第3章 極地の啓蟄
1
「ジュンさん、真上を見てください。どうですこの大きさ! 暗くてよくわからないでしょうけど、全長はかのV2ロケットと同じく14mです。ロケットの周囲のぼつぼつ付きのタイルはですね、熱変換素子と圧電素子のハイブリット集合体なんです。アモルファス素材を用いていて、内部の機械を半永久的に守ります。あっ、そしてこれはですねぇ、ガリレオ5号に搭載されたプローブと同型のモノなんです。2078年の木星突入の際には見事燃え尽きずに、金属水素の海へと着水しました! ジュンさん、この場合は『着陸』ではなく『着水』というのが正解らしいですよ」
「知ってるよ、その話。ぼくはよく知ってる……」
設計図をさし示しながら、ヒミコは饒舌に『グリソム』と名付けられた探査機の説明をするが、ぼくはそんなことより、とっととこの灼熱地獄から離れたかった。この緊急で掘られた縦穴はまるで火災現場のようで、防護服のエア・コンディショナー面がどんなに頑張っても、背中の着脱部分がジリジリと炙られてたまらない。火星の内側がここまで熱くなったのは、恐らく数億年ぶりだろう。
「さっさと探査機を放り込んで、上に戻ろう。……なるたけ『アレ』から距離を取っておきたいし」
「現在『1169 / XF ? 01』が張りついているのは重心を挟んで300㎞地点です。確かに崩落の兆候が顕著なのはザナドゥ側ですが、距離的に近いのはカプリコン側です。ご存知ですか。パボニス山周辺では群発地震が発生していて、近い将来再噴火するのではないかと言われていますが、この惑星は完全に熱源を失っていたのですから、かつてのマグマの通り道を伝って噴火するのには疑問が――」
「わかった、わかったってば!」
涼しい顔(?)で蘊蓄を披露する彼女の話を、無理やり遮る。多分ぼくの趣味の話を聞かされていたときのエレーナの気分も、こんな気分なのだろう。この極環境に立たされて、ようやく今まで自分が犯してきた愚行に気付かされた。
「ったく、よくこの熱さでよくこんなに舌がまわるよなあ……」
「余裕ですよ。私、宇宙空間で直射日光を浴びていても、半日は根性で乗り切れますので」
「冗談だろう」
ヒミコはキャキャッと目を桃色に光らせる
「時間以外につきましてはおっしゃる通りです。ただし、半日も船外活動していたら熱が伝わる前に通常電源が切れますので、そうなると排熱が上手くいかずに、NNCが駄目になって死にます。……ジュンさんの陶器の具合はいかがですか?」
「あまり良くはない。……熱がこもって、反応が遅れてきてるみたいだ」
「よっし、それではとっととこれを突入させましょう」
ヒミコはふくらましたドラム缶を何段も重ねたのような探査機の横っ腹をばんばんと叩いた。するとむき出しの眼を持った、この探査機を突貫で造った無骨な技術者ロボットたちが裏から顔を出し、機械同士でしか聞こえない声でそれを咎める。彼女は渋々手を引く。
この機械はこれから高温・高圧になった火星岩盤を掘り進んでいく代物なのだから、そこまでデリケートに扱わなくてもいいはずだ。以前だれかから聞いた、『人工知能にも母性本能がある』という話は、どうやら事実らしい。
「彼らは準備できた。いつでも投入可能だ、と言っています」
「それを決める権限はぼくにはない。好きな時に投入してくれ」
「あれっ、ここの責任者になれたのではなかったのですか?」
ぼくはかぶりを振る。「単なるバルダージ博士の代理人だよ」
「それでしたらすぐさま探査を行います。昇降機に行きましょう」
ぼくらはザルのような簡素なエレベータに乗って「前線基地」に戻っていった。生身の人間は、ぼく一人だけだった。
その地中探査機は、2ヶ月前に『スポンジ』がぶち抜いた縦穴に対して平行に掘られた通称「盗掘孔」から、プラズマカッターで巻き藁を切るように斜めに岩盤を掘り進み、その空隙と合流する。空隙内は岩石が溶解し、滴り落ちていると予想され、後はそのマグマオーシャンを、重量に任せて沈降していき、やがては大空間に到達するはずだ。
「で、その発進の様子は見れないの?」
「やはり見たいですよね! ……しかし残念ながら、探査機の周囲は超高温になるのでカメラは設置できませんし、地中は光が透過する空間すらないのでどうあがいても映像を中継することはできません。プローブを投入すれば白黒ですが映像が手に入るはずですから、それまで数日間お待ち願います」
「ふうん……」
エレベータは最上階、地下3㎞地点に着き、ぼくらは用意されたコンテナ搭載のランドローラに乗り替えて同じ横穴にある探査機の管制室に向かった。ここの地温も、確実に上昇しているから、そのうち放棄を迫られるだろう。それまでに探査機が到達してくれればいいのだけれど。
「不思議なもんだな」
「何がですか?」
「宇宙に行くことはこんなに簡単になったのに、地底旅行だけはまだまだ難しいんだなあ、って考えたら、そんな気分になったんだよ。……確か生きた人間が地球のマントル圏に行ったことはないんだろう?」
「そうですよ。案外身近なところにフロンティアは眠っているんですよね。将来を悲観している暇があるのなら、それを今すぐ、探しにいくべきだと思います」
「……」
「すみません、また生意気なことを言ってしまって……。つまらなかったですか?」
「あ、いや」
このぜんまい仕掛けの友達がふと漏らしたおせっかいに、ぼくは感心してしまった。
「本当に空洞にまで届くのかな」
「恐らく途中で進行は止まるでしょう。……でも大丈夫。時がくれば空洞の方から探査機に近付いてきてくれますから」
「悠長な計画だなあ。時間はあまり残されてないっつーのに」
「……」
遠くから、スプレー缶を破裂させたような音がした。あれが点火したという合図だろうか。
2
大気の希薄な火星にも、気象災害はある。特に被害が出やすいのは竜巻だ。それのせいでよく太陽光発電所がなぎ倒されたり、露天掘り鉱山の機械が巻き込まれたり、オフロードバギーがひっくり返されたりする。
「スポンジ」が通過した後に残された被害も、竜巻によるものとよく似ていた。被害が出るのはわずか数分の間で、進路上ではなかったところには、今まで通りの景色が残されている。
「もちろん竜巻とは違う点も多々あります。周囲の物体を呑みこむ際に、アルファ線、ベータ線といった荷電粒子をばら撒き、急性放射線障害によってシェルターに逃げ込んだ住民にも死傷者を出しています。これは気象災害とみるより、ゴジラのような原子怪獣によって踏みつぶされたと見た方が適切かもしれません」
マレヴィチ博士――宇宙港でバルダージ博士のやり方に苦言を呈したあの科学者が、蘭の花をあしらった火星開拓機構のシンボルマークカメラの前で演説している。ここが広報室というわけだが、トイレの個室2個分の広さしかない。あまりの狭さに、画面では進行役をしていた開拓機構の職員の姿が見切れている。よくは知らなかったのだが、あの人がザナドゥ大学の理工学部長で、「スポンジ」研究チームのリーダーも務め、現在の火星脱出計画の科学者代表だということだった。
博士はいま、このザナドゥ・コロニーだけでなく、カプリコン・コロニー、そして地球に向かってこの異変について説明していた。場所は新たな居住空間にするために掘削真っ最中だったコロニ―最深部、地表から1.5㎞の地点だ。そこに居住ユニットをどんどん放りこんで、即席の災害対策本部をこしらえた。そこには例の視察団と変わらぬメンツに、コロニーの行政組織から出向してきた人々数十名が押し込められていたが、そこにぼくらもちゃっかり紛れ込んでいた。今はバルダージ博士の控室で、肩を並べて待機していた。ときどきどこかからかズズンと地響きが聞こえたような気がして、ついビクッとする。火星の鉱山は、落盤の危険が地球よりも低いので、遠慮なく大空間を掘れるが、今は天井が落ちてくることよりも、床が抜けることの方が怖い。
「スポンジ」はおよそ350人の死者・行方不明者を出してコロニーを貫通していったが、通過後にもさまざまなトラブルが発生した。まず、エレーナの自宅の底にあった地熱発電機――小規模のヒートポンプが故障した。地下に通した配管が規格外の高熱にさらされ、破裂したらしい。更には地温も上昇し、換気扇がフル稼働した。お父さんは何かぽつりとつぶやいた。ひょっとしたら魚や野菜が駄目になるかもな、といっていたらしい。
ディエゴさんとアンさんは無事だった。しかし使っていた通路が隔壁で塞がれてしまい、それが復旧するまでの半日間、人様の家で過ごすことになった。ディエゴさんはともかく、身重の奥さんにかかるストレスは、いかばかりのものだろうか。そして、嫁いでいったエレーナのお姉さんの安否は確認できたが、ペドロは結局帰ってこなかった。
一家が離れ離れになったというのに、タルニンテ夫妻はエレーナがバルダージ博士の元に行くことを快諾してくれた。宇宙港で働くという決断をした時から、彼女の進路には絶対口出ししないことに決めたという。道案内としてアイダさんが来てくれたが、出発の直前までエレーナは両親と手を取り合っていた。お母さんは、
「まるでソイラが嫁いでいったときみたいね」と冗談を言った。ソイラとは、前述のお姉さんのことだ。
マレヴィチ博士のスピーチは続く。さっきまでこの部屋にいたバルダージ博士は、優れたスピーチライターでもあるアイダさんが書いた原稿用紙をギリギリまでチェックしていた。その時の形相は、宇宙港で見た顔よりも殺気立っていたが、何日徹夜したのだろう。あの顔のまま人前に出て、心証を悪くしないだろうか。
「ここで悪趣味な例えをしたことをお許しください。しかし、この現象を、竜巻よりも怪獣になぞらえることがふさわしい理由は、他にもあります。まず、『1169 / XF ? 01』は、あの災厄を起こして1週間経った現在も、まだ消滅していません。今でもこの火星の地下深くに潜伏し、星の核、そしてマントルを貪り食っているのです。そして終いには、この惑星を完全に飲みこんでしまうでしょう!」
博士はもったいぶることなくこの天体の行く末を明らかにする。ここにいてはわからないが、両極のコロニ―は大騒ぎになっているだろう。さらに地球でこの演説が受信されるのは、何十分も先のことだ。
「『1169 / XF ? 01』は、いわゆる『メンガーのスポンジ』と呼ばれるフラクタル図形です。これには無限大の表面積がありますが、その一方で質量は限りなくゼロです。中国の有人探査機によって発見、回収された当初は、かなり特殊な性質を示す鉄の塊でしたが、軌道エレベータで輸送中に、最初の一切片への細分化が起こりました。そのまま更に微小な構造が――つまり、穴ができていき、質量がなくなるにつれ、その表面積も増やしていきました。次の細分化が起きる間隔は次第に狭まっていき、加速度的に減少していきます。二十回以上細分化をすればすべての構造が原子1粒が繋がった繊維だけになり、次の細分化では、ついには完全に消えてなくなってしまうのではないか――。そう予測を立てた我々は焦りました。その前に、この物体の正体を、何としてでも突き止めなければ! と。 いま思えば、そのまま消滅してくれればどんなによかったかと思っております。
そうです。ご承知の通り、『スポンジ』は消失しませんでした。その構造はいまや、いかなる素粒子よりも微細です。なぜこのような構造物が、不確実性に左右されることなく、この空間に形を保っていられるのか? ひょっとしたら実際には質量なんて減っておらず、我々の感知できない別の次元に、そっと置いているのかもしれません。人間が抗いがたい事実から目を背けるために、片足だけそっと体重計から離しているようなものです。
さてみなさま、表面積をふやすことで、どのような利点が得られると思いますでしょうか。例えばヒトの小腸は、ちょっとしたフラクタル構造にすることで表面積をふやし、効率よく養分を吸収します。目には見えない微小な孔を無数に持つ活性炭は、空気中の臭い物質を効率よく吸着します。そして宇宙港や地表に設置された太陽光パネルにも同じく微細な凹凸をもち、この星に届く弱い太陽光を効率よく電気エネルギーに変換します。では、それらをしのぐ無限大の表面積を持ち、どんな隙間にも入りこめる究極のヤスリと化した『スポンジ』は、外界に対してどうふるまうのでしょうか? その答えが、この星で進行している破滅なのです」
ぼくらも見ていた画面が、一時的に切り替わる。
「これは重力計とニュートリノ投影によって観測された、昨日の火星内部です。このちょうど中心部に、直径100㎞の大空間が広がっています。落ちてくる水滴の形をしていますな。このとんがった部分の先にあるのは、このコロニー。つまり、ここまで『スポンジ』は食べたのです! 画像を替えましょう。こちらはもう一つ重力計で得た内部の映像です。……この空間のこの部分に、重力異常があります、本当に小さな点として。――もうお分かりでしょう。これが現在の『スポンジ』です。これはつまり、火星の内側に貼りつきながら、カタツムリが食事をするように削り取っているのです。最後は、少々混乱を招きかねないのですが、みなさまが分別のある危機感を持つことを期待して、公表致します。頭の中で先ほど見せた、地震計の画像と重ね合わせて見て頂きたい。……これはこの星の凹凸を、5倍に強調して描いたものです。
――もうお分かりですか。この惑星はザナドゥ・コロニーを中心に、広範囲で陥没しているのです! 内側の『スポンジ』から、最初の通過で脆弱になったこの地下から崩壊が始まり、こう、両手の親指を使ってテレビジョン・オレンジに穴をあけ、そのまま力んで握りつぶすようにです。しかし繰り返しますが、今からパニックにならぬよう、どうかお願いいたします。我々がはっきりと認知できる破局が訪れるのは、あと数カ月先のことですので。
さて、この二つの画像から、また一つ謎が生じました。『スポンジ』は今、その体積とは不相応な重力を有しています。つまり、火星から摂取した質量に関しては、別次元に隠すのではなく、そのまま溜めこんでいるわけです。そうしていれば、こちらから星に吸いつかなくとも、周りの物体が己の方へ『落ちて』くるのですから、理屈にあいます。……この『スポンジ』に目的があるのなら、ですが、それについての考察は、私の次にマイクを取りますバルダージ博士にお任せしましょう。――話を戻します。『スポンジ』は、我々の火星から強奪したその質量を、どこに隠し持っているのでしょう? 確かに『スポンジ』は無限大の表面積を持っています。その表面積を大きく広げれば、太陽を包んでも無限大の余りが生じます。ですから、火星を構成する全ての素粒子をずらりと並べることも簡単でしょう……。しかし体積はおよそ6.1?にすぎません。中性子星のように、内部で高密度にさせているのか? ……それもありえます。しかし『スポンジ』は今でも、『吸着』という手段で火星を食べているのです。この性質を失っていたら、『スポンジ』は自分がくり抜いたこの星の重心で静止し、侵食の速度はずっと緩やかになっているはずです。つまり『スポンジ』は、多元空間に質量を投棄することなく、自らの性質の源であるそのフラクタル図形のカタチを維持しているということです。一体どうやって?
みなさまの今後の生活がかかっているのに、こんな悠長な話をして恐縮です。……しかし、我々が対峙している者の正体を明らかにしなければ、逃げることも、闘うことも出来ないと考えるのです。もうしばらく、私に時間を頂けないでしょうか。
みなさまは数学の用語にある『バナッハ = タルスキーの定理』というものをご存知でしょうか? これは二十世紀の数学者が発見した、世にも奇妙な定理です。いささか正確性を無視して説明しますと、この定理によれば、一つの中身の詰まった球を有限個に分割して、それをまた組み立て直すことによって、相似ですが元より大きい球や、小さな球を造り出せるというものです! さらにこれを発展させれば、地球を分解して懐に納まるボールにすることも、反対にボールを一度バラして、それを地球サイズにまで組み立てることが可能なのだそうです。
これをお聞きのみなさまは、思わず首をかしげて『そんなこと、出来るはずがない』と思いになった方が大多数でしょう。たしかにこの話は現実からかけ離れています。ですからこの定理は、数学的に正しいとされる一方で、パラドックスとも言われています。ここで述べた『分割』も、人類が想像できるようなカタチのことではありませんし、さらに申せば、これは量子論の導きだした理論と、現実世界との乖離を揶揄した有名な『シュレディンガーの猫』のように、選択定理という数学の分野と現実との乖離を指摘したものでもあるのです。
しかし、『スポンジ』はこの現実世界では通用しないはずの、『バナッハ = タルスキーの定理』を応用して、自らの形状を維持しているのではないでしょうか? すなわち、取り込んだ火星の欠片を分割し、自分の機能を阻害しない形に組み立て直しているのです。自らの形に収束させていると申した方が適切かもしれません。この仮説にはさらなる検討が必要です。こんな芸当ができるのなら、なぜ一度自らの質量を捨てて軽くなったのかということも考察しなければならないですし――。
私の話をまとめて、バルダージ博士に話をつなぎましょう。結局のところ、『スポンジ』こと『1169 / XF ? 01』とはなんなのか? この物体は、完璧なフラクタル図形、『バナッハ = タルスキーの定理』といった数学理論を、見事に現実世界へと応用してみせています。そんな物体が天然に存在するはずがありません。つまり、地球外の知的生命体による産物です。彼らは、何のために『スポンジ』を創造したのか、そしてこの星に送り込んだのか。そのことについては、私と同じくザナドゥ大学のワディ・バルダージ博士が解説します。……彼女の準備は? いいのか?……では、わたしはこれで――」マレヴィチ博士は壇上を去った。
この部屋に設置されていた一台のカメラが動き出し、ぼくら二人はササッと横へ退く。
「火星の、そして地球のみなさま、同じくザナドゥ大学のワディ・バルダージです。私は立つことができませんので、お見苦しいですがこの部屋で、この格好のままで説明します。ご容赦ください」
ここでまた屈託のない笑顔を見せて視聴者の毒気を抜こうとするが、真正面から撮られているせいで満月のように顔から影が消えているので、疲労がハッキリと映ってしまう。
「まずはみなさまに謝罪をしなければなりません。『スポンジ』を火星に持ち帰るように手をまわしたのは、何を隠しましょう、この私です」
ぼくは耐えたが、エレーナのため息が音声に入りこんでいなかったろうか。
「わたしは視察団の一員として、オポチュニティ・エレベータの宇宙港で『アレ』を見ました。一目見た私は、まことにおこがましいことですが、それにアッラーフの御姿を見たのです。あの天衣無縫な形はまさしく『目無くして見、耳無くして聞き、口なくして語る』だと思ったのです。――これだ。これこそ新しいコロニーに住まう人々をまとめる黒曜石に相応しい、と。
しかし、そこで仲良くなった宇宙港のスタッフ――今も傍らで私を支えてくれていますが、撮影は、……駄目だそうです。その子たちはその時すでに『アレ』から嫌な気配を感じ取り、ハッキリとした理由はわからないけれど、あれを火星に持ち込むべきではないと主張したのです。愚かにも私はその忠告をヘラヘラとはぐらかし、さらには汚い手段を使って、とうとうエレベータに『スポンジ』を積み込むことに成功しました。しかし、結局はこの子たちの言ったことが正しかった! あれはアッラーフの啓示などではなく、醜悪な悪魔が遣わした『トロイの木馬』だったのです!
……私は宗教家ではなく、人文学者です。なのでここから先の話からはなるべく宗教というものを脱色して語っていきたいと思います。では、私が申しました『悪魔』とはなんなのでしょうか? これにつきましては、推測に推測を重ねるほかありません。なのでマレヴィチ教授のなさった科学的考察よりも、はるかに荒唐無稽なものになってしまうことを、予めご了承願います。
『スポンジ』を生み出したのはきっと、我らホモ・サピエンスよりもはるかに科学や哲学を発達させた存在でしょう。彼らはこの宇宙の理を探究し、様々な発見・発明をしたはずです。そして、その獲得したテクノロジーを結集して、あの『スポンジ』を創造し、この太陽系にさしむけました。理由は無論、この星系を滅ぼすためです!
――と断言してはみましたが、ここで至極当然の疑問が生じます。なぜ高度な文明を持った知的生命体が、この辺境の地に住む未開文明を滅ぼさなければならないのでしょうか? 植民地にするためでしょうか、母星の寿命が尽き、新天地を求めているのでしょうか。――いずれも違います。彼らにとって、これはゲームです。具体的にいえば、これは単なる暇つぶしにすぎません。彼らにしてみれば、太陽系に知的生命体がいること自体はどうでもよいことなのですが、いればそれなりに喜ぶでしょう。やった、ボーナス・ポイントが付いた! と。
彼らのゲームの最終目標は、宇宙の熱的死――、つまり、この宇宙が死にたえる速度を、僅かばかりにでも早めることです。すべての核融合反応が停止し、陽子も崩壊し尽してわずかに電子と光子が漂うだけの冷めきった宇宙空間、それのこそが狙いなのです。彼らもかつては我ら地球人類のように、まずは母星を隅々まで探険して知識欲を満たしていったことでしょう。そのうち現在の我々のように宇宙空間へ脱出し、恒星系を探索してさらに外の宇宙空間にまで進出していったはずです。その探究の果て、彼らはこの大宇宙に『飽いて』しまったのです。
さらには副次的目標も用意しています。それは創造主を気取って知的生命の芽を堕ろさせ、すでに文明を獲得している場合はそれを抹殺、もしくは石つぶてを投げ、その情熱をくじいて、冷笑することです。
ルールの詳細はこうです。彼らは『スポンジ』を生産し、めぼしい恒星系に送り込みます。あまりに遠い恒星系では空間をジャンプして送るのかもしれませんが、本質は暇つぶしにすぎませんので、近場にある恒星系では何千万年もかけて航海させるのではないでしょうか。そして恒星系に到着した『スポンジ』は、重力場に沿って航行を続けます。多くのものは彗星のように楕円の周回軌道を描いて公転しつづけるか、放物線を描いてもう二度と帰って来ません。彼らに言わせれば、これらはハズレでしょう。初めからフラクタル図形をしていないのは、それなりの質量を保つことで天体に捕捉されやすくするためか、知的生命に興味を持たせるために違いありません。そして重力を感知して例の細分化を進めるのです。
さて、彼らが「アタリ」と称するセオリーには、以下の三つあります。まず一つ目――。『スポンジ』が恒星へ突入し、そのガスを吸い取っていき、とうとうその全てを呑みこんでしまうこと。寄生された恒星は最後、その質量に関わらず超新星爆発を起こし、その恒星系は滅びます。白色矮星、中性子星、ブラックホールの代わりに『スポンジ』を芯に残して、彼らは望遠鏡でその模様を見物して拍手喝采。そこに太陽依存の生物圏があった場合、当然それは滅亡します。
そして二つ目――。『スポンジ』が恒星系に存在する木星型惑星に衝突させ、飲みこむこと。木星・土星・天王星・海王星、これらの惑星は画像解析によって直接観測することができますし、蝕を利用して観測することも可能です。一つ目のアタリほどのスペクタクルはありませんが、これらの天体の消滅はそれなりの天文ショウになるでしょう。さらに、この『嫌がらせ』により、その恒星系の持つポテンシャル――知的生命体が生じる可能性を大幅に低下させることが出来ます。巨大惑星が養っているのは氷惑星にすむ生命だけではありません。地球のようなハビタブル・ゾーンに住む知的生命体も含まれます。この惑星が盾となって、これらの星の大量絶滅周期を延ばしているのです。もはやこの宇宙に、接触する価値があるインテリジェンスはもう存在しないし、新たに生まれるべきではないというわけです。
最後に三つ目――。さきほど私は『トロイの木馬』という例えを用いましたが、侵略者と被侵略者、お互いの関係が不平等なので、この比喩はいささか不適切となります。なので、もうひとつ例え話を致します。この二つの交わりから、真理を導き出すことができるはずです。
みなさまは前世紀の、人口爆発時代に使用された『クラスター爆弾』という兵器をご存じでしょうか。これは無数のミニ爆弾を束ねたもので、地上に着弾するとそれらが広範囲にばら撒かれ炸裂する、というものなのですが、中には不発弾も混じっていて、戦争終結後にもそれらは残ります。ミニ爆弾には不用意に触ってしまうことがないよう、赤や黄色の蛍光色が塗られているのですが、好奇心にあふれた子供たちはその警告を読み取れずに、おもちゃかなにかと思って拾い上げます。そして、ボン! この兵器は非人道的だとして、2020年には全廃されました。
彼らの配る玩具『スポンジ』は、なおさら悪趣味です。クラスター爆弾とは違い、そもそも異星人の知的好奇心を刺激することを期待して、つくってあるのですから――。地球文明は、氷衛星に潜む先カンブリア時代的な生物圏に接触し、さらには人工知能という良き隣人をつくりだすことは出来ましたが、未だ他の知的生命とのコンタクトをしていません。これを例えるなら、「家庭も職場もあるけど、友達がいない」という状況です。そこに甘い囁きですり寄って来たのが彼らです。現在の文明レベルでは造り出せないオーバーテクノロジーの塊、それを発見した、彼らにすれば野蛮人は、それに何を思うでしょうか。――間違いなく隣人がそばに居ることに喜び、そこには我々を次のステップへ進ませるための、重要なメッセージが隠されているのではないかと研究を始めることでしょう。しかしこれはとんでもない詐欺であり、悔しいことに、私はそれにまんまとのってしまったのです!
『スポンジ』には我々地球人類の将来を肯定するようなメッセージも、その出会いに対する祝詞も、一切書かれていません。込められているテクストは『退屈と死』だけです。……この星が侵され始める前、研究プロジェクトに参加していたとある材料学者の方が、元素に関しては素人である私にこんなお話をしてくださいました。『ワディーさん、知ってますか? 鉄という物質は、宇宙の燃えカスなんですよ』と。どういうことですか、と私は聞きました。その方はこう答えます。もっとも安定しており、さらに核分裂と核融合をさせるには外部からエネルギーを与えなければならない原子核は、鉄とニッケルの同位体だ。だからこの二つは全ての元素の終着点であり、とくに鉄は、太陽の行う核融合の最終産物だから、燃えカスなのだそうです。――鉄は今もなお、文明を支える大事な物質であり、この惑星でも盛んに採掘されています。……しかしこの元素は死の象徴でもあるのです。そして自己をひたすら空っぽにするその性質、何とも投げやりで、虚無主義的な挙動ではないでしょうか?
何度も推敲をしたつもりでしたが、実際に声に出して読んでみますと、恐ろしく気の滅入る原稿だということがわかりました。これ以上お聞きのみなさまが将来を悲観してしまわれては、それこそ彼らの思う壺です。最後に、自然科学の最前線に立ち、未知の世界の素晴らしさと、それに潜む危険性をも熟知したクー・フー号のクルー、そして宇宙港のスタッフたちに賛辞を送ります。彼らはその好奇心に由来する直感によって、『スポンジ』の持つ怠惰な邪悪さを見事に見抜きました。それに比べて私の探究心なんて、本質は己の理想とする世界を押しつけるだけの三流にすぎませんでした。
私の仮説の押し付けは、これで終わりです。次はカプリコン・コロニーにいらっしゃる護民官長、ジョン・コップ氏からの、火星脱出の大1次マスタープランについての解説です。ご清聴、まことにありがとうございました――」
このスピーチでの博士の話、多くの人が納得したらしいが、ぼくには腑に落ちないこともあった。仮に全知全能にリーチしてしまった存在がいるとして、本当に、それ以上世界の理を探究することに飽きてしまうのだろうか? ぼくは陶器と人工眼になったおかげで、未知だった光の世界に接触することができるようになった。そのおかげで少なくともぼくは、自分が生活する環境についてはほとんど知りつくしてしまったということになる。しかし、だからといってぼく個人がそれに退屈してしまったということはない。だから「スポンジ」を送り込んできた宇宙人の中にも、世界に退屈していない一個人がいて、この悪趣味なゲームに待ったをかけてもおかしくないとおもうのだ。
さて、護民官長から説明された火星脱出計画は、こうだった。
優先的に惑星から離脱するのはカプリコン・コロニーの住民からとする。そちらの方が3万人ほど人口が多く、エレベータの立つパボニス山に噴火の可能性も浮上してきたからである。地下租界のオールドカマーも、新租界のニューカマーも、等しく扱う。ただし、惑星は今後縮小をして、その分自転速度を速める。その際には軌道エレベータを大地から切り離さなければならなくなるはずで、その後エレベータの宇宙港―地上間は完全に放棄するか、もしくは別の用途に利用するかは検討中であるが、それ以後は旧時代の化学燃焼ロケットを使って離脱しなければならないので、心身に問題のある住民は、真に遺憾ながら、後回しにしなければならない。
さて肝腎となる、宇宙空間へ脱したあとの輸送手段、そして再移住先だが、今のところ火星よりも重力が弱い月を想定している。火星消滅後も宇宙港を簡易なスペースコロニーにする案もよく検討しており、現在でも有効な避難拠点であるが、現実的なのは前者だと私(ジョン・コップ氏)は考えている。しかし火星の全人口が13万人に過ぎないとはいえ、宇宙には地球における大型船舶のような効率の良い輸送手段がない。なので既存の定期シャトルを使うほかにも他惑星を調査している有人探査船を呼び戻して、タグボートとして利用するほか、既に地球の宇宙港では、無人の輸送船に生命維持装置を取り付けて巨大客船になる改造を施すなど、様々な手段でみなさんの足を調達している。これら調達した船をトロヤ群小惑星に設置されている各国の有人外惑星観測基地で上手くバケツリレーさせれば、円滑な脱出が可能になる。カプリコン・コロニーからの脱出が始まるのは2ヶ月後、ザナドゥ・コロニーは4ヶ月後を予定し、1年以内の脱出を計画している。
地下部には今後、大規模なカタストロフが発生する可能性が高いので、地表部にはコンテナ・シェルターを並べた避難村を造成する。そこに全住民を収容することは、モノ不足のこの星では無理だが、とにかく、住民は避難情報を注視しつつ、地下に備え付けられているシェルターなどを巧く使って、待機するよう。救援物資は太陽系の各公転軌道に浮かべた緊急補給モジュールをなんとか集結させて供給するが、地下租界の住民は、ギリギリまで食料と工業製品の生産を続けるよう。新租界の住民は、くれぐれをデマに踊らされないよう、よろしくお願いする(最後だけはできない相談だ)。
ちなみに地上に出来た避難キャンプに、住民はまったく転居しようとしなかったという。地下租界のオールドカマーたちは日々の食料・エネルギー生産の手を休めるわけにはいかなかったし、ニューカマーたちは、磁力線が復帰し、突然空に出現したオーロラに、すっかり怯えてしまったからだ。
3
「こういっちゃ悪いけど、泥のついた葉っぱの切れ端みたいな味ね……」
「慣れればいけるよ。多少は、ね。アンドレアさんはあのあと、どう?」
「母子ともに順調。出産予定は来月とちょっと」
「そっか……。その時にはどうなってるんだろうね、この星は」
「わからない。私たちでもわからないから、ただ時間を待っているだけ人は、もっと怖いと思ってるはずだけれど」
「男の子だっけ、女の子だっけ?」
「女の子。……生まれた後、どこにある世界を『故郷』だと思ってくれるのかしら」
それは難しい問題だ。
ぼくとエレーナは休憩室――といっても廊下に椅子が並べられただけのところで、冷やした似非珈琲を回し飲みして何とか蒸し暑さに耐えていた。物資統制でこんな飲み物でも嗜好品はみな割高だ。すぐに飲みきってしまえばもう喉を潤せられないし、放置していればぬくまってしまう。そこが悩ましい。
近くのドアをくぐれば移転した探査機の管制室がある。
「その探査機が突入するっていうのは、……いつごろ?」
「明日か明後日らしいけど、詳しくは知らない」
「ジュンペイはまだ覚えてる? さっきの博士の顔」
「うん、日に日にふけこんで言っているような」
なんというか、この紙コップに沈んだ出がらしみたいだった。
「あの人まだ三十路なのにね……。あのままじゃあ、そのうち火星豚みたいになっちゃうかもしれない。私たちでなんとかしてあげないと」
「その言い方やめようぜ。今はみんな『ディアスポラ』になりかけているんだからさ」
つん、といって、彼女はそっぽを向く。こめかみに汗が一筋つたっている。
スピーチ以来、バルダージ博士は与えられた事務所に逼塞して、おしゃべりを楽しむことも、ニコニコと笑うこともほとんどなくなった。火星からの脱出計画には、ぼくとエレーナを代理人にして情報を収集しているが、それを元に自らのアイディアを表明することもない。目からは貪欲さがすっかり色あせた。時たまアイダさんにまさしく背中を押されて外出するが、せいぜい安全を確保されている、狭い空間をとぼとぼ往復するくらいだ。
ぼくはもっぱら大地の底で落ちている事象について取材をし、エレーナは地元民の強みを活かして避難を待つ住民たちの様子を見聞きしていた。しかし博士もアイダさんも、積極的に指示をするわけでもない。だから自主的にあちこちへ動きまわる。……それすらもこの星が末期に近付くにつれ、どんどん居場所が狭まっていく。だから今はこうして、博士に経過報告をし終えて、これからどう動くべきかを二人して考えているのだが、いい発想は全然浮かばない。
と、ガチャリ管制室のドアが開いた。
「あ、お二人とも、そこお暑くないんですか?」
ヒミコがぴょっこり顔を出す。
「暑いわよそりゃ。……そっちにはアンドロイドしかいないんだから、こっちに空調をまわせばいいのに」
「生身の人間でしたらお一人だけいますよ。そんなことより、探査機が岩盤を通過したみたいなんです」
「え、ずいぶんと速いじゃあないか。ていうか、ホントに着けたの?」
「はあ、不明な点も多いですが私たちも驚いているところなんです。ささ、今ならご遠慮なく冷房に当たるチャンスですよ!」どうぞどうぞと中へいざなう。
彼女は宇宙空間で働くロボットらしく丈夫な身体を持っていたので、火星深部を調査するチームに入りこんでいた。ぼくは彼女を窓口に、色々と情報を仕入れ、打ちこまれる前の、くだんの探査機にも触らせてもらったというわけだ。
気分は「刷り足だった」という感じだった。クーラーの風に当たれた安心感と、全ての現況をまた見ることへの動揺が、混じり合いながら部屋と内心をギトギトと覆っている。
「おお、タクマくん。案外すぐ近くに居たみたいだな」
「実はずっと表に居たんですよ。お仕事のお邪魔をするわけにはいかないでしょう?」
「なんだ。そんなつまらんことを気にしていたのか。ここのロボットは若干癇癪持ちだが、君一人が隅っこに居るぐらいで怒ったりしないよ」アンドロイドの「癇癪」とは、いわゆる「フレーム問題」にぶち当たってフレーズ状態に陥ってしまうことを言う。ぼくがそれを見たことはないが、あんまりヒトとのコミュニケーションをしないロボットがたまにこじらせるらしい。
「……そちらのお嬢さんは?」
「あ、彼女はエレーナ・タルニンテといいまして……」
「思い出した! 君もバルダージ先生のアシスタントだったな。以前一緒に居る所を遠目で見たよ」
エレーナは愛想笑いをしたあと、ぼそっと耳打ちする。
「どなた?」
「カプリコン大学の教授で、ここの責任者のスティーブ・ハン博士」
この、香港の三枚目俳優みたいな丸顔の持ち主は、さっきヒミコが言っていたこの探査ミッション唯一の人間だ。耳には補聴器ではなく、電波で飛ぶスタッフの声を聞く翻訳機をはめ、よれよれのスーツ姿を着ているが、これはモノ不足のせいではなく、元から着るものにおざなりな人格のせいだ。ぼくはヒミコを介してこの博士と懇意になっていた。顔もふっくらしているが、下腹も出っ張っている。部位こそ違うが、「ユサッ」要員が、ここに二人。
「まあ、二人とも、真正面にあるスクリーンを見てくれ。これはこの惑星の断面図――もちろん『スポンジ』以前のものを用いているが、あそこの点の位置が、今、グリソムがいるところだ」
「まだマントルの折り返しって所じゃないですか」
「そうなんだ。しかし空隙を沈降していく速度が、ここにきて急激に速まった。なにか相当の粘性を持ったものにぶち当たったようなんだが、トンネルには火山性ガスの噴出がほとんど確認できないから、玄武岩由来の溶岩とも違う。抵抗の強い、濃密なプラズマの雲というわけでもなさそうだ。……このトンネルは、まるで消化管だ! ここまできて、圧力による抵抗が増すどころか、むしろ中へ中へと引きずりこまれている!」
ハン博士は腕を振り回してその驚きっぷりを表明している。不意に君はウナギって魚を知ってるかね。と、博士は唐突に聞いてきた。名前こそ知っているがエレーナはもちろん見たことがない。ぼくは養殖物しか食べたことないけれど大好物ですと答えた。
「探査機はまさにウナギをつかんだような感じだ。尾部をぎゅっと押さえつけられて、それを逃れようとにゅるんと下へ下へと潜っている」
「ほんと変ですね。浮力は潜るほど強くなるんだから、沈んでいく速度は遅くなっていくはずなのに。――正体はなんなんですか?」
「わからん。グリソム・プローブを投入するまで大したデータは得られないからな。周囲の振動を解析しても、振動を吸収するような物体で満たされているとしかわからん。……うまくいけば、あと数㎞で水滴の尻尾に到達するぞ」
探査機はその沈む速度を速めていった。まるで深い井戸の底に投げ込まれているよう。
とりあえずハン博士は、まあ座って待っていなさいと、開いているボロ椅子をぼくらに薦めてくれたが、そういう自分自身はお腹にヘリウムを注入されたかのように落ち着かない。さっきからネクタイをいじってばかりだ。
「まもなくプローブを発射できる空間に到達します! このままの速度だと、あと10分後」と、彼らは言っています。ヒミコがすかさず訳す。
「いよいよか。ブレーキ作動。潜航速度を緩めろ」
「……できません! 速度がほとんど落ちないのです!」
「な?」
グリソムはむしろ、速度をやや速めた。
「なんなんですか、ハン博士、どういうことなんです?」
「わからない。まるでハイドロプレーニング現象に突っ込んだようだ」
「この機体は本来、横んところにラセンの刃が飛び出て、それでプロペラみたいに回転しながら減速するんですけど――」
「竹トンボみたいにか」
「その通りです! そしてプローブに弾丸のような回転も与えて姿勢を安定させるのですけれど、それがどうにも効かないみたいなんです。一体全体どういうことなのでしょうね?」
「……しかたない。減速はそのまま続けるが、射出の準備にかかれ。いざとなったら抱きかかえたままで『スポンジ』に飛び込むぞ!」
「了解しました。カバー、開封します」
「放射線カメラ、起動します」
グリソム・プローブに搭載されたカメラはX線、ガンマ線をサーモグラフィのように可視光に変換する。カメラの一転は灰色に輝き、周囲を黄色と緑のまだらが渦巻いている。
「なんなんでしょう? この蠢いているものは」
「まわりとは少しだけ『冷たい』みたいですね」
「探査機とは一定の距離を取ろうとしているみたいだな」
プローブは切り離されているはずなのに、本体と一定の間隔を維持しているらしい。プローブの各種観測機器がそれを伝えている。……しかし内部から高温・高熱にさらされて、急激に朽ちていく。と、同時にブレーキがかかり、どんどん距離があいていく。
「切り離しは成功したようですね」
「しかし、あの減速の理由は? ……まてよ」
ハン博士はツナギを着たイモ掘りロボットみたいなスタッフになにかを指示した。ロボットは黙ってうなずく。
「彼になんと?」
「プローブの運用と同時並行で画像解析をさせるんだ。……既にキャパシティは限界だと、半分切れていたがね」
「そうは見えなかったけど」
「人工知性の感情は読めないだけで、ないわけではないんですよ? エレーナさん」
「……」
「――ああっ!」
博士が奇声を出す。鮮明なプローブのビーコンと、死に体となる本体のビーコン、これの距離が再びじりじりと近付いてきたからだ。
「プローブ減速しています。回転も抵抗がかかって、次第に……!」
大きくなってきた出口の光が、上下左右に激しくぶれる。雹のように何かの破片が多量に打ちつけるが、他にも何かが……。
「空洞到達までカウントダウン20秒、補正、20秒、……。補正、15秒! ……うう」
「今のところ、10秒だけカットして、それも一緒に解析して。……つべこべいうな!」
「――出口です!」
「パラシュート展開!」
その瞬間、プローブは横から列車ではねとばされたようになり、回転にひねりが加わる。藪に突っ込んだように岩石? の破片が砂嵐のように横切っていく。……チカッと強烈な光の点が映る。太陽ではなくて、『スポンジ』だ!
大モニターには、現在の映像と、気圧、大気成分、温度、放射線量、などを表示したグラフが線を引いて行く。ついに本体からのビーコンは絶えた。
「プローブの姿勢、安定しました。『スポンジ』に激突するまで、予測では3時間ほどあります。……しかし内部は29気圧、温度は華氏1387度。長くは持たないでしょう」
「そうなる前に、莫大なデータをさばいて行かないとな。私たちには、時間がないんだ」
ヒミコも含め機械たちが、さっと一度博士の方を振り向く。……そして、すぐに仕事へ心を戻していった。
がおん、と音がしたような気がした。プローブが飛び込んだ地点から、岩石の塊がベリッとはがれ、底へ落ちていく。遠近が狂ってどんな大きさかはわからない。「さしずめコールド・プルームだな」とハン博士は目を輝かせてつぶやく。
「博士、ここの大気は、ガスですか」
「いや、これはプラズマだろう。しばらく待っていれば、カメラは『スポンジ』に向かってまっすぐ落ちていく。そうなれば磁力線に沿って噴き出すジェットを観測できるんじゃないか」
「あの、私どうしてもわからないんですけど、そんなに内部に圧力がたまっているのなら、なぜ縦穴やこの星に残った空洞を通じて、それが噴き出して来ないんですか? ものすごい熱源があるのだから、地圧や水圧と同じとはいかないはずなんでしょう?」
画面では虹色の濃淡の中を、稲妻の網が這いまわっていた。
「ううむ、何か力強い応力――締め付けの力が働いてガスの噴出を抑えているのかも……」
「そうだ、地殻がそれぞれアーチになってて、圧力に耐えているとか」
「それはないよ。だって、アーチって上からぎゅっとくる力に強いんでしょ? それに左右にはその分受け流された力が働くんだし、そこからグシャグシャになって、大噴火! とか」
「力に耐えている、という感じではない。受け流しているというか、私の読みでは、吸収している――」
「『吸収』? でも、それをしているのは『スポンジ』なのでは?」
「ちょっと待ちなさい。私には、ちょっと驚くような考えがある。――もう解析は済んだか? まだ? ……よし」
ハン博士はズボンのポケットからレーザーポインタを取り出し、大モニターに照射して、せわしなく動かす。
「この映像は4分の1だ。処理した映像を全部、こっちにまわして。きっとすごいぞ!」
プローブから中継されていた映像――もう劣化が始まり、斑点のノイズが浮かび上がっている――は縮み、隅っこに寄る。かわって白黒だがコントラストのくっきりした静止画像が3枚飛び込んでくる。
「よし、Aをとばして、まずはBだ。ズーム、ズーム!」
ポインタで示した位置を軸にズームアップしていく。静止画といったがそれは間違いで、それはコマ撮り写真だった。そこではヒダの群れが、木星の厚い大気のようにヒリヒリと渦巻いている。
「これは、ヒダ? ……マーブル模様かな」
「ふふふ、やっぱりそうか」
「博士、これはなんですか? 岩石が蒸発しているように見えますが」
「もっとよく見なさい。あのあたりなんかがいいな。さらに寄って……」
赤いポインタはまたハエのようにまわる。確かにエレーナの読んだ通り、そこには蒸気の吹き出しがあった。……しかし、その周りには明らかに秩序だった構造物が、びっしりと並んでいた。まるでソフトコーラルを、一本一本みっちりと植えていったかのような――。
「いきもの……」
「三人とも、ようやくわかったかい。ささ、もっと視野を広げていくと……」
「このうねり、全部が生き物ってことですか!?」
「きっとそうだ! こいつらは『スポンジ』が吐きだす高熱をエネルギー源にして、ここまで増殖したんだ。火星は生命の創造に失敗したわけでもないし、星の熱死とともに死に絶えたわけでもなかったんだ」ハン博士はハイタッチを求めてきた。博士の専門――マユツバとされている岩流圏そして外核での生物探究――を知っているぼくとヒミコがそれに応じてあげた。
「ハン博士、もっとこれについて詳しく教えて頂けませんか? この火星の原生生命が見つかったことで、これからの脱出計画に影響を与えることは?」エレーナは袖をひくように聞く。これで博士の心はようやく、管制室に軟着陸した。コマ撮り写真の続きは、この生命たちは驚くべき速度で下へと伸長していき、一定の長さに達すると熱に焦がされ、砂に戻り落下していく様子をコマ撮りで映していた。
「現在プローブは弾道軌道を描きつつ『スポンジ』に落下中。表面の吸熱カバー、損傷率は57%。予想よりいい数字です」
「そうだな、バルダージ博士もこの発見には興味を示してくれるだろう。――観測を継続。
まず、お嬢さんの、切羽詰まった疑問に答えよう。この星の地下に溜まった高温・高圧のプラズマは、この生命たちによって緩衝されている。この生き物たちは、ガス惑星にいると考えられながら、いまだ発見されていない物性依存生態系だ。外部の高熱と高温を利用して代謝を行う生き物だよ! この星は地球よりも早い段階で冷却してしまい、大気も希薄なため、太陽光依存生態系も、化学合成依存生態系も滅んでしまった。しかし彼らは恐らく星が表面から醒めていくのに合わせて、一緒に地下へと潜っていった。さっきウナギに例えたが、この場合はまるで鍋の豆腐に逃げ込むドジョウのようだな。そして星が完全に沈黙した後でも、わずかに残った放射性同位体の崩壊熱を糧に、細々と世代を重ねていたのだろう。そこに『スポンジ』がやってきた。彼らは『スポンジ』の食い散らかしを得て、かくも大繁殖した。彼らのつくったバイオマットが、この星の外にエネルギーが漏れ、破裂するのを防いでいるんだ。
そしてこれで、探査機が減速しなかった理由も、ある程度推測できる。探査機もこの生物たちと同じく、熱と圧力を動力の足しにしている。つまり、競合を起こすんだ。シャーレ目いっぱいに増殖した粘菌にそれよりも繁殖力で勝るほかの細菌を垂らすと、それを避けるような挙動を示す。それと同じだ。だからブレーキが効かない。プローブと本体の距離が縮まった理由はちょっとわからないが、多分、こちらの方は餌だと思われたんじゃないかね」
「つまり彼らは、この星の崩壊を防いでくれている、ということですか?」
「その考えは好意的すぎるかなあ」ハン博士は、あごの肉に隠れていた剃り残しの無精ひげを見つけて、それをいじる。
「彼らの生命活動はむしろ、火星の風化を早めているはずだ――。熱だけで生き物は身体を造れないからな。彼らは『スポンジ』から供給される豊富なエネルギーを利用して、惑星の主成分である珪素をどんどん代謝させていっていることだろう。彼らがこの惑星にしているのは『安楽死』だ。生物の本質は『効率の良いエントロピーの増大』なんだよ、残念ながら」
「それが生命の『本質』? ……私たちも、ですか?」
「そうだ。生命が世界に蔓延れば蔓延るほど、この世界は効率よく朽ちていく。それが私たちアストロバイオロジストの共通認識だ」
見たまえと、ハン博士は口元を少し歪ませて促す。笑っているのか泣いているのか判別しかねた。現在も落下を続けるプローブ、その映像の半分が、ノイズにまみれていた。もう持たないだろう。「スポンジ」は遥か彼方、いまだに光の点にしか見えない。パラシュートはもう燃え尽きているのだろう。すぐそばの惑星の破片と、ほぼ等速のまま落下している。
破片は彗星の核にそっくりだった。ご丁寧にダストと尾を引いている。……その表面には、火星の生命がまだへばりついていた。まだ生きて、芽を焼かれながらも増殖している。
「ああやって岩石から養分を取り、すっかりボロボロになると生命の重みに負けて剥がれる。そして大きなブロックごと『スポンジ』めがけて落ちて、消滅する。多分マントルは全て、彼らの根っこが蔓延って、弱り切っているだろう。そして条件がそろえば、一気呵成に――」
「『スポンジ』に飲みこまれていくわけですか」
「そうだ。個人的にはあの生命たちを是非ともサンプリングして、生かしておきたい。しかし大局的に観れば、あれも我々の希望の星ではなく、弱った木に取りつくシロアリに過ぎないだろうね」
あいつらも、ただ一生懸命生きてるだけなんだけどなあと、誰に行っているのかわからないが、ハン博士はぽつりと弁護した。
プローブの画面は、ほとんどが砂嵐に置き換わった。一瞬、蛍の群れに似たものが画面にっぱいに広がった。そしてそれっきり、通信は途絶えた。プローブは冷えた木星大気には耐えられたが、核融合炉並みに熱せられたこの環境には耐えきれず、破裂し、分解した。蛍みたいなものは、最後に溶けだした外殻の輝きだった。
とうとう「スポンジ」そのものを観測することは叶わず、この星の余命が、予想よりもはるかに弱いということがわかっただけだった。
観測終了後、ぼくら三人はすぐさまバルダージ博士の書斎に赴いた。ハン博士から画像のいくつかをダウンロードさせてもらい、それも使って「スポンジ」の築いた帝国の姿――多分、この星が隠していた秘密のほんの一握りにすぎないだろう――をなるべく克明に伝えた。惑星の鼓動が止まってから何千万年、いいや何億年も耐え忍んできたいのち。彼らによる、盛大な最後の晩餐。博士は久しぶりに目を光らせた。鏡のように、ほんの一瞬だけ。……泣いていたのだろうか?
「まるでイカロスね」
深々と安楽椅子に腰かけながら、そう一言だけ感想を告げる。たしかにあの生命たちは、ロウで固めた鳥の羽みたいな姿をしていた。