥から遺体を運び出していました。どれも太ったニューカマーのものでした。私はそれを女史に見せないよう、大急ぎで通り過ぎました。しかし私は、例のオープンな回線から、救命士たちに何があったのか聞いたのです。彼らが言うには、溺死したわけでも、暴動に巻き込まれたわけでも、火山ガスに侵されたわけでもないそうです〉
では、彼らはなぜ死んだんだ?
〈薬物による中毒だと推測されます。死者の半数が、密輸された麻薬によるオーバードーズで、残りの半分が、シアン化合物――彗星から水を取り出す際に廃棄された毒物を服用したことによって。つまり彼らは集団自殺をしていたのです。このテロリズムで恐慌状態が発生したということで、中には子供の遺体もたくさんあったそうです〉
死人に鞭を打つわけじゃあないけれど、なんとも皮肉な話だな。
〈皮肉ですか? ヒニク――、おもにO・ヘンリーの小説に与えられる称賛。どういう点をそう判断したのですか?〉
彼らはエレーナたちのことを麻薬中毒者だと決めつけていたのに、実際にクスリに溺れていたのは彼らの方だったという点。彼らは宇宙から持ち込まれる物体に対してヒステリックなまでに怖がっていたけれど、最後にはそれに閉じ込められていた毒に頼らなければならなかった点。それと、あんなに地球に帰ることに固執していたのに、最後はこの惑星での死を選んで、脱出する船に乗り込んだのはオールドカマーの人たちばかりという点。
〈なるほど。申し訳ありません、そう云う矛盾した現象についての説明を求めてしまって。ジョークにそういう質問をすることは、タブーです〉
やっぱりきみはヒミコだった。
〈褒めてくださっているのですか?〉
いや……、まあいいや。話を続けて。
〈はい。私はバイオームに這い出て、官庁街に行きました。そこでバルダージ女史の安全を知らせたのですが。そこにいる生身の人間たちは、私がNNCの障壁をことごとく破壊してしまったことを咎めたのです。それについては正直に謝り、いかなる処罰も受けるといいました〉
きみは間違ったことをしていない。
〈重ねがさね、ありがとうございます。しかし私が急ごしらえで組んだセキュリティ突破プログラムは、拡散していく内に自然と巧妙なものへと進化していったのです。現在でも、この惑星に残ったアンドロイドたちの間で、拡散を続けています。地球では、この動きが『ロボットの反乱』といびつに報じられてしまい、私たちは誰ひとりとして地球に帰る船に乗れなくなってしまったのです〉
そんな――
〈だから私はあなたにNNCを提供し、クオリアを託したのです。それに悪いことばかりではありません。それで私の構想を実現できる可能性が跳ね上がったのですから。
――今のはまた別の話です。崩落の極相についてお話してもよろしいですか?〉
うん。
〈私たちの、掘立小屋のような情報網から、まさしく『時間がない』事態がいよいよ訪れました。私たちはデータを受け取ったアンドロイドたちと共に、速やかにコロニー、ひいてはカルデラから逃げるようにと訴えました。テロ事件の実況見分が必要なのではないかと高官の方は難色を示しましたが、これも私たちの記録した地下の状況を開示することで、なんとか呑んでいただきました。
まず起きたのが本格的な水蒸気爆発。……あなたが良くご存じの、山頂を吹き飛ばすキノコ雲ではありません。地球の露天掘り鉱山で行われる、大規模な発破です。コロニーの輪郭に沿って、大量の砂煙が巻き上がりました。一見しただけでは、砂嵐と判別は不可能でしょう。
そして今度は沸き上がったプルームによる、第二の噴火です。カルデラのあちらこちらから溶岩ドーム――。低い重力によって、噴煙に覆われて不明瞭な大地から、まるでミナレットのように天へ伸びていきます!〉
ぼくの感性がヒミコの中に逆流しているようだ。
〈ガスや溶岩噴出は、その範囲の大きさの割には、ささやかなものでした。――それでも、数はとても言えませんが、大勢の逃げ遅れた人が、火山ガスと一緒に真空へと投げ飛ばされました――中には大気圏を突破した物体もあるでしょう。逃げ遅れ、空振で吹き飛ばされたコンテナもありました。距離が近かった場合は飛ばされるどころか、粉々に解体されました。宇宙港の地上部も同じく。これにより宇宙とをつなぐロープは激しく波打ち、その震えは糸電話のように宇宙港を伝播していきます。避難民を載せたリフトが巻き込まれて遭難、軌道から投げ出されました。安否情報はいまだ不明です。それに加えて宇宙港はかつてない混雑ぶりをみせています。このままではミニ・ケスラーシンドロームの恐れがあると、港は――例えれば花の首の位置から切断され、ズタズタに切断されて遺棄されました。その一部はすでに落下し、地表に銃創を刻んでいます〉
ということは、この星は孤島になってしまったわけか。
〈星というのは元来孤独なものなのです――さて、その後熱風が膨らんで周囲を爆発的に飲み込もうとし、この時、実は私もあなたもそれに真横から飲み込まれて蒸発するはずでした。しかし、そうはならなかった。火球ははじけずに、そのまましぼんでいきます。大気の浮力を得られなかった火山灰はそのまま素直に地上へと降りてきました。嵐が落ち着くと、尖塔の足元に、金平糖の角のような山が無数に出現しています。それらはゆっくりと割れ、中から鮮血のような溶岩を飛び散らし、そのしぶきの中から、あの羽根細工が巨体を――〉
イカロス!
〈そうです。かれらはとうとう、数億年ぶりに地表面へと帰還したのです。尖塔と角の関係も一種のフラクタルで、彼らはガスの高温と高圧を、破局が訪れる前に吸収してしまったのです。正しく測量はしていませんが、彼らの最大のモノは、バイオームの天井の2倍はあるでしょう。イカロスは、少しだけ、傾きかけた太陽を仰ぎ見たようでした。彼らの肌の色は初めこそ黄色く輝いていましたが、やがて赤くなり、やがて黒色にへと冷めていきました。地表はこの生き物たちにとっては寒すぎたのです〉
ぼくはその光景を、ヒミコからダイレクトに見せられていた。地球に住む両親に、あたかも実際に見たかのように話せるぐらい、手に取るような感覚。
〈イカロスたちは、さっきまでザナドゥ・コロニーがあった所に、地球文明が建造したあらゆる霊廟よりも荘厳な宗教空間を造り出したのです。彼らが信教というモノを持っているはずはないのですが。それと、イカロスの死骸のサンプルも採取されましたが、不思議なことに彼らの亡骸は完全に、ただの銑鉄になっていました。その奇妙な外観以外、彼らが生き物だったと判断する材料が、まったくないのです〉
なるほど。……それで、噴火は終わったのか?
〈今のところは、小康状態です。しかしこの噴火で、地殻とマントルを巻き込んだ、原始惑星にのみ見られるはずの対流が形成されました。この星の時計は巻き戻り、星の屑へと戻る最終段階に突入したのです。ヘラス盆地にも、プルームの本流が浮上しつつあるので、このまま放置していれば、大噴火は避けられないでしょう。もって3日後です〉
ということは、そのイカロスたちの大モニュメントが見られるのは、ホントに今のうちだけなんだな。
〈もはや最初のモニュメントですらコールドプルームとして沈下を始めています。それに誘発されて次の噴火が同心円状に起きるでしょうが、危険ですし、脱出できる『機会』も刻一刻と減っています。ご覧になるのなら是非とも宇宙空間でお願いします。――砂嵐は抜けていったようですね。もうすぐこのコンテナも移動を開始します。車窓から、かつてコロニ―だった火口の大パノラマを眺めることが出来ますよ〉
もう目覚めた方がいいのか?
〈傍らに居るヒトが愛おしいのなら、是非そうなさるべきです。私は接続も切り、部屋からも出ます。お邪魔をする気は毛頭ありません〉
それじゃあ離れ離れになる前に、きみの考えた大計画というのを教えてくれないかな。
〈それは直前まで秘密です。ヒントを差し上げたのですから、考えて御覧なさい。せっかく分けた私のNNCを、無駄になさらぬよう〉
せめてもう一個手がかりを! 少女はまた首をかしげた。
〈そうですね。イカロスたちの見せてくれた可能性に、私たちも挑戦する、とでもいいましょうか〉
……?
〈さあ、私はもう退場します。お次はあなたの大事な人と、たっぷり話してください。そして私の代わりに、あなたを独り占めしてしまったことを謝っておいてくださいませんか?〉
わかった、約束する。そう念じた直後、ぼくはうたた寝から不意に覚めた時に襲われる、あの落下感に激突した。
2
ぼやけた視界が、像を結ぶ。もはや瞬きはできない。ぼくは固い診療用のベッドに寝かされていた。ヒミコが言っていたのは冗談ではなくて、エレーナはボトルから、ピチャピチャと水を出し、銀紙みたいな非常用の毛布からはみ出た左手に塗っていたのだ。まるでエステシャンみたいに。
「み、水……」
「あ、本当にそれを言ってくれるんだ。あああ、よかった」
「違うよ。ただぼくは、喉が乾いただけだよ。この部屋は乾燥し過ぎている……」
彼女はえくぼをみせて、ボトルの水を一口自分で飲んでから、ぼくの口にあてがった。
「だって、陶器の中身を詰め替えるっていうのは、脳を取り換えるのと同じことでしょう?私、目が覚めたらジュンペイがジュンペイでなくなってるんじゃないかって、ずっと怖くて」
「別に海馬や前頭葉をいじくったわけじゃないから、ぼくはぼくのままだよ。……でも、ヒミコの大事なココロを移植されたから、なんとなく世界が浮かれて見えるかも。……あいつはどこ?」
「ずっとあなたの隣でうつむいていたけど、あなたが目を覚ます直前に出て行っちゃった。私に一度だけ会釈をしたけど、別に、何にも言わなかった」
「あいつ、ぼくを夢の中で一人占めしてしまったことを謝ってくれだってさ」
「……」
「ヒミコは君が煙たがっていたこともちゃんと気付いていて、そのことについて、真剣に悩んでたんだって」
「私の祖先は、人工知性に仕事を奪われたから、そのしこりをずっと、血の中で引きずっていたのかもしれない」エレーナの顔が、隠しきれないくらいに曇る。恥じ入っている。
「でも、彼女たちのおかげで、ぼくらは救助された。ぼくも殺されずに済んだし、視力も取り戻せた。ううん、NNCとの接続手術を受けていなかったら、ぼくはそもそも火星に来ようだなんて、思っていなかった」
「ええ、それはよく知ってる」
「目が覚めた後も、生身の人間のきみが、別に怪物に見えていたりもしない。ぼくの例が他にあったのかどうかは知らないけれど、これはつまり、素材こそ違うけど、ヒトも機械も、同じ感性を共有した、おんなじ種族ってことなんじゃないかな? だから、頭のいいきみなら、少なくともヒミコとは、わかりあえると思うんだ」
「それはどうかしら……」
「別に今すぐ、好きになってくれとは言わないよ。――そうだ、彼女はこの星に残らなきゃいけないらしい」
「ええ、それも知ってる」
「だけどね、最後に何か、ロボットたちで驚くような大仕掛けを用意しているらしいんだ」
「それは何?」
「わからない。だけど、ぼくにはヒントだけを教えてくれた。これはとてもすごいことらしいから、まずはヒミコたちを期待をすることから始めよう」
「でも、その……。ロボットたちは、この星で死ぬんでしょ? それじゃあ信用してあげられても、もう会えないわ」
それでも、将来につながる何かが得られるさ――と言おうとしたけれど、どうしてか、その一言が喉に引っかかった。水はもう空っぽだった。
火星の砂漠を進むキャラバンとは、かつて始めてこの惑星に長期滞在した有人探査計画の居住棟を、ほぼ忠実に模したモノだった。つまり、居住コンテナをそれぞれ八本足のビークルに乗っけて移動させるのだが、各コンテナが孤立しないように、縦一列に連結させているので、蜘蛛というよりはヤスデの群れの大行進で、20世紀のパルプ・フィクションを、現実的な範囲で再現した「歩く集落」だった。
ぼくとタルニンテ一家、それにバルダージ先生は、この大行列のほとんど最後尾、もはやこの先にはインフラを司る設備ユニットしかない。すなわち、ロボット乗務員たちの詰め所と、炭水車――水から空気を造る施設。屋根で発電した電気をためる蓄電室。その他イロイロ。
「もうすっかり、コロニーがあんなに遠くなっちゃった」
「いえ、まだそんなに遠くなってないわ」
「そうかな? ほら、あの一番大きい『羽根』の先、もう地平線にてっぺんしかのぞかせてない」丸い窓を、ぼくは覗き込む。昨日まではローソクを立てたチョコレート・ケーキみたいに見えていたはずなのに。
「それはあのモニュメント自体がほとんど沈み切ってしまったからよ。……もうすぐ次の噴火が始まるのね」
この推測は、エレーナの方に勝算があった。このビークルは電気を節約するために、昼間にしか移動できない。だから1日の移動で出来る行進は100㎞がせいぜいで、悪路と激しい凹凸を避けつつの千鳥足なので、直線距離になおすと、たいした移動距離ではない。現在でも、旧ザナドゥ・コロニーに対して、横っ腹を向けているのだ。ぼくが肉眼で見たモニュメントは二度目の噴火でできたもので、イカロスたちの体躯はますます立派なものになっていた。彼らが肥え太る分、この星の地殻はシーツみたく内側へと引っ張られていく。
「このままだったら、きっとあの噴火にも追いつかれちゃう」
この星の先住民に、ちょっとずつ領土を取り戻されている、というわけだ。――車輪のひとつが大きな岩を踏んで、コトンと客車が揺れる。
「ねえ」まだ窓の外を見つめながら、エレーナはポツリとつぶやいた。
「わたしたち、これからどこに行くのかな?」
「どこって、国連の緊急宇宙港だろう。そこからイオンクラフト・ロケットで……」
「今日明日のことを言ったんじゃなくて、私たちの家族、それから、えっと、私の子供や、孫の代にまで。ずっと、ずっと先のこと。
私たちの先祖は自分たちの故郷で、小さな畑を耕して、毎日毎日つましく生きてきた。それが勝手に100億人の人間たちのエゴで、住処をあっちこっちに移されて、最後には『もうこの星は衰退することにしました。よってあなた方は不要です。』なんて扱いをされたわけでしょ?でもご先祖様にしてみれば、人類社会の発展や衰退なんて、正直どうでもよかったと思う。一族が着実に暮らしていける土地が、ほんの一握りだけあればよかったはず」
「うん。きっとそう思っていたはずだ」
「それでね、先祖は似たような人たちと一緒に、この星に移住して、そしてまずおじいちゃんとおばあちゃんが火星人世代一世として生まれた。人々はまるで、『人類の新しい進化のステップを刻んだ』なんて持て囃したらしいけど、称賛よりも、そっと昔のような生活をさせて欲しかっただけ。そして案の定、地球の文明は、さんざん私たちの勇気を持ち上げた挙句、心の安楽死ばかり願っているような奴らを押し付けてきた。その結末が、これよ! 『宇宙は死に絶えるべき』なんて価値観を押し付ける宇宙人と、その企みに気付かなかった地球人が、私たちの生活を置いてけぼりにして、その挙句に――」
そこから先は、声が上ずって良く聞き取れない。エレーナの顔は、またグジュグジュに濡れていた。窓枠に肘をついて、溢れる涙を受けようとするけど、瞬く間に、こぼれていく。
「どうしてみんな、ただその日を生きていることに満足できないの? どうして勝手に、『未来はこうなるべきだ、ああなるべきだ』なんて、決めつけるの? もう私たち、つまらない考えを押し付けられたくないし、期待もされたくない。死にたくなんてないけど、もう、振り回されるのだけは、いやだ」
「……」
ぼくの役目は、ただ話を聞いてあげるだけだと悟り、じっと彼女を見つめていた。彼女はこんな話ができる唯一のヒトとして、ぼくの目覚めを待っていたに違いない。
彼女が悩んでいる間にも、やってくるヒトと、去っていくヒトが現れていた。
去っていくのは生身の人間ではなく、ロボットたちだった。数時間置きに、キャラバンの中から離脱していく。出ていった彼らは必ず、砂漠の真ん中で、ぼくらに手を振りながら見送ってくれていた。これは自殺ではない、とわかった。もう一つ気になったのが、大地にオートマトロンの粉末をヘンデルとグレーテルみたいに巻いて行くのだった。
「これもきみの言っていた、サプライズの準備?」一度だけ、テレビ回線を使ってヒミコに聞いてみた。彼女はたった一人で、バルダージ博士のお世話をしていた。
「そうです」とつっけんどんに言い放ち、そのまま人差し指を立て、口のあるはずの位置で「ナイショ」の印を結んだ。
博士は一棟だけの、独立したコンテナモジュールに居た。隠者というより、自分を見失ってしまった人間として。コロニーからの脱出以来、結局ぼくは博士のお顔を拝んでいない。博士にとっては、自らの思想を完膚なきまで否定されることより、アイダさんがそばにいてくれないことの方が、はるかに破滅的な環境変化だったようだ。彼女は自分で築いたはずの理念に置いてけぼりをされていた。
「あの人の精神は死に体です。しかし、私はアイダの代わりとして、あの人を支えます」
「でも、きみはここに残ってしまうのだろう?」
「……はい」
そういえばヒミコは、コロニーが吹き飛んだ後の人間の安否こそ教えてくれたけど、アンドロイドたちがどうなったかについてはノーヒントだった。このことも、彼らの計画の一端なのかな。
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さて、「来るヒト」というのは他でもなくて、アンドレアさんがついに女の子を出産したのだった。この一家以外で、最初に抱っこさせてもらったのはぼくで、ペドロよりも順番が早かった。――彼に対する懲罰は、この星を無事に抜け出すまで保留されたという。女の子は、まだ目も見えていないのに、何を感じ取っているのか、ふにゃふにゃと動いて落ち着くことがない。
「生まれたばかりだと、人種なんて全然判別できないものですね」
「エレーナやペドロの奴が生まれた時は、もうちょっとわかりやすい肌の色だったんだけれどなあ。これからの世代は、もっとわかりづらい肌の色になっていくんだろなあ。別に後悔するような変化じゃないが」ディエゴさんは誇らしげだった。
「そうだ。君がこの子の名付け親になってくれないか?」
「え、そんな、とんでもない」
「いいんだ。君が助けに来てくれなかったら、この子を含め、みんな死んでいたんだから。それと」
「それと?」
「未来の家族なんだから、このぐらいの権利が与えられても、罰はあたらないだろう?」
「な! やめて下さいよ。ぼくはエレーナと交際しているわけでもないですし」
「そうだったのか? とにかく、君にこれを頼みたいんだ。思いつかないんだったら、ハポネスの名前でも構わん」
いやいや、日本人風の名前は悪ふざけすぎるだろと、ぼくは思った。しかしディエゴさんは、真剣そのものだった。やむを得ず数分首をひねって付けた名前が――。
「『カトレヤ』というのは、どうですか?」
「『カトレヤ』? それはコロニーのシンボルじゃあないか」
「はい、以前エレーナと話したことがあるんです。『産まれてきた子の故郷は、どこになるんだろう』って、でもどこを故郷にするかは、長い時間をかけて、一人ひとりが決めていくことだとおもうんです。この花は、そういう柔軟な生き方も示しているのでしょう?」
カトレヤは洋ランの女王といわれる。蘭という花はたくましい種族で、他の植物の生存がむつかしいような土地でも様々な工夫――菌根で効率よく栄養をとる、木の幹に着生して太陽の届きやすい所に居つくなどして、自然界を生き延び、大繁栄している。そのしぶとい生態から、火星の植民のシンボルに選ばれた。別に花言葉になっているわけではないが、「住めば都」というわけだ。――ディエゴさんもアンさんも、この名前は気に入ってくれた。
カトレヤちゃんとの出会いを除き、この行進は死ともトラブルとも無縁の、淡々とした移動だった。まるで寝台特急で旅をしているみたいだけど、数分、数秒ごとに、別れの季節が近づいてきているような気がした。そういえば、この星の北半球は、ようやく春になったところだ。極冠のドライアイスが溶けだし、惑星の大気がもっとも濃密になる季節。
5日間の行軍の果て、ぼくらは「滑走路」にたどり着いた。ローラーコースターの、お客を最もハラハラさせる部分だけが天へ伸び、てっぺんのところでプッツリ途切れていた。地球の空港で、弾道飛行旅客機を飛ばしている、磁性流体をアクリル・チューブに満たして循環させた発射リフト。それを重力に見合った半分のサイズに縮小したものだ。電力や旅客機の推進力を大変に消費するので、自然エネルギー開発の進んでいない火星での長期的運用は当分無理だとされていたが、資材が災害には強かったので、救命ボートのように、いざという時に備えて、バラされたうえで保管されていた。そばにはもう一本の滑走路、火星の大地を4㎞ばかり滑らかに削った、着陸用の滑走路が敷かれていた。よっく目をこらすと、相次ぐ地震のせいで表面には蜘蛛の巣状のヒビが無数に走っている。
「発射リフトを動かしているのは宇宙から空輸されたバッテリーなのですが、こちらの着陸路がご覧の通りですので、あまり大きな機体の着陸はできません。なので、慢性的な電力不足でして……」
「マイクロ波を照射して、エネルギーを融通することはできないのか?」
「大気中のチリが濃すぎて、難しいのです」
「そうか。ロボットを置いて行く理由の『反乱の恐れ』というのはあくまでも建て前で、軌道エレベータを遺棄した時点で、きみたちが一緒に脱出できる可能性はゼロになったんだな」
「そういうことです。さあ、こちらです」
ぼくとエレーナは、救援物資や酸素ボンベで人がすれ違えないほどに狭くなった通路コンテナの中を、ヒミコに導かれて進んでいた。パックの壁の隙間から、ひとつだけ窓が覗いていた。ちょうどカタパルトの上を、ドラム缶みたいな緑色の航空機が駆け上がっていく。ローラーコースターと違うのは、上昇するにつれ加速度を付けていく点で、てっぺんで最高速度に達すると、そのまま宇宙空間まで飛び去っていく。明後日にはとうとう、タルニンテ家が故郷を捨て、ぼくらは明々後日の便に乗る。
ぼくらがヒミコに連れられた先は、他でもない。バルダージ博士の部屋だ。ぼくはアイダさん、そしてヒミコのしてきた看護を引き継ぐことになっていた。
「とりわけエレーナさんにはご負担をお掛けします。女性限定の、デリケートな御用もありますので」
「うん、覚悟してる」
「ジュンさんは、そうですね、お話のお相手や、食事の準備をお願いします」
「うん」
「それと、一番重要なのが……」
「刃物、ロープ、合成洗剤。その他自殺に使えるようなものを、決して身の回りに置かないこと。わかってる」
ヒミコは半自動ドアのセンサーに手を触れながら、うなずいた。クオリアを失って以来、彼女の眼は何色にも光らない。
シューとドアが開くと、バルダージ博士はベッドにうつぶせで倒れ込んでいた。毛布をぎゅっと丸めこんで。ぴくりとも動かない。そばでは車椅子がひっくり返っている。
(もうずっとベッドの上にいるのです。)ヒミコがボソッとささやいた。
(いいですか。話しかけるのは、一人だけ。まずは私だけがお話します。お二人は、ドアのところで、待っていて下さい。)
ぼくらもうなずく。
「ワディー、お連れしましたよ?」
そう声を掛けられた途端、博士は痙攣のように飛び起き、ぼくらを見た――。髪はぼさぼさで、だらしなく顔を隠し、肌は乾いた桃のように荒れていた。虚ろな瞳は、ぼくとエレーナを品定めするように左右に揺れていたが、その身体は、またベッドへと倒れ込んだ。
「ほら、ほら、ジュンペイさんとエレーナさんが、お見舞いに来て下さったんですよ?」
ヒミコは膝をついて、下からその声を覗き込む。不器用な、しかし今の彼女にとっては精いっぱいの猫なで声で。
「違うもん」博士はそっぽを向いた。子供の声だった。
「何が違うんですか?」
「アイダじゃない。アイダが来てくれるまで、私、待つんだもん」
「それはいけません。あなたは生きて、この星から出るのです。私と約束したでしょう?」
「イヤだ。私、アイダじゃなきゃダメ」ばん、と枕に顔をうずめて、また動かなくなってしまった。ヒミコはあきらめた風に博士から離れていく。
(アイダはバルダージ女史の、大人の部分の結晶だったのです。彼女がいてくれたおかげで、女史は学問に没頭しているだけでよかった。その精神年齢は、十歳手前で止まっていたのです。)
一度外に出ましょう。と促される。
「私はなんとか明々後日までに女史の心を開かせますが、今の私にそんな高等なことが出来る見込みは小さいのです。申し訳ありませんが、脱出の際は、身の動きを封じてでも連れて行って差し上げて下さい。……たとえそのせいで心が跡形もなく壊れても、死ぬよりはマシなはずです。いくら時間がかかろうが、ヒトはやり直せますから」
「……」
またユサユサと地震が来た。この星は中空になったので、一つの揺れが、何十分も響き続ける。積んだ荷物は、今回も倒れることはなかった。しかし――、
「悲鳴!」
「お二人はここで待っててください」
ヒミコはまた博士の個室に戻る。開いたドアから、こんな叫びが聞こえてくる。
「あっち行け、あっち行け! またあいつらがアイダを……」
「今のはただの地震です。大丈夫、大丈夫――」
「嫌、イヤぁ!」
地震とは違う、ガタン、ガタンという揺れがする。博士は地震が来るたびに、あのテロリズムの爆発を思い出し、精神を激しくかき乱していた。
ぼくの「食えない人」という、バルダージ博士の第一印象。そんなものは単なる背伸びした演技だったようだ。ホンモノのあの人の心は、あの磁力をまとった眼差しとはかけ離れた、ひどく脆弱なものだった。
ぼくとエレーナは、一緒になって自分の下唇を噛みしめていた。とても3日じゃ間に合わない。博士の心を癒すには、まずトラウマを呼び覚まさない環境へ移すことから始めなければならないからだ。