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第4章 クオリア騒擾

 1

 

 地球から火星まで最短で3か月、最長で半年をかけて、各国が保有する様々な宇宙船が、宇宙港に入港した。もちろん中に火星の避難民を載せて折り返しの航海をするためだけど、引き換えに地球から色んなモノを持ってくる。重要度の高いものから並べていくと、ロボットの救助隊、土木機械、タンクに詰まったオートマトロン――大昔よりも、さらに小さくなったやつ、チャリティとしてやってきた大物歌手、折り鶴、フリーズドライされた花、マスコミ、観光客。少なくとも前者は、この星と一緒に、「スポンジ」へと呑みこまれることとなる。

 ハン博士は発見された火星原住生物圏についてのさらなる調査を求めたが、それが認められるどころか、この発見はパニックを避けるため秘匿されることになった。生身の人間でリアルタイムに「火星人」を見たのは、博士とエレーナ、それにぼくだけということになる。やむを得ないことだとわかっていながら、妙にさみしい。

 もう一つ、さみしいイベントがあった。パボニス・エレベータが、とうとう地上部と切り離された。――パボニス山は他の土地よりも速く沈降を始め、目視できるほどにエレベータの繊維が傾き出し、それでもむりやり運用をしていたのだが、ふもとのカプリコン・コロニーまでを結ぶ地下通路が広範囲で崩落し、通行が寸断されたからだ。この時、落盤に巻き込まれて、避難民と護民官、合わせておよそ600人が生き埋めになった。半分の人の遺体が回収されたが、3日で捜索は打ち切られてしまった。

 ぼくがあそこを訪問できたのは、就職して初めてのバカンスで行った、一度きりだった。

「これも火星生物のせいですかね……。だとしたら相当な力で地表の物体を引っ張ってることになりますけど」ぼくはハン博士と再びお会いする機会があったため、聞いてみた。

「わからない。――が、パボニス山は典型的な成層火山だ。内部はバウムクーヘンみたいに何層にも重なっているから、マグマの通り道をつたって、その隙間に湿潤して……」

「なぜ大気中に出てこないんですか?」

「やはり高い気圧がないと駄目なのだろう」

 ここから先は、ハン博士の独り言だった――。しかし、彼らが死火山に何を求めてやってきたのかがわからない。ウラン鉱床があるとは考えられないし。ああ、今ボーリング調査を行えばその理由も、いや、それどころか生きたサンプルさえ回収できるんだがなあ。今からでもかけ合ってみるか。……その後ハン博士の目論みがその後成就したかどうかは知らない。ともかくぼくをこの星に導いたきっかけの塔はあっけなく、百年にも満たないその歴史に幕を下ろした。噴火した際に噴煙を浴びないよう、解体・土木用のオートマトロンたちがヤスリのように根元から100㎞を食いちぎる。それで墜落というわけではなく、一応はその後も使用し続けられるが、航空機でいちいち飛び移らなければならなくなった。輸送効率は恐ろしく落ちるし、あちらの新租界住民はそんな危険なモノには乗りたがらないだろう。虚弱体質の彼らが化学燃料航空機の急加速・急発進にさらされれば、よくて失禁、悪けりゃ心臓麻痺だ。

 ということは、わざわざ火星の砂漠を通って、オポチュニティ・エレベータにまで来るつもりなのかな――。真に失礼ながら、彼らにそんな大冒険をする勇気も体力も、そして手段もない。当局はこの痛手をどう解決するつもりなのだろうか。そして、オポチュニティ・エレベータが使えるのはいつまでなのだろう。ぼくはバイオームを散歩しながら、そんなことを考えていた。

 ここの景色もだいぶ変わった。このあたりの陥没は日に日に増し、バイオームの天井は地震や断層にもよく耐えていたが、地上部にはザクザクとした亀裂が走ってきた。庭木の手入れは放っておかれている。この星には雑草がないのでみっともなく草木が繁茂するということはない――でもその代わりに土木機械に踏みつぶされて茶色く枯れた花や、むき出しの土くれが目立ち、この居住区もゆっくり壊死してきているんだなとわかる。

 空気も悪くなった。これは植物が絶え始めたせいだけでなく、人が増えたせいだ。芝生のスペースにはずらりとプレハブ小屋が並び、地球からの迎えを待つ人が仮の宿にしているからだ。地熱の上昇で居住が不可能になった地下租界の最深部から、在庫処理とばかりに段々と住民がはい出ていき、地球へと去っていった。今はベトナム系住民が肩を寄せ合っている。あと階層を三つ登れば、人口の多い中南米系と中国系住民がはい出してくるだろう。ただし彼らは日中、そこにはいない。ぼくのように呑気に散歩を楽しんだりも――あんまり楽しくはないが――しない。再び地下に戻ってぎりぎりまで身辺整理をしているか、官庁街の広場で、ちょっとしたスペースで、肩を寄せ合い最新の政府発表に耳を傾けている。あんな狭い所で黙々と自分の順番をまっているよりも、井戸端会議をしていた方が精神衛生にはいいだろう。

 

 ぼくは引き続き、バルダージ博士の代理を務めていたが、最近は滅多なことで博士と会うこともなくなった。彼女は今、新租界と地下租界のちょうど中間で、まるで古い時代の未亡人のように、世間を忍んで生きている。話相手になるのはアイダさんばかりだ。

「昔から変なところばかり強情でして、一度『ご自分の判断に責任を感じているのなら、真っ先にこの星から脱出なさればいかがですか? このまま居ても足手まといになるだけでしょう』と忠告をしたのですが……」

 相変わらず歯に衣着せぬというか――。「で、博士はなんて?」

「『私はまだ対策チームから外されてない。最後までここに残る義務がある』ですって。……もう役目を終えて、地球への帰途についておられる同僚もいらっしゃるというのに。まあ、それがあの子の、……博士の決断なら、私は従いますが、いざとなったらひっぱたいてでも地球に連れて帰ります。お二人はご心配なさらず、いざとなったら私たちなんて置いて行ってもかまいません」

「はあ」

 そうは言っても、抜け駆けみたいに脱出はしたくない。だからぼくは、傾き出したアパートにこもるか、散歩するか、遠出してエレーナの実家の手伝いをするかの三角生活を送っていた。――このコロニーに存在する3つの世界は必要に駆られて、急速に境目を失っていた。そのシンボルが、白いテント村の隙間にぽつり、ぽつりと突き出している火の見やぐらみたいなものだ。近付くと高層マンション程ではないが、意外と大きい。これらは機械について心得を持った住民や、災害支援に来た技師たちが突貫で準備した昇降機だ。全ての塔が高さをずらしており、どの周波の地震が来ても、どれか一本は揺れを受け流すだろうというささやかな工夫だ。貨物コンテナは縦穴にいくつもの亀裂が走り、もはや危なすぎて使えない。でもこのエレベータを乗り継いでいけば、租界までふたっとびだ。「駅」からトリッキーに歩かされることもない。

 ただし、こんな風にたくさんの穴が空けられたせいで、このコロニーに溜まっていた緊張は、ガス抜きされるどころか、余計パンパンに膨らんだ。今まで交通機関で住み分けしていた二つの住民が、面と向かって生活しなければならなくなったからだ。流言飛語も沸き出した。

 

 で、ぼくがしている手伝いというのは、農作業のことではなく、寸断されかけた線路の補修、援助物資の仕分け、それと刻一刻と変化する地熱を読んで、発電機の修理や調節をすることだ。もはや耕作に適した地温ではなくなり、それを冷やすような潤沢なエネルギーはない。この一家はなるべく一室に閉じこもって生活することで、辛うじて電気を外に供給し続けている。

 ペドロの行方は、結局知れない。ぼくはその後釜におさまったような感じだ。エレーナの他の家族とはすっかり打ち解けたが、これはこれで、なかなか罪悪感がある。会ったのは一度だけとはいえ、ペドロはそんなに疎まれていたようにはみえなかったのだが。

 そんな引け目を感じつつ、ぼくは足しげく通っている。今日もメールで、ディエゴさんからの「人手が足りない。ちょっと手伝ってくれ」というメールが来ており、反射的に「すぐ行きます」と返事をしてしまった。そして足も最短距離で行けるトンネルの方を向いていた。ここからなら、運行をやめたライトレールの橋を、徒歩で歩いていけばいい。線路のど真ん中を歩くのは列車がなくても危険だが、緊急時やメンテナンス用に、歩道が付いている。バイオームが避難民の待機場所になった際の混乱時に、いつのまにか立ち入れるようになっていた。

 ぼくは反射神経が見たまんまに悪いので、念のため手すりをしっかり握って進む。以前は水面から確認できた魚の影がまったく見えなくなった。水質が変わって、全滅したと聞く。「どこかに行った」と言われるよりも生々しさと危機感を感じないのはなんでだろう。

 ……ん? まだ魚が生き残っていたのだろうか。一瞬だけ、対岸の橋脚がぴかと光ったように見える。太陽は出ているが、ここのバイオームの風はまったく吹いていない。湖面のゆらめきでもないっぽい。ちょっと度胸をだして、早足で近寄る。

「おい、あんたたち」

 かの防護服を着た二人組が、ボートを橋の下に隠している所だった。上から声を掛けられた彼らはバッとこちらを向く。相変わらずその顔は知れない。

「そこで何をしていた? ……あっ、待って!」

 彼らは重力を無視して、舗装された護岸を転がり上がっていった。

 ぼくも急いで橋を渡り切ったが、「防護服」はもう、静まりかえった森の中に消えてしまっていた。どういう逃走経路を取るのかは不明だが、あんな目立つ格好で地下租界の人でいっぱいのバイオームをうろつけるとは思えない。ぼくは負うのをやめ、護民官にことを報せて、彼らが残したボートを吟味することにした。……ボートそのものは、何の変哲もない、1マーズ・オンズで貸し出されているやつだ。もちろんその商売も、とっくに廃業している。

「ははあ、これでこの舟を隠していたんだな」半透明の天幕が、クシャクシャに丸められている。それを広げると、中から3㎝くらいのフライカメラが落ちてきた。お腹のスイッチを押すと、手にバチッという衝撃が走り、思わず放り投げてしまった。うかつにもイオンリフターの羽根を触って、感電したのだ。フライカメラそのものは漏電なんてモノともせず、ぼくの腰の高さでフワフワと浮いている。天幕には歪んだぼくの姿が浮かんでいる。これで湖の景色を映して、ボートを隠していたらしい。「光学迷彩」というにはお粗末すぎるが、だれもこの湖に興味を示さなくなったから、こんなチャチなもので構わないのだろう。

「あなたですか、通報者は?」

 護民官がパンクフリーの自転車に乗ってやってきた。ぼくと同い年ぐらいの華人の青年で、遠目からはちゃんとした格好だったが、自転車を止めて近づいてくると、しばらくの修羅場がありありと見えた。ネクタイはだれかに引っ張られたようによれよれで、顔にはあぶらが浮いている。彼はまず、ぼくのIDを確認した。

「えっと、これがその二人が残したモノなんですね?」

「はい、彼らはこれを陸揚げしたあと、逃げていったんです」

「どちらへ?」

「あの緑地です。すいません、少し触ってしまいました」

 フライカメラはまだ浮かんでいる。護民官も天幕の隅っこを持ち上げる。

「これは……、アレですね。『新租界エリア』の壁や天井に貼られている奴ですね」

「ぼくもそうだと思います」

 新租界のニューカマーたちは、自分の家の中だけでなく、街の大通りの隅々にまで、この天幕を張り、延々と地球の美しい風景を上映し続けている。これで彼らのエゴイスティックな郷愁を慰めているのだが、これのせいでこのコロニーで生産されている電気の3分の1が浪費されているという、もったいないハナシだ。

「あのう、これは窃盗されたものなんでしょうか」

「うーん、ちょっとわかりません。購入されたものなら製造番号を調べれば、だれのものかわかります。『新租界』から盗まれたモノなら、切り取られている所を探せばいいのでしょうが、今は出来ない話ですし……」

 新租界はその面積を外からじりじりと狭めていた。彼らが恐怖心に駆られて掘った洞窟は所詮は安普請で、少しの地震であっけなく崩落した。そういうところから火事場泥棒的に持ち出されたものなら調べようがないし、今はそういう犯罪捜査に割ける人材もいない。

「これに乗っていた二人組は、一体何をしていたのでしょう?」

 ぼくに聞きたいよ。――とは、さすがに言えない。

「あいつら逃げる時に手ぶらだったから、まだ大事なものがこの中に残っているのかも……」

「しかし、これ以外には、何もないみたいですね」

 護民官は天幕を全て引きずり出し、ボートの中をペンライトで調べる。

「何かを湖に捨てたのかな? ぼくが見たのはその帰りなのかもしれないですね」

「なるほど。しかしなんで、そいつらはわざわざ昼間にこんなことをしたんです? ただ目立つだけじゃないですか。そして、一体なにを捨てたんでしょう?」

「うーん……」

 とりあえず、この場は本官におまかせ下さい。あ、そうだ。他になにか思い出したことがあれば、私に支給されているコールにお電話を――、と彼がぼくに名刺を渡した途端、ぼくの耳は潰れた。肌を鳥肌が立つような震えでまさぐられ、ぼくは転倒した。腰をどこかに強くぶつけた。

 うう、と、間抜けな悲鳴を漏らしてしまった。

「……た、あなた、大丈夫ですか?」

 体中をヘドロ混じりの水が当たる。そんな悪臭の中、ぼくは護民官に抱き起こされた。

「お怪我は? 頭を打ってはいませんか? お持ちの陶器の具合は?」

「いえ、平気です。護民官さんは?」

「私も大丈夫です。……すごい爆発でしたね」

「ば、爆発?」

「ほら、一瞬だけ、あそこにすさまじい水柱が――」

 振り向くと、湖のちょうど真ん中、橋の真ん中がゴボゴボと白波をたている。橋は無事だった――。岸の上にはこの地鳴りとは違う轟音に驚いた人影がひょっこりと出てくる。みんな近しい人同士で小規模の団子をつくっていた。

「……なにか臭いませんか?」

「生水を全身に浴びたせいでしょう。もしくは私の体臭かも」

 もう3日間風呂に入れていませんからと護民官は言うが、間違いなくそれじゃない。これは足元から、ウワッと湧きたつヘドロの臭いだ。はたと嫌な推測をして、ぼくは湖を覗き込んだ。

 ……やっぱり! 水位がどんどん浅くなって、湖底がむき出しになってきている。

「湖の底が抜けたんだ!」

 白波は治まるどころか、あぶくを盛んに立てている。地下租界の空気が、あそこから漏れているんだ。異変に気付いた人たちが、キャアキャと悲鳴をあげている。

(エレーナ……)

 大脳旧皮質のどこかから、どうして真っ先にこの名前が出てきたのかは、よくわからない。「あなた、一体どこ行かれるんです!?」と護民官の青年は叫んだが、そのころには本来向かっていたはずの簡易エレベータを目指して陶器を揺さぶりながら全速力で走っていた。両足に力をため、思い切りジャンプすれば、そのままバイオームの天井を突き破れそうなくらいに。

 エレーナに続いて、色んな人が頭の中を通り過ぎていく。ディエゴさんにアンさんに、パドレにマドレ、ヒミコにバルダージ博士、アイダさん、所長にマレヴィチ博士……。あれ、おかしいぞ。なんだこのフラッシュバック。これはぼくの想像力の産物じゃない。陶器の具合が悪い。電池切れか? まさか、寝てる時に充電したぜ。奥歯でアルミホイルを噛んだみたいな耳鳴りがする。映像が白黒になる。輪郭だけが……。

 さっきの爆発でか! お前も優しきTOYの末裔だろう。頼むから、みんなの無事を確かめられるまで、もっていてくれよ……。

 久しぶりに大規模な警報が鳴っている。目的のエレベータについた。案の定、人だかりができている。

「駄目だあ、近寄るな。危ない!」

 片言の英語で警告しながら、男がぼくの前に立ちふさがる。地下租界の自治組織の人間が、エレベータを管理している。

「大事な人たちを助けに行くんだ。通してくれよ!」

「駄目だ。中は、水がたくさん。それに、あちこちに火がついてる。ここはそのうち煙突だ。アンタも蒸し焼きになるよ!」

 男の背後からは、煙こそ出ていないが、不気味な唸り声がこだましている。爆発があったのは湖底だけじゃあなかったのか。

「でも、見殺しにするわけにはいかないだろう。一生のお願いだ」

「助けにいくなら、助けられる人が行く。アンタ、キカイがこわれたら目が見えないんだろう。『ニジヒガイシャ』になるだけ。絶対に行かせられない!」

 噛んで含めるように道理を説かれて、ぼくはたじろいだ。「まずは電話したらどうだ。ここはだいぶヒトが減った。悪いことが起きてる時でも、デンワちゃんと話せるかもしれない……」

「そうしたいけど、いまは陶器の、――うう、機械の調子がことごとく悪いんだ」

「……それでは無事なことを祈っているしかない。オキノドクだけど」

 ぼくは後ろ髪をひかれる思いでエレベータを立ち去った。こういう時に限って、陶器はもとの調子を取り戻す。やはり完全にぼくの身体の一部というわけではないのだ。

 ――そうだ、あの、ボートに乗っていた連中!

 あいつらの防護服を使えば、耐熱性はともかく、防毒や防塵にはなるだろう。あいつらをとちめて、護民官に引き渡す。そしてぼくは白装束を拝借して、トンネルを強行突破する。無鉄砲な作戦だが、あせっているぼくには、これが最善の策に思えた。

 そうと決めれば、善は急げだ。あいつらが逃げ込んだ緑地へと急ぐ。あんな格好でウロウロ出歩いていたら、あっという間に住民に取り囲まれて、運が悪けりゃリンチにされているかもしれない。オールドカマーの人たちが流血沙汰に関与してしまうことだけは勘弁してほしいし、それで防護服が引き裂かれていることはもっと困る。

 あいつらが逃げたのは、この先にある針葉樹の森だったはずだ。どうやら、とっ捕まったわけではないらしい。……どんなに耳をそばだてても、怒号もなにも聞こえない。集中するとノイズで頭がくらくらする。ローテクながら、陶器をパンパンと叩く――。多少感覚はマシになったが、次に調子が悪くなったら端子の部分に吐息を吹き込んでやる。

 どうだろう。この混乱に乗じて、完全に逃げおおせたのだろうか……。と、森の中心で辛い気分をしていると、ぼくは白い影がちらついたのを見た。もう一度陶器を叩くと、それが幻覚ではないことがわかった。落ちている針みたいな枝葉を蹴り飛ばし、一心不乱に走り寄る――。

 

「すいません。あなたまで巻き込んでしまって」

「いえ、いいのです。私も租界に親族を残しておりましたので。……心配です」

 ぼくとさっきの護民官は、半分水没した新市街をざぶざぶと進んでいた。――二着の防護服を着込んで。ぼくらの頭上を、黒い煙が蛇のように流れていく。

「でも、あなたの進退に悪い影響があるのでは?」

「平気です平気。もうじき職場もこの星もなくなるのです。ということは、いくらでもリセット可能です」

 ははあ、そういう考え方もあるか。

「そうだ。まずはあなた、どちらに行かれるのですか?」

「まずはお世話になっている、……ええっと、とある科学者の安否を確認しようと思ってます。そちらが距離的に近いし、足の悪い方なので、心配です」

 この爆発の被害の範囲はわからないが、オールドカマーの新租界が浸水するまで、タイムラグがあるはずだ。

「なるほど。では私もそこまでご同行しましょう。そしたら私は実家に向かいます」

「ありがとうございます。――そうだ護民官さん、あなたの名前は?」

「シェンウェイといいます。名刺をお渡ししましたでしょう?」

「ピンインが読めないんですよ……。ぼくはジュンです、よろしく」

 前を歩いていたシェンウェイは振り向いて握手を求めた。ぼくもそれに応じる。

「こっちは湖の底が抜けた上流ですね。方向は大丈夫ですか?」

 

 ぼくが見つけた二着の防護服はもぬけの殻で、それがこれ見よがしに枝にぶら下がっていた。着ていた奴らはどこにいったのだろう。この辺りにはまるで気配がない。とにかく、ぼくはそれを引きずり落として、よっく点検する。マジックテープを見つけて、それを剥がし、中も確かめる。ちょうど喉のあたりに小さな清浄機(シールが貼ってある――「ネオプラスタキオンで殺菌します Made in Japan」)の吹き出し口がついている。

(あれっ)と、ぼくはおもった。じんましんが出るような、新租界人の体臭がまったくしない。この防護服が新品だからだろうか? ぼくはかの護民官からもらった名刺をどこにやったかとしばらく探し、捜索から5秒後にズボンの右ポケットから発見した。呼び出された護民官も「ニューカマーの持ち物なのに、無臭ですね。……おかしいな」と首をかしげていた。

 ぼくはこの、似たような感性の持ち主であろうこの護民官を木の後ろに連れて行き、地下租界に大事な人がいて、助けに行きたい。でも当たり前ながら門前払いされてしまったと正直に打ち明け、協力を求めた。――彼はあっけなく同情し、便宜をはかってくれるどころか自分も白装束になって地下に行くと言い出した。

 青年はどこかに電話を入れる。ぼくはあらためて名刺に目を通す。彼は読み通りに同い年だったが、社会的地位はぼくよりずっと高かった。

「それでは行きましょう」と、彼はぼくの先を行く。

「ど、どこへ?」

「あなたがおっしゃっていたエレベータですよ。もう手筈は済んでいるはずです」

 彼の言ったとおりだった。さっきまで自警をしていたおっさんは隅っこに追いやられ、代わりにロボット護民官4人が周囲を固めている。白装束を担いだぼくらがやってくると、同時に敬礼をした。ぼくらは彼らの目の前で、防護服を着る。――お互いお腹の布が、かなり余っている。この規格のものしか、出回っていないらしい。

「エレベータはいざという時に制御が効かず、危険です。縄ばしごをお使いください」

「うん、ありがとう」

 ロボット君の忠告に、青年は気安く応える。

「どうしてあなた、あんな風に、人を動かせたんですか……。ぼくにはわかりかねます」

 ぼくは脛まで浸かった水をはねとばしながら聞く。水流は中々の勢いだが、足をすくわれる心配はなさそうだ。

「要は親父のコネですね。私の家系が、火星では結構古いところなんです。じつはこの職に就いたのも、それがあってのことです」そこ、ひびが走っていて、流れに吸いこまれますよと、彼は注意した。

「そんなぼくの先祖が築いたものも、この星がなくなれば……」と、育ちの良いこの青年――シェンウェイは自嘲気味につぶやいた。

 

 この空間には辛うじて電気が通っていた。建物にはヘレニズム調の偽柱が彫られていて、壁という壁には、さっきの天幕が隙間なく埋め込まれているが、さっきからお花畑の映像と夕陽の映像がとびとびで流れているだけだ。

「住んでるやつらはどこに行ったんでしょうか」

「さあ、わかりません。どこに避難しているのか……。大勢の人がすでに落盤と空気漏れで亡くなったらしいんですが、新租界の被害状況は全然わかってないんですよ」

「え、ここは行政サービスの最優先エリアじゃないですか。今でもこうしてトシインフラが通じている。把握できていないなんて、おかしいですよ」

「その疑問は最もです。かれらも2週間前までは比較的協力的だったんですが、とある怪文書が流れ出してから、まったく態度を硬化させてしまいまして」

「怪文書?」

「ええ、ホント、私も現物を読んだのですが、まともな思考力があれば一蹴するような内容でした」2週間前といえば、ぼくとエレーナがバルダージ博士のところに行った時だ。

「――なんだったんですか、その、怪文書というのは?」

「笑わないでくださいよ。私が考えた話じゃないんですから」シェンウェイはそう前置きした。「何でも、開拓機構は地下に潜んでいた火星生物の生き残りと接触し、ともに『スポンジ』から得られる未知のエネルギーを独占し、ゆくゆくは地球に独立戦争を仕掛けるつもりだ。火星住民は口封じに殺され、地球に帰還したと思われた人は、既に殺されている! らしいです」

 シェンウェイは乾いた笑い声を出す。ぼくはまったく笑えない。顔色を覗かれないですむのが不幸中の幸いだった。尾ひれはついているが、時間軸から考えて、バルダージ博士に火星生物について話した前後に、秘密が漏洩しているんだ。

「でも、そんな悪質なデマごときで脱出を渋るなんて、ぼくには考えられないですね」

「え、ええ。同感です」

「まあ閉じこもってくれているだけの人たちなら、ただ脱出の優先順位をうんと落としてしまえばいいだけなんです。かわいそうですが、冷静さをなくした自業自得です……。厄介なのは、真に受けて私たちとガチンコな対決をしようという輩が出ることです」

「ひょっとして、この事態も、それですか?」

 シェンウェイはまた振り向き、お手上げのポーズをした。

「わかりません。犯行声明もなにもなかったですから。少なくとも私は知りません」

 まあ、この格好をしていれば、体臭を嗅がれない限り仲間だとは思われますよ。そういってシェンウェイはさらに進む。

「だいぶ水が引いてきましたね」

「もう床が見えてきましたね。……沈んだ泥で真っ赤ですよ」

「え、真っ赤ですか」

「そうですよ。色、お分かりになるでしょう? 暗いですか」

「は、はい」――また陶器の調子がおかしくなってきた。

「案外水が引くのが速いですね。貨物コンテナが空気抜きになっているせいなんでしょうか」

「ところで、流れていった水はどういう経路で下へ流れていくんですかね」

「さあ、あちらこちらの隔壁が機能しているから浸水しない地域もあるでしょう。しかしあの湖、深さがあるぶん、かなりの貯水量ですからね。ほぼ全域を水になめられたら、袋小路の所は、間違いなく地獄ですよ」

「あなたの所はどうですか?」

「租界の比較的上の所にいますので、下に水を逃がす余地ぐらいあるんですが、行ってみないとわかりません」

 彼は肩をすくめた。「……無計画に地面を掘ってしまったのだから、私たちにとっても自業自得というわけですね。は、は、は」

 天幕は一瞬強く光り、「手つかずの自然!」というフレーズだけが浮かぶ。次に映った熱帯雨林の写真は、モザイクに崩れた。向こうの故障なのかとおもったら、シェンウェイの背中まで歪む。原因はぼくのせいだった。あまり時間はないらしい。

 

 バルダージ博士の隠れ家は、蓄電池が並べられた変電施設の地下にあった。ぼくが到着したときにはその前の通りが大きく球形にえぐられていて、残った可燃物がまだ燃えていた。その出入口をふさいでいた鉄の扉には蘭の花が描かれていたのだが、外からの猛烈な圧力で凹み、とどめに引きちぎられてぞんざいに投げ捨てられている――。

「しまった、間に合わなかったか!」

「まだわかりませんよ。奥を捜索しましょう」

 入るとまず、蓄電池の群れが、びっしりと並び、まるで日本家屋の玄関みたいだった。爆発で表面のケースは鉤爪でひっかいたようにただれていて、一部のユニットからは電解液がしたたり落ちている。奥の蓄電池は無事で、供給量こそだいぶ落としているが、与えられたその役目を全うしていた。

 シェンウェイは頭の防護服をはずし、足元の水たまりと、雨漏りしている天井までしげしげと眺めた。ぼくも彼に倣う。

「私、電磁波アレルギーとかはないんですが、あまり長居したくなるところではないですね」

 そしてぼくの方を振り向く。「ここではどなたがかくまわれているのですか?」

 ぼくはここまできて白状した。――ワディ・バルダージ博士です、と。若い護民官は、明らかに動揺した。

「それは……」

「ええ、だから命が危ないと言っているのです」

「しかしいまのところ、争ったような形跡はないですが。そんな大物で恨みを持たれている人物なら、爆弾を仕掛けた犯人はきっと、そうとう執念深く命を付け狙うはずですよね」

「きっとそうでしょう。……隠し通路はこっちです」

 今度はぼくが案内する番だ。「この蓄電池の一個が隠し扉なんです」取っ手を引いてみると、半開きだ。陰鬱な気分になる。シェンウェイは防護服を半分脱いで、暴漢を鎮圧する、音波発生装置付きのトンファーを取り出した。護民官に支給されている唯一の武器だ。

「私が先に――、まだ『賊』がいるかもしれないので」彼はちょっとだけ震えている。水に濡れたせいではなかった。

 下へ伸びる階段。足元にはススが点々と続いている。

「廊下の左右に二部屋ずつあって、突き当たりにあるのが炊事場です」

「手分けして調べていきましょう。あなたは右をお願いします」

 まずは手前の左の部屋。――手探りで明かりを点けるが、だれもいない。

「もう逃げられたのか、な……?」

 シェンウェイは室内を見渡す。壁には横一文字に、細かい穴の列が走り、家財道具を蜂の巣にしていた。ぼくが調べた部屋でも同じ様子だ。銃器ではなく、リベットを打ち出す工作機械を改造して殺傷力を持たせたものだ。着弾と同時にジュッと溶けだし、金属同士を接着するが、人間にとっては散弾に等しいだろう。

「……あっ!」次の部屋に突入したシェンウェイが叫ぶ。「人です! 人が倒れてます!」

 ぼくは「とうとう、きてしまった!」と心の中で叫び、自分の受け持つ部屋に人がいないということだけ確かめて踵を返した。

「あ、あなた、中に入らない方が――」

 そういうシェンウェイを突きどかして、真っ暗闇の中、壁にもたれて倒れている人影を見つける。

 護民官が壁を探り、照明を点けた。

「どなたですか?」彼はウッと目を背け、部屋の外から声を掛けた。

「アイダさん。……バルダージ博士の介護をしてくれている方です」血の色とは違う、生温かい、黄銅色をした粘着質の液体が流れ出ていて、ぼくの膝小僧が触れる。

「アンドロイドですね――」

 犯人はアイダさんをろくに目視せず、盲滅法に銃を乱射したのだろう。液体は、リベットがぶち抜いた胸の穴だけでなく、目鼻や口、耳から途切れることなく噴き出していた。身体に詰まっていたNNCだ――。袖でぬぐっても止まらない。抱き起こすと、全身も温かい。異常な発熱だ。中でショートして、破裂してしまったらしい。

 ぼくは動かないアイダさんの身体をそおっと寝かせた。ついでにその両腕を胸元に組ませた。人間の遺体と違い、容易に四肢を動かせる。彼女がここに居たということは、博士はどこだろう? さらわれたのだろうか? ヒントを求めて部屋をよっく観察する。

 アイダさんは撃たれる直前まで、この椅子に座っていたらしい。丸いテーブルを挟んで、もう一脚? アイダさんはだれかと一緒にいたらしい。しかしそれは博士ではない。もしそうなら、車いすが残されているはずだ。仮に博士が誘拐されたとして、犯人はご丁寧もそれを使ってあの人を運び出しただろうか。そうは考えにくい。

 博士――。まだ中に? そう思って立ち上がった瞬間。ぼくは電撃のような頭痛に襲われた。

「う、くっ……!」

〈に、げ。 ……ふせて 、FLOOR ユ カ ニ〉

(床に、伏せて?)

 陶器が突然暴走して、脳をこねくり回した挙句この言葉を導き出した。言われなくても、ぼくは苦しくて床を転がりまわっていた。

 苦痛は耳鳴りを余韻に残して去った――。直後に廊下から開きっぱなしのドアを通し、ゴオッと高熱が襲いかかってきた。緑色の光――。陶器の故障で間違ったクオリアが発生していた。これは火炎放射だ。中にいたぼくらを、だれかがぼくらを蒸し焼きにする気なんだ! ぼくは放り出していた防護服の頭巾を、とっさにかぶる。減光された炎の中を、暗い影がもがきながら歩いている。……シェンウェイ!

 若い護民官は、防護服をはだけさせていたため、着ていた合成繊維製の制服に火が燃え移って火だるまになっていた。制服は燃えながら溶け、その肌にビットリと付着している。脱ごうとすると、皮膚ごと一辺に剥がれてしまうだろう。

 彼は仰向けに――もはや黒焦げで、頭の前後すらわからない――倒れた。久しく嗅いでいなかったイオウに似た匂いがするが、これは髪の毛が燃えた臭いだ。護民官は火になめ尽くされたまま、ダルマのように縮んで、それっきり動かなくなってしまった。ぼくは上下の歯が合わなくて、危うく舌を噛みそうになった。

 噴き出していた炎が一旦おさまった。シェンウェイが着ていた防護服は、彼の身体の損壊とは裏腹に、その白さを維持していた。これには耐火性能もキチンと備わっているらしい。これさえ着ていれば、彼らが踏み込んでくるまで、しばらく命は持ちそうだ。しかし、このままでは……。また火炎放射だ。首回りが熱い。

「が、ぐうぅ……っ!」またあの痛み!

〈……んくらー 壊されタ \\\〉

(スプリンクラー?)

〈復旧 させてる ―― J ―― その隙に〉

(逃げろってこと?)

〈蕪辞 蕪辞 無事……。 ―― J ―― ム カ エ に イケ〉

(博士は無事だってことか? 君はだれだ?)

〈……〉

 幻聴? 幻視? 複数のクオリア路線にまたがるそれは、おさまった。その刹那、「声」の通りにスプリンクラーが作動し、ぼくの頭を冷やす。

 迎えに行けとは、だれを指しているのだろうか。……ぼくはまた、大切な人の名前を思い出していた。アイダさんの体液に足をすくわれそうになりながらも立ち上がる。若い護民官の亡骸を、後ろ髪を引かれる思いで跳び越える――。そのままぼくは全速力で階段を駆け上がった。

(! このままだと入口のところで……。)

 炎で炙り出されたら、あいつらのいいカモにされる。ぼくもアイダさんみたいにボコボコにされるのでは? そう考えた頃には、ぼくはもう隠し扉に体当たりをしていた。

 バン! ……だれもいない。蓄電池は水をかぶり、緊急にシャットダウンしていた。足元にはガスホースが波打っている。ぼくら二人がのこのこ入って来たのを見届けて尾行し、十分に奥まで行った頃合いを見計らってこれを投げ込み、火をつけたのだろう。ぼくは出入り口を見やる。電力の供給が中断したはずなのに、光が見えていた。――気を許してはいけない光だ。しかしぼくは、そこを蛾のように目指した。思い切り跳躍し、五段とばしで駆け上がっていく。この時ぼくは、目についたヤツだれでもいいから組みついて、投げ飛ばすなり盾にするなりで急場をしのごうという杜撰な計画しか頭に思い浮かべていなかった。相手はきっとコロシの素人だ。ぼくでも何とかなるんじゃないか。そう考えていた。

 ――〈ダ  メ   !〉

 そんな高揚感を邪魔しに、またあの「声」がぼくを襲う。あの焼けた入口から飛び出した瞬間、ぼくは背骨を引き抜かれるような、今まで以上の激痛で昏倒した。まっ正面にぶっ倒れた途端、ダッ、ダッ、ダッという断続的な音が空間内に響いた。余韻が聞こえる前に、若い男の絶叫が耳をつんざく。

「う、あああ、オレの足が、ああああああ。畜生め、ダチを撃つなんて!」

 ぼくがいきなり転倒したせいで、流れ弾が仲間に当たってしまったらしい。

 ぼくの方は別の痛みに打ちのめされ、のたうっていた。

「おい、そいつは捨てとけ。……それより『ブタ野郎』のツラを拝もうぜ」

「賊」はぼくの肩をつかみ、ズルズルとひきずり、仰向けにした。そして頭の防護服を脱がした――。

「ぎゃっ」

「こいつ『ギーク野郎だ』……」

 久しぶりにこの蔑称で呼ばれた。ぼくのようなサイボーグのことを、こんな風にいう輩はどこにでもいるが、火星では初めてだった。

 ……こいつら、新租界のオールドカマーだ。エレーナと同じ、独特のピジン英語でお互いにコミュニケーションを取っている。ぼくの頭痛は、ほぼおさまっていて、こいつらの顔をじっくり観察していた。ぼくより年下の、世間を知らなそうなティーンエイジャーたち――。こいつらが「赤い青年団」か。こいつら、ぼくがいきなり倒れたせいで、弾を命中させられたと勘違いしたらしい。公衆衛生委員会お墨付きの、血の流れないドラマばっかり見ているせいだ。それに、ぼく。実際に苦痛を味わっていたとはいえ、なかなかの名演技だった。

「まだ息があるな」気付いていないだろうが、ぼくは顔を覗き込んだ三人の顔をせわしなく見ていた。

「ケヘヘッ、ひどい臭いだ。鼻が曲がるぜ」立派な丸鼻の男が、ぼくの顔にツバを吐きかけた。それは単なる肉の房らしい。

「なんだ、下っ端? お前、びびってんのか?」

「いや、いや、何でもない……」

 片言で青年の一人が首を振る。こいつ、……ペドロじゃないか。

「よっし、じゃあ、お前がトドメ、させ」

「え」

「お前には、度胸がない。……でもこの豚を殺せば、一人前だ。さあ、やれ!」

 そう言ったリーダーらしきスキンヘッド野郎――まるでネオナチみたいだ――は、ペドロに釘打ち機を渡すと、自分は返り血を浴びずに済むところまで後ずさっていってしまった。

 ペドロは「銃」を構えてぼくの眉間を狙っていたが、すっかり腰が砕けていた。半べそをかいた顔が、逆さまに見えている。ぼくはあのリーダー野郎への怒りがふつふつとこみ上げてきた。こんな自分の手を汚すことをためらうような卑怯者に、アイダさんとシェンウェイは……。

 ぼくは「凶暴」とか、「衝動」とかとは無縁の生き方をしてきたはずだった。だから鍛えていたとはいえ、こんな力がぼくの身体のどこにしまってあったのか、わからない。

「今だ。脳ミソぶちまけてやれ!」

 と、リーダーが叫んだ瞬間、ぼくは跳ね起きて、「銃」をつかむ。リベットが発射されるが、間一髪、上手く軌道をそらすことができた。

 ぼくは釘打ちを奪い、ペドロを引き倒した。彼の後頭部に釘打ちを押し当て、腕を後ろに組ませる――。青年団の連中は、何がおきたのかわからず、木偶の坊みたいに立っているだけだった。

「ほら、お前は、立て」ぼくは銃口をコツコツと当てて、ペドロに自分の置かれている状況を知らしめる。

「いいか。ちょっとでも動いたら、コイツの頭の中を、熱した金属でぐちゃぐちゃにするぞ」

「あ、アンタ撃たれたんじゃ」ペドロはスペイン語で話しかけてくる。

 青年団の奴らは、明らかにたじろいでいた。初めて「死」というものを意識したような顔だ。

「お、おう。やれよ。そんな奴。そいつはただの使いっ走りだからな」リーダー格が虚勢を張った。

「な、そ、そんな」

「おい、アンタもそいつみたいにビビってんじゃあないだろうな? ほうら、そいつは足手まといだ。そいつを仕留めないと、あんただって自由に動けないだろ。ほら、殺せよ……」

「や、やめろおおおおッ!」

 ぼくは引き金に力を込めた。ペドロではなく、あのリーダー野郎に向かって。しかし、またしてもあの頭痛がぼくの動きを封じた。

〈 メ よ  もうじき……3分30秒±8秒以内 に 五味ん、 護民……―― 〉

 まるで孫悟空みたいな――。

「今だ、やっちまえ!」リーダーは号令をかけた。団員は明らかに戸惑っている。……が、数秒後、とうとう彼らの持っている武器が、一斉に火を噴き出した。ぼくはペドロの襟首をつかんで、がむしゃらに逃げだした。

 発射されたリベットのうち、ぼくらの方へ飛んできたのは、ほんの少しだけだった。彼らはこの星で1Gと同じ銃撃戦ができるものだと思い込んでいて、発射するたびに反動で全身が上下にぶれ、弾は頭上を越えていくか、足元の岩盤にめりこむばかりだった。連射もできないので、ぼくらは楽々と、その場から逃げおおせることができた。

「追うんだ、おれたちのことを喋られたら計画がパアだ。こ・ろ・せ!」

 リーダーはただ号令をかけるだけだ。ペドロはぼくの腕をふりほどいていたが、ぼくの跡をついてくる。彼は「信じらんねえあいつら。仲間のオレを撃つなんて!」とスペイン語で悪態をついた。足跡の数から、4人は追いかけてきているのだろうとわかる。……もうひとつ、正面からヒトの群れが!

「こっちだ!」ぼくはとっさに、ペドロを脇道へと引っ張る。前から来ていたのはあの「声」のとおり、ライオットシールドを持った護民官だった。「赤い青年団」は警棒で、次々と仕留められていく。

「こっちにもくるよ。もっと奥へ逃げるぞ!」ペドロは泣き叫んだ。

「大丈夫だ。彼らはこっちまで来ない」

「なんでわかるんだよ、そんなこと」

「わかるんだよ、ぼ・く・に・は!」

 ぼくら二人はさっきまで走っていた通路を振り返った。護民官ロボットの一人と、明らかに目が合ってしまった。しかし彼は「行け」のジェスチャーだけして、そのまま青年たちを連行していく。

「どういうことだ?」

「もう、どうだっていいさ。……いくぞ」

「ど、どこへ? おれを護民官に突き出すってか?」

「違う! 助けに行くんだよ、お前の家族を。案内してくれ」

 よほど鼻つまみにされてない限り、お前なら爆破されて通れない道だって知っているはずだ。普通のエレベータは多分もう使えない。でも、一部の人間しか使わない、貨物用のルートを使えば比較的安全にいけるはずだ。ペドロはあっけにとられた様子だった。

 

 層をもう一つ下に降りる――。あちらこちら蛇行しながらながれてきたのだろう。この辺は、今まさに浸水が始まった所だった。

「なあ、あんた、スペイン語話せるのか」ピジン語でペドロが話しかけてくる。

「まだビギナーだけど、お前の姉さんと兄さん、それにパドレから教えてもらった」

「……」

「逆に聞くぞ。この洪水や、あっちこちの爆弾騒ぎは、全部お前ら『赤い青年団』の仕業か?」

「ああ、そうだ」

「ぼくの着ているこの防護服は、湖のそばの木に、これ見よがしに置いてあった。ニューカマーの仕業に見せかけるつもりだった。そうだな?」

「ああ、これをきっかけに、この星の社会をダメにしたあのブタどもを皆殺しにして、革命を起こすんだ。水攻めにして皆殺しか、それが出来なきゃ濡れ衣を着せて、正々堂々と処刑する。ついでに、当局の科学者ども、特にあの、バルダージっていう女も……」

「なーにが『正々堂々』だ。開拓機構の機密事項が、しょっちゅう漏れ出してニューカマーやオールドカマーにも知れ渡っていた。情報を盗んでいたのは、お前じゃあないのか」

「そうだよ。姉貴の携帯端末にスパイウェアを忍ばせて、情報をダダ漏れにさせた。姉貴の携帯、古い機種でセキュリティが弱いんだ」

「ニューカマーの政治団体にまで漏らしたのは、二つのコミュニティを徹底的に対立させるためだな」

「ハハハッ、質でも量でも、勝つのはおれたちだからな」ペドロは強がって笑う。

「ふん、そんな『革命ごっこ』も、もうおしまいさ。ニューカマーも、オールドカマーも、みんな疲れ果てて戦争ごっこに付き合ってる暇なんてない。お友達は捕まって、計画のことを洗いざらい吐くだろうよ。、」

 ペドロは語気を強めた。「そんなはずない! 同志たちはみんな、これぐらいのことで、母星愛が崩れたりしたりするもんか!」

「さっき、そのお友達に銃口を向けられた割には、やけに威勢がいいな……」

 ペドロは視線を背けた。

「ぼくと一緒に、もうひとりあの隠れ家に入った人間がいることぐらい、お前も知ってるよな」

「……それがどうした」

「彼は護民官だった。中国系のコミュニティ出身のオールドカマーで、家族が心配だからと一緒にやってきた。……彼は火だるまになって死んだ」

「……」

「バルダージ博士も、他のオールドカマーと違って、この星に骨を埋める覚悟でここに来たんだ。それに、オールドカマーも、大勢の人が溺死するぞ」

「革命精神の、尊い犠牲だ」

 そううそぶくペドロに、とうとうぼくの堪忍袋の緒が切れた。ジャボン、ジャボンと水を踏み、ペドロを近くの壁に叩きつける。

「お前にとってはどうでもいいよな。自分たちの派閥がデカいことをできさえすればいいんだから……。でもな」

 ぼくの顔はサングラスを掛けたヤクザみたいに見える。口調を少し変えれば、とてつもなく冷酷な印象を与えられる。

「エレーナになにかあったら、お前を殺してやる……!」

「そ、そんな顔で、睨むなよ」

「睨んだのが、わかったのか?」

 ぼくはペドロの両肩を離してやった。ペドロは舌打ちして、ポツリと悪態を吐く。

「ったく、なんで赤の他人のあんたが姉貴の心配してんだ」

 ぼくは赤面した。修羅場をくぐり抜けた全能感で、とてつもなく恥ずかしいことを口走ってしまった。頭にのぼった血が、一気に引いて行く。ぼくは吐かれた唾をようやくぬぐった。

 恥ずかしさで冷静になった頭で考える。……そういえば、結局バルダージ博士はどこに? そして「無事だ」と語った、あの声の正体はだれだ? 

 

 野菜類をピストン輸送していたであろう大型の縦穴――もう何十年も使われておらず、カラーギャングの逃走経路になっていたらしい――を自由落下で降りた。

「わわっ」この区画は腰のあたりまで水が迫っている。くそう、あと一歩で着くというのに。

「これじゃあ、行けるかどうかすら、わからないな」ペドロは投げやりに言う。

「お前らが播いた種だ。あきらめたらお前を――」

「わかった、わかったってば」

 歩調に合わせて、緩慢な頭痛がする。どうか陶器が濡れませんように。ときどきヒトをおぶったアンドロイドたちとすれ違い、これならひょっとして、と、少しだけ楽観的な気持ちになれた。

「お前ら、どうやって爆弾を調達した?」

「肥料工場から薬品をくすねて、それでつくった。ここに居る奴らはみんななにかしら顔見知りだから、そういう危機管理が甘いんだ。そんなことだから豚野郎にも母屋を――」

「聞かれたことだけ答えろ」ぼくは薄っぺらい演説を制した。

「お前はなんでこんな計画に協力したんだ? お前の家族だって、こんな風に命の危険にさらすというのに」

「あんなやつら、家族じゃない」

「ディエゴさんが、アンドレアさんと結婚したからか」

 ペドロは舌打ちした。「はあ……、そうだよ。二年前だ。あんな言葉も通じない女がいきなり来て、新しい家族だって? 認められるかよ、そんなこと」

「ぼくもアンさんとは何度か話した。いい人だったぞ。ディエゴさんとも幸せそうだった」

「そんなの、おれだってわかってたよ。でも……」

 聞いてみれば、なんとも他愛のない話だ。ペドロはその歳相応に、家庭環境の変化について戸惑って、その心のスキを危ない奴らに付け込まれたということだ。

「エレーナのメールを盗み見るようになったのも、アンさんが嫁いできてからか」

「プログラムは詳しい奴にもらったのだけれど、なんだか自分が、すんげえ力を手に入れたみたいでさあ。……それに、あのメール」生唾を飲み込む音が、空洞でもよく聞こえる。

「火星の生き物の生き残り、ありゃ本物だったのか?」

「ああ、間違いなくホンモノ」

「すげえや、やっぱおれ、当局の陰謀にリーチしてたんだな!」

「そんなに大したものじゃない。あの生き物は、この火星と共に、滅びる運命にあるだけなんだ。ぼくらと違って、帰る所も、この星しかないしな」――ハン博士。この名前も、気がかりになる。

「お前がやったことは、国家機密を盗み出すスパイごっこじゃなくて、単なる家族のプライベート侵害だ。そんなことをされて、しかも恩師の命まで狙われていたと知れば、エレーナはお前に対して、どんな処理をするかな?」意地悪いことを言うと、ペドロはあっさりとそれにのって色を失った。

「頼むよアンタ、兄貴にも姉貴にも、それに親父やおふくろにもだまっててくれ!」

「お前の態度次第だな。それより今は、全員の無事を祈ってろ」

 ぼくはざぶざぶと水流の方向に向かって歩いて行く。ペドロを前には歩かせない。雰囲気が変わってはいたが、ここはぼくでも知っている経路だったし、……なにより陶器の調子が末期的で、ぼくの額には脂汗がにじんでいたからだ。

 

「ここだ。ここがおれんちで取れた作物を輸送するトンネル」

「ああ、知ってる……」ぼくも何度か使っていたトンネルへは、大量の水がゴウゴウと流れこんでいた。

「お前ら、ヒスパニック系のカラーギャングなんだろ。なんで自分たちのコミュニティですら、こんなに情け容赦ないんだ」

「リーダーは『おれたちの居住区は、更にその下にまでエリアが広がっているから浸水しない。水は素通りするだけさ』っていってたぜ」

「流れに捕まった人はどうなる? 溺死するか、漂流物に巻き込まれて押し潰されるかのどっちかだ」

 そ、そうなのか。と口ごもる。こいつら、ホントに「その場のノリ」だけでこの大それた計画を組み立てていったんだな。――待てよ。待ってくれ。

「この落ちていった水の先はどこに行く?」

「行きどまりに溜まって、それでおしまいじゃあないのか」

「馬鹿。この星の地殻はもうズタズタなんだ。あっちこちに深い地割れが出来ている。いや、そんな天然の割れ目じゃなくても、地熱発電用の深いパイプがどこまでも伸びている。それがまだ生き残っていたら……」

「それなら早く水が引いて行くってことじゃあないか」

 そういう、楽天的な話をしたいんじゃない。ぼくは防護服を脱ぎ棄て、チャイナ・ボックスにそれを巻き付けた。チラリと、表面にヒビが入っているのを見てしまった。

「お、おいアンタ、なにするつもりだ」

「お前、ナタネ油についた火に、いきなり冷水をぶっかけたら、どうなると思う?」

「?」

「答えはこう……、ボン!」ぼくは左手をグーパーしてみせた。「ぼくが生まれる前の話だけれど、富士山が大噴火して、東京にまで火山灰が飛んできた。それで灰を吸いこんで大勢の人が気管を悪くして亡くなった……」これで、他の世界都市と同様に縮小政策が進められていた東京は一転、都市機能を各地に分散させることとなった。――バルダージ博士の受け売りだ。

「ぼくは毎年の防災シーズンに噴火の映像をみていたから、よく知っている。その時の噴火は、裾野にある富士五湖のひとつを、マグマの支流がぶち破って起きた水蒸気爆発だったんだ」

「あんた、ここのコロニ―でもおんなじことが起きるって考えているのか。――ここが跡形もなく吹き飛ぶってか。まさか」

「規模はわからない。ぼくは別に、火山学者じゃないからな。でも、噴き出した蒸気の爆風を浴びたら、良くて焼死、悪けりゃ粉々だ。……さ、降りるぞ」

「い、いや、おれら二人とも行かなくてもいいんじゃないか。だれか一人はここに残って、助けを待った方が……」

「逃げるなよ、自分のしでかしたことに。……じゃあこうしておけばいい」ぼくはペドロが着ていたTシャツを脱がせ、「アッ」――それを縦に引き裂いた。それをトンネル付近の、目につきそうな、ドアとも窓ともつかない部分のノブにくくり付けた。

「これなら勘のいいレスキューがわかってくれる。脱出する時もこのルートだな」ぼくは丸めた防護服をぎゅぎゅと押し付け、胸元にあてた。ケーブルのところから水がしみなきゃいいけれど。

 ぼくは荷物を釣り上げるカギを手がかり、足がかりに降りていく。片手なので、足をすべらせたら一貫の終わり――、と警戒した矢先、巨人が飛び跳ねたような大揺れが来た。初期微動は一切なし。まだ爆弾が残っていた? それとももう噴火が始まった? と考える隙もなく、ぼくは足の取りかかりを失い、まっさかさまに落ちていく。ここで初めて、自分のチャイナ・ボックスの高性能ぶりを知った。ご丁寧に、落ちていく光景が、スローモーションで脳裏に投影されるのだ。……ペドロの驚愕した顔も、ハッキリわかる。

 ……だけれどそんな演出の割に、ぼくは死にはしなかった。下にできたプールに、頭からザンブと突っ込んだだけだ。でも、これが致命傷になった。全身ずぶぬれになったおかげで、とうとう陶器が断末魔を挙げる。

「……い、 け、……ないか?」

 慌てて降りてきたペドロが話しかける。

「お、ああ、大丈夫」

「だったな @@@ んと。。。――顔、 ぞ?」

「本当に大丈夫だから、ぼくは……」この時点で、視野は半分にまで欠けていた。「それより早く行こう。みんなに会うんだ!」耳が遠くなってきた。ついつい大声で怒鳴る。――しかしぼくの不調ぶりは外から見ても明らかで、ペドロは自発的にぼくの手を引く。そして、深い水底に、ぼちゃんと潜っていった。焼きごてでプラスチックを一瞬炙ったような、嫌な感触が沸いた。

 

 ……息を止めていたのは、わずか30秒ぐらいだったろう。ぼくは正直泳げないが、泳ぐというより、手で天井を突っぱね、のしのしと歩いて行く格好になっている……らしい。丸めた防護服の中から、ゴボゴボと空気が漏れその度に視野がどんどんと狭まっていく。後ろを振り向いてペドロが(ここだ)と上に向かって指をさした時にはもう、ブラインドの隙間からのぞくような範囲しか認識できない。視野を確保するために首を振り回すが、ペドロはそれを否定の合図と勘違いし、いら立ってぼくの腕を引く。浮上していく中、屈折した光が、なんとか確認できた。

 ぼくは未確認生物の死骸みたいに、太い腕に引き上げられた……。間違いなく、ディエゴさんの腕だった。そのまま横に寝かされる。視界はサーチライトみたいにふらうらした。

「おぼれたの……」遠くから声がする。直感ですぐわかる、大事な人の顔が近づいてくることだけわかった。

「エレーナ……。ぼくは大丈夫、生きてる……」自分の声すら遠いので、頓珍漢な事を言ってしまっている。「み、耳元でしゃべってくれ」

 エレーナはすぐに言われたとおりにしてくれた。「陶器の具合が悪いのね。ケーブルの先は……。これに包んでるの?」彼女はてきぱきとそれを開けるが、その瞬間、また背骨を引っこ抜かれるような激痛に襲われた。――そして、ついに何も見えなくなった。

「この陶器、みて。中身が……」

「だめだ。ぼくはもう、見えないよ」

「! ごめんなさい! 私が触ったせいで……」耳にピンポン玉くらいの声がぶつかる度に、頭の中で蛍光色のオレンジや緑で出来た星模様が飛び跳ねる。

「いいんだ。それより、手短に、状況を教えて。もうじき耳も聞こえなくなる……」

「え、ええ」どうしてだろう。彼女の声が涙ぐんでいることだけがわかる。「これは……。無理にはずしちゃいけないんだよね」

「みんなは? パドレやマドレ……」

「全員ここにいるわ。あなたを引き上げたのはディエゴ、アンさんと両親は奥に……。でも、メールサービスが使えないから、姉さんの安否だけがわからなくて。……もう一足先に地上のキャンプに居るはずなんだけれど。……いまの話、ちゃんと聞こえてる?」

「……うん、なんとか」せめてもう少しゆっくり話して欲しいところではあったけど。

「それでね、いきなり水が迫ってきたから、内で一番浅い所にあるこの部屋に避難したの。兄貴が潜って、水耕栽培で使う酸素タンクを持ってきたからそれで空気を維持してるけど。いつまで持つのか……。爆発があったらしいね……」

「し、知ってるの?」「非常放送が入ってるの。さっきまでみんなで聞いてたから。……逮捕者もでたんですってね」

「うん、救助ロボットがもう潜ってきているし、入って来たところに目印もくくりつけてきた。だからここが取り残されることはないと思うけ。それでも、早くここへ出なきゃ!」

「さっきまであなたの寝ている位置にまで水が来てたのよ。もうしばらく待っていたら水が引いて、歩いて出られると思うの。アンさんは臨月だから、とても無理よ。それにさっきみたいな大きな地震が来たら……」

「だめだ、時間がない。さっきのは多分、ただの地震じゃないんだ。詳しくは――あとでペドロから聞けばいい」

「そうだわ、あなた、どうしてペドロと一緒にいたの?」

 それも後で聞いてくれ――と言いかけたところで、とうとう耳も聞こえなくなった。エレーナが身体を揺すっているらしい。ぼくは耳が聞こえないんだ! と叫んでみたが、もう喉の震えしか感じられなくなった。

 だれかが、――といっても間違いなくエレーナがぼくの手を持ち上げ、手の平をぷにと頬に当てる。……「サリバン先生?」うんうんとうなずく。

「アンさんには悪いけど、無理をしてもらうんだ。もうすぐここは吹き飛ぶ」彼女は首を横に振る。

「ここにだって地熱発電施設があるだろう。もしそこが壊れて、冷媒のアンモニア水が漏れだしたら?」エレーナの顔は、動かない。「続けて?」うん、と一度だけうなずく。

「ここは最深部じゃないけれど、地下租界の中では端っこだ。避難経路が他の所より断ち切られやすい。長く待っている程、追い詰められちゃう。……わかる?」【YES】

「バルダージ博士はどこに行ったかわからないけれど、無事らしい。早く探しに行かないと」【YES】「まだ非常放送は続いている?」【YES】「ぼくの言ってることに間違いはない? あったら放送の方を優先して欲しいんだけれど」【NO】「ぼくを信じてくれる?」【……YES】

「それじゃあ、みんなでここから出ると、説得を――」と言いかけた時、ぼくは空気の震えを肌で「見ていた」。クリーム色をした縞模様が、ぼくの身体と、壁、そしてエレーナの顔を広がり、部屋の形に沿って乱反射していく。ぼくはとっさに叫んだ。

「水だ!」彼女の顔の筋肉が強張ったのがわかった。「エレーナ、水だよ。水が急に引き出した。見て!」彼女の手が離れて、乾いた風が熱を奪っていく。

 人影が空間を裂いた。

「ぼくの言った通りだったろう?」【YES】勢いよくうなずいた。「崩壊が始まったんだ。……危険は色々ある。化学肥料が水に浸かって発熱したんじゃないのか? 可燃物は?」【NO】

「チャンスは多分一度だけだ。手を貸して。ぼくを、起こして。歩けるよ!」

 エレーナは頬に触れていた腕をぐいと引っ張った。片手にはチャイナ・ボックスを抱えたが、やはりもう駄目らしい。手にはアイダさんから流れ出たものと同じ感触のものが伝う。

「行こう! みんなを呼んで!」ぼくは声を張り上げた。相変わらず、光も音も聞こえない。だけど、ぼくの言霊が壁を彩っていく。壁や天井はカラメル色に反射したが、タイルのはってある床は、乾いているのに群青色だった。ぼくから垂れ落ちた水滴だけ、金色に熟していた。

「見える。見えるんだよ。ぼく!」君の顔も見える、すぐに行こう、こっちだ。キョトンとしているエレーナの顔も、なんとなくわかった。

「エレーナ、これ、共感覚だよ。ぼくは小さかった時、こうやって世界を見ていたに違いないんだ。それを、ようやく思い出したんだよ。わかるかい?」

 ぼくはつかまれていたエレーナの手首をつかみ返して、彼女の腕を引いて行く。

「早く! これを忘れてしまう前に」人の背丈くらいの短い階段を下り、小走りで行く。足元の、水を跳ねる音で周囲を把握する。避難灯を頼りに歩いているようなものだが、頭の高さではすっかりその「光」が減衰するので、勢い余ってぼくは低くなっている所に頭をぶつけた。

(ちょっと、大丈夫?)と、エレーナは言ったに違いない。その声は彼女の輪郭の中心から、らせんの空気砲として飛び出し、ぼくの鼻の先を震わせた。

「うん、全然痛くない」痛みは臭いとしても感じられた。刈ったばかりの雑草の匂い――。

「それより、みんなは来てる? アンさんは大丈夫?」

 エレーナはうんうんとうなずき、振り下ろされた空気がエイヤと突っ込んでくる。

 ぼくは避難通路を把握するため、壁をどんどん叩いて振動をつくっていった。生温かい、風が、逃げ道の方に向かって流れていく。鼻がただれそうな匂いと共に。やはり水を吸い込んだのは、発電施設だった。

「急ごう、このままじゃ中毒死するぞ!」風が壁を揺すり、発光が深海性のクラゲみたいに流れて、ぼくを外へ追い出そうとする。

 ぼくはなるべく普段通り、カクシャクと歩こうとしたが、片手でバンバンと壁を叩き、自分の音をつくっていく。光の筋で出来たチョウを追う。身体をぶつけながら、あの縦穴にまでやってきた。ぼくは一心不乱に、降りてきたあの鉤を探すが、(カチャリ)とした手触りの物に当たる。

(ハシゴよ!)エレーナはバンバンと背中を叩く。足元を這う光の波も、やたらと不規則だ。かなり長いロープが、ポンと投げ込まれているらしい。捕まると、鉄パイプの中央に穴を開けて、合成繊維の縄をくぐらせてつないだ簡素なハシゴだとわかった。身体をズルズルと引きずられたので、あわてて足を引っ掛ける所を見つけて飛びかかる。

「家族が、ぼくのほかにも家族がいるんだ!」引き上げられたぼくは、助けてくれた男? に、そう叫んだ。その声が届いたのかは、ぼくは知らない。何を聞かれたのかもわからないし、答えられない。そのまま幼児のように抱っこされて、ゆっさゆっさと風を切って運ばれた後、ツルリとしたステルス性の高い密室に運ばれて、そのまま寝かされてしまった。

 共感覚を、ぼくはまた忘れていった。背中の痛みがぶり返してきたうえ、色んな人の安否が脳裏をよぎり、周囲の様子を感じ取る余裕がなくなってきたからだ。余裕がなかったのはさっきまでもそうだったけれど、今度はどうしようもなく哀しい気持ちになっていて、それが忙しい。手術のときに涙腺まで切っていなかったら、泣いている。

 部屋がガタンと揺れた。――そうか、ここはコンテナの中だ。また誰かが載せられた。その人は、またぼくの片手を頬に当ててくれた。だけれど、ぼくはもう何も言わない。耐えられないくらい眠くなってしまった。

 その直前、ドーンとテーブルを叩いて何もかもをひっくり返すような振動が襲った。化石燃料を食べる内燃機関が動くような、しびれるような揺れが、それを追う。いよいよ噴火か? コンテナを運ぶレールが脱線したのか? ペドロの奴がパドレやディエゴさんに雷を落とされたのかな……。

 何かが身体にかぶさり、その柔らかい体温がわかる。揺れはますます激しくなった。だけどぼくはそんなことも気にせず、それっきり、まるで落ちるように深い眠りに就いた……。

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