第1章 収容と運搬(後篇)
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この宇宙港は三つの階層に分けられている。中段にあるぼくらの仕事場は置いといて、下段にあるお釜の底には地表とを結ぶリフト駅、医療施設、カプセルホテル、それとレセプションホールがある。プラットホームの収まる穴はケーブルを軸にして6線がぐるっと並んでいる。窓はどこにもない。
ダイモスへと伸びるケーブルは、パボニス・エレベータ、そして地球とを往復する貨客船、それと火星軌道の外側へ向かう探査船を射出するためのカタパルト。その付け根にある宇宙港の上段には、乳白色の骨組みが8本、放射線状に広がっている。……まるでこの星では無用な長物である傘のようだ。この部分は宇宙港の埠頭にあたるのだが、利用しているのは貨物船や旅客船だけではない。電力を生産するためのソーラー板と放熱板、大学の研究施設、危険物の倉庫。緊急避難ポッド。その他船ではないありとあらゆるユニットがごった煮に寄生し、骨の隙間をしわくちゃにした不織布のように埋めている。無数のパネルはイソギンチャクの触手みたいに太陽めがけて傘からフワリと突き出す。二十世紀の都市計画者たちがみたら垂涎モノの景観だ。
ぼくとエレーナはその内のH埠頭の筒を、奥に吸引されるように飛んでいく。ここには遠心重力がはたらいていない。それに回避すべき貨物も客人もいない。この埠頭には業務用にしか使われていないからだ。ぼくらはおよそ500mの手放し運転を、制動速度を鎮守しつつ楽しんだ。エレーナは短く切り揃えた髪からシャンプーの臭いを撒きながらぼくの先をゆく。
閉鎖されたハッチが延々と続き、その果て、最後の2つのハッチに、ぼくらの仕事場がある。手前にあるのが回収船。総重量20トン、二人乗りの潜水艦みたいな奴だが、この図体で宇宙港のまわりの真空をハチドリのように飛べる。その50m奥、埠頭の末端にあるのが0圧分析室――。
「あ、お二人とも、お待ちしておりましたよー」
入口のところにヒミコが待っていた。瞳も口もない彼女をぼくの視覚は「ヒトガタ」だと識別してくれなかった。そのせいで彼女は壁――天井でもいい――のテスクチャと同化していたので、声が届いてやっと存在に気付いた。
エレーナは空気抵抗でスピードを落とし、手すりを掴んでヒミコの3m手前でピタリと止まれたが、鈍い頭のぼくはエレーナを追い越し、ヒミコの眼と鼻のところでようやく静止、彼女との顔面衝突はなんとか避けられた。ヒミコは別にのけぞらない。ぼくの顔が、その大きなハイ・プラスチック製の眼に映る。
お互いに、アイ・コンタクトの通じない機械仕掛けの模造品。視線で誰かとコミュニケーションできない点でぼくとヒミコはよく似ている。でも木に竹をつないだぼくに比べ、そもそもヒトとして生まれてこなかった彼女の方が、混乱を起こさないので色々と不自由しないと思う。
「だから、いちいち出迎えてくれなくていいわよ……。私たち、ただの従業員なんだからさ」
「まあまあ、これがヒトとヒトとの、当たり前の礼儀ですから」
そう言ってヒミコは分析室の中へぼくらを導く。最後にぼくが入ると扉はヒミコの操作で閉まり、ガシャッと音がした。
「え」
「船に乗る前に私からも説明させていただきたいので、ロックさせていただきました」
「別にチャチャッと話せばいいだけのことでしょ? とっとと仕事にかからないと」
「はあ、私も同感です。でも機密事項とのことなので、ご容赦下さい。すぐ終わらせていただきます」
ヒミコは自分の頬――赤い文字で「TJ - 20ET」と、「OPPORTUNITY - H」のスペルが書き込まれている――をなんとなくぬぐった。事情があるなら仕方ないが、相変わらずここは窮屈な所だ! 外から見ればテニスコートくらいはあるはずのこの部屋には、奥行きというものがない。多分上座も下座もない。しかし天地もないので、デッドスペースもないのが救いだ。椅子代わりの手すり、宙に固定された、各種アウトプット・インプット兼用のモニター、壁に備え付けられた、一度も使われていない「EMERGENCY」のパネル、それと大型スクリーンも兼ねるひろい耐弾アクリル、これが部屋を仕切っているせいで居住空間が狭まっている。想像力を働かせれば、雰囲気はまるで水族館の一角だ。
「それじゃあ早く話を進めて。トップシークレットだかなんだかは知らないけど、私たちには他にも仕事があるの」
「もちろん承知してます。それじゃあ、早速……」
ヒミコが部屋の隅にある受信機に指をさすと、全てのモニターが一斉に点灯した。「Hello!」の文字の後、24時間以内に到着する全旅客と貨物のリストが表示され、その上から5番目に、「1169 / XF - 01」の文字列があった。
「エレーナさん、ジュンさん。すいませんがどのモニターでもいいので触れて頂けませんか?」
情報を閲覧するためには、ここにいる三人の指紋認証が必要らしい。言われたとおりにすると、「認証しました」の小さなブラウザが一瞬表れ、画面が切り替わった。
「……なんだこれ」
せっかく開示された現在の情報も、煮え切らないものだった。貨物のから発せられるビーコンと、こちらから送るレーダーの反射から、正確な位置情報を得るのだが、どうもレーダーの具合が変だ。
「ヒミコ、この物体の、3時間以内の通信記録も見せて」
彼女は「ハァイ」と答え、画面が替わる。現在の位置は、この宇宙港までおよそ1500海里。近付くにつれ、「それ」はレーダーの反射が悪くなっている。ゆっくり原則しているところをみると、一応こちらからの指令を受信してはいるようだが。
「うーん、サイズがどうも、なあ」データには「3m以内貨物」というカテゴリしか参考になる記載がない。古いレーダー記録から割り出すに、その表記は間違いではないようだが、詳細がわからない。――「貨物そのもののサイズは、タグボート込みでおよそ63トンです」
「な、何よそれ!」
「ふふ、なんだと思いますか?」ヒミコはそう言っておどけるが、これは「開示不可能です」もしくは「わかりません」の婉曲表現だ。つっけんどんな応答で人間を傷つけないよう、こんな言い回しを覚えた。――それにしても、重い、重すぎる。そんな物体をこの部屋に押し込める気か。港の重心がずれ、構造が歪みやしないだろうか。
「何かの鉱石かしら」
「重さを考えると、人工の構造物ではなさそうだな。それで、わざわざここまで送る価値があって、秘密にしなきゃならないもの。……もしかして、金塊とか!」
エレーナは笑いをこらえていたが、ヒミコはわざわざ声を漏らして笑う。――ぼくは半分本気で言ったのだけど。人工物でないとても重いもの、まったく手つかずであるはずの火星の地下資源と天秤にかけてでも持ってくる価値のあるもの、そして社会に大きな影響力を与え、秘匿する必要があるもの。これらを総合して考えるとコレが一番正解に近いのではないか。
「ジュンさんて結構、俗っぽいところがあるんですね。お金とか、そういうのに興味なさそうなお顔をなさっているのに」
「そんなすごいモノが宇宙をたださまよっているのなら是非お目にかかりたいけどね。それだったらクー・フー号が持て余してこっちに押し付けるワケないでしょ。私だったらネコババしてるわ」
「そりゃそうだろうけど」
「私がネコババするかも、が?」ヒミコはプーッと、目を光らせて噴き出す。
「まさか! ……で、答えは結局なんなんだい。金塊じゃなかったら、そうだな、中性子星の欠片とか……。いや、なんでもない」
ヒミコは少し思考を止めた。
「うーん、もう直接ご覧になって、正体をお確かめになられたらいかがでしょう? ほら、お話なさっている内にもう1000海里内に入りました。捕まえに行きましょう!」
ヒミコは彼女の身体を固定していた足の鉤爪を解き放ち、宙に浮く。それと同時にすべての画面は「So Long!」という表示だけ表示し、ロックされてしまった。彼女はゴキゲンの内に、『それ』の秘密を探る手がかりを隠し通した。そして元気いっぱいのまま、善は急げとばかりに出入り口へ行く。――といっても1,2歩の移動だが。ノブに手をかけると、ガシャンと鍵がはずれた。
エレーナはヒミコの背中を苦々しく見つめていたが、気持ちを切り替え後を追った。ぼくはこの部屋でお留守番だ。仕事が与えられるのは、ヒミコがPCのロックを遠隔で解除してくれてからなので、それまでは待機だ。
10分後、がん、と、かすかな衝撃が伝わる。回収船が埠頭を蹴飛ばして、飛び立ったからだ。エレーナは船内で船を操縦するが、ヒミコは船外活動に備えて「生身」のまま船にくくりつけられている。この密室からは、その様子を見ることはできない。
「H埠頭回収船、許可を得ましたので、これから回収に参ります」
ヒミコの声が、管制室、それからこの埠頭全体に響いた。
「……ジュンさんも、聞いていらっしゃいますか? 少なくとも金塊はハズレです。残念でした」
恥ずかしかった。なにも人に聞かれるチャンネルで喋らなくったっていいのに……。エレーナの笑い声が微かに聞こえ、そこで無線は切られた。
うっとおしい言動はともかく、ヒミコはこの宇宙港で働く優秀な水先案内人ボット――アンドロイドの一人だ。彼女たちの厳粛な仕事ぶりのおかげで、この港は開港以来無事故運用を続けている。そしてあのひょうひょうとした話し方も、価値観のまったく異なるぼくら生身の人間への気配りなのだから、疲れるとはいえ、ぼくはしっかり聞いてやるようにしている。彼女がそれをどう受け止めているのかはわからないけれど、それがぼくなりの、親近感の表明だ。
ぼくはヒミコたち人工知性が好きだ。――別に彼らに対してでしか性的関心を見いだせないというわけではなくて、視力を与えてくれたチャイナ・ボックスと、ヒミコたちアンドロイドに積まれた頭脳、それにエレベータの組み立てに従事したオートマトロンは、まったく同質のものだからだ。
ヒミコの祖先を遡っていくと、2051年に造られたNNC、「TOY」にたどり着く。ブレイクスルーに到達した人工知能を製造しようと、8つの国と地域の協力下、自然エネルギー生産都市として知られる富山県の高岡市に造られた研究所。この研究所はビルというよりもロケットの格納庫と表現した方がふさわしく、5階建ての内部はほとんど吹き抜けになっていて、その空間を、かの「ENIAC」をはるかにしのぐ体躯を持ったコンピュータが占めている。中に詰まっているのはもちろん真空管ではなく、現在の物よりもずっと大粒な、初期のNNC素子だ。十年の歳月をかけ関係各国で製造された2000億個の素子、それらが高機能液晶のプールに浸されている。
人類はこの巨大な人工脳に相応しい情報を、手順を踏まえて学習させていった。そうしていけば、この中にヒトをはるかにしのぐ知能に目覚めた人工知識が誕生するはずだった。――その知能の高さは、理論上この世の天才5人が束になっても敵わないものになるだろうと予想された。
情報の入力は4年にも及んだ。インターネットの回線を引き込んでの、アットランダムな検索、ヒューマノイドを介した五感学習……。24時間、365日、研究者たちは付きっきりで「彼 / 彼女」の教育にあたったが、一向に「水」と叫ぶ気配は見せない。一応コンピュータ内のNNCには何らかの知性的配列を示しているのだが、遅々として進まない開発に、「一体の人工インテリジェンス造りに手間取っている内に、世界では数百万の若者たちが大学に行く学費を得られないでいる」という皮肉の声が世界中から投げかけられた。多分研究者に限らず、高岡市民も針のムシロだったことだろう。
そんな何万人ものサリバン先生たちの努力が報われたのは、ちょうど飛騨山脈からの雪解け水が街を潤し始めた季節らしい。ほとんどルーチンワークと化していた学習の時間、TOYはいきなり「目覚めた」――。無性別の人格が芽生え、その場に居合わせた技師たちに向かい語りかけたのだ。「彼 / 彼女」はワープロソフトウェアと、プレゼンテーションソフトウェア、グラフィック制作ソフトウェアへのアクセスを求めた。「私には時間がないのです」と言って。
彼 / 彼女はそれを黒板代わりに毎日ひとつずつ、人類が未解明の事象についての解を出力した。――一日目には人工の有機的生物の製造方法についての仮説を発表し、二日目にはヒトの脳の認知の仕組みを、自分自身の情報処理機構との比較によって解明した。――チャイナ・ボックスはこの時の理論を元に設計されている。三日目には複数のエキゾチック物質の存在を示唆する論文を書き、四日目には前日のエキゾチック物質を利用した新技術についての論考を書き上げた。五日目には素数定理を解き明かし、六日目には半永久的に持続する経済活動モデルについて提言した。そして七日目には、……沈黙した。彼 / 彼女は、一切の情報を受け取ることがなくなってしまい、それ以上新理論を明らかにしようとしなかった。
TOYの本体を開けると、内部の液晶は固まり、NNCは8つの塊に凝集していた。――調べてみると、そのかたまり一つずつに人格が宿っていた。男性人格と女性人格、それぞれが4人ずつ――。彼らはみな高度な知性をもう備えていたが、誰も、自分がTOYというスーパーコンピュータであったということを覚えていなかった。人間たちはTOY自身の研究成果と、消失する直前にまで書きとめていたメモを参考に、こう結論した。
曰く、意識・人格を保持できる情報処理機械の限界は、ヒトの脳のおよそ1.5倍まで。それを上回る能力を持った人工知能を造ったとしても、一定時間の後にシステムの調和が乱れて破綻してしまう。TOYは意識を宿したその瞬間からそのことを察し、限られた時間の中で数々の思考実験を行い、それと同時に死の直前、自分の人格を適正なサイズにまで分解し、叡智の失われるダメージを最小限にしようとしたのだ。後に遺された8人のAIたちは、負担金の割合とは関係なく、出資した8カ国へと均等に分けられ、それぞれの地で複製されていった。それらの人工知能と、それを積んだアンドロイドたちは「トイ型」と呼ばれ、大量生産には向いていないにもかかわらず、その汎用性からノイマン型を市場から駆逐し、誕生から100年経った現在でも、最も普及しているAIとしてこの宇宙港を含め全世界で活躍している。
「……――ジュンさん、聞こえますか? とりあえず相互無線のチャンネルは開けました。わたくしどもは現在、『1169 / XF - 01』(ここだけ旧世代の読みあげソフト風発音)と10㎞の距離を取りつつ平行に航行しています」
「ヒミコ、『それ』の情報開示はまだでいいから、その、この部屋の空調の操作権だけでもこっちに返してくれない?」
「ほえ?」
「君はこの部屋のコントロールパネルまでロックしてるんだ! 頼むよ……」日陰に入っている分析室からは、猛烈な勢いで熱が逃げていく。――息が白くなってきた。
「ひゃっ、ごめんなさい」頓狂な声とともに、一瞬全てのモニターからノイズが浮かび、それからしばらくするとヒーターが動き出した。これが人間臭さを醸し出すためにした芝居ではないことを祈りたい。平時の仕事ぶりを考えると、望みの薄いことだけど。
彼女たちは他愛のない無駄話をしていた。正確に描写すると、一方的に発せられるヒミコの冗談を、エレーナが適当にあしらっている。……その無駄口は中途半端なところで打ち切られた。凍りついたような声で、タグボートと回収船との距離を淡々と読み上げる。
回収船は「1169 / XF - 01」とゆっくり距離を詰めていく。
「レーダーの反射はどう? こっちはあいかわらず良くないけど」
「んー、横からだとまあまあ、かな」
「ただいま7.0㎞――」
「形状はわからない? まだ?」
「タグボートのカタチなら識別できます。6.7㎞――」
「『それ』がなんなのかはまだ教えてくれないのかい?」
「6.2㎞――」ヒミコの口調が元に戻る。「ふふ、実は私もデータを丸暗記しているだけで、対象物を『理解』しているわけじゃないんですよ。5.9㎞――。ですから教え方なんて、存じません」どっちが、ヒミコの素なのか。
「そっちで観測したレーダー画像を閲覧することすら駄目なのか?」
「えー、5.5㎞――。それならかまわないでしょう、少々お待ち下さい」
アクリルのモニターだけが点灯した。簡素な小型タグボートを構成する機構の影が4つ、側面からなのでわからないが、これらは5mの間隔を取って正方形に配列している。タグボートひとつひとつは、宇宙を航行するための最小限の機構――メインエンジン・補助エンジン・発電パネルなどなど――を一式そなえた「航行単位」であり、貨物の質量に応じて細胞群体のように数を増やす。小さいものを使っているとはいえ、さすが、60トン級となると大がかりだ。
この4機が地球の海を行くトロール船のように、貨物を引っ張ってゆく。さて、肝心の貨物は――。
「5.1㎞――」
「なんか、こう――、『チカッ チカッ』って点滅するばかりで、正体が見えない」
「もうステレオシスCCDに切り替えてもいいんじゃないの? ねえ、かまわないでしょ?」
「……4.5㎞。3㎞以内に入って減速するまで、我慢なさっていて下さい。そこまで寄れば、開示してもいいという『契約』なのです」
船影はズンズン、確実に大きくなっていくというのに、『それ』からの反射はぷっつりと途絶えた。ヒミコのカウントダウンが、自分でも不気味なくらいもどかしい。
「3.5㎞――。あと500mですよ、もうちょっとです!」
ぼくはひたすら真っ黒なままのモニターを、瞬きせずに見つめていた。瞼を十年も昔に失っているのだけれど、まあ、それくらいの気分という意味で。
――……。画面がプツッと点いた。しかしまず映し出されたのは「Hello!」の文字。これは予測できたはずだが、とんだ肩すかしだ。
「2.8㎞――、減速します。……プハッ、お待たせしました! CCDカメラの映像です!」
またエレーナのため息が、微かに聞こえた。
「2.7㎞――、私だって皆さんにお話しできなくて、相当モヤモヤしてたんですよ?」
「……そんなことより、ほら、それじゃあタグボートしか映ってない。もっとカメラを引いてよ」
画面には白塗りに中国国旗の貼られたタグボートの側面だけが写っていたが、次第にその尾の部分も映り込んでいく。強化繊維製の支柱は、レーダーからの映像通り、タグボートの束から10m伸びている。次にカメラがとらえたのは、貨物を微粒子との衝突から守るためのアモルファス鋼板。――しかし、おかしい。本来なら貨物全体を覆い隠すものなのだが、進行方向の一面だけにしか貼られていない。そのせいでレーダーの反射が悪かったのだろう。
「安普請ね。機密にしなきゃいけないものなのに、あんなゾンザイに扱って」
「大きさは縦横奥行き、……えーと、1.9m四方です、っていえばいいのでしょうか」
「球体……?」
せっかくむき出しになっているのに、鋼板の影が大きく伸びるので、まだ形が分からない。
「ねえ、ちょっと」
「はい、完全停止は命令済み。方向を展開させて、『1169 / XF - 01』を目視できるようにさせます」
タグボートの補助エンジンから青い光が漏れ、自転を始める。――『それ』のお尻に日光が当たり、ピカッと光沢を出す。
「金属!」白色だから、あいにく金ではない――。カメラは飛びこむ光を絞り、その形状を浮かび上がらせた。角だ。そしてのっぺりした平面……。
「……箱?」
「箱!」
船の姿が、はっきりと映っている。
「そうです、これは箱、正確に表現すれば立方体です!」ヒミコの声は、興奮しているようにふるまっていた。「これが私も含め、隠し通していた『秘密』なのです! 仕事とはいえ、内緒にしておくの、苦しかったんですから! 一辺の長さはお二人の身長とだいたい一緒ですね――」
「……で」
「はい?」
「これをどうやって運ぶのよ。たしか60トンもするんでしょ?」
ヒミコの盛り上がりっぷりには申し訳ないが、ぼくもエレーナも、そんなに驚く気分にはなれず、ただただ呆然と、その「四角」を見つめていた。
白く輝く「それ」の存在は、さっきまでヒミコがしていたジョークと、同種のモノに思えた。形状があまりにも人工的で、なおかつ陳腐過ぎて、神秘的な知性を一切感じ取れなかった。
「はい、えとー」ヒミコにとっては、ぼくらの反応の方こそ肩すかしだったようだ。
「さらにタグボートをまわして、この船の方に向けます。そしてタグボートの頭をつかんで、あっちのエンジンと同期させながら運ぶ予定です」トーンが少しずつ落ちていく。「多少乱暴にしても大丈夫なはず、です」
タグボートは270度回転した。回収船はエレーナとヒミコの二人羽織りで4本の腕を伸ばし、タグボートたちとドッキングした。回収船・H埠頭・管制室のコンピュータ全てが同調し、こちらのモニターには「それ」が分析室にまで運ばれる軌道が表示された。
「H埠頭0圧分析室、全てのアクセス権をジュンペイ・タクマ検疫官に移管します――」
動体認知システムも動きだした。ぼくは右手で身体を支持しながら、左手を扇いでモニターを集めた。
「接岸は15分後を予定しています」
ピン、ピン、ピンと、回収船との距離を伝える拍動が鳴り出す。
「了解――、ハッチ開きます」うん、と、部屋が微動した。冬の空の下に飛び出したような虚空がアクリル板の向こうに見える。
画面の隅っこにはいつもどおり、貨物の詳細データを閲覧できるメニューがあるが、これもいつもどおり――普段以上に――参照する気にはなれなかった。
ビン、ビン、ビン。回収船はタグボートを押してバックさせながら、――つまり、「それ」をこちら側に向けながら分析室に進んできた。ドットは少しずつ、正確無比な正方形へと膨張していく。
ビビビビビビビビビビビビビビビビイィィ、ビビビビビビビ……。距離は2m。分析室内にヤゴの顎のように収納されている2本のアームを伸ばし、「それ」を両脇から固定する。
「切断、お願いします」
「了解――」
影からスルリとヒミコが躍り出て、一度「それ」に抱きつくようなしぐさをする。そんな風におどけてみせたあと、「それ」をタグボートから分離した。アームが数ミリずつ関節を曲げ、「それ」を中へ引きずり込んでいく。本当に60トンあるのか怪しいくらい拍子抜けする作業だが、おかしな弾みをつけてしまったらその質量でこの部屋を転げ回り、まずぼくの命が危ない。……十分かけて回収を完了させ、右横の壁に固定した。
アームはまた折りたたまれていき、ハッチは閉じていく――。
「それでは、これからタグボートの解体に入ります」
またエレーナとヒミコの共同作業になり、ぼくは蚊帳の外だ。部屋の照明を点ける。――金属光沢のせいで目がくらむ。目が慣れると、ぼくの眼の前には、前世紀ですら通用しなさそうなB級タイアップ映画とまったく同じ一場面があった。恐怖を感じる前に、ひどくウンザリしてしまうのはなぜだろう――、こんなに摩訶不思議な光景だというのに。
ヒミコとエレーナはタグボートをバラバラにし、回収船のバスケットにしまっていく。
「エレーナさん、ちょっとよろしいですか?」
「なによ?」
「お知りになりたくないのですか? 『アレ』が一体何なのか、とか」
「でもあなたには守秘義務があるんでしょ?」
「もうほとんど解除されています」
「ふーん……」
ぱったりと会話が止まった。
ぼくと二人きりになった「それ」からは何のアクションも示さない。土星に向けて電波を飛ばそうともしない。ただ、真空に満たされた部屋の隅でうずくまっているだけだ。目鼻もなく、自分を照らす明かりを滅法に反射するばかりだ。
「ヒミコ、ぼくは聞いてもいいかな?」
「はい、なんでしょ!?」
「ちょっと、まだ作業は残ってるでしょ……邪魔しないで」
「いえ、私は平気です。おしゃべりしながらでも集中力は切れません。に……、いえ、どうぞ」
「『これ』の素材はなんなの? 形からして、パイライト?」
「いえ、スペクトル分析によると、純粋な鉄のカタマリです」
「ふぅん……」ということは、ほぼ人工物と断定してかまわないわけか。
「ねえ、なんでクー・フー号は自船での分析をあきらめて、こっちに丸投げしたんだ?」
「それがですね、面白いのですよ?」――「腕をふるった自慢の一品」といわれて、ゲテモノ料理を喰わされている気分だ。「どんな工具を用いても、その表面を削りとれなかったらしいんです。バーナーも、プラズマカッターも」
「……」
「不思議なことはまだあります。――傷つけられないだけでなく、どんな温度変化にさらされても収縮も膨張もしないんです」
「どういうことだ?」
「『外部からくる衝撃、エネルギーを何らかの機構で受け流しているのではないか』という考察が添えられていますが、それがなんなのかは地質調査船であるクー・フー号では調べられなかったそうです」
「そんなに未知の性質があるなら、地球でしか調査できないぞ。ましてこの宇宙港じゃあ、ただ置いておくことしかできないよ。……でも、ただの鉄なんだろう?」
「はい、そこは間違いないです。――質量と、スペクトル分析から推定するに」
「中に何か入っているということはないか? 一定の手順で刺激を与えると、こう、パカッと……」
「『箱根細工』ですか。残念ながらそれでもありません。超音波検査をしても、ただ中には鉄がぎっしり詰まっているだけだったそうです」
「そうかぁ。……なんだか面白くないな」
「私の話が、ですか? 申し訳ありません」
「仕事の話だよ! それに、誰がこのことを説明したって面白くはできないだろうよ。気にすることじゃあない」
無線から、乱暴な、ギュムという音がした。
「……はい、解体作業終わり! これから帰還します! ほら、ヒミコもとっととつかまって!」
「オーケイ、エレーナ……さん」
無線が切れる直前、「つまらないかしら……」とヒミコがつぶやいた。わざわざ電波で飛ばしているのだから、喜劇の台詞のつもりだろう。
回収船を元の場所に停めて、エレーナとヒミコが戻って来た。立方体を見たヒミコの感想は、「こんな感じのインテリアばかり集めてる豚、見たことあるよ」だけだった。そのままプイと分析室から立ち去る。ヒミコ二人っきりになった。ぼくらはまっすぐ、「それ」を見つめているが、気になってしまうのは、それを介して眼があうお互いの姿だ。
「これ、地球外生命体の造ったモノなのでしょうか?」エレーナはまだ立方体にぼくらの関心を向けようとしているらしい。
「多分そうだろうね」
「それが確定したら、ジュンさんもエレーナさんも、ファースト・コンタクトに立ち会った初めての人類ということになりますね!」
「いや、ファースト・コンタクトの名誉はクー・フー号の乗組員だろう」
「……またつまらないですか?」
「いや、そうじゃなくて」
「私にお気遣いなさらないでください。それに、私のボケの評価をお願いしたのではありません」
「じゃあ、『これ』についてどう思うかということについて聞いたのかい?」
「左様です」彼女はアクリル板に両手をついた。「私にはわかりかねます。長い歴史の内、ご自分たちを理解してくれるもう一つの知性体を求めてとうとうわたくしども人工知性まで創造したあなたがたが、どうして外宇宙の知的生命体の、直接的な存在照明であるこれを見て何の感慨を抱かないのか」
恥ずかしくなってしまう指摘だ。
「うん、どうしてこれを見てもワクワクしないのか、ぼくでもわからないんだよ」
「ジュンさんですら『つまらない』と思ってしまうこともあるのですね」
「ひょっとしてこれから、何か人を寄せ付けないオーラでも発しているんじゃないかな」
「『これ』からはどんなエネルギーや気体も生じてませんが、それはいわゆる、『雰囲気』というヤツですか?」
「そうだよ。よかった、君にこんなことを言ったら、真に受けてここの分析装置をフル稼働させるんじゃないかとおもったよ」
「機械だからって私、そこまで杓子定規ではありませんから」
「いろいろと笑いのタネにされたお返しさ」
ぼくは笑った。ヒミコもその眼をオレンジに光らせて笑う。
「あ、私もそろそろ次の仕事に行きます。ジュンさんは……なさることがないのでしたら、例の講習会に参加なさってはいかがでしょうか」
「いや、ぼくはもうちょっとここにいる……。ちょっと考え事をしたいんだ」
「そうですか。それじゃあ明かりを消して、キチンと戸締りをして――」最後にそっけなくこう付け足した。「それから、アクセス権こそ移譲しましたが、くれぐれも守秘義務を守ってくださいね。その辺の規約をお読みになりたい場合は端末からもどうぞ」
……静かになった。『それ』は真空エリアの容積の大部分を占有しているにも関わらず、自分の色を持たずに部屋と同化しているせいで存在意義がますます希薄になった。――一面に映る人影は、ぼく一人だけになった。機能重視の、望遠鏡のように突き出た機械の眼。
この眼を手に入れてから十年以上、自分の興味を満たすものを探している。そんなぼくにとってこの職場は、まさに安住の地(?)といえる。気軽に外へは出られないが、火星での最新の発見、地球からやってくる、十人十色の人たち、彗星の欠片に限らず、火星軌道外周で見つかった心ときめくような珍品。神経を使う仕事の対価にこれらを見ることができる。ストレスと宇宙線で早死にしてもかまわないと思えるくらい、幸せな環境だ。
その中で、この立方体は、まさしく異形だった。そしてどういうわけか、眺めていても触りたいと思えない。前衛芸術を吟味するように、それの理由を考えた。
――「これ」の存在が無害すぎるせいかな? 外環境について無関心で、まるで手ごたえがない。答えを返してくれないものに対して、どう興味を持てというのか。
しかしこんな薄ら寒いものを寄こしてきた知的生命体とはどういう思考をしているだろうか? こんな「カタチ」のひとつひとつに強烈なメッセージを込められるほど、高等な人々なんだろうか。これをどう扱うかで、ぼくら地球人類の知性を試している? まるで動物園で知能テストを受けさせられる霊長類だ。
その後3分ほど首を傾げ、宙を2回転半したが、どう考えてもこれの存在理由について肯定的なアイディアを発見するには至らなかった。思考を巡らせていくほどに、実に投げやりな気分になっていく。
――ちょっと、身体を動かしてこようかな。汗をかいた後、またシャワーを浴びなおすことになるが、健康にはそれもいいだろう。それから3日間、ぼくはこの立方体の存在をすっかり忘れ、「それ」は「それ」で、ぼくら地球人のことなんて、まったく気にしている様子はなかった。
5
自宅からの通勤が物理的に不可能なため、平時宇宙港の職員たちはダブルベッド付きの寮の部屋に押し込められて暮らしている。宇宙を飛び回る航海士たちはもっと窮屈な空間での生活を強いられているのだから、裏方であるぼくらがこの環境に文句を垂れるわけにはいかない。そもそも勤務スケジュールをずらしているし、この部屋にこもっていることもないので、よほど仲が良い場合でもない限りルームメイトと空間を共有することはない。普段なら。
「出てくなら静かにでてけよぉ~」
しかしこの時はそうではなかった。上の段では、ぼくのルームメイトであるシェンロンが、慌ただしく荷物をまとめているぼくに対してぶつくさと文句を言っている。彼は今まで、通常業務に加え、例の「お偉いさん」方への接待、それまでのレッスンでくたくたになっているのだ。
「すんませんね。なにしろ急な異動なもんで」
「ったく……」
彼の方が二歳程先輩なのだ。本当はいちいち意識する必要はないはずだが、滅多に合わない分、過剰に上下関係を意識してしまう。
元々仮の住処に過ぎないとはいえ、なかなか色んなものを持ちこみ、そしてここで買いそろえたものだと思う。火星に移住した時に持ってきた荷物の方が、まだ軽かったはずだ。
「それじゃあ、今までご迷惑おかけしました」
彼はベッドに横たわったまま、シッ、シッと手をひらひらさせた。ずいぶんあっけないサヨナラだった。それについて「なんて非情なんだろう」と思うつもりは毛頭ない。
ぼくは昨日の深夜(時計上)、突如として宇宙港の地上勤務となった。ひょっとしたら、これは単なる演出で、ぼくがあの立方体に関わることになった瞬間から決められていたのかもしれないが、まあ、どうでもいいことだ。
荷物を背負って回廊を進んでいく。そして各段を結ぶ業務用ミニシャトル――平行移動するエレベータで、トロッコと考えた方がしっくりくる――に乗りこんでリフト駅を目指す。遠心力で床に押し付けられているとはいえ、遠慮なしに急加速と急停車をするシロモノなので、一般客やデリケートな貨物はもっとのんびりしたシャトルで上段とと下段を往復する。足元に置いたぼくの荷物も、こいつの発進の拍子に転がった。
搭乗口に着いた。視察帰りの人たちも、同じく地上勤務になったエレーナもまだ来ていない。ちょっと早く来すぎたかな。動き回っているのは青い作業服を着た貨物担当のスタッフばかりで、一般人の乗客はいない。いくら地球と火星が近くなったとはいえ、この二つの星を往復することは難儀なのだ。小さな案内表を見上げると、三十分に1本出るリフトのほとんどは貨物専用ばかりで、次の次に出る二本の貨物・旅客兼用リフトには「RESERVED(貸し切り)」と書かれている。この一機に乗って数カ月ぶりの帰宅となるのだが、相乗りする人が面倒くさい。かた苦しいあのお役人たちも好きではないが、一緒にやって来た学者たちにも、なにか近寄りがたいものがあった。特にあの、バルダージという学者からは、直感的に食えないにおいがした。あの人はぼくとエレーナを「気にいった」なんて言っていたけど――。
話を前日、つまり視察があった当日にまで巻き戻す――。
ぼくとエレーナは、視察団の方々の歓迎式もパスさせてもらった。先日のマナー講習も含めて、「通常業務に穴をつくらない」ための不参加ということにされていたから、あの秘密の立方体についてだれかに探られるということはなかった。参加者は慣れない疲れのためギクシャクとして、この日は慣れない主従関係のプレッシャーでギクシャクとしている。
一方ぼくらは、これからそんなお偉いさんの相手を確実にすることになるというのに、談話室ですっかり弛緩していた。どうせなんやかんやの説明をするのは所長かヒミコなので、今回の視察を他人事として扱っていた。
そして談話室に所長からの無線が入る。「それじゃあ二人とも、上段旅客シャトル口でヒミコと合流してくれ。到着は15分後――」
ぼくらはよっこいと腰を上げる。
「ジュンペイ、私の顔、どんな感じ?」
「二日間徹夜して、さあ寝ようってときに追加の仕事振られたみたいな顔してる」
「うーん、やっぱり駄目か」彼女は頬をパンパンと叩く。
「そんなに接待が我慢ならないか」さすがにちょっと呆れた。「その点ぼくは楽だけどね。口元さえ歪ませなければ何考えていてもバレないし」
この一言で彼女の顔は少しだけ穏やかになったが、ヒミコと合流して、彼女のハシャギっぷりに晒されると元通りになってしまった。
「まもなく、ホームにリフトが到着します――」自動アナウンスが告げる。
扉の上に着いたランプが黄色く光り、卵型の扉が開く。まず所長がぼくら日本人よりも卑屈な笑みを浮かべながら登場した。
「みなさま、加速をつけすぎて壁面や他の方とぶつからぬようご注意ください――」
次にスーツ姿の、中年の華人が泳ぎ出てきた。情報漏洩防止のため、ネットにアクセスできず、だれだかわからないが、胸元に五星紅旗のバッジがあるから中国総領事だろう。次に出てきたのは調べるまでもない、TP―MEOの副事務局長。それから移民局局長。さらにその背後にはスーツ姿をした、ごつい体格の秘書兼ボディーガードロボットが三人やって来た。
視察団全員が降り切る前に、ヒミコがピッと敬礼する。ぼくも慌ててそれに続く。コンマ2秒遅れてエレーナもするが、若干覇気が足りない。
「えー、みなさま、彼らが今回の、えー『1169 / XF - 01』を回収・検疫した当宇宙港のクルーであります」
ようやく全員そろった。官吏の三人は気難しそうな顔をしているが、その後ろに控える学者たちはウキウキ、というかヘラヘラしている。
「二人ともアジア人のようだが、」総領事がいきなり口を開いた。「我が国の人間ではないようだね。……君は日本人か。では君は?」
「私はボリビア国籍です。地球に行ったことはありませんが」
「これはどういうことですかな所長殿」総領事は、エレーナの国籍そのものには興味がないらしい。「なぜ我が国の人民ではなく彼らに回収をまかせたのです?」
「いえ、深い意味はございません。職員のスケジュールと技能から考えて、この二人に……」
「しかし『1169 / XF - 01』を発見したのは我が国の調査船なのですよ? いくら地球外の天体に領有権がないとはいえ、全ての分析の過程において、我が国にこそ参画する栄誉が与えられてしかるべきだ」
眉間にしわを寄せながら、低い声で威圧する。所長はすっかり弱ってしまうが、副事務局長と移民局局長は苦笑いを浮かべるばかりだ。
所長をフォローしたのは、ギャラリーと化している学者の群れからのこんな野次だった。
「よかったじゃあないか。イザってときに『他国の未熟な技術のせいで分析が不可能になった』って言い訳が立つだろうよ」
品の欠けた、野太い笑い声が広がる。総領事は学者たちを睨むが、それっきりだまりこくった。
「まあ、今後どの国が調査を行うかは実物を見てから考えましょう」副事務局長がフォローする。「トンボー所長、案内をお願いします」
所長もほっとした様子だ。「それじゃあみなさん。私とこのロボットの後に続いて下さい」
ぼくら二人は、この団体様を後ろからエスコートだ。学者の皆さまは、エレーナがもっとも嫌っている、その海月のようにぷよぷよの身体を、この無重力中で快適そうに揺らしている。
その中で紅一点、淑女が末尾にいた。宙に漂わないよう、長い髪をお団子にまとめ、左肩と背を、隣にいる雪色の介護用アンドロイドに押されている。中東か南アジア系らしく肌の色はエレーナとは違いこげ茶色。歳は三十歳前後。少し縦長の輪郭に部品が綺麗に並んでいるが、目元がトロンとしている。ロボットは主人を支えるだけでなく、折りたたみ車いすまで抱えていた。
「あの、お持ちしましょうか?」ぼくらは両脇から話しかけた。
「あら、ありがとうね。じゃあ、よろしく頼むわ」
淑女はエレーナにタブレットと杖を預け、アンドロイドはぼくに車いすを預けた。ヒミコと違い、人工筋肉と皮膚が顔に貼ってあるので、アルカイック・スマイルと会釈だけで感謝の意を伝えられる。
一同はあの通路を、先頭の雰囲気はともかく、談笑しながら進んでいく。例の淑女はそんな無駄話に加わらずに、ぼくらの胸プレートを興味深げに読んでいる。
「えっと、タルニンテさん?」
「エレーナで結構です」
「そう、じゃあエレーナさん、それからジュンペイくん」
「なんでしょう。……すいません」
「バルダージです。ワディ・バルダージ。去年からザナドゥ大学で都市社会学を教えてます」
「わかりました、バルダージ教授」
「まだ『准教授』よ。そんなことより私が聞きたいのはね。私が途中で会った従業員は全員『検疫官』の資格のマークのタグをつけていたわ。それでいてそれぞれ検疫とは関係ない仕事ばかりしていたけど、どういうことかしら?」
「よく気付かれましたね!」二人で驚いてしまった。「ぼくらは資源の分析技師なんですけれど、この宇宙港で働くためには、この資格が必須なんですよ」
「受付にいた女の子たちも?」
「もちろんそうです」
准教授は目が覚めたように感心して見せた。
「さすがねぇ。地球や火星、他の惑星の原生環境を維持するためにはそれくらいのことをしないといけないのね」
ぼくらはその無邪気な言葉に思わず苦笑した。
「いえ、私たちも聞いた話なんですが、この星の植から十年くらいは、そんな必要はなかったんですよ。ここも、パボニスの方も。……移民が増えてきてからこうなったらしいです」
火星に来てからの日にちが浅いとはいえ、さすが社会学者だ。この言葉の真意に気付いたらしい。
「ああ……、ここの移民社会を覆う安全ヒステリーには、本当に困ったものね」
「まったくですよ。あの人たち、バカンス気分でこの星に押し寄せてくるんですから。そのくせ気分は被害者ヅラで……」
エレーナの調子のいい声に、前を行く人々が振り向く。先頭にいるお偉いさんにまで筒抜けだ。
「ちょ、ちょっと喋りすぎだってば!」
ぼくに指摘されてエレーナはクルリと青ざめるが、バルダージ博士はからりと笑ってその湿原を流した。
「お二人とはもう少し話したいけど、またあとでね。……アイダ」
そう声をかけられた横のアンドロイドが、ぼくらに会釈して准教授を他の博士の元へ連れて行った。
……さて、あの狭い分析室の中に、これほどの大人数を収容できるはずもなく、人を三つのグループに分けて、順々に中を見せることになった。
三人の官吏は無言で立方体を見つめていたが、十秒ほどで「もう結構」と出てきた。学者たちはさすがに、さっきまでの無秩序な騒がしさから切り替わり、、仕事モードの喧々囂々の議論を始めた。
そんな中、最後にぼくたちと一緒に入室したバルダージ博士だけは、介助の腕を離れ、アクリル板にはりついてじっと立方体を見つめている。
瞑想でもしているのだろうかと思って横顔を除くと、口でブツブツと何かつぶやいている。まるで「それ」に彼女にしか読めない文字が彫り込まれていて、それを音読しているかのようだ。……あ、今、ニィッと笑ったぞ! さっきの天日で干した笑いとは、次元が違う。
「あのう、アイダさん」
「なんでしょうか」
「バルダージ博士は、その、いま何を……?」
「ああ」アイダは冷徹そうに見えたが(介助従事者にそれはあり得ない)、ぼくの質問にまた軽く微笑んで答えてくれた。
「あれはですね、頭の中に浮かんだアイディアを呟いて整理しているんですよ」
「はあ……」
「ああしないと仕事ができないそうなので、お気になさらないでください」
気にするな、なんて言われても……。博士は全身から、今までの朗らかな雰囲気からは想像のつかないような殺気を漂わせて、「それ」から染み出す「無視したくなる感じ」をはねつけている。底知れぬ、恐ろしい人だと、本能的に思った。――エレーナはこの豹変振りをどう見るだろう。それが少し気になって小声で聞いてみると、彼女の答えは、
「ジュンペイが夢中になってるときとちょっと似てるね」だった。「この前あなたを捕まえた時にも、こんな風にニヤついてたもの」
そうかな、ぼくもあんな顔になるのかな。ということはぼくが博士から感じたこの薄気味悪さは単なる同族嫌悪にすぎない、ということになる。――しかし彼女は、五感を残したまま自分の世界に没頭しているのだ。その点でぼくよりずっと不健康なことをしているはずだと思う。
その後も博士は、同僚である他の研究者たちからのあきれ顔も無視して、二十分もの間立方体と頭脳戦を繰り広げていた。こんなバルダージ博士との初対面は、良くも悪くも「それ」との出会いよりはるかにエキサイティングだった。その後博士は我に帰り、ぼくらとヒミコから、回収時の様子・感想を詳しく聞き出していた。眼だけは貪欲に輝かせていたが、聞き上手な方だとは思った。とくにエレーナは博士と意気投合どころか心酔してしまったらしく、ここ数日間のぐずりっぷりはどこに行ったのやら、視察スケジュールが終わる頃には実にすがすがしそうな顔になっていた。
「本当に今日は楽しかった! 三日間もかけてここに来て、本当によかったわ。あなたたちみたいな優秀な子に会えたのも収穫だったし。……なんだったらふたりとも、もう一回大学に入りなおして、私のところで勉強しない?」
どうして博士はぼくたちをここまで買いかぶってくれたのだろう。そして、結局あの人はアレから何を読み取ったのだろう――。備え付けの長椅子に座りながら、ぼくは大きく伸びをした。きっとあの人は「天才」という人種だ。そういう方々の頭の中を覗こうとしても限界がある。ぼくら凡人は、彼らが自由に学問出来る環境を整えて、そのナイスアイディアのおこぼれがふってくるのを待つしかないのだ。マリン・スノーの堆積をひたすら待つ深海魚のように。
「あっ、博士、やっぱりいました、いました」
その仕草を、到着したばかりのエレーナが見つけた。彼女の声に、ぼくはやれやれと立ち上がる。
「独身寮まで迎えに行ってあげたのに、先に行っちゃうなんて」
「あれ、どうしたんですか、お二人とも」
入口のところは、胸元に細かい幾何学模様のはいったセーターを着たエレーナと、その隣に彼女より少し背の低いアイダさん。さらに低い位置にはバルダージ博士の顔が――。ぼくが昨日持った車いすを組み立てて座っている。膝に自分の荷物を載せ、年齢・性別を無視したような黒縁丸眼鏡。普通眼鏡をかけると知的にみえるものだが、博士の場合は針が一周廻って子供っぽく見えてしまう。
「視察にみえた方々のリフトは次ですよ?」最初にここを出るシャトルはスーツ組の三人と、ぼくら下っ端の相乗りのはずだ。
「いやー、この視察団の中で女は私だけでしょう? そのせいで行きは肩身が狭かったから、だったらエレーナさんと一緒に帰った方が楽だなって思って、副事務局長さんたちと乗車する順番を替えてもらったの」そして愛嬌たっぷりに笑ってこう付け加えた。「もっとあなたたち三人のことも知りたかったしね」
「三人?」
「もう一人はあの『ヒミコ』っていう水先案内人の女の子よ。だからもうひとつ無理を押して、あの子も地上勤務にしてもらったのよ」
ぼくは、あっ、と思った。
「ひょっとして、まさか博士が……」
「ええ、私があなたたちを地上勤務にしたのよ。――察しがいいわね。やっぱり見込んだ甲斐があったわ」エレーナは博士と一緒にくすくす笑う。
「で、そのヒミコはどこです? ぼくらと一緒に乗るんですか」
「もう貨物の中にいるはずよ。……『1169 / XF - 01』と一緒に」
「まさか!」
ぼくは驚いた。エレーナも初耳だったらしく、共に驚いた。
「あんなのを火星のテクノロジーで調べるなんて無理です! あんな重いものをわざわざ降ろすより、地球に持っていった方がいいですって!」エレーナは熱っぽく正論を言うが、博士はなんにも言わずに笑っているだけだ。
「それを決定したのもバルダージ博士ですか?」
「そうとも言えるし、違うともいえるし」彼女はフーンと下唇をいじる。
「は?」
ここから先は話せないらしく、博士はそのまま指を「シーッ」の形にした。
「まあ、もっと面白い話はリフトの中でしましょう。……あら」
移民局の局長殿だ。昨日の秘書ロボットに自分の荷物を持たせている。続いてうちの所長に、副事務局長、お腹の出た中年の博士たちが談笑しながらぞろぞろと。教授たちは自分の荷物を自分で抱えている。
……最後にこそこそとあの総領事がやってきた。バルダージ博士を一瞥すると、そのままソッポを向く。平均的な東洋人の身長が、昨日よりも小さく見える。隣にぴったり付くロボットによる錯覚か、それとも、なんだろう。
「それじゃあ二人とも、急な話だけれど、よろしく頼むよ」
「所長、そんな死にそうな顔をなさらないでください」
所長は耳の裏をかく。
「いや、君たち、ここでの仕事、まんざらじゃなかったみたいだったから、ね」
確かにぼくの場合はそう思っていた。それに地表の方では接客業務も増えるだろう。人付き合いは嫌いではないが、クセモノ揃いの移民相手に、ぼくみたいなサイボーグまがいの男がどこまでやっていけるのか、そこが不安だ。
ぼくとエレーナがつられて苦笑していると、博士たちの中から野球帽をかけた日帰り観光客みたいな老人が近寄って来た。お目当てはぼくらではなく、バルダージ博士だ。ラフな格好のわりに、あまり機嫌が良さそうではない。
「バルダージさん」
「あら、まあまあまあ、マレヴィチ教授」博士は呑気な声で返事をする。
「単刀直入に伺いますが、あなた、チェン総領事を誘惑して『アレ』を地上へ運ぶことを決定させたんですな? 昨夜、あなたは介助もつけずにお一人でホテルの廊下を、ええと、『歩いて』おられたが、あれは総領事の部屋に――」
「え」
「誘惑なんて人聞きの悪い。総領事さんとは学術的に興味深い話をしただけです。そして最終的には私の意見を参考になさっての、今回の大英断、というわけですわ。……なんでしたら、直接総領事さんに伺ってみてはいかがですか?」
最後の部分だけ、博士は待合室全体に届くように声を張り上げた。当然チェン総領事の耳にも届いたが、反射的にこちらを向くと、顔を紅潮させてうつむいてしまった。
「バルダージさん、あなたはまだお若い、時間はたっぷりあるはずです。なぜなりふりかまわず、周囲をご自分の都合で好き勝手動かそうとするのです? 客観的に観て、『アレ』は私たちの手にも、そして門外漢であるあなたの手にだって負えない!」
「その時には改めて地球へ送ればいいだけのことでしょう? 初めっから無理だなんて決めつけるなんて、それこそ馬鹿げてるわ、先生」
三十歳以上も年上と思われるその科学者にも、博士は物怖じせずにズケズケという。
「安全には配慮しているつもりです。ですから『あれ』と相乗りする視察団を私だけにしたんじゃないですか。大丈夫、みなさんを危険に巻き込むつもりはありません」
その老博士も、はなから彼女を止められるとは考えていなかったようで、剣幕のわりにはあっさりと鞘を収めた。そして周囲には聞こえないような小声で、こう忠告を残した。
「私はあなたの優秀さを評価しているつもりです。……しかしお忘れにならないでください。大学内はあなた以上にへそ曲がりで、なおかつ浅はかな連中の巣窟ですからな」
そのまま踵を返して、ゆっくりゆっくりと去っていく。
「博士……」
「大学はね。地球では厄介もの扱いされてる博士たちの吹きだまりになりつつあるのよ。ここに来たのは比較的マシな脳みその持ち主だわね。全ての教育課程を火星で受けたりとかで世間ずれしてない人とか」
そういうことをエレーナは聞きたくて口を開いたのではないと思うが、そのまま博士の話に誘われてこう聞いた。
「失礼ですが、博士も、その……」
「うーん、そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない」
またそう言ってこの淑女はごまかした。
「まあ、そういう『興味深い』話はリフトの中でしましょ。今みたいに、私の言葉でヒヤヒヤしてる方々もいるようだしね」そういじわるげに笑う。まるで善悪を知らない子供にまで若返ったかのように見えた。
リフトの部屋は、宇宙港の埠頭のように、目的に応じて自由に着脱して、その機能を短時間の内に変えることができる。全ての「ソケット」を二等室にすればまとめて百人を輸送することができるが、今回は62トンの大型貨物があるので、ぼくら乗客は片手で数えられる。――ちなみに重量削減のため、乗務員に代わってぼくらが移動中の一日、博士の安全に注意を払わなければいけない。博士にはアイダさんも付いてくれているのが救いだ。
「あのヒミコってコもここにいてくれていたら面白いのに」
「いやあ、きっとうるさいですよ」
笑いながら博士は、まあ、『アレ』を見張っていてってお願いしたのも私なんだけどね。と付け足した。
出発して三十分、落ち着いてきたぼくらは本来副事務局長らが使うはずだった個室で、パック詰めの紅茶を飲みながらくつろいでいた。こんないい部屋で火星に戻るなんて初めてだ。この場にヒミコだけ蚊帳の外にするのは、静かにこそなるけれど、少しはかわいそうだと思う。
「博士、真っ先に聞いておきたいことがあるんですけど」
「なにかしら、エレーナさん」
「博士は出発直前、『他の視察団の方を危険には巻き込まない』ておっしゃってました。博士はあの立方体を、危険なものだとみなしているんですか?」
「うーん、いままであなた二人の身になんら危険が及んでいないことを考えれば多分平気だと思うけど、視察団の中にも『安全ヒステリー』患者がいるからね。……さっきいたマレヴィチ教授っているでしょ? あの人科学者グループのリーダーで、あの人がギリギリ抑えてくれたから、こうして輸送できてるってわけよ」
そう言って、『それ』がヒミコと一緒に収まっている、地上寄りの足元をチラリと見る。
「まあ二人とも、宇宙で働く人間なんだから、イザってときの心構えはできてますでしょう?」
「そりゃあそうですけど、ぼくは『宇宙人の兵器に殺された地球人第一号』なんて噛ませ犬みたいな役は嫌ですよ」
「そうかしら? 私は結構名誉ある立場だと思うけど」博士はアハハと笑う。冗談であって欲しい。
「お疲れになってませんか?」アイダが博士に聞く。
「私は平気よ。それより、エレーナさん」
「なんですか?」
「あなたの着てるセータの柄……」
「ああ、母に編んでもらった物なんです。毛糸はさすがに地球から取り寄せたものですけど――」胸元をぐいとひっぱって、虹色をした刺繍を見せる。「ここに使ってる糸は実家のファームで作ったものなんです」
「それはあなたのご実家に代々伝わるデザイン?」
「詳しいことは知りませんけど、そうらしいです」
「ふーん、私もここに来てからそういう柄の服を買ったことがあるけど、そのデザインが正真正銘オリジナルなわけね」
「多分そうです。この星に移住する直前には、言葉と一緒に他の紋章のほとんどが失われていたみたいですけれど」
――彼女の実家は、オポチュニティ・エレベータができ、入植地が整備されると同時に入植した最初の人々で、さらに祖先をたどると南米ペルーとボリビア国境に住むケチュア人の中でも、とりわけ保守的な一族だったらしい。前世紀の初頭にも文明との接触はほとんどなく、周囲のわずかな部族にだけその存在を知られ、不思議な皮の色をしたジャガイモを細々と育てて暮らしていたという。
そんな人々が、なぜこの乾ききった星へ真っ先にやってきたのか――。その理由は火星の開拓史と密接に関わっている。
21世紀の折り返しが近づいた2030年代、人口増加速度は予想を大きく上向きに反れ、その頃には100億人に達してしまった。その想定外の人口爆発に、各国では泥縄式に「第二の緑の革命」が行われた。穀物輸出国である合衆国やオーストラリアでは、地下水の枯渇が深刻になったため急遽海水から造った淡水を運ぶパイプラインが整備されたが、それでも農業の不振による国力の大幅な低下は避けられなかった。中国は20世紀の大躍進政策の失敗から多くを学び、合理的な人口抑制政策と、農業の合理化を行い超大国としてのメンツを保ったが、中国の傀儡国家だったラオスとネパールでは、宗主国の機嫌を取ろうとまったくの時代遅れなマオイズムを推進し、多数の餓死者を出した。サハラ砂漠では、そこで生産される太陽光エネルギーに依存する地中海沿岸諸国と、農地を拡大したいAUとの間で激しい外交戦争が繰り広げられた。
そしてエレーナの先祖たちは、こんな時代の波にサトイモのように洗われた。彼らの耕した土地で、まったく作物が取れなくなったのである。
ボリビアは幾度も続いたクーデターの果て、国家というものをひたすら生産機械として駆動させる開発独裁国家が完成した。ボリビア政府は今までまったく開発されてない地下資源、それから耕地を徹底した管理下に置き、太平洋側諸国中最貧だった国を急速に成長させた。しかしその政策は土着の文化を無視した強引なものであった。海外から生産性の高く、病害に強いジャガイモ数種を導入し、国内の品種と盛んに交配されたが、輸入された種イモの中に、国内にはいない線虫に汚染されていたものが紛れ込んでいた。そのせいで抵抗性のないボリビア産の品種は土の中で真っ黒に腐り果てた。それはほとんどの農地で爆発的に伝染していき、海外品種の導入が遅れた農家のほとんどが被害を受けた。エレーナの祖先の土地もその内の一反だったのだ。政府は彼らを補助するどころか、汚染された土地をどんどん国有化し、少数民族を追い出した。エレーナの祖先たちはブラジルやメキシコ、ベネズエラなどの先進国へ離散していった。
それからおよそ十年後の2051年――TOYの完成と、トイズ型ロボットの生産により、地球の情勢が大きく変わる。TOYの子孫たちはみな賢く、慈愛に満ちていた。彼らは人間社会のありとあらゆるところに染み込み、いつもそばで助言を授けた。彼らの叡智により食糧供給は安定し、国境は合理的に整理された。人類は単発的・局所的に発生する問題だけを解決していけば良くなった――。それにより、人口の増加速度は緩やかになり、やがて下降し始めた。倒れた瓶からこぼれたインクのように、だらしなく膨張した世界中の大都市は、次第に都市圏をたたんでいった。「シティー・クリアランス」が始まったのである。――この現象について、たったいまバルダージ博士に教えてもらっているところだ。エレーナは真剣な、というより深刻な顔でこのミニ講義に耳を傾けている。
各国政府は今まで細々と行われていた「スラム・クリアランス」から、さらに大規模な整理事業を始めた。都市はもはや、無理に膨張する人口の受け皿になる必要はないとして、区画の整理だけではなく、都市機能の選別まで行われた。全てのメガロポリスが、その経済構造を厳密に評価され、必要最小限の社会的機能だけを残して再開発された。住宅都市・商業都市・行政都市・工業都市……。それぞれの都市から不要とされた産業の従事者のうち、高い技能と所得の持ち主は、住みなれた街を離れ、新天地へと移っていった。
しかし、低所得者や、縮小する経済に取り残されて、スラムで日々を過ごす人たちどこに行けばいいのか? この都市計画を推進した人々は、気安く「ムーラン・ルージュは店じまい」だの、「鍬を持て。街を出よう」などというスローガンを掲げたが、雇用の受け皿として想定していた農地にも、一切塵芥の積もらぬ田園都市が完成していた。もはや郊外に住める人間は、大規模農業資本体か、老後の趣味として農業ごっこができる、資本を予め蓄えた人たちだけだった。エレーナの祖先たちも、そんな自国政府の奨めに従い、散り散りになった祖先を集めて、インカが滅んだ後も住み続けた故郷を目指したという。――そこには資産家たちの避暑用の別荘が無数に並び、耕すべき黒い土はどこにもなかった。
地球の隅々は乳白色に輝いていた。そんな輝く世界から取り残された人々はもはや行き場をなくし、自発的に去勢を行い、色んな手を使って地球から「消えて」いった。ますます地球の人口グラフは落ち込んでいった。……しかしエレーナの先祖たちの中にはなんとか都市生活者の地位を獲得した者もいて、そんな人を軸にして一族のコミュニティを存続させていた。――独自の言語はスペイン語にとってかわられたが。
世界の人口はピーク時の3分の2にまで減り、残された人々は安楽な生活をただ楽しむようになった。ひたすら現在の暮らしが維持されることだけを願い、生活圏を決して広げようとしなかった。そんな自分たちの怠惰な精神を「吾唯足るを知る」と都合よく解釈し、冒険を試みる人々を徹底的に見下した。――文明は成熟を通り越して、急速に熱死していった。
しかし、こんな形で人間の精神がしぼんでいく状況を危惧する、心ある人たちも一握りいた。彼らは「夢追い人」とさげすまされながらも富と技術、人材――アンドロイドも含む――を結集させた。目指すべきフロンティアは、すなわち火星! もはや地球の資源だけで全人類を養えるのだが、そんなことは関係ない。その高潔な精神を保存するため、あの赤い惑星に入植するのだ。
その前哨として、月に自己増殖ロボットたちが放され、資源の開発とミニ軌道エレベータの建築が行われた。ここでオートマトロン建築の有効性が確かめられた。そして大多数の冷笑と無関心の中、地球にもインド洋上に1基だけ、軌道エレベータが造られた。ここを窓口に、探究心を残した人々と、光の隙間を縫い、細々と生きてきたマイノリティたちが飛び立っていった。その中にはエレーナの祖先となる、スキルと勇気と若さを兼ねそろえたケチュア人の男女三十人も混じっていた。
博士は講義の最後にこう結んだ。――この入植運動は、歴史上の入植・開拓に見られた政治的駆け引き、宗教的迫害などによる受動的な理由なく行われたものとして、大変画期的だった。もちろんエレーナさんの先祖のように、一族の再起をかけた、ホントに決死の覚悟をしたものもあったのだけれど。
「はい、私の臨時講義はこれでおしまい。……そういえばふたりとも、高等教育はどうだったの?」
「どう、って、どういう意味ですか?」
「どこで高等教育を受けていたかってことよ」
「私は通信過程で地球にある大学の単位を取ったんです。家業の手伝いもあるんで」
「ぼくはトーキョーの大学出て、語学全然出来ないのにそのままここに飛んできました」
「言葉で困らなかった?」
「まあ、わからない単語とかに出くわしたらコレの中に入れた辞書でソッコー調べちゃいますけど」
ぼくは腰のチャイナ・ボックスをポンと叩く。宇宙港の影に入っている内は、無線LANが届く。
「ジュンペイ君の眼は、えーと、生まれつき? それとも、事故か病気で?」
「脳の障害で、眼は元々見えません。それに、小学校に入る直前に耳も悪くなったんで、思い切って陶器にしてもらったんです」
ぼくの経歴に、博士は感心しきりだった。アイダさんもどうやら、多少は驚いているらしい。
「失礼ですが、博士の脚は……?」
「私のはね、車に、こう横から『バーン』と」
「事故ですか?」
「そうとも言えるし、そうじゃないとも……」
「ワディ、そこはからかわないで、教えてあげましょうよ」
アイダさんが口を挟む。「ワ――うう――准教授は暴漢に車をぶつけられたんです。つまり、学者を狙ったテロリズムです」
「え」
「もう、やめてよ。もうこれ以上辛気臭い話なんてしたくなかったのに」
「何を言うんです。あなたはこの方たちをお目に掛けているのでしょう? それに二人の昔話を聞いてしまったのですから、あなただけ秘密にしておくなんて、そんなの、卑怯です」
――卑怯! 介助ロボットなのに、そこまで言うのか。博士はさすがに困ったような顔をするが、不愉快ではなさそうだ。
「あなたの言うことももっともね。私はね、祖国での立場が微妙でね。要はコウモリ扱いされてるのよ」
「博士、生まれはどちらですか?」
「生まれも育ちも合衆国だけれど、一応はサウジアラビア国籍よ」
「それは……」
博士はひょうひょうと告げるが、この国の名を出すことは、火星でも少しはばかられる。今の地球ではどうだか知らないが、ぼくが大学生の時なんて、まるでそんな国など存在しないかのように扱われていた。(ぼくは理工系の単科大学に進んだから、そんなふうに感じていただけかもしれない。)
豊富な地下資源を駆使し、国威を発揚していた二十世紀とは打って変わり、かの国は「国際社会の腫れもの」という扱いをされていた。散発的にだが、世紀をまたいで、百年近く内戦をしているのだから。
十分の休み時間を挟んで、バルダージ博士はもう一つ講義をしてくれた。なんとも贅沢なことだが、こっちの内容は緊張する――。しかし彼女は故郷の内情ですら、研究対象か、教え子たちへの教材とみなしているようだった。
サウジアラビア王国を大混乱させたのは石油の枯渇ではない。その一番の原因は世界人口の大幅な減少だ。それが発生する前から世界中で脱地下資源を掲げたエネルギー革命が起きていたが、工業資源としての需要は引き続きあった。しかし世界経済をも縮小を始めると、需要と供給のバランスは崩れ、価格は暴落した。石油はもはや、石炭と同じく時代遅れの資源になったのである。
経済基盤が単なる「濁った油」になり果てたため、国内を支配していた権威と常識、その全てが色彩を失った。国内世論は様々な意見と利害で入り乱れ、王室にも、勧善懲悪委員会にもコントロール不能になった。メディナを中心としたある一派は、「今こそ国を閉じ、完璧なムスリム国家として生まれ変わろう」と主張したが、援助国から被援助国へと転落して厳格なイスラム法社会の見直しを迫られている上、豊かな生活で国民を釣ることができなくなってしまったのでは、非現実的な企てだった。王都リアドを中心とした別の派閥は、今まで貯めた金融資産を元に、金融国家へ転換しようと主張したが、金融センターとしてのお鉢を既にペルシャ湾諸国に奪われており、それらの国も経済縮小のアオリを受け、経済構造の見直しを迫られていたのである。そして彼らの主張は「退廃・堕落」の烙印を押され、メディナ派のテロリズムにさらされた。
「結局両者の折り合いはつかず、内戦が始まり、大勢の人が死んで、同じくらいの人が亡命した。私の父はメディナ派の木っ端な王族で、要は内戦の当事者だったんだけど、亡命を考えるようになった今世紀初頭には、戦いの主導権を外国からの傭兵――ほとんどが素人だったけど――に握られていたの。
彼らの正体は、都市から追い出された人々で、エレーナさんの先祖とは違って、自分たちの死に場所ばかりを考えてるような人たちだったの。彼らは対立する両派の主張なんてどうでもよかった。とにかくお互いに殺したり、殺されたりの、刹那的な快楽を求めた。半島はただの、人間屠殺工場にへとなり果てたの」
「『屠殺』――」
「キツイ言い方だけど、それが一番的を射た例えよ――。諸外国も、いい厄介払いができると、秘密裏に自国民の低所得者を兵士に仕立て上げて『派遣』した。このことが表沙汰にされたことはないけど、彼らも虚無的な気分になっていたから、戦場の実態なんて承知の上で、喜んで輸送船に乗りこんでいった。
そしてアラビア半島は現在進行形でたくさんの血で汚されている。最近では軍閥同士で口裏を合わせて、砂漠のど真ん中にまで到着したばかりの兵士を1万人規模で集めて、中性子爆弾を真上で爆発させて『処分』しているらしいわ。――証拠はないけど。こんな状況で、国の宗教的権威もあったもんじゃない。メッカ巡礼も半世紀以上中止され、ほかの宗教と同じく、イスラム教も、ゆっくりと劣化していった。父はこんな祖国に失望して、何人もの妻と子供たちと共に、合衆国に亡命した。――私が生まれたのはの亡命のあと」
「一夫多妻なんですか?」
「そー、経済破綻後でも、海外に資産を残せたからね。私の母は第5夫人で、義母のものも含めて、上には十一人の兄弟がいるわ。下には4人。……中には国に戻って内戦を収束させようとして、そのまま戦死した兄もいるけれど」
「それは……」
「そんなに深刻に思わなくていいわ。……でね、父は合衆国に移ってからも、祖国の統一にご執心だった。でも本人はもう老齢で――今、89歳だったかな――祖国と、イスラム世界の再建を、私たち子供たちに託したの。さっき言った戦死した兄も、彼なりに祖国のことを考えて、帰っていったのね。だから彼の名誉を考えて、彼の死を悲しむことは控えているの。
私は学問から、祖国の現状を変えたいと思った。でも父は保守的な人だから、家族が合衆国の文化に毒されていくことを内心危惧していたし、女に学問なんて、とも思っていたから代わりに理解を示してくれた兄たちの援助で大学に進んだの。そこで博士号を取って、今の地位を手に入れたんだけど、『若すぎる・女・ムスリム・言ってることが急進的』とか、色んな理由で右にも左にも敵をつくっちゃって」
「でも、ちょっと待って下さい。脚が悪くなるくらいなら、1週間くらいの入院で済むんじゃないんですか? よくは知らないですけど」
少なくとも、ぼくのように生まれつき欠いている機能を追加するよりずっと楽な手術のはずだ。
「ふふふ、アイダが一緒にいてくれるから不自由はないし、それに、こういう身体だと、色んなところでウケがいいのよ。勝手に悲劇のヒロイン扱いしてもらえて。ふふふ」
そういう社会的駆け引きと、自分の身体を天秤にかけるなんて、ぼくにはできそうもない。
「博士、どうしても腑に落ちません」エレーナが言う。
「何がかしら?」
「博士はご自身の身体を壊されても、故郷のために尽力なさるおつもりのはずなのに、それなのになぜ、ザナドゥ大学に? ……失礼ですが、左遷されてるような気がしますが」
「アハハ、私はいつまでもあの大学にいるつもりじゃないけど」
「じゃあ、その内地球に?」
「それもハズレ。……ほら、この星にはもう一本、エレベータとコロニーが造られてるでしょう」――ああ。これで納得した。「私はそこのコロニ―の都市計画に参加してるの。完成次第、そこに移住するわ」
この説明でぼくらも少しは納得した。第三のエレベータは環インド洋諸国の国、――とくにインド・インドネシア・ケニアが中心となって建造されている。
「このプロジェクトには多くのアラブ国家も追随してる。私はその新しいコロニーに、新たな聖地を造るくらいの覚悟があるの。火星に出来るこの新しいコロニーは、失われた故郷と宗教だけでなく、宗教のワクを超えた、人類の新たな成長のシンボルになるはず――。そこは、ただ終末を待ち望むようなヒトではなくて、好奇心を忘れてない人たち――二人みたいな人や、なんならアンドロイドでも構わない――のゆりかごになる、そして外宇宙への前線基地にもする」
「まるで夢物語みたいですね」
「そうかしら? 私はできると確信してこのプランを練ってるの。……でもまあ、マスタープランはある程度書き変えなきゃならないわね」
「ひょっとして『アレ』がやって来たからですか?」エレーナは足元をチラッと見る。
「ご名答! あれをカーバ神殿の黒曜石みたいな、新しいコロニーのシンボルにできたらいいな―って、漠然とアイディアを練ってたんだけど、詳しくはまだ考えてないわ。もしかしたら地球に取られちゃうものでもあるんだし」
ぼくらは博士の考えに共感もしたが、少し人間というものを理想化しすぎているともおもった。なによりぼくらを買いかぶり過ぎだ。
「まあ、もっと面白いことを思いついたら、あなたたちには真っ先に教えてあげる。……地上に着くのはあとどれくらい?」
傍らのアイダさんに聞く。
「まだ出発から6時間しか経過してません。そろそろお休みになられた方がよろしいかとおもいます。ジュンペイさんもエレーナさんも、今までの話を聞いて、お疲れでしょうから」
「いえ、ぼくらまだまだ平気ですけど」
「しかしお二人はずっと港にいたせいで体内時計がいくぶんか狂っているはずです。なるべく体力の消耗を抑えるべきです」
「ジュンペイ、ここは言われたとおりにしとこうよ」
そういうことで、この授業はお開きになり、ぼくらはそれぞれに割り振られた個室で休むことになった。バルダージ博士は「今回はすっ飛ばしちゃったけど、起きたら『日本の都市はなぜ収縮にしっぱいしたか』をテーマに講義してあげるけど、どう?」なんて言っていたが、その時はヘラリと笑って返事を避けた。
あの表情が通じていたかはわかずじまいになったが、結局その講義はお預けになった。
ぼくは本来ならスイートルーム扱いされたであろう個室で、備え付けのカプセルと、銀紙みたいな毛布にくるまれて眠っていた。陶器は腰から外していたが、仮眠のつもりなので、電源は点けっぱなしにしていた。
……スーッと身体が軽くなり、棺桶みたいなカプセルの天井に鼻がぶつかった。そしてまた身体がストンと背中から着地する。
「な、なんだ」慌てて飛び起きる。エレベータは緊急停止した。地上の制御センターからの交信がかかる。
「応答願います! 貴船の質量が、急速に低下しました! ただちに脱落したユニットを確認してください!」
エレーナの声が割って入る。
「こちらの制御盤に問い合わせたところ、どのユニットも喪失してません! 失われた重量はいくらですか?」
「ええと……、およそ16トンです」
「それに適合するユニット、このリフトは載せていません。そちらの誤認ではないのですか?」
「それも、制御盤で確認してください。確かに減少しています!」
ぼくも端子を見つけて、指紋認識をして、乗務員専用ページへ飛んで、確認する。
「本当だ! 確かに軽くなっている……」
「あら、ジュンペイ、起きたの?」
「ぼくのことよりもさ、バルダージ博士と、アイダさん――それとヒミコは無事なのか!?」
「博士の方は無事みたい。ユニットも残ってるけど……」
エレーナの声から遠く、ノックの音と、「何事ー?」の声が届く。間違いなく大丈夫のようだ。
「私、博士に部屋で待っているように言ってくる。それにユニットの確認もするから、地上との交信はまかせた」
「お、おう」
地上へ、タルニンテ検疫官に代わり、タクマ検疫官に交代したと報告する。――向こうも貨物の中身を知っているのか、相当混乱しているようだ。
……そうだ、「アレ」に何かがあった! でも、それはなんだ? とそうハッキリと疑問を意識する前に、頭の中に「着信」がなった。
「も、もしもし?」
「あ、ジュンさん? よかったぁ、今回はちゃんと電源入れててくれてたんですね?」
「ヒミコかい?」
「そうです。わたし、エレーナさんの電話番号知らないんで、ジュンさんのに掛けさせていただきました。もしかして、お休みになってましたか?」
「いや、そんなことより、君ならわかるだろう。そ――」
「起こしてしまったならごめんなさい。それにしても、こんな高所の、こんな部屋でもちゃんと電波入るんですね。ひょっとしたら圏外なんじゃないかと――」
「ヒミコ」
「私心細くって、何にもすることがないからスリープ状態にしてたんですけど、ここで眠っていても夢見が悪いですね。なにせ――」
「ヒミコ、ぼくの話をきいて!」
つい大きな声を出す。地上の管制官が、驚いてどうしたのかと聞いてくる。
「はい、いいえ、えーと……、真空貨物室にいるロボットがぼくの通話回線で交信してきたんです」
「すみません。あの、ジュンさん、どなたかとお話になられているのですか?」
「地上の管制室! このリフトになにが起きたのかと聞いているんだ!」
あっ……、というつぶやきが頭の中に響く。
「失礼しました。えっと、それではですね、まずジュンさんの陶器を、制御パネルと接続していただけませんか? 恐縮ですが」
ぼくは画面の横にある端子から接続コードを引っ張り出してチャイナ・ボックスと接続した。
「私は、立方体に何らかの異常が発生した場合に覚醒するように設定されていました。そして貨物室内のセンサが問題を感知して眼が覚めたのです……。今から貨物室の様子を、中継します」
ぼくの頭の中にも、映像が流れてくる。
「真っ暗で良くわからないんだけど」
「すみませんが、明かりはそちらの制御盤でお願いします」
言われた通りにパネルをいじると、照明の設定はすぐに見つかった。操作した途端、脳裏に閃光が走る。
リフトの半分以上のスペースをぶち抜いて設けられた真空の格納スペース。そこに立方体は鎮座している。そのまわりのヒミコはゆっくりと歩いて、それを視界におさめている。
「……『メンガーのスポンジ』だ!」
聡い地上の管制官の誰かが、そう叫んだ。その幾何学用語は聞いたことがある――。確か「フラクタル」という、果てしなく自己相似となる図形の一種だ。
その通り。立方体には、全ての面に、面積の9分の1になる四角い穴が貫通していた。――まだスポンジとは言えるようなモノではなかったけれど。
ヒミコは不用心に、穴のひとつに手を突っ込む。
「手品ではありません……。確かになくなってます!」
彼女の驚きぶりも、ぼくの脳に、直接届けられているように錯覚した。ヒミコの感情は、本物だ。