第2章 のたくる地下道
1
2135年に開催された「火星博」。この、惑星開拓を促すための博覧会は、初期の入植者たちにより企画・施工・運営された。元々入植地は後に建造される二つのエレベータそばの地下に造られていたので、博覧会の会場は入植地それぞれの真上に、ガラス温室のような人工バイオームを造り、パビリオン会場として利用することになった。会場は火星博終了後、官庁街・大学・公園・ビジネス街へと転用される予定だった。パボニス山のふもとに造られたバイオームが「カプリコン」、そしてオポチュニティ・エレベータのふもとに造られたのが「ザナドゥ」。
火星博とバイオームの整備により、火星の開発は急速に進むと期待されたが、新たな移住者たちはこのバイオームを使いたがらず、オフィスビルが造られる予定だった場所にはマンションが建てられ、もっぱら学生や公務員、それにぼくのような技術者が住み着いている。初めのうちは青い夕焼けを珍しがって新規の移住者が入居していたらしいが、このザナドゥ・コロニーは大平原のど真ん中にあるので、遠くに見える露天掘りの石の山や、そこで稼働するバケットホイール・エクスカベータ以外に目を引くものがない。さらにコロニーを守る遮蔽物がないので、運が悪いと2カ月間も砂嵐に閉じ込められることになる。この殺風景な様に閉口し、ノイローゼになっているところにあの夕陽の正体はチェレンコフ光で、実は放射線だという噂が広がった。そのため新開拓者の全員がここから出ていき、そこの後釜にぼくらが住み着いた、というわけだ。
この星で、生身の人間が本物の星やお天道様を崇め、黒い土と、のびのびと茂った木々に触れられる場所はここしかない。それに地球にだって極夜というものがあるのだから、なぜ砂嵐ごときに滅入ってここでの生活を捨ててしまうのか、ぼくにはわからなかった。しかしそのおかげでこの好環境も、ぼくのような下っ端ですら享受できているともいえる。
ぼくは、そんな不相応に快適な、自宅である高層アパートの一室へと数カ月ぶりに帰って来た。ガラスの窓を開けて淀んだ空気を追い出し、青臭さの混じった清浄な外の空気と入れ替える。昨日か一昨日に庭木の一斉剪定があったらしい。
あまり体力が落ちてなかったので、すぐさま持ち帰った荷物を片付け、男だてらに部屋の掃除を済ませて――空けていた間、ロボットの清掃員さんにまかせるという手もあるが、ぼくは身の回りのことを、自分一人でやりたい。こんな身体だからなおさらそう願っている――一休みにベランダへ出る。この部屋は15階にあるが、バイオーム内の大気循環はコントロールされているので、この高さでも強風にあおられることはない。今日も空は柿色で、三つのドームが縫い合わされた天井を拡大して見ると、ヒトが機械かはわからないが、何人もの窓ふき職人が赤い塵をふき取っているのがわかる。視点を落とすと、地下水に、彗星を溶かしてつくった淡水を貯めた人工湖の上には、どこかの暇人か大学生だろう、グライダーがフワフワと飛んでいる。その湖面を真っ二つに分ける鉄橋を2両編成のライトレールが突っ切っていく。……いくら新興の土地とはいえ、いわばショールームとして機能しているこのバイオームの様子が、数カ月留守にしていたくらいで変わるはずがない、のだけれど――。
「あそこだけは大騒ぎかな……」
人工湖を挟んだ先、空と大地の色に溶けこむような灰色の建物がいくつも並んでいる。あそこがザナドゥ大学。「立方体」はそこに持ち込まれ、研究が始まった。もちろん極秘に――。ぼくとエレーナは、立方体について口外しないという契約書にサインをさせられた上で帰宅を許されたが、ロボットの身柄は自由に拘束できるので、ヒミコは多分最前線で働かされているのだろう。ちょっと寂しいが、またすぐに会う羽目にもなることも予想できていた。
手すりに肘をつき、考え事を始める。今までキュウキュウに仕事をしていて、明日もさあ労働だ、なんて思っていたから、掃除が終わった後にどう行動すればいいのかわからないのだ。でも思い浮かぶのは、あの鉄の塊のことばかりだ。――なんだか肩が凝ってきた。
立方体がリフト内で、あんな風に――うう、「成長」してから、ぼくはあれのことが気になってしょうがなかった。質量を失ってから存在感が増すというのも不自然な話だ。ぼくは延々と考え事をしているよりも行動を起こした方がカッコイイと思っているのだが、「アレ」について調べようにも動きようがない。しかし考えていてもわからないことだらけで埒が明かないのも確かだ。だから行動と思考、両方を兼ねる次善の策を取ることにした。まぶたの裏に電話帳が表示される。
「もしもし、エレーナ?」
「あっ、ちょっと待って……」
脳みそに国籍不明の音楽がチャンチャラと流れる。凄まじい音だが、陶器はどういうわけかこの音楽だけボリューム調節してくれないので、毎度身構えることになる。
「もしもしお待たせー。いま家族と一緒にいたのよ。もう自分の部屋に移ったから」ギュムという、ソファかベッドに腰掛ける音がする。「オトコノコがあんまり話し相手を電話で求めるべきじゃないとおもうんだけど、あなた、『アレ』についての話し相手が欲しいんでしょ?」
「良くわかったね。その通り――」
ここでまたエレーナの声が遠くなる。彼女はスペイン語でなにか叫んでいる。
「ごめーん。ママが入って来ちゃって。『仕事の話してるから』って追い出したから。……もう大丈夫、話して」
「う、うん」しかし、勇んで電話したが、なにを突っかかりにしよう。ええと――
「エレーナは『アレ』をどう思う?」
「どうって、ずいぶん曖昧なこと聞くのね。……男らしくない」
「ごめん、だけどバルダージ博士みたいに一人でブツブツ考えるなんて無理だよ。あれに関する話ならなんでもいいからさ」寒くなったので室内に戻る。アハハと彼女の笑い声が漏れる。
「私だって無理よ。そうね、私はバルダージ博士のことを尊敬してるけど、博士の考えてるみたいに『アレ』を新しいコロニーのシンボルにするのは無理だと思うの」
「ほう、それはなぜ?」
「だって、『アレ』は地球人が造ったものじゃないからよ。どこかの異星人が造ったものをありがたがって崇め祭るなんて、まるで神様に依存して、大地に這いつくばって生きてきた暗黒時代の人間そのものじゃない」
「でも、『人類と地球外の知的生命体のファーストコンタクト』を記念したものになるはずだから、ぼくは別にかまわないんじゃないかな」
女性の話に「but」は禁物らしいが、お悩み相談ではないのでかまわないだろう――と思いきや、エレーナは想定外に熱っぽくなって、こう言った。
「そういうことならどこかラグランジュ点にも浮かべておけばいいだけでしょ!? シンボルにする物はこの星でとれたものをつかって、この星で生まれ育った人間がつくった物じゃないと」
「エレーナ、ちょっと声が……」
「あら、うるさかった?」
「すこしだけね……でもさ、そういう人類の発展を記念するものだけじゃなくて、『アレ』は自然史的な意味での象徴になり得るんじゃないかな? 博物館にはそういう珍しいものを陳列しているものだろう?」
「でも、どこに置こうとも『アレ』が火星のポジティブな象徴になれるとは、どうにも思えないのよ。あなただって、『アレ』が成長し出して、不安に思ってるんでしょ? だからそれを解消したくて私に電話を掛けた。……違う?」エレーナも、あの減少を「成長」と呼ぶことにしたのか。
「うん、ぶっちゃけ、きみの言うとおりだ。ぼくだって怖いし、きっときみの頭の上を歩きまわっている人たちはもっと怖がるだろうね……」
「でしょ?」
「でもさ、くどいようだけど、我々人類はそういう恐怖心を克服して、『アレ』の性質を調べないといけないんじゃないかな? きっと大昔の人類も、恐怖心に打ち勝って火を操れるようになったはずだし、怖い怖いと思っていて、『アレ』から目をそらしていたら、本当に危ないものだったときに取り返しがつかない」
「ほら、図星だった。……あなたも『アレ』を危険なモノだと思ってる」
「ああ、そうだ、その通りだよ。だけどさ、『アレ』が危ない物だとしても、それの危険性を排除できるようになれば人類の偉大な勝利だし、進歩だと思うんだ。だから……」
「もう、さっきから『でもでも』ばかりでキリがない!」頭がキィンとなる。「そういう『地球人 対 異星人』みたいなことは地球に住んでる人だけで、勝手に楽しんでればいいでしょ! 火星は火星だけの、オリジナルの歴史をつくる。あなたたちは古びた星で勝手に戦争ごっこをする。それでいいんじゃない?」
「バルダージ博士だってもう火星人のはずだ……」
別にディベートしたかったわけではなく、ただ相談をしていたはずだったのだが、ぼくは彼女の気持ちにある矛盾を突くような真似に出てしまった。
「あの人はこの星に愚かな人ばかりでない新しい故郷を造って、そこに骨を埋めるつもりなんじゃないかっておもうんだけど、君は博士のことを尊敬してるんだろう? 都合良く地球生まれをよそ者扱いして、挙句に『戦争ごっこ』だなんて……」
「もうやめて!」
そう言われる前に、ぼくはぼくなりに後悔していた。
「……ごめん、ぼくだって、きみとケンカしたかったわけじゃないんだ」
「うん、わかってる」……スンと、嗚咽をこらえる音が届く。
「それとね。ぼくも多分この星の、共同墓地の中に納まる人間だと思う。そりゃあ地球には両親が住んでるからたまには帰るかもしれないけど、多分地球の重力では元気よくやっていけないだろうし、ここでの仕事も好きだし……」
「うん」
「だからさ。ぼくや博士の意見を鵜呑みにする必要なんて全然ないけど、蚊帳の外に置かれるのは、えっと、さびしいから。……ぼくも準・火星人くらいにはなれないかな?」
「……」
「とりあえず、『アレ』がなんなのか、それと、『アレ』をこのあとどうするかは大学や機構の人たちに委ねて、ぼくたちは博士やヒミコからの続報を待とうか」
「うん、そうだね。……それがいい」
「そうだ。こっちの職場での勤務、3日後からなんだけど、エレーナは?」
「私は久々に帰って来たから、1週間休暇取るよ。畑仕事の手伝いだってしたいし」
「ふーん、何作ってるんだい?」
「色々だよ。稲、大麦、トウモロコシ、ジャガイモ、キヌア、生鮮野菜……。木になるやつ以外ならなんでも。どれも季節に関係なく作れるけど、今は値段が上がったジャガイモかな」
泣いたカラスがもう笑った。あのスポンジについての話をしているより、こういう近況報告していた方が、ずっと前頭葉にによさそうだ。
「ジャガイモって、地面に植わってるんでしょ? 地下農場にはバイオームみたいに土がないはずなのに、どうやって育てるの?」
うーむ、と彼女はつぶやく。
「口で説明するのはちょっとむつかしいかしら……。このまま仕事の様子を撮影して見せるってのもアリだけど」
彼女は長考している。というより、悩んでいる。
「……働いてみる?」
「えっ」
「あなた『火星人』になりたいんでしょう? だったらこの星の土の臭いを知っておくべきだし、こっちはよそから人を雇えないから、いつだって人手不足なの。……嫌?」
「嫌だなんて、そんな」
ホントはすごくうれしい。女の子の実家に行くことが初めての経験だから、という人並みに卑しい気持ちだって残っているが、それと一緒に、なんとも光栄な気分でもある。彼女たち初期の入植者の子孫は、博覧会開催後にやって来た新参者を、色々と理由を付けてほとんどその居住区へ入れようとしない。先祖のように母屋を乗っ取られることを警戒しているからだ。だから招待されることなんて、奇跡といっても遜色ないくらい珍しいことだ。ぼくは是非行きたい、手伝いをしたいと返事した。
「ぼくも休暇延ばせないかな」この星は地球ほど社会の歯車がギチギチしていないから、土壇場でも結構簡単に休みが取れる。
「自動化されてるからそんなに時間のかかる仕事じゃないし、他のウチの手伝いまでさせないから大丈夫だと思うけど――、ま、考えといて」
細かい話はMNSでね。そう言い残して彼女は通話を切った。ちょっとだけ、身体が震える。武者ぶるい、と言いたいところだけど、ただ緊張しているだけだ。
ぼくにとっては初めての経験だが、初デートの前のティーンエイジャーみたいな気持になってしまい、いてもたってもいられず外へ飛び出す。……別に意味もなく。仕方ないので湖の周りを散歩して、身体を本物の重力にならし、食事を取った。――このサラダも、元をたどればエレーナの実家でつくったモノなのかしら。食べる量はなるたけ絞るようにしているはずが、そんなことを考えていたらつい食べ過ぎてしまった。
バイオームは青い光に包まれたのち、夜が来た。また宇宙港に戻って来たような気になる。眠る前にMNSを開いて返事のメールを書こうとした。――おや、着信メールがいくつかある。
サーバーの統計学的セキュリティをかいくぐったスパムメールの中に紛れて、ヒミコからの要領を得ない音声メッセージと、その内容を完璧に補完するバルダージ博士からの報告が混じっていた。タイトルは付いていない。それだけで中身が何かわかった。……まったく、宇宙レヴェルの機密に関するデータを民間の通信サーヴィスに乗っけて送るというのはいかがなものかと思う。火星のコミュニティはあまりに小さく、そしてファイルに静脈認証のセキュリティもかけているとはいえ、だ。
開封してみると、本文にはまず「フラクタル次元増大!」と書いてあった。添付されている写真には、「スポンジ」――「立方体」改め――とそれの横に並んで微笑む、防護服姿のバルダージ博士が写っていた。比較対象がいると、結構巨大なカタマリだと気付かされるが、これを空気にさらしていても大丈夫なのか? そして「スポンジ」の穴は更に増え、よりいっそうスカスカになっていた。
「リフト内で穴が通ってから、どういう条件でフラクタル次元が成長していくのかはまだわからないけど、地球の研究機関とも連絡を取り合って、この質量減少のメカニズムについて研究を進めます。私の出番は、全体のマネージメントってところ。今度二人にもそばで見せてあげる。ついでに食事でもどう?」
良く言えばポジティブ思考だが、悪く言えば呑気なヒトだ。写真をみると、胸やけがひどくなりそうだ。そもそもあの「スポンジ」がこのまま質量を失っていったら、元素の糸にまでなり、最後には消えていってしまうのではないか。研究にいそしんでそのテクノロジーを拝借するのはいいことだと思うが、そんな雲や雪より刹那的なものをこの星のシンボルにしようというのは、やはり無理なのではないか。――剥製とかならいいかもしれない。
博士には社交辞令的な返信を書いた。一方エレーナに送るメールの内容は――
「……」
職場ではわりかし頻繁にやり取りして、さっきもそれなりに楽しくおしゃべりしていたはずなのに、純粋にプライベートな話題となると何を書けばいいのかわからない。困ったぞ。
……いや、向こうはぼくの趣味やらなんやらは把握しているんだから、何書いても自由か。しかし、ひたすら時間だけがすぎ、夜がふけていく。「自由にしろ」と言われるほど考えが袋小路に入ってしまうというのは本当だ。結局ぼくが送ったメールは、
「ぼくも休暇を増やそうと思いますが、認められるかどうかはわかりません。日にちはそちらで任せます」
だった。普段送っている文章よりも、ずっと固い。
送信してから寝付こうとしたが、眠れない。天井の高い、久しぶりの家がストレスになっているというのもあるが、メールの内容に後悔しまくっているせいだ。もっと肩の力を抜いて書けばよかった。……ぼくは今、人類の進歩に関わる(かもしれない)大イベントに首を突っ込んでいるはずなのに、それのことを置いといて、同僚のオンナノコに送ったメールのことでウダウダ悩んでいる。それを客観的に眺めている自分の視線を暗闇の中で感じていて、それが妙におかしかった。
3日分もの休暇の追加と、それに伴う始業の延期はアッサリと認められた。誰かが受理するように動いてくれたのか。それとも招かれざる同僚扱いなのかはどうでもいい。
そしてバルダージ博士は、翌日もまた写真を送付してきた。博士がたった一人で、、ますます穴だらけになった「アレ」を膝の上に載せている。いくら火星重力下とはいえ、無茶な絵だと思ったら、もう一枚、タネ明かしの写真があった。上から鋼材を釣り上げるためのマグネットクレーンで持ち上げて、博士はその真下に潜りこんでいるというわけだ。
一番気になっているエレーナの実家へのホームステイ話の方はというと――。
2
博覧会以前に入植した人々は、水と鉱物資源、それから微かに残った地熱を求めて地下深くに潜り、そこに都市を造った。パボニス・エレベータにある入植地は原初の時代、火山性ガスが流れていた洞穴を利用して造られたのだが、そんな地質学的特徴のないこのバイオームの地下租界は、全部人の手によって彫られた空間だ。公表されているデータではマンハッタン島と同じくらいの表面積があるらしいのだが、博覧会後から乱開発が続いているので、その地下租界の実際の大きさは、住んでいる人々ですらよくわかっていない。地上に遺棄されたボタ石の量から、かなりの大空間があるらしいのだが、中にはかつての火山活動で出来たわずかな空隙を利用しているところも多いから、イコールで容積を求めることもできない。
そんなカッパドキアをしのぐ大空間を、百年ほどの期間で、わずか数万人の人々がつくった。地表の資源に頼れない分、やむを得ない努力だったとはいえ、これは驚嘆すべきことだ。しかしそこにぼくのようなよそ者が行こうとするなら、もちろん案内人が要る。ぼくはアパートのあるビルの隙間、地球とほぼ同じメニューで、しかしながらお高いコーヒーを出す喫茶店で、その「案内人」――ぶっちゃけエレーナのこと――を待っていた。
そばでは男の子が、コーヒーと同じくらい高価なアイスクリームを食べていた。この星では酪農もほとんどしていないので、魚と鶏以外の肉、それから乳製品は貴重品だ。付き添いの女性は何も注文していない。男の子がアイス一口薦めるが、彼女は微笑を浮かべて首を振る。節約のため我慢しているのではなく、正体が育児ロボットだからだ。ロボットのNNCは胴体の上半分まで占めているので、消化器官を積める余地がない。
ぼくはこのコロニーでも自給できる似非珈琲――正式名称がこんなのだ。タンポポなどの草本から抽出した安い火星の味――を、チビチビと飲んでいた。
もうちょっと寝ておくべきだったかな――。昨晩は気持ちが高ぶって上手く眠れなかった。座っていながらもウトウトしていると、案内人から電話。
「オラー? ジュンペイ、今どこにいるの? 私なんだか建物がいっぱいあるところに来たんだけど」
「建物がいっぱい? ちょっとそれじゃわからないから周りの写真を送ってよ」
写真を見ると、この旧ビジネス街の出入り口じゃないか。
「そこに入ってまっすぐいけばオープンテラスがあるからさ、そこにいるんだ」
「おんなじ形の建物ばかりだからわかんないよ」
「まっすぐいけばいいだけだよ。……ぼくの姿は簡単に見つけられるでしょ?」
本当に彼女はぼくをその実家にまで案内できるのだろうか。
「あっ、いたいた」
頭の中に響く音から遅れて、耳元に声が届く。
「携帯つなげたまま喋らないでよ……。とっさに受話器から耳を話すなんてできないの、知ってるだろう?」
ぼくは陶器をいじって、通話機能をオフにした。エレーナもはにかみながら卵型の携帯を切る。彼女はセータと同じ文様の入った、温かそうなポンチョを被っている。
「いいね、その服」
「そうでしょ? うちの畑でつくった綿花を織ってつくったの」
彼女は誇らしげだった。身体のラインが見えなくて残念だとは、冗談でも言わないでおこう。
「じゃあ行こうか」
そう言って彼女が向かったのは、ライトレール駅の、ぼくの想定していた方向とは反対のプラットホームだった。
「あれっ、『ターミナル』に行くんじゃないの?」
普通ならそこからアンダーグラウンド線に乗り換えて地下に向かうはずだが。それを口に出す前に、彼女はあきれたように首を横に振った。
――何も知らないのね。ま、しょうがないか。
とでも言いたげだ。
「そこから行けるのはニューカマーの居住区まで――。私の住むオールドカマーの街に行くには貨物コンテナリフトじゃないと駄目なのよ」
「えっ、地下鉄はそこから順に深い所に行けるんじゃないの? 来たばかりの時に移民局の人にそう説明されたけど」
「それはタテマエの話。私が小さかった時に封鎖されたから、私は1回しか乗ったことがない」声に憎々しさがにじんでくる。さっきまで醸し出していたほのぼのはどこへやら、エレーナは不機嫌になってしまった。
「そうだ。そんなにあのエリアを歩きたいなら、徒歩でならいけるけど? ――私がキレた時に止められる自信が、あなたにある?」
「脅かさないでよ……。ほら、貨物コンテナリフトでしょ。行こう、行こう」
ぼくは椅子の上に置いておいた荷物――汚れたり破れたりしそうにない丈夫な作業着など――を担いだ。
歩み出した途端、エレーナは切れかけた。同時にぼくは、火星当局の仕事に不安をおぼえた。
最寄りのライトレール駅に来てみると、緑豊かで清潔なバイオームには似つかわしくない連中がズラズラと立っていた。彼らは炭酸飲料の容器みたいな身体を、黒いうずまき模様がストーンヘンジみたいに並んだ、真っ白くて不気味なレインコートのような防護服で隠して、深々とかぶったつば広の帽子からは目の細かい網がだらりと下がって中を覗けないようにしている。まるで養蜂家みたいだ。そんな彼らはまばらにしかいない利用客に、本物のコーヒーと同じくらい高級品の、パルプ製のビラを何枚も押し付けている。
初めのうちぼくらは遠巻きに様子をうかがっていたが、エレーナは不意に、着ていたポンチョを脱ぎ出した。彼女はその下に、ボタンのいっぱいついた薄手のジャンパーに、擦り切れのないジーンズを履いていた。大きな胸がなかったら、どうみてもオトコノコだった。ポンチョをぼくに投げて寄こす。
「な、なにするつもり? 助走つけて殴りとばすとか?」土のような甘い匂いがする。
「そんなことするわけないでしょ? それじゃあ同じ穴の『豚』よ。――子供だっているんだし」
言われてみると確かに、幼児用の防護服を着た、子供が混じっている。山の神のいけにえにされたミイラが歩いているみたいで、顔は見えないが、ポカンと広い天井を眺めているようだ。
エレーナがこの服を身につけていると、一目でオールドカマーだとばれる。さっさと通り過ぎる方が吉、ということだ。
路面から一段上に盛られたプラットホームに上がる。すかさず真っ白な連中が三人、ビラの束を抱え、大儀そうに近寄って来た。つばの裏側には「DIASPORA !」――棄民――と書かれている。
エレーナはぼくの影に隠れたため、この「ブタ」と、否応なく対峙する羽目になってしまった。「ブタ」はぼくの黒い両目を見て、あからさまにたじろいだ。そしてモゾモゾと身体を揺すりながら、ひそひそと話している。……聞かせるつもりか、舌打ちの音が堂々と響く。
「すいませんが、ご用がないなら通してくれませんか?」
なるべく友好的に声を掛け、横を抜けようとするが、まるでヒミコの口調を写したようになってしまった。さらに面倒くさいことに、エレーナがこいつらに捕まる。
「ちょっと、後ろのあなたは人間よね。ちょっと、これ、読んどきなさいよ。ひどい話よ」
ズイと迫り、紙の束を押し付ける。ヒトにものを頼む態度ではない。エレーナはポンとそれを押し返す。興奮すると彼らの頭と胴のつなぎ目から、カッポンカッポンと空気が噴き出す。それが猛烈に臭く、直接ふりかかっているわけでもないのに、鼻が曲がりそうだ。
「わたしたち、急いでるんで、関わらないでもらえます?」
オンナというのは、こんな風に声色を変えられるんだな。でも、炎で炙るような苛立ちが、全然隠し切れていない。
「なに言ってんの、これは大ニュースなのよ。大陰謀なのよ」
「や、ですから――」
「この星の当局はね、宇宙からやって来た超兵器を発見してね、それの性能チェックに私たち難民を実験台にしようとしているのよ。あそこにある大学、見えるでしょう。あそこにもう運び込まれてるって話よ」
ぎょっとして、その手を引っ込める。ビラにはばっちり、『スポンジ』の写真が載っていた。……だれかが機密を漏洩させたんだ!
「これには放射能と宇宙生物の胞子が詰まっているらしいのよ。それがこんな風にヒダヒダになって、キノコの傘みたいにそれを振りまくの。それで私たち厄介者を根絶やしにするつもりなのよ」
「く、くだらない」
くだらないと言ったのは本心だが、同時に「アレ」の情報があっけなく漏洩していることに動揺していた。
「『くだらない』とはなによ! 私たちはこんなに真剣なのに! あなた、こんなところをふらついているってことはコゥムインなんでしょ! どうして私たちの気持ちをくみ取ってくれないのよ! 卑怯よ!」こんなところとは、バイオームのことだ。
そしてさっきの子供を引っ張り、ぼくらの前に突き出す。
「あなたには見えないの? この子の明るい未来が、危険な宇宙の物質で失われていく様を……」
子供はふえーんと泣き出してしまい、帰りたいとぐずった。持ち上げた親? は、あなたのためだからと前後に揺さぶる。
「まあまあ。その子を降ろしてあげたらいかがですか?」
「機械は引っ込んでなさい!」
「彼は人間です! いい加減にしろ!」
防護服人間の一人――こっちは男だった――が、彼女の発音に耳聡く反応した。彼女の言葉は、若干ピジン英語風味だった。
「お前、『火星人』だな! その肌の色も!」
「そうよ。それが何?」
「おれのガキが、貴様らのつくった食い物を食べて腹を壊した。おれたちを追い出そうとこの星のバイ菌を混ぜ込んだんだ。そうだろ!」
「そんなの、腐る前に食べなかったせいでしょ。私たちの知ったことじゃないわ」
「ふざけんな!」
男は彼女を押し倒そうとするが、女がそれを慌てて止める。
「こいつ、多分インディアンよ。きっとコカインでおかしくなってるんだわ。あんまり刺激すると刺されちゃうかも」
そうか、道理で話が通じないのか――。そんなたわごとをいいながら、彼らは去っていく。エレーナは悔しさまぎれに持っていたあのビラをぶちまける。そんなときにライトレールがホームに到着したため、ヒトの飛び込みかと勘違いした車両のAIが急ブレーキをかけた。
それを見てのぼっていた血も冷める。車両は再び動き出して、所定の位置に停まった。幸いなことに、乗客はぼくら以外にはいなかった。
ドアが閉まる間際、またあの男が「腐れ火星人め」と、ぼくらを堂々と嘲罵した。くすくすと他の奴らの中傷が挟まれる。
「……ポンチョ、ありがとう。返して」
「あ、うん」
彼女は手渡されたポンチョに、思い切り顔をうずめてしまった。
「偉いよ。言い返したのはともかく、殴りかからなかっただけでも及第点モノだよ」
彼女は何も言わない。車両の中はあのチラシが散らばっている。次の駅のまん前でも、あいつらとおんなじ防護服を着た連中が、おんなじように「スポンジ」に関するあのビラを持っていて、乗客かと認識されて開いた乗降口に、わめきながらパアッとそれを投げ込み、さらには車体にべたべたと貼ってデコレーションしていくので、その度に所領が止まる。ひたすらこれを繰り返して、バイオーム中にデマを広げようという魂胆らしい。――彼女は顔をかくしたまま、足にかかった一枚を思いっきり蹴飛ばした。
「とりあえず、バルダージ博士に、情報が漏れてるてことと、民間の通信サービスは使わないでって報せないと……」
エレーナは嗚咽をもらしながらも、それについてようやく頷いた。ぼくは、やっぱり宇宙港勤務に戻してもらおうか、とも思った。
あの防護服野郎の正体は、自称「ディアスポラ」、蔑称「火星豚」といって、元々のバイオーム住民たち、もっと遡れば、火星博後に移住してきたニューカマーたちだ。
どんなに科学が進歩して、それに重ねて居住地域が縮小しても、地球では相変わらず地震・火山噴火・台風・水害などの天災で多くのヒトが家族や故郷を失っている。そんな難民の中には、確かに火星に移住してくる人もいる。
しかしそういう人たちのことをニューカマーとは言わない。本当の避難民は移民局の斡旋でオールドカマーの地下租界に就労して、そのまま溶けこんでいくからだ。ニューカマーの正体は、その大災害を安全圏から観賞していた都市部の住民、エレーナの祖先たちを拒絶した奴らの末裔だ。彼らは絶対自分たちの身体や資産が傷つかない所にいながら、――むしろその環境に身を置いていたせいで、被害妄想を膨らませていった。地球を挟んで反対側の土地で火山が噴火すれば、食べ物が重金属で汚染されたと騒ぎ、北半球で大雪害が起きればその重みで自分たちの住む大陸――アフリカでも、南アメリカでも、一緒に沈没するか、逆に隆起がおきて大地震が起きるとまで妄想を膨らませた。そんな彼らはやがて、少なくとも気象災害と地殻変動がないこの惑星に、哀れな同調者とともに「避難」してくるようになった。
彼らは名目上、「災害復興が落ち着いたら帰る」という理由で火星の大地を間借りしている立場なのだが、かつての「ディアスポラ」であったユダヤ民族や、自発的な大移動もした華僑・印橋のような、火星のコミュニティ内に活路を見出すという努力を怠った。それどころか火星を故郷と定めたオールドカマーたちを、故郷を見捨てた裏切り者として毛嫌いしたのだ。
彼らの思考には、現実に根ざしたものがまったくなかった。火星の地表に降り注ぐ宇宙線を無根拠に怖がったばかりか、地下には大昔に滅んだ火星生物の生き残りがいて、地下租界のオールドカマーたちが生産する食料はそれに汚染されていて、さらにはこんあ与太話も流布されていた。なんでもその火星生物は寄生性で、オールドカマーはそいつらに脳を乗っ取られて操られているらしい! あいにく(?)1976年のバイキング着陸以来、火星の原住生物が発見されたというニュースはないが、――彼ら曰く、闇の機関によって巧妙に隠蔽されているのだという――かれらは「感染」を恐れて自分たちの居住区から離れる時にはあんな白装束になるし、もっとすごいのはまだ見ぬ火星人たちに宣戦布告を示すため、多額の資金を投入し、行政を動かしてかの人面岩その他、建造物に見える地形をことごとく破壊してまわっている所だ。――男がエレーナに吐いた「火星人」という言葉には、「売国奴」という意味と、まさしく侵略性宇宙人という意味が同時にかかっている。
ちなみにエレーナたちオールドカマーが使う陰口「火星豚」にも二つの意味が込められている。上の二文字「火星」は、地球人のアイデンティティにしがみつく彼らにはとっては最悪の侮辱だし、「豚」は彼らの体型と生活習慣をあからさまに揶揄している。彼らはこの星で健康に暮らすための術を、まったく身につけていないどころか、生活習慣を火星色に染めることを頑なに拒み続けている。わざわざ地球から動物性タンパク資源を輸入して、彼らの清潔・安全な居住区で、美化された地球の思い出に浸りながら過ごしている。そのせいで前述の通り、彼らの肉体は分厚いラードを何ガロンも注入されたかのようになっている。水が中性子線を吸収してくれるということは知っていたが脂肪にそんな核種的性質があるということは初耳で、こんな肉体と体力では、もはや地球に帰還する旅行には耐えられないというのに、肝腎なその事実にすら、彼らは目を背けて続けている。エレーナがその体型を病的なまでに維持しようとしているのは彼らへの嫌悪感の表れで、ぼくはまさかとは思いつつも、彼女がその内自らの乳房ですら原料のため刃物で削いでしまうのではないかと、切実に心配している。
そして一番困る彼らの特徴といえば、そのすさまじい体臭だ。――彼らに入浴の習慣がないわけではない。彼らは火星人に身体を乗っ取られないよう、免疫力を高めてくれるという酵母菌風呂に毎日入浴しているらしいのだが、多分それには腐敗菌しか生息していないのだろう。防護服を着ていても、ボウフラが浮くようなドブの臭いがする。中身はもっと狂気的なことになっているだろう。それは彗星のコマよりもひどくて、彼らの生態を知った後は、なんでこんな不潔な奴らのために検疫をしてやらなきゃいけないのかと、よく徒労感に襲われたものだった。
貨物コンテナリフト。ここに来たのは初めてだが、その頭の中に描いていた印象はいい意味で裏切られた。ライトレールから降りると、そこにあった世界にキャッチコピーを与えるのなら「手づくりの世界」。貨物コンテナという名から無粋な工業地帯みたいなところを考えていたのだが、コンテナリフトの発着場は、地下から切り出した石材を積んで、見事なゴシック様式の駅舎を造っていた。手をふわっと擦れば、そのまま天地に溶けてしまいそうなほどこの星になじんでいる。
「私たちがアンダーグラウンドから締め出された時に、交換でこのコンテナリフトの運営権を獲得したの。この建物はその後造られたもの。ニューカマーたちの持ち込む文化よりもいい物を造りたくってね。……カッコいいでしょ?」
エレーナは涙の跡をほったらかしにして、白い歯を見せて笑った。彼女にとって、この場所は誇りの一部らしい。ここにまでくれば、「ああ、帰って来たんだ」と思えるからだそうだ。そう言われるとぼくもそんな気になってくる。
「駅員」は別に制服を着ているわけでもなく、暇そうに構内をふらついている。この人もオールドカマーだろう。エレーナは彼に近づいていき、次のリフトの発着時間を聞いた。――あと45分後だって。
このリフトは地球でも観られるようなリフトとちょっと違い、リフトと釣り合わせる重しの代わりに、もう一個カゴが備え付けられている。片方のリフトはコンテナ運搬用で、もう片方は鉱石や穀物を積載するバラ積み用なのだが、このコンテナ用リフトは、軌道エレベータと同じ方式を取っているという。すなわち、コンテナは軌道エレベータの客室と同じ、その日の利用状況に合わせて付け替えるものらしい。
「『駅』の裏に回ると取り換えている所を見れるよ……。それとね」自慢げに微笑む。
「どのコンテナも機密性になってて、生命維持装置と非常食も付いているから、空気が抜けた時には逃げ込めるの。地下の街にもそういうコンテナはちらばってて、いざという時のシェルターになるの」
「ははぁ。……ばら積みの方に人間は乗れないの?」
「吹きっさらしだから寒いわよ……。それに慣れてないと気圧の変化で鼓膜が破れるかも」
「お、脅かさないでよ」
「とにかくお勧めはしないわ。現地人の忠告には従っておくのがミステリとかでの鉄則よ」
「う、うん」
「じゃあもうリフトには乗っていいらしいからさ、出発まで中で待っていよう」
エレーナがそう促し、見えていた階段へ向かう。
「乗車券とかは要るの?」
「今はそういうのはないのよ。コロニーの市民はね、使う使わない関係なくにここの定期券を買わなきゃいけないの。要は共同体全体でお金を出し合って運営してるってわけ」
「じゃあぼくは?」
「安心して。キセル乗車は黙認されているから」
リフト手前まできた。なるほど確かに、隅っこでは券売機らしき機械がホコリをかぶって放置されている。
奥から流れる風はいよいよ強くなり、耳に当たってピウピウと音を立てる。その音とは別に、重低音が床・壁・天井をなめて行く。エレーナはポンチョの端を抑え、突風から身を守っていた。ここにまでくると、先ほど言われた「殺風景」がしっくりくるようになる。ここは鋼材をビシビシ張り巡らせ、リフトを上下させる動力や、空調のうなりで胸が震える。リフトの竪穴と末端の空間が、全ての環境音を増幅させているらしい。氷色した明かりがバンバン焚かれているせいで、暗い所はいっそう暗くなって、先が見えない。
「ぼさっとしてないでさ。早く乗ろうよ」
「うん」
後について行った先には、貨物列車で原油を輸送するためのコンテナが野積みされている。
「あの、これ全部、『客車』?」
「そうよー。ほら、上に乗っかっているヤツには、あそこの梯子から乗るの」
「窓ないよ?」
「駅は二つしかないし、延々真っ暗なトンネルを通るんだから、いらないでしょ?」
「……そりゃそうだ」
「それとね、あの赤いのは『荷物車』で、節電のために生命維持装置は付かないようになってるの。間違えて乗ると酸欠になるから気を付けてね。『客車』はこっちの青いヤツ」
「満室になってるかどうかはどうすればわかるの?」
「そんなこと滅多にないから、ひとつひとつ虱潰しに調べればいいんじゃあないかしら? このコンテナはバラ積みリフトとバランスを取る重りでもあるから、動力のエネルギーを節約できるよう、けっこう余計に積んであるのよ」
……外観はともかく、中は軌道エレベータのリフトにある2等室くらいはある。コンテナリフトの手前側にあるものなのに、だれも乗っていない。まだ発車の30分前だからかな。長椅子が3辺に貼りついて並べられ、デジタル表記の時計だけが上座に掛けてある。その横に、空気清浄機の吹き出し口がある。ぼくらは他に乗る人のことを考え、出入り口の左側に固まることにした。しばらくすると白人の二人組もコンテナ内に入ってきた。
「……そろそろね。ほら、サイレンの音、聞こえない?」
……確かに壁越しにファンファンという音が伝わってくる。丁寧な女性のアナウンスではない点が元貨物専用リフトらしい。
「動き出すのかい?」
「うん、動く時はそんなに注意しなくてもいいけど、止まる時はすごいから注意して」
「すごい?」
確かに発車した時の加速度は普通のエレベータと同じだったが、7分後にきた衝撃は
「ズドン」
だった。全員が危うく転がりかける。
「まだ出ちゃダメよ……。ちょっと待ってて」そう言った直後、外からバラバラバラバラ……という音がする。
「よっし行こうか」
「な、なに今の音」
「上に行ったバラ積みリフトを傾けて鉱石をのかしてるんだけど、その内何個かがここまで転げてくるのよ。……ぶつかったら命に関わるよ」
「ひええ」
「大丈夫。大きいものは落ちてこないから。……たまにしか」
「『港』よか物騒な所だな……」
宇宙空間にはもちろん宇宙塵などのスペースデブリが接近することこそあるが、そのほとんどは回収されているし、未回収の物でも百年後の軌道までハッキリしている。だから、それを怖がったことは一度もない。
ここでも向かい風が吹く。しかし地表の「駅」よりも少しだけ暖かい。――人間の気配だ!
地表にあったものと瓜二つの駅舎を出ると、はたしてそこに大空間があった。駅前にはロータリーというよりは円形のコロッセオに例えた方がピッタリな空間があり、床には線路が埋め込まれている。
「昔はここまでアンダーグラウンドが通ってたらしいんだけど」エレーナはそう説明する。
「今はもっぱらトロッコがここを走っている。……ほら」
指さした先では二股の線路が交わり、シャッターの奥へ伸びて行く。
「あっちにあるのがバラ積みリフトの、つまり貨物駅――。農産物とか、鉱石、ゴミとか、固形物はトロッコで運んで、最後にまとめて、全部あれで送るのよ」
「貨物ターミナルってことか。……その割にはずいぶん静かな場所だなあ」
「さっきリフトがあがっていったばかりだから、こんなものよ。……軌道エレベータができるまで、ここが火星の玄関口だったんだよ。全部死んだおじいちゃんから聞かされた話だけど、この駅舎には元々移民局が入っていたんだって。ほら、地面を見て」
よくみると、ロータリーの中央には蘭の花をあしらった紋章があり、交通標記をしるしたものかとおもった白い文字は、
【ようこそ火星へ!】
だった。
「駅舎」からまっすぐ進んだ先には、岩盤をV字にくり抜いて造った街があった。両脇にある商店? も、塗料を塗って質感を変えて入るが、岩を彫って造ったもので、それが5階分の高さまで伸びている。窓からはオレンジの光が、チロチロと漏れている。
「ちょっと暗いな」
「天井にライトを点けて昼間を再現するなんて不経済なことはしないからね。街頭の明かりで十分よ」
なるほど、たしかに住んでいる人たちは暗がりなど気にせず、トロッコの線路で二等分された道路をのんびり散歩している。まあ、この星に届く太陽光そのものがささやかなモノだからな。
「で、ここからどこにいくんだい?」
「そりゃあもちろん、私たちのファミリアのところよ」
ぼくは地面をまた見る。「このトロッコも、そこまで?」
「ええ、続いている」
「じゃあこれをたどっていけば、地下のどこでもいけるんだね」
……あれ、なにか可笑しなこといったかな。彼女は微妙な顔をしている。
「理屈の上だとそうだし、いざ道に迷った時は線路を頼りにするけど、多分それ、すさまじく遠回りよ」
「じゃあ、どうやって?」
「ま、とりあえず付いてきて。私たちはもっぱら近道を使ってるんだけど、ウカウカしてると迷っちゃう。違法なアンテナがいっぱい立ってるせいで電波がひどいから、迷子になっても助けに行けないからね?」
――ジャンプとか、平気? 火星流の移動だけど、息切れしないでね。とエレーナは言い、並んでいた商店? の一つに入って行った。……そこは空き家だった。その奥には小さな扉があって、【気圧分散エリア】という危なげな言葉がペンキされていた。そこをくぐると縦に切ったチューブが、小腸のようにどこまでも波打っている。ああ、めまいがしそうだ。
……ぼくらは空気が抜けた時のための障壁を三つ飛び越え、レールを何路線か跳び越えた。地下世界はスズメバチの巣だ。大伽藍なんていう無駄なスペースはない。すべての区画が適切な高さで輪切りにされているが、ところどころ全ての層をバッサリ切って剥き出しにしたエリアがあり、そこを飛びあがる。ぼくが力んで踏みしめたところは、床なのか、屋根なのか、壁なのか。
前を行く彼女は別に走っているわけじゃあない。ただ階層の間隙でも建築が複雑に波打っているのだ。与えられた容積で、最大限の占有率を得ようというわけか。まるでかつての香港にあった九龍城砦や、現在出現している小倉城砦のように混沌としている。
「すごい所でしょー? 入植が始まったばかりの時はもっとすっきりしてて、道案内サービスっていう商売があったらしいんだけど――」エレーナはまた空き家の窓に足をかけながら振り向く。「その内どんどん膨張していって、更新にコストがかかって、そのくせあんまり儲からないから廃業しちゃった。……聞いてる?」
「う、うん」
「それでね、私が帰ってきた時にもあっちこっち変わってて、今でも兄貴がいなかったら間違いなく迷うのよ。……これでも一番合理的に街が生み出されてるらしいけど」
彼女は、――いいや、彼女たちはこの地下世界の不便さがいとおしくて仕方がないらしい。
一方のぼくはそれどころじゃない。彼女の気持ちをムゲにはできないが……。脚が疲れたわけじゃなくて、本当にめまいをしているのだ。
「……ジュンペイ、大丈夫? 頬が暗いよ?」
「う、うん」
「ここまでくれば見覚えがある――。もうちょっとだから」
細い路地を横歩きすると、蘭の絵が描かれた壁に付いた扉があった。色はわからない。
その扉を抜けると、立派なお屋敷の内観だった。
「ホラ、着いた! もう歩かなくていいから――」
今のぼくには、エレーナの言葉が一番有難い。もう頭の中はフロフロ。大昔の未熟でサイケデリックな頃のCGを見て酔ったみたいだ。……実際、ぼくはベロベロに酔っていた。
「チャイナ・ボックスのバグみたいなものなんだっけ? ……電源切った方がいいかな?」彼女はぼくを部屋の隅っこに連れて行き、壁にもたれ掛けさせた。
「いや、パニックの時に強制終了すると、中を壊すかもしれないから、やめて……」
「ふーん、そこんところは家電と同じなのね」
せめてもうちょっと上等なものに例えて欲しかった。
慣れない土地に来て、あちこち移動させられると、ストレスでこんな風になる。どんなに高性能になろうが、身体にとってチャイナ・ボックスは人工関節のような異物にすぎない。だから体調が悪いと情報の送受信が上手くいかず、記憶による関連付けが効かない場所だと混乱に歯止めがかからない。
どうやらまわりにエレーナの家族が集まってきたようだ。なにやらザワザワとしゃべっている。ぼくは健常者が瞼を閉じるように、陶器に送る視覚情報を絞っていたから人数はわからない。
「オイオイ、大丈夫か?」男性の声が聞こえる。英語で話しているので、他のざわめきと違って、容易に聞き取れた。
「彼にはお茶をあげようか。……飲めばきっと落ち着くよ」
「ジュンペイはカフェインとか、刺激物一切だめなのよ。だから飲むと……、ええと、ぶり返してひどいんだっけ。なにかが」
「『共感覚』ね。……できれば味のない水をお願いします。あと、3分だけでいいから、静かにしてくれって、伝えて」
色と音と味、におい、それらのシャワーでバッド・トリップをしていた。こんな風になったのは1年ぶりで、やっぱり昨日はさっさと寝付くべきだったな。……スウッと深呼吸すると、茶色く濁っていた五感がようやく分離した。
「もう平気っぽいです」
「でも、ほら、お水……」
エレーナは彼女より少し背の低い中年女性からコップを渡され、座り込むぼくに渡してくれた。水というよりぬるま湯だったが、これが礼儀なのかもしれない。
「ありがとうございました。もう平気です。すいません、お邪魔するなり見苦しい姿をみせてしまって……」
エレーナは横にいるあの夫人に通訳する。
「『気にしないでください』だって。――こっちは私の母さん。英語は出来ないの」
ぼくは会釈する。
「『家族の紹介をしたいから食事はいかがですか』って言ってるんだけど、やっぱり休んだ方がいいんじゃない?」
「いや、ホント大丈夫だから……。ただ早めに寝させてくれればありがたいんだけれど」口元で愛想笑いをする。――通じたかどうかは知らない。
その後ぼくはエレーナとその家族からの強い奨めで、しばらく与えられた部屋で引きこもっていることにした。スター・ウォーズのエピソードⅳに出てきた、ルークの家の一室みたいだ。壁は「駅舎」と同じ、くどくない白色の塗料で塗られ、オレンジ色の照明が、熱なんて帯びてないのに温かい。窓のようにくり抜かれた棚には、観葉植物が置かれている。ぼくは夢見が悪くならないよう、陶器をつけたままベッドに倒れ込み、そのまま眠ってしまった。
そのまま何時間眠っていたのだろうか。ドアをたたく音で飛び起きた。
「気分はどう? ……開けても平気?」エレーナの声だ。
「この部屋借りてからそのまま寝ちゃったから、大丈夫だよ。どうぞ」
彼女は少しだけ戸をあけて、中を覗いた。「もうすぐ食事だから、呼びに来たの。……ホントにもういいの?」
「うん、……何か手伝えることない? ぼく、遊びに来たわけじゃないんだからさ」
「今日一日くらいはゆっくりしてて……。その代わりに明日からはバリバリ働いてもらうから。覚悟しててよ」
そのままドアを開けっぱなしにして、ぼくもそこから出て行く。
彼女の家族は既にテーブルの席に着いていた。ぼくにあてがわれた部屋も含め、この家にある家財はすべて、この住居と同じく岩盤をくりぬいたものだ! ――ぼくはエレーナの右横に座らされた。
目の前には基本紅白の料理が並んで、湯気を立てている。鱒らしき白身魚。イモの山。トマトと葉菜を煮込んだもの。そのほか、色々。
「左ッ側にいるのが私の父と母。右にいるのが、兄貴のディエゴに、その奥さんのアンドレアさん。左奥にいるのが弟のペドロ」
ディエゴさんはものすごいガタイをしていた。座高だけでも身長は2mに届いているとわかる。この星でも滅多にお目にかかれない巨人だ。それが糊の効いたワイシャツを丁寧に羽織っている。ぼくのことを客人として歓迎しているのだった。
「パパとママは違うけど、兄貴とアンさんは英語も話せるから、私がいない時は二人に質問してね」
「はあ、どーも……」そう言うと、ディエゴさんはぼくをジロリと見た。……そして一転、エレーナと同じくらい綺麗な歯を見せてニカッと笑う。
「ほー、ハポネスは本当に、いざ言葉に詰まった時には『ドーモ』って言うんだな」
「えっ」
「そうなの。仕事で初めて一緒になった時も、コイツずっと『ドーモ、ドーモ』って言ってたんだから」
「そんなはずないだろう」
「まあ、そんなにヤワそうな男じゃなくてよかった。君ならウチでもまあまあ働けるだろう」
「そりゃそうよ。私がビシビシ鍛えたんだから」
「まさか自分ちが忙しい時の補欠要員にしたくてぼくに筋トレさせてたんじゃないだろうね」
この一言で巨人はコントラバスみたいに笑う。「アハハ、鍛えた割に、さっきは中々のヘロヘロ具合だったぞ。……まあ、仕方ないか」
とにかく、ディエゴさんは体格とは違い、決して粗野でおっかない人物ではないらしい。
「アンさん」こと、ディエゴさんの奥さんのアンドレアさんは白人だった。身重で、お腹を庇うように腕を添えている。
最後にに紹介されたペドロも、ディエゴさんと同じくらいの頭身がある。こっちを見てくれないので、誰に似た顔をしているのか把握できない。頬杖をついて、終始不機嫌そうにしている。ご両親は年相応に恰幅がいいが、子供たちほど立派な体格ではなかった。若いころより縮んでいるのだろうか。
「兄弟は男ばかりなんだね」
「ほんとはいっちばん上に姉がいるんだけど、十年前に嫁いでいっちゃって、遠い区画に住んでるの」
元々は火星の移民も、自分の所属する人種・民族間で結婚をしていたが、アンダーグラウンドが閉鎖されるようになって以来、そういう垣根を超え、自主的に「人種のるつぼ」の社会を目指し出しているらしい。エレーナのお姉さんが嫁いだのはポリネシア系の人が住むエリアで、アンドレアさんはルーマニア人らしい。
一家の公用語はもっぱらスペイン語だった。エレーナを介してタルニンテ夫妻は「おいしいかい?」「全部うちのファームで取れたもんだ」と話しかけてきた。ぼくは感じたとおり、「おいしいです」と返事をした。料理は塩味が基調だったが、食材の味が良くわかる。バイオームに送られているまでに、結構鮮度は落ちていたんだなあ。
そんな風に、エレーナは家族との話を逐一通訳する。ぼくはそのせいで、彼女の食事の手がなかなか進まないことが不便で仕方がない。ディエゴさんも横にいる奥さんに通訳をしているせいであまりナイフが動いていない。この家族には、世話焼きの血が流れているようだ。
その家族の内で、いままでむっつりと手を動かし、料理を口に放り込んでいた奥の青年――ペドロが、身を乗り出してエレーナになにか訴えて来た。ぼくの方を、不愉快そうに一瞥しながら。
「……ねえ」
「ん?」
「ペドロがね、『どうもアンタにずっと見られているような気がする』って言いだしたんだけど……」
まさか。そんなことするわけないだろう。
「きっとこの眼のせいじゃないかな。……眼球全部が瞳のようなものだから、どこ向いてるのか、ときたま、他人からはわからなくなるんだよ。でもそっぽを向いてるって勘違いされたことはあるけど、ジロジロみられていると思われたのは初めてだ」
彼女はペドロに「見てないってさ」といってくれたが、まだごちゃごちゃと二人で何か言い合っている。……次第に食卓を囲っていた他の四人も、口数が少なくなり、眉をひそめ始めた。
「……ペドロは何て言ってるの?」
「え」
エレーナはしばらく言うべきかどうか考えていたが、
「あなたがソワソワと頭を揺らしているのがうっとおしいって……」
「これは目が見えなかったときの癖さ。治ってたつもりなんだけど、なんでまたぶり返したのかな……。気を付けるよ」
それで話は済むかと思いきや、ペドロはまだ何か不平不満を言っている。……ついにエレーナの父が一喝した。ペドロは引き下がらない。ついにこの一家が大喧嘩を始めた。食器が品もなくザワザワと鳴る。何を言っているかわからないが、火種は間違いなくぼくだ。
「……セルド! ……セルド!」
ペドロは繰り返しこの単語を吐き、その度家族は彼を責める。間抜けなことに、ぼくはその様子をキョトンと見ているしかない。
「……ジュンペイ、ちょっといい? 私と席をはずそう」
これはイイコトへの誘いではなくて、ぼくを避難させようということだった。大人しく彼女について行く。
部屋から出た途端に、ドスンドスンという音が廊下にまで響く。アンドレアさんの甲高い悲鳴もする――。歯がゆい気分だ。
彼女に連れられてた部屋には、真水がなみなみ貯められていた。童話にある「魔法使いの弟子」だ。
「ここは貯水槽でもあって、魚の養殖槽でもあるの。あなたが食べた魚も、ここで太らせたのよ」そう言ってエレーナが青い照明を一つ付けると、そこにフワーッと魚が集まってきた。彼女はしゃがんでそれを見つめつつ、話し始める。
「ペドロはね、生まれてこのかた、この地下租界から出たことがないのよ。だから地球から来た人はみんな『火星豚』だと思ってるの。……私も就職するまで似たようなものだったけど」
「『セルド』っていうのは、やっぱり『ブタ』って意味なのかい?」
「やっぱりわかっちゃうよね」
彼女は振り向いて、藍色のくたびれた笑いをした。餌がもらえないとわかり、魚たちは湖底へ帰っていく。
「今でも上の新租界に住んでいる防護服野郎は嫌い。これは多分、一生治せないと思う」
「……」
「でもさ。私もいい大人だし、ペドロももう成人に片足突っ込んでるんだから、いい加減分別というものを覚えて欲しいのよ」
「わかる」
「ジュンペイ、あなた、自分のことを『弱いもの』だとおもったことはある?」
「そうだなあ、陶器のおかげで色々と楽しい思いができてるから、そうは思ったことはないかな……。でも『マイノリティ』だとは思う」
「……」
「エレーナ、今までぼくらニューカマーを家に招待したことは?」
「前に組合全体で視察会っていうのがあって、その時に一度だけ。でもこんなに大切にもてなしたのはあなたが初めてよ」
「そりゃあぼくには『ハンディ』があるから、同情がある分反感を買いにくいっていうのはわかるけど……」
「ごめんなさい、弟を躾けようなんて下心で、あなたの休暇を台無しにして。それにペドロには私の企てなんて通用しなかった」彼女は両手で前髪をくしゃつかせる。「それであなたにあんなにひどい言葉を、何度も、何度も――」
「……ペドロが何を言ってたのかはわからないし、知りたいともおもわないけど」ちょっと気どって背伸びする。彼女はそれを見ていないけれど、気持ちだ。
「その分明日からバリバリ働いて、ペドロの奴を見返してやるさ。地球人だって、働き者はいるのさ」
それを聞いて彼女は顔を上げた。はにかんでいるけど、涙の跡が、水に跳ねた光で浮かぶ。
「ところで、もうアッチは収まったかな。……ぼく、まだ食べた気がしないんだよね」
「あんなに弱ってたのに、よく食べれるわねえ」
疲れているから食べるのさ。……彼女は涙をぬぐって立ち上がった。
さんざん騒いだ割に食膳はほとんど無事で、エレーナのお母さんはいくつかを温め直してくれた。エレーナと二人で、それを黙々と食べる。ペドロは結局引き下がらず、ふてくされて外へ飛び出してしまったらしい。
3
……朝が来たのかよくわからないのは、宇宙も地中もおんなじだ。だからぼくはタルニンテ一家に遅れを取ることなく、スッと起床することができた。
エレーナの両親は仲良く教会の朝のミサに行った。家のことのほとんどはディエゴさんの夫妻にまかせて、もう隠居のつもりなんだそうだ。昨日の夜から、ペドロは帰ってきていないらしい。
「どこにいったんでしょうね」
「きっと悪いダチのところだ……。『赤い青年団』って知ってるか?」
「ニュースで何度か聞いたことがあります。たしかこの星のファシスト団体じゃあなかったですか。新租界にしょっちゅう襲撃事件を起こしてるっていう……」
「中身はただのカラーギャングだ。小さな派閥をつくって、どれだけニューカマーをビビらせたかを競い合っている連中さ。思想信条なんてない、タチの悪い連中だ。どうもあいつ、そいつらの金魚のフンに成り下がっているらしい」
「心配ですね」
ま、そう遠くまでは行ってないだろうから、気にするな。とディエゴさんは言う。
「おれがアンを家族に紹介した時にもあんな感じだったからな。『チンガーダ!』なんて言いやがってさ」
「チンガーダ?」
「『野蛮人』くらいの意味さ。……アンだって火星生まれなのにな」
まずぼくは、謎であったジャガイモ栽培の現場で働かされた。あまり人前では着ないぶかぶかのTシャツに、真新しい軍手、陶器の位置を横っ腹から背中にずらし、頭に真っ白いタオル。まさしく「農業のお手伝い」という意気込みだが、肝腎の農場は植物工場で、ひっそりとすること、まるで博物館の保管庫みたいだった。冷気で満たされた環境も、少し似ている。赤い光を浴びているジャガイモは深さ50㎝くらいの水槽に植えられていて、地上部も含めて1mくらいだろうか。それが地球の立体駐車場みたいに二段重ねにされている。下段の一枚をタンスの方式で引き出すと黒いマルチが葺いてある。それをめくると土の代わりに半透明の、タピオカをすりつぶしたようなものが満たされて、ジャガイモはそれに地下茎を伸ばしている。
「人工土壌だ――。値段は張るが、扱いが簡単なんだよ。洗えば何度も使えるし」ディエゴさんが説明する。
「で、ぼくのするべきことはなんですか? 収穫ですか?」
「いや、収穫は楽さ。――ほら、そっち側の取っ手を持っていてくれ。この惑星でも結構重いぞ!」
せいの! で棚をゴロゴロ横へ引っこ抜く。確かに一瞬驚く重さだ。めいっぱいに引っ張って、かぶさっているマルチをはがす。ディエゴさんはかがんで、棚の横についたパネルの、【LIGHT】の隣、【Vibration】のスイッチを押す。ヴームと底がうなり出したのを確かめると、ホースから水を注いでいく。
「そこの、もう一つの取っ手を握っていてくれ。……そう、それさ」
ステンレスのパイプで出来たそれを握ると、ピリピリと高周波が伝わってくる。パイプはタピオカ・スープの中にまで沈んでいて、水層の中でどうなっているのやら、見当がつかない。少なくともディエゴさんの方にまで伸びていることはわかる。
「よし、また『せいの』でいくぞ! 上だ!」
ざばんと持ち上げると、人工土壌の泥はサラダ油のように何の抵抗も見せず、苗の根を一斉に解き放った。取っ手の先は、目の荒い網になっていて、穴のひとつひとつが、ちょうどジャガイモの地上部と地下茎の部分を、ぎゅっと押さえつけている。標本のように、根の一本も傷つけることなしでの収穫だ。網の下にはおなじみのイモが鈴なりで付いている!
「すごいですね……」
「君はそのまま後ろへ下がって。あ、ちょっとだけ振り向いてくれ。……そこにこれを押し込むぞ」
壁にはベーカリーの窯みたいな溝があって、こちらも奥からウィンウィンと機械音がするが、奥が見えない。
「中はベルトコンベアーだ。これを押し込むと洗浄、分別、全て自動でやってくれる」
「茎や葉っぱはどうなるんですか?」
「生ゴミと同じくカッターで粉々にされて、家畜の餌か、バイオマス発電に使われる。……そこんところの用途はこのアシエンダ(大農場)の協同組合の生産計画で決めてある」
「作付けのスケジュールも、そこで決めるんですか?」
「ああ、地球と違って最小限の資源しかないから、なんでもみんなで融通し合わないとな」
ちょっと浮かせながら、奥に入れるんだ。「ガチャ」って言うまで――。アミは全部ここにまとめて出てくるから。最後に棚を引っ込めて、明かりを殺菌ランプに切り替えて一手順は終わり。――なんだ、簡単じゃないか。この調子でジャンジャンいくぞ。……手分けをして、二人がかりでこの収穫作業を進めて行く。そして40分かけて全てのジャガイモをベルトコンベアーに載せた。結構きつかったが、地球の零細農業よりは多分、ずっと楽チンだ。
「君は中々スジがいいな。さ、これでジャガイモの収穫は、一人で出来るな?」
「えっ、この部屋だけじゃないんですか?」
「まさか。……ほら、あの扉、みえるだろ」
……あそこは納屋じゃあなかったのか。開けてみると今までの部屋の数十倍はある空間があり、今までの栽培棚が、さらに延々と並んでいる。間隔が密すぎて、迷路みたいだ。
「あの部屋は、ここに住み着いたばかりの先祖がその日暮らしの食料をつくるための部屋さ。……でも軌道エレベータができて、地球から中古の安い資材を輸入できるようになったから、曾爺さんの代からイッキに増築したわけ」
ディエゴさんは壁を順々に指し示して、追加の説明をしていく。
「水はここから出して、ベルトコンベアーの口はここだ。節水を心がけてくれ。……じゃあ」
「え、どこに行くんですか?」
「これからカミさんを医者のところに送りにいくんだ。……何かあったらエレーナに聞けばいい。大丈夫、ここの電波は良く通るから。終わったら次の仕事もあいつに聞いてくれ」
そう言ってディエゴさんはのっしのっしと、ぼくを置いてさっきの戸から去って行った。
――つべこべ言う気もなくまた働き出すが、これはいよいよ難儀だぞ。確かにここの農作業は低重力のに加えてほぼ自動化・簡素化されていて、実のところ肉体的にはキツくない。しかしその分、退屈なのだ。今のぼくは、たった独りでT型フォードを造っているかのよう。そうだ、エレーナと電話していれば、気が紛れていいんじゃないか? ……やめておこう。話しこんでいて手が止まるといけないし、陶器の電池切れは怖い。なにより、彼女の仕事を邪魔したくないじゃあないか。
辛うじて根気を保ち、手と腰を動かす。……2時間くらいかかってようやく半分が終わった。ちょっとは乱暴に扱っていても平気か? と思いつき、作業効率を上げる。残りの半分はさらに短く90分で終わった。
一息つく前に、ちょうど誰かさんから電話。
「やっほ」
「あ、エレーナ? ……こっち、今終わったところだけれど」
「え、もう?」
やっぱりただの地球人じゃあなかった。見込んだ甲斐があったと、彼女は儀礼的なお世辞を言う。
「次は何すればいいの?」
「とりあえず一休みしようよ。……パパとママも帰ってきたし」
もう一度会った彼女は、シャワーを浴びた後で、神をびしょびしょにしていた。
「今までずっとブロイラーの掃除してたのよ。……あなたにお返しにからかわれるのもシャクだし」
エレーナのお母さんはトウモロコシの粉でつくった生地に、昨日出された魚を大和煮みたいにしたサンドイッチにしたものをつくってくれた。
「これもボリビア料理?」
「さあ、どうだか。今時軽食に国籍を求めるのは酷なんじゃないかしら」
で、午後からはこれの原料のトウモロコシの収穫を手伝ってもらうから。……こっちは機械は使えないし、丈がすさまじいから、しんどいわよ。エレーナはぼくを脅してみせるが、どうやら彼女がしていた仕事の方がきつかったようだ。目つきが起きたばかりのようにショボショボしている。
しかし彼女がしっかり休む間もなく、そしてぼくが大きな火星のトウモロコシを仰ぐこともなかった。漆喰風の壁の一部が、パッと光る。そして地下の入植地の地図と、バイオームの官庁街をバックにしたスタジオの緊急放送が投影された。
「あ、空気の漏洩警報だ」
火星に1気圧の空気があるのは、もちろんコロニ―内だけで、そこから一歩外に出れば、無慈悲な真空の世界しかない。この世界にガスを放っても、地磁気がない以上全てを太陽風がはぎ取っていってしまう。
一方で、深海の数百気圧から1気圧を守ることに比べて、0気圧から1気圧を守ることはたやすい。だから人類は――特にこの星の方程式に疎い人々は気安く地下空間を広げ、そして時たま地表に穴をあける。そんな事故をコロニー内に設置された気圧計が感知し、通信ネットワークを経由し、火星当局のホスト・コンピュータ(旧式のノイマン型)が被害範囲を予測して各地に設けられた隔壁を閉じ、住民には開拓機構の運営するこのTV放送、それからメール・サービスを介して避難を促す。ぼくはずっと宇宙港の勤務だったが、帰宅するたびに一度はこの放送を見た。
しかし、今回の放送は、明らかにおかしい。原稿をアナウンサー――表情から推測するに、彼女はロボットだ――は、警戒区画にいる住民は、たとえ一重二重の障壁に遮られているからといって警戒を怠らず、必ずシェルターに避難するよう、そして注意区画にいる住民も、なるべく入植地のフチに避難するようにと呼び掛けていた。しかし何が起きたのか、彼女は一向に伝えてくれない。
「なんで端っこに避難するのよ――?」
エレーナが首をかしげるのも当然だ。空気の漏洩事故が起きるのは、新租界の縁、バイオームの蓋からもはみ出た部分だ。本当はバイオームの真下以外に居住区を広げてはいけないのだが、新租界を支配するニューカマーは、地下深くには「囚人の子孫」が巣食っている上、火星の病原菌が蔓延っているという妄想に取りつかれているため、それを平気で無視する。ちなみに「囚人の子孫」というのはエレーナ達オールドカマーのことで、ニューカマーたちは、かつてこの惑星は凶悪犯の流刑地だったという偽史まで生み出していた。それはともかく――
「この避難指示されている地区、どう見てもコロニーのど真ん中を貫いているよね」
「うん、まっすぐ真下に伸びてる」
回転するコロニーの地図。赤と黄色で色分けされた警戒区域と、緑で表示された、既に降ろされている隔壁は、コロニーをほぼど真ん中に貫くチューブ状の軌跡を描いていた。ここはひとつの大きな密室だ。空気が漏れ出す余地なんて、どこにもないはずだのに。
「何かが地下に向かって、こう、まっすぐ突っ込んでいってるみたいね。掘削機か、マイクロブラックホールみたいな奴が……」
エレーナそう言い含んだ時、ぼくらは三文芝居みたいに顔を見合わせた。
「ジュンペイ、私地表の地理はあんまり詳しくないの」
「うん、知ってる」
「――で、この隔壁で遮られたところを結んだ一直線のルート。これの地表に出た部分には、何があるの?」
「あそこにあるのは間違いなく、ザナドゥ大学だな」
やっぱり、という返事を待たず、ぼくら二人は通話をピリリと受信した。
「も、もしもし?」
「よかった、こんなときでもちゃんと通信網は無事だった……」バルダージ博士だった。
「二人とも、今どこに居るの」複数の人で話せるチャットコールでの会話だ。
「私は実家に居ます。ジュンペイも一緒です」
「そこは避難を指示されているところ?」
「いいえ、違うと思います」
「博士、一体何があったんですか? あの、えっと、『スポンジ』でしたか? に、なにかあったんですか?」
「まず、そこにいるのはあなたたちだけ?」
「いいえ、私の両親がいます」
「そう。じゃあ、できればあなたたちしかいないところで話したいのよ。お父さまとお母さまには、席をはずしてもらうか、二人が別室に移ってもらうか」
「お言葉ですが博士、二人は英語がわかりませんし、今、兄も義姉も、それに弟もいないんですよ? きっと不安なはずです……」
「ならご両親には他のご家族と連絡を取り合うように薦めてあげて。こっちはあんまり悠長なこと言っていられる状況じゃあなくって――」博士の声の背後で、ゴウゥゥンと機械が轟く音がする。
「博士、今どちらに?」
「今、リフトが発進したばかりよ。これから『スポンジ』を追って、あなたたちのいる地下租界の最深部を目指すの」
……追う? バルダージ博士はとにかく、エレーナの両親のいないところへ行けという。ぼくらはやむを得ず、両親に一つ二つ言葉を残して、エレーナの寝室に転がり込んだ。彼女の部屋からは豆乳を練り込んだクッキーのようなにおいがした。
「博士、一体何が――」
「まず、単刀直入に説明するわ。『1169 / XF ? 01』、通称『スポンジ』は今から十五分前に、いきなり安置されていた大学の分析室を侵食して、まわりの空気も全部吸い取りながら、この惑星の中心に向かって落ちていった。この時に大学で大爆発が起きて死者と行方不明者がたくさん出てるわ」
「もう死人が出てるんですか!?」
「そう、爆発の原因はまだわかっていない。多分物質を分解したときに莫大なエネルギーを放出しているんだとおもうけど……。とにかく『スポンジ』は今、人が歩くくらいの速さでコロニーを貫通してる。もうみんなの足元にまで潜っちゃったのかも。その道中でも大勢犠牲者を出しているでしょうね――」
「博士、私たちはどうすればいいんですか?」
「今はそこで大人しくして、離れ離れになった家族とは連絡を取り合いなさい。コロニーの通信網は住民五万人が一斉に安否確認したくらいでパンクしないから。私たち、『スポンジ』の研究チームは、機能を今から対策検討チームに切り替えて、観測に最も適した地下租界の最深部に本部をかまえます。準備ができ次第、あなたたちには来てもらうから、それまで家族を大切にしてあげてね」そう締めくくって、博士は一方的に電話を切った。
「わたし、パパとママのそばに居る。兄貴とペドロと連絡を取るように伝えなきゃ!」
いてもたってもいられず、エレーナは飛び出す。彼女の部屋で、ぼく一人だけが残された。
ふと、中耳が張るような、あの感覚がやって来た。全ての隔壁は閉まっているはずなのに、気圧が下がっている。しかしそれ以外に異常事態が起きているという実感は、湧いてこないのだった。