第1章 収容と運搬(前篇)
文章の基礎的な力はあるようにお見受けしますが、いかんせん未来世界の設定が今ひとつで世界観に入り込めませんでした。(平林)
2012年春「星海社FICTIONS新人賞」にて、そう評価を頂いた作品を加筆したものです。あの一行コメント、かなり的を射ています。
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かの福祉運動家、ヘレン・ケラー女史は、二歳になる前に原因不明の重い病を患って、その視力と聴力を失った。しかしアン・サリバン先生の献身的な教育のおかげで言葉を獲得し、その後サリバン先生との二人三脚で学問の道を歩んでいった。そんな彼女に逸話は事欠かないが、その中で最も有名で、なおかつぼくが大好きなエピソードといえば、彼女が七歳の時の、コップと水の話だろう。
ヘレンは水とコップを同じ手文字で覚えてしまい、サリバン先生はこれを違うものだとなんとか教え込ませようとするが、ヘレンは容易に理解できない。そしてじれたさのあまり何度も癇癪を起すが、先生はこんな方法を用いて、ついに二つの物の違いを教え込ませた。ヘレンにコップを握らせて、井戸のポンプの吹き出し口にそれをあてがわせるのだ。サリバン先生はポンプのジャッキをどんどん動かして井戸水をくみ上げる。口からジャブジャブと湧き出た水はあっという間にコップを満たし、表面張力むなしく溢れ出す。それは彼女の手と腕を伝い、ビショビショと濡らしていく。サリバン先生はすかさず、お互いの空いている片手を合わせ、「W・A・T・E・R」の手文字を送る。これにより、ヘレンは万物にはそれぞれ名前があることに気付き、学ぶことの楽しさを知った。
彼女の半生を描いた1962年の映画「奇跡の人」では、クライマックスにこのシーンを持ってきている。知恵の兆しを得たヘレンは全ての物の名前を知ろうと、サリバン先生と共に家の前の庭を駆け巡る。ぼくはこの映画も大好きで、七歳の時から幾度となく視聴し、今では台詞の全てを諳んじてしまえるほどだ。
さて、たったいまぼくも日常から離脱し、ヘレン・ケラーと全く同じく何も見えず、何も聞こえない漆黒の世界に身を置いている。一応ここは虚無の世界ではなくて、数え切れないほどの様々な気体元素に満たされているのだが、視覚と聴覚に頼り過ぎた生活が長引いていたために、それらを感じ取る能力がかなり衰えていた。いま把握できるのは、ここがひどく寒いところだということだけ――。昔のぼくなら、ここはどれぐらいの広さで、自分がどこに立っているのかぐらい直感的にわかったはずなのに。ぼくは慎重に両腕を伸ばし切ろうとした。が、不格好な固いものがそれを拒む。こいつは、こんな近くに横たわっていたのか! 厚手の手袋をはめているので、おおざっぱな凹凸しかわからない。ぼくはもっと「こいつ」の質感を知りたかったので、意を決して手袋を脱ぎ捨てた。手の甲を冷気が襲いかかる。このままでは触覚まで奪われてしまう。早く用を済ませてしまおう。
ぼくは素手を「こいつ」に密着させた。その肌はさしずめ「じゃっくり」とした感触で、年季の入ったアスファルト面のようだ。しかし薄い霜が表面に貼りついているため、これまだ「こいつ」そのものの質感ではない。
……。一、二分は経っただろうか。冷気で手の平はじんじんと痛みだしたが、ぼくの体温が「こいつ」に伝わり、その表面が少しだけ融けた。シャーベット状になった「こいつ」からは、ツンとした薬品のような臭いが漂った。もしもここが常温の空気で満たされていたら、爆発的に噴き出したこの揮発成分のせいでぼくの健康は著しく脅かされていることだろう。――本当なら、防毒マスクなしでここに来ることは、色んな理由で禁止されているのだ。しかしぼくはこの仕事に就いた時から、この儀式をすることをずっと夢見ていた。そんな若者らしい野望の前には、多少の禁忌ぐらい許されることだろう。迷惑を被るのはどうせぼく一人だけのはずなのだから。
しかし、それもいい加減終わりだ――。もうすぐ休憩時間は終わってしまうし、なにより指先も鼻も馬鹿になってきて、もうこの感覚を楽しめなくなってきたためだ。ぼくのスケジュールによると、この儀式の締めくくりは、「こいつ」に名前を与えること。サリバン先生がぼくの傍らにいたら、五つの手文字を教えてくれたことだろう。それはすなわち、「C・O・M・E・T」――。
……感慨に浸る間もなく、ぼくは防寒具のフードをつかまれて後ろへ引きずり倒された。真っ暗闇の中でバランスを崩したので、ぼくは久しぶりに味わった恐怖心から、どうしようもないパニックに陥ってしまった。ぼくは両腕をばたつかせて腰に巻いてある「陶器の箱」の電源を復帰させようとした。しかしいくら手を振り回してもスイッチにたどり着けない。それは外套の下に隠れているのだから、まずは上着を脱がなければならないのだ――。ぼくは闇雲にもがくばかりだった。きっと船外活動をするアストロノーツなら、こんなときにもスマートに問題を解決できるのだろう。
不意にぼくを拉致しようとしている人物が、目覚まし時計を止めるようにぼくの頭頂部を軽く叩いた。「おとなしくしなさい」の意味だ。ぼくはその手の持ち主のことをよく知っていたので、素直に従った。
「彼女」は静かになったぼくを抱き起こして、身体を支えながら一緒に歩いてくれた。二回ほど立ち止ったあと、ぼくはあの場所よりはずっと温かいところまで連れていってもらい、棒立ちのまま彼女にファスナーを下ろしてもらった。――むろん、外套の、である。彼女は捜査に戸惑うことなく、そのまま「チャイナ・ボックス」の電源ボタンを押した。浅い夢から起こされ、ベッドから転げ落ちるような衝撃が背筋に走るが、今度はバランスを崩さなかった。
「……ジュンペイ、ジュンペイ? わたしの声が聞こえますか?」
文字におこすとソフトだが、彼女の声には、いら立ちとからかいの、両方の意味が含まれていた。ぼくの聴力はすぐに蘇ったが、視力の方はなかなか戻らない。今のところ認識できるのは明暗だけで、天井の照明しかわからない。
「声はよくわかるよ、エレーナ。でもきみの姿が見えない。……廊下に連れて来てくれたのか?」
チャイナ・ボックスは段階的にその機能を復旧させた。今の復旧率は50%といったところだろう。そのおかげで、目の前に立っている、同僚のエレーナの姿を、モノクロながらもはっきりと結んだ。
「そうよ。あの部屋で立ち話するもなんだし」
「だからって、いきなり引き倒した上に、ぶつことはないだろ? 興ざめだな」
「だってあなた、自分の世界にトリップしていたでしょ。目も耳も塞いじゃってさあ。……あれが日本人の言う禅の境地?」
「いや、そんなわけないだろう」
「そうよね。修行の一環ならまさか腐った雪玉に手を突っ込んで絶叫するはずないよね多分。『こおぉぉぉめえぇぇぇっとおぉぉぉぉ!』、なんて。……またェレン・ケラーごっこ?」恥ずかしいことに、ぼくは無意識のうちに叫んでいたらしい。聞いていたのがエレーナ以外だったら、もっと恥ずかしかったことだろう。
「ま、うん、そうだよ。でも、知ってる? 実はヘレン・ケラーって――」
「『WATER』を覚えたときに『ウォー、ウォー』ってうなったのはお芝居のための創作――、そうでしょ?」
「知ってるのかい?」
「一緒に仕事をするようになってから、嫌というほど聞かされたわ、あなたから」
いまだチャイナ・ボックスは正常に動作せず、まだ彼女の表情を「顔」としか認知できない。でもきっと飽き飽きしていることだろう。ぼくは返す言葉がなく、つい苦笑いした。
……ぼくがこの職場に雇われてから今までの一年半で、エレーナはもっとも親しくしてくれている仲間だった。肌の色こそ若干違うが、彼女はぼくと同じモンゴロイドだから、お互いにその切れない顔立ちには親近感があった。彼女は生まれも育ちも火星で、この惑星で生きるための術を、地球育ちのぼくに余すことなく教えてくれている。ぼくもそのお返しにと知っていることを余すことなく教えようとするのだが、彼女は地球の話をしつこくされることを嫌がるので、ぼくが饒舌に語れるのは自分の身の上話と、最も尊敬する人物であるヘレン・ケラーのことぐらいしかない。
彼女は自分の防寒着を脱いで、やたらとバタバタ仰いでいる。その下に着ている、ぴっちりした制服がいつ見ても悩ましい。彼女が着ている制服は極低気圧環境での技術スタッフ一人ずつの身体に合わせてつくられたオーダーメイドで、船外活動・船外活動用の宇宙服を着る際には、そのままアンダーウェアとして転用できる。こんなデザインで、宇宙線から作業員の健康を守ってくれる命綱だ。
エレーナはさすが火星育ちらしく、女性にもかかわらず179センチという高身長の持ち主だった。ぼくは地球男子としては遜色ない身長を持っているが、それでも彼女より1インチ低い。しかし彼女にはその体躯のわりに、威圧感がまるでない。ふにふにとした頬と、低重力栽培トマト並みに大きい胸のふくらみの割に、手足が火星の庭に生える木の幹のように細すぎるせいだ。――火星に移住したばかりの新参者は、たいてい地球での医者の言いつけを無視して、低重力に逆らうためのトレーニングを放棄してしまう。そのせいで地球では考えられないような規格外の体型の持ち主が現在進行形で量産されている。一方、彼女は推奨されている量の二倍のトレーニングを686日ほぼ欠かさずこなすことで余計なぜい肉を徹底的に落としていた。そのため彼女の四肢はもっぱら骨と筋肉でできているのだが、地球のおよそ40%という弱い重力にさらされながら増やすことができる筋肉の量には限界がある。彼女がこれ以上たくましくなろうとトレーニング量を増やすと、同じく低重力のせいで脆くなったその骨は耐えきれずに破断してしまうことだろう。
ぼくはエレーナの全身を見るたび、性的興奮よりも先に彼女の健康に対する酸っぱい危惧が湧きあがってしまう。――今だってそうだ。でも彼女がなぜこのスタイルに固執しているのかも教えてもらっているので、口に出してそれを指摘することは半ば諦めかけている。……それでも、どうにも歯がゆい。
とにかく彼女は背が高い。そのため彼女がいると普通の人なら遠近感が狂いまくるのだが、ぼくの場合はチャイナ・ボックスの機能で錯視を帳消しに出来るので、彼女との距離感を完璧に把握することができる。彼女は6メートルも離れたところに立っていた。
「ね、二つばかり聞いてもいいかな」
「なにー?」エレーナは脱ぎたてのオーバーオールを虫の死骸のようにつまんでいる。
「君はなんでぼくからそんなに距離をとっているんだい? それに、もう保管室から出たのに、なぜ防毒マスクをはずさない?」
顔をズームアップすると、彼女はウンザリした風に眉をひそめていた。ため息で、半透明のマスク内が真っ白になる。
「もうそのオメメは正常に動くでしょう? ……自分のお手手と、ご自分の上着をよっく御覧なさい」
「ん……? おっと」
ぼくの両手には、ぬるりとした、油に似た赤黒い液体が付着していた。それはぼくの外套にまでたくさんくっつき、シミになっている。さっきパニックになった際に、あちこち触ってしまったせいだ。
「自分だけを汚すならともかく、あなた、私のまで掴むんですもの。お互いひどい臭いよ」
彗星は酸化アルミニウムその他金属の酸化物をこねてつくった泥団子だ。さらにその中にはオゾンにアンモニア、揮発性の有機酸がたっぷり溶けこんでいる。それが空気中で噴き出すと当然、すさまじい悪臭を放つ。
「本当ならここのガス警報機が鳴りだす前にとっととシャワーを浴びたいんだけど、あなたにはたっぷりお説教をしなきゃいけないみたいね」雷鳴が轟く前の稲光だ。「……あの冷凍保管庫には私用で立ち寄っちゃ駄目でしょ! それに検疫前の保管物を素手で触るなんてもってのほか! コンタミしたらどうするの。あとで生理的検査するのは私なのよ!?」
「や、でもさあ」ぼくは自分に100%非があるのことを承知で弁明する。「検査する時は表面削るんだろう? ぼくが溶かしちまったのはせいぜい数ミリなのに」
「それでも駄目。規則だから」
「だってあれ、ホコリや塵じゃない、初めて完璧に拿捕された彗星のひとかけらなんだぜ? ぼくここに来て、この手で触れるのをずっと楽しみにしてたのに」
「私だって楽しみだったわよ。ここで働いているマトモな人間はみんな、あれの到着を心の底から待ってた」
「でもロクな学術調査もせずドロドロに溶かして、検査と消毒が済んだら下界に送るんだろう」
「ええ、そうよ」
「そんなもったいないことを君は許せるのか? だからぼくはそんな蛮行が行われる前にこの天然記念物を生身の感覚で味わおうとしただけだい」
「でももし、あの中に未知の生命がいて、あなたの身体が汚染されていたら?」
「そんなの事前検査であり得ないとわかってるじゃないか。そんなとるに足らないリスクに、君は怯えてるのか?」
「違う! 私だってそんな与太話を信じているわけじゃない。でも『下界人』は怖いのよ……。もしあなたが今後彗星の有害物質で体調を崩したり、全然関係ない風邪をひいたりして、そのことが外にばれたら大パニックになるわ」
彼女はまたため息をついたが、視点ははるか遠くに焦点を合わせている。
「――とにかくね、アレはもう何度も持ち込まれた土星の輪っかとか、エンケラドゥスの氷河とかとはわけが違うの。もっと慎重に扱ってくれないかしら。……ねえ」
エレーナがぼくを服従させる最大の武器は肉弾戦ではなく、肌と同じく赤銅色をした瞳を用いた、言葉のない哀願だった。この一撃は荷重を伴っているので、相当重い。彼女はこの精神攻撃を、狙ってやっているわけではなく、無意識に発揮させてしまう。
「……はい、ごめんなさい」
「それじゃあ、あなたはシャワーを浴びてきて、念入りに身体を洗いなさい。いいね?」
彼女は立ち去ろうとした。ぼくはあわてて呼び止める。
「ちょっと待った! 君は別にぼくを叱るためだけに来たわけじゃないんだろ? ……用事はなに?」
「あ、言ってなかったかしら。所長がね、臨時で0圧分析室に運び込まれるものがあるから、私とジュンと、それから、……ヒィミコの三人で収容作業に当たれっていうのよ。詳しい業務説明をこれから所長室でするんだけど、それを連絡しようにもあなたチャイナ・ボックスの電源を切っていたから全然電話が通じなくて、それでィミコに居場所を調べてもらったらここにいるっていうから」
「そうだったのか。で、それがここに到着するのはいつごろ? 緊急なんだから、一週間後とか?」
「……6時間後」
「……は?」
冗談じゃない。そんないきなり予定を挟まれても、この宇宙港は一、二年後までのスケジュールがびっしり組まれているから、それを簡単に調節できるはずがないのだ。そりゃあもちろん、まさかのときの災害救助や人員の欠落も考慮に入れているから、半月ほど先の変更なら何とかなる。しかし今はそうはいかない。三日前に、二本の火星静止軌道エレベータ合同で行った「ユーコン第一彗星回収計画」の第一段階が終わり、これから通常業務の合間を縫ってあのバカでかい欠片の検疫に成分の査定、それから一年後の本体――彗星の核――の回収を成功させるための施設拡張および訓練を行わなければならない。
「こんな忙しい時に……」
「そう愚痴りたいのは山々なんだけど、油を売ってて私の貴重な時間を奪ったあなたがそれを言う資格はないと思うのよ」
休憩中なんだから、どこでなにをしていようが構わないじゃないか、とは口答えできなかった。この仕事は少しのミスが自分だけではなく、火星住民全ての命に関わってしまう。だからどんなに過密なスケジュールでも、ぼくらスタッフにはかなり長い休憩時間が与えられている。――ただし地表へ帰るには、炭素ケーブルを伝って往復六日かかるので、もっぱら談話室や保養室で時間をつぶすしかない。
「――正直に言うとね、これ、ウンザリだけじゃなくて、どうにも臭いのよ」
「なんだい。もう一個彗星のサンプルが追加で送られてくるってこと?」
「そうじゃなくって、送られてくるものがなんなのか全然わからないってことよ。こちらが知らされているのはビーコンから伝えられる予想航行進路と、大体の重さだけ」
「最低限の情報ってわけか。……キナ臭いどころか、なんか、こわいなあ」
「でしょ? だからはやく回収船を飛ばして、ブツが一体なんなのか、肉眼で確かめなきゃならないの。だから実際は4時間くらいしか猶予がないのよ」
「船に乗るのは君とヒミコかい?」
「あなたは乗れないんだから他に誰が行くの? 詳しい話は後で所長から教えてもらえるはずだわ。あの人も具体的なことは全然知らないらしいけどね。……それじゃあ一度オフィスで落ちあいましょ。今から十五分後、お互い清潔になったらね」
エレーナは踵を返して、再びぼくの目の前から去っていく。彼女の動きを感知して照明がその歩みを追いかけていく。……ぼくもシャワー室に行こうとするが、不意にエレーナが振りかえった。
「あ、そだ。ジュン。私も聞いておかなきゃいけないことが残ってたんだ」彼女は防毒マスクをペリペリと剥がしていた。
「なんだよ」
「まさかとは思うけど、あなた、彗星の欠片を舐めたり食べたりしないわよね?」
「そんなことしてたら、今ごろ医務室で寝込んでるわ!」
「アハハ、それもそうね。……それじゃあ後日、口止め料とクリーニング代、よろしくね」
こんどこそ間違いなく彼女は去って行った。
……ぼくの鼻腔の中も、ようやく感覚が戻って来た。恐る恐る両手の臭いを嗅ぐ。――確かにひどい臭いだ。しかし小さい頃の、ずっと入院していた頃の記憶を蘇らせてくれる、なんとも懐かしい、建設的な刺激も伴っていた。
2
シャワーを浴びている時に背後から視線を感じて怖い思いをしたという人は、結構いるらしい。そんなきっかけで始まる怪談話は、宇宙時代であるはずのこの22世紀になってもしぶとく生き残っているが、ぼくに言わせれば、あんなものは最も重要な外部情報源である視覚が絶たれたことによる恐怖心が産んだ幻覚に過ぎない。現にいまぼくはエレーナに言われた通り、無音無光の中シャワーで彗星の塵を落としているが、なんの気配も感じない。日ごろから目が見えない状況に慣れてさえいれば、無駄に怯えることなんてないはずなのだ。
自慢じゃないが、ぼくは何かが見えないことで恐怖を感じたことは、……さっきエレーナに隙を突かれたのはノーカンにして欲しいけれど、多分一度もない。それはなぜかというと、ぼくには先天的に視力がまったく欠けているだからだ。
ぼくの脳の背面にある一次視覚野は、発育不良により胎児の頃から一度も発火したためしがない。そのためぼくには真っ暗闇の世界こそがデフォルトなのだ。――この程度の障害なら、特に医療技術に頼らなくても、行政からの教育・福祉サービスさえ受けていれば、人生でどんな辛酸を舐めようが及第点レベルの社会人にはなれる。しかし、ぼくはこれに加えて後天性の聴覚障害まで背負っていた。これは生まれた時代と運が悪かったとしか言いようがない。
ぼくが6歳の時に――特別支援学校への入学を二ヶ月後にひかえていた頃なのだが――世界規模で新種の脳炎ウイルスである「ダーウィン脳炎」(初めてウイルスが単離されたのがオーストラリアのダーウィン市なので)が発生し、日本はウイルスの国内侵入にばかり神経をとがらせ、いざ上陸してときの対応策は一切練っていなかったため都市部を中心に大流行、ぼくもそれにかかってしまったのである。ぼくは一週間もの間病院に入院させられた。熱に浮かされたぼくはその間、ひたすら悪夢の中でガンガン響き続ける嫌な音――自動車のクラクションとか、ガラスの割れる音とか、なぜか当時怖いと思っていた「第九」――の大洪水から逃れようと必死にあがいていた。やがてその音は干潮のように引いていったが、それと同時に本物の音もぼくから去っていたことに気付いた。……脳細胞の一部がウイルスに焼かれ、ぼくもヘレン・ケラーと同じ境遇になっていたのだ。
この頃ぼくにはもう物心が付いていたが、自分の身の上に絶望して泣くことはなかったはずだ。――味覚と触覚をハッキリ感じる以外は、どうにもレム睡眠でいる時との違いがわからなかったせいだ。ただ、よく知っているいくつもの手が、震えながら頬と手の平を恐る恐るなで、震える身体で何度も抱きしめられたことは夢なんかじゃなかった。その感触がどうにも寂しくて、その度にまた第九が頭に溢れ出して、辛い気持ちになりめそめそ泣いていたのだとは憶えている。
不幸中の幸いというべきか、この事態はあっけなく好転した。およそ半世紀も前に、ヒトの失われた感覚質を補助する外付け拡張ニューラル・ネットワーク・コンピュータ(NNC)「チャイナ・ボックス」が医療用として発明されていたのだが、日本では「子供の脳の発達に悪影響を与える」「子供のIQを無理矢理上げようと取り付ける親が出かねない」として何十年もの間、二十歳にならない未成年への使用が禁止されていた。それが「脳の成長する余地がある内に取りつけるのが最良の選択」ということがわかり、ぼくが聴力を失った三ヶ月後に解禁されたのだ。
解禁後もあらゆる方面から「障害児の豊かな心と才能が健常者の世界に接することで穢されてしまう」だの、「人間は自助でもって困難を乗り越えてこそ美しく輝く」だの、現実から乖離した批判が散々行われた。ぼくの両親もこれとそっくり同じことを父方の叔母に言われたらしいが、二人が障害者に対する超人信仰を持っていなかったおかげで、それを蹴って医師から手術の奨めを二つ返事で受け入れてくれた。――手術とその後のリハビリを経て、普通の小学校に入学することにしたのだ。
さて、手術を行う前に、生身の脳の内、どれだけの視覚回路がこれからの学習で動かせるようになるかを何日もかけて散々テストさせられた。――医療用のNNCは工業用のものと違って少数生産のオーダーメイドなので値段がベラボーに張る。なので取り寄せるユニット数を最小限にするためにはこの行程が不可欠なのだが、頭に電極を付けられてひたすらあちこちを微弱電流でバチバチされるのである。この瞬間はありとあらゆる感覚が励起し、まるでぐるぐる転がされているかのよう。これが痛くて苦しくて吐き気を催す上に、外界の様子を把握できない状態で不意打ち的にされるのだから、怖いったらない。そのため主治医が病室に来て、その足音をわずかな床の振動から感知するたびに、ぼくはヘレンと全く同じくベッドから転げ落ちてどこか隠れる所はないかと手探りでさまようのである。……いざ捕まって手足を縛られたら、それはもう凄まじい悲鳴をあげていたのだろう。
そんな苦労をぼくと主治医はしつつ、ついにチャイナ・ボックスのドライバを後頭部に取りつける手術を行った。解禁から二ヶ月後のことだ。聾は後天的なもので、知能面での障害もなかったため、買わなければならないチャイナ・ボックスは中くらい(スナック・サイズ)のもので済んだ。――それでも自動車二台分の値段はするのだが、両親が親族に頼み込んでかき集めた予算よりも安い。そのおかげでチャイナ・ボックスと同じ会社が製造するカメラ義眼も、一段上位の機種に変更できた。――ぼくの生身の眼は一度も視覚情報のフィードバックをさせられなかったので、奇跡でもない限りまったくその用途を果たせない。さらにヒトの生涯を通して眼の大きさはほとんどかわらず、視神経の回路をチャイナ・ボックスにバイパスさせる手術は、聴神経に施すそれにくらべて大がかりかつハイリスクなので、機械の眼に置き換えた方が経済的かつ安全なのだ。
ぼくに取り付けられた人工眼は潜水艦の窓みたいな湾曲した強化アクリルに液体樹脂を満たし、そこに遊泳性を持ったナノマシン――正体はこちらもNNC――を溶かしたもので、他人が見ると真っ黒なサングラスの中を蛍の群れが飛んでいるように見える。それが瞳孔の代わりに、離合集散を繰り返してあちらこちらを向くのだ。人によってはこの光景に、あからさまな嫌悪感を抱く。
この手術のおかげで、ぼくは健常者と等しい五感を獲得した――とは、すぐにはいかない。むしろ苦労するのは取り付けた後からだ。聴覚は確かに手術から三日後、チャイナ・ボックスを起動させた直後から復旧した。――問題は視覚の方だ。視覚はヒトに備わった感覚の長であり、司令塔だ。それが欠けているぼくの脳は他の感覚がお互いに刺激を共有し合うことで――いわゆる「共感覚」――それを補っていたのだが、そこにいきなり大容量の視覚情報がドボンとやって来た。ぼくの脳はそれを滑らかに処理できるよう、すべての共感覚を分離させなければならなかった。その時の訓練で、教材のひとつとして用いたのが「奇跡の人」だった(ただし「日本語吹き替え版」)。
初めて観せられたのはリハビリが半月進み、脳の混乱を落ち着かせる鎮静剤の量を半分に減らせたときだ。この映画は白黒だったので、そんな未熟なぼくの脳とチャイナ・ボックス双方に過負荷を与えずにすむ、と主治医が判断して、選んでくれたのだ。……しかし初めての視聴時間は、わずか3分だった。まるでロールシャッハテストを延々と見せられているようで嫌気がさし、そのうえ口の中に苦みが広がって、すっかり酔ってしまったのだ。やむなくチャイナ・ボックスの視覚ユニットの接続を切ってもらい、耳だけでも聞いていようとするが、手づかみで食事しようとするヘレンとそれをやめさせたいサリバン先生が激しく格闘するシーンでの、すさまじいクラップ音の波ですっかりまいってしまった。それでも医師はチャイナ・ボックスを起動させたままの散歩と――平衡感覚も狂っているのに! ――この映画の視聴を毎日ぼくに義務付けた。この先生もアン・サリバン並みにしつこかったわけだが、映画と違うのは、両親も彼の味方だったということだ。反抗期前の親恋しい年頃だったが、一連のリハビリを終えた後でないと、母は病院まで見舞いに来てくれないのである。この期間のせいで、ぼくは目が見える人はみんな、産まれた後にはこんな辛い思いをしてきたのかと変な勘違いをしてしまったが、とにかくこの挟み撃ちのスパルタ教育のおかげで、二ヶ月後にはなんとか107分通してこの映画を見終えることができた。そこからは更に二、三ヶ月かけて赤・緑・青の三原色を知覚できるように訓練をしたが、その頃にはもうものを見るということが苦痛ではなくなり、むしろとても楽しいことだと理解できた。自転車に乗れるようになった時に味わえる解放感とよく似ている。
それから今日に至るまでの十七年間、他人が気味悪がる人工の眼を持っていることで苦労したことは多々あったが、ものを見れるということはやはり素敵なことだ。音だけの世界ではどんなに説明されてもわからないことが山程あるが、それが全て解決してしまう――。その代表格といえるのが「星」だ。ぼくがその存在に気付いたのは、初めてチャイナ・ボックスを起動したまま、リハビリ通院から父と一緒に徒歩で帰った時のことだ。夕暮れの中光り出した一番星を見つけたが、どんなに義眼レンズの倍率を上げていってもそれは光の点にしかならない。息子が天宮をひたすら凝視しているのに気付いた父が、「あれは星だよ」と教えてくれた。
「あれは穴があいて、光が漏れてるの?」
「違うよ。太陽と同じものが、うんと遠い所にあるんだよ」
この「うんと遠い」の具体的な距離感こそつかめなかったが、手を伸ばしたり、大声を出すだけでは自分がここにいると知らせられない世界があることが、よい意味でショックだった。それ以来ぼくはしょっちゅう「あの星はなんだ」「ここからどれくらい遠いのか」と、天文学者でもない両親に聞きまくって困らせた。そのうち観念した二人は、「わからないことがあったらこれで調べてね」と天文宇宙に関する、大人向けのなかなか分厚い図鑑を買ってきてくれた。ぼくは家にいる内はこれを読むことで時間を潰した。そして太陽以外の恒星は、とても一人の人間が触れに行けない所にあるが、太陽系の惑星なら、旅行にも行けるし、色々と不自由に我慢すれば移住することも可能だと知った。――特にぼくの心をつかんだのが、火星の入植史について解説した章だった。
建造中のものも含め、現在火星には3本の静止軌道エレベータがあるが、その図鑑には前世紀後半に着工し、2135年(地球暦)の「火星博」に合わせて造られた、惑星を挟んで立つ二対の軌道エレベータ「パボニス・エレベータ」と「オポチュニティ・エレベータ」――後者が今、ぼくのいる職場だ――が出来上がるまでの全工程が掲載されていた。最初の計画では、火星の衛星フォボスとダイモスの周回軌道を変え、エレベータのアンカー衛星にするとともに、地表までを結ぶケーブル素材を調達する算段だった。しかし二つの衛星には材料の一つである炭素がほとんど含まれていないことが事前調査で明らかになっため、二本同時進行に建設される計画から、先に「パボニス・エレベータ」を完成させ、それを運用して「オポチュニティ・エレベータ」の炭素資材を地表から輸送することなった。まずは火星に埋蔵している炭素から貨物輸送用の細いガイドケーブルを1本造り、それをつたって太いケーブルを建造していってエレベータを完成させるのだが、このガイドケーブルづくりの工程がなんともエレガントだ。化学燃料ロケットに頼ることなく、この大事業が行われたのだから。
まずはのちに宇宙港となる静止軌道上に簡易的な宇宙ステーションと巨大太陽光発電所を建造し、そこで生産したエネルギーを転送するためのマイクロ波照射装置も2台設置する。狙いを定めるは、真下にそびえる巨大な死火山パボニスだ。しかしその山頂に建造するマイクロ波受信局は一つだけ。もう一台の照射装置はどこに向かってエネルギーを照射するのか? 浅いすり鉢状になった火口の底へだ。ただし受信局を造るのではない。代わりに直径1.5㎞もある円形コイルを建設し、宇宙ステーション上にもそれと相同のものを造る。ステーション上のコイルは発電パネルを太陽風セイルとしてバランスをとり、お互いを一直線上に並ばせる。――そして静止軌道上のものには発電所から、地上のものには受信局からそれぞれ電気を供給すれば、天へと伸びる巨大な磁力線が完成する。これは軌道エレベータの下書きであり、まだ構想段階にすぎないが、火星の磁場を復活させる「イエローナイフ計画」のミニチュアでもあった。
地上コイルが完成したら、さらにその内側、カルデラの中央に横穴が一定間隔に空けられたプラスチック・チューブを格子状に敷いていく。それは植物工場で使われる灌漑用チューブそっくりだが、中を通すのは水ではなく、ふもとの永久凍土からつくった液化一酸化炭素だ。その上からインディゴ色した粉末をかけていくのだが、この粉は炭素射出のための触媒にすぎない。その量は約2000tにもなるが、一酸化炭素の質量はその数万倍はあるのだ。
本番の建築計画は南北両方の極冠が最大面積になり火星大気圧が下がる春・秋の半年間――地球の暦で一年――の、地温上昇に邪魔されない夜間を見計らって行われた。静止軌道上にいる宇宙ステーションには日光が届くから問題ない。さあ、いよいよだ。2台のマイクロ波は、ほぼ平行に火星に向かって発射される。それの一筋を浴びた受信局は地上コイルに電力を与え、それに同期して軌道上のコイルも磁界を結び出す。一方、お釜の底はどうなった? チューブからは液化一酸化炭素がゴボゴボ吹き出し、覆いかぶさる粉末を持ち上げてゆく。パボニス山の頭頂部は、すでに火星大気圏の外だ。いくら夜間の極低温とはいえ、真空にさらされればこの猛毒の水はあっという間に沸騰し、粉末ごと宇宙空間へ吹きとんでいくだろう。……しかし、この蒸気爆発が計画の目的ではない。そして実際、爆発なんてどこにも起きなかった。生じるはずだった衝撃は、敷き詰められていた粉――直径25マイクロメートルにまとめられた自動演算素子の結晶。NNCにも使われている微小演算素子を一定量のメモリークラスタでまとめ、チタン皮膜で保護したマイクロマシン――に吸収されていた。このオートマトロン達は自己増殖能こそ与えられていないが、マイクロ波をエネルギー源に特定の物質を合成・分解・成型し、磁場の潮流に沿って浮遊する。このオートマトロンには一酸化炭素を還元して純粋な炭素を取り出す役目が与えられていた。火口の中を副産物であるオゾンで満たしながら、一粒一粒が無定形炭素の殻をまとい、それをかけ橋にお互いに緩く結合していく。……初めは部屋の隅にできたホコリ玉のようなそれは磁力線の流れに沿って一本の束になり、やがてそれはレッドウッドのような立派な幹へと成長していく。……一本、二本、三本。低重力で、気流もない世界で、それはどんどん闇夜に向かって伸びていく。
炭化木の森は、受信局を60メートル下に見下ろすところまで到達し、そこで成長をやめた。これがそのまま静止軌道まで行くわけではないのだ。これ以上伸長すれば、自重で倒壊してしまうのだから。
しかし根元ではまだまだ液化一酸化炭素が注がれ、培養が進んでいる。さてどうなる――と案ずる間もなく、塔の頂点が風もないのに砂のように砕け散り、上へ上へと舞っていく。まるで地球の極地で発生する、巨大な蚊柱だ! オートマトロン一粒ずつが、ギリギリ浮遊できる、自重の50倍もの炭素をまとい、一万キロ彼方を目指し始めたのだ――というのは擬人化がすぎる。上昇については彼らはただ磁力のベクトルに身をまかせつつブラウン運動をしているだけだ。
10回に分けて全てのオートマトロンは宙へ去り、それに伴って即席の原生林も縮小し、消える。一酸化炭素の注入も止められた――。周辺のオゾン濃度がオートマトロンの反応を阻害するレベルにまで達したので、一晩で行える作業量はこれが限界だ。微粒子たちは石柱から散開する際に、衣の形をレンズ状に変形させている。火星の影から脱した途端に真横から殴りつけてくる太陽風と光圧を受け流すためだ。赤い惑星を照らす朝日は青白くて、粒子は恐らく光を吸収しやすい漆色なのに、オートマトロンの噴煙は、山吹色をした見事な黄道光を描いた。世界に散らばる色の数を集めていた当時のぼくは、この色彩の変化がなにより不思議で――そのほかの技術的な話は写真だけを見てスルーしていた――そして欲しくて欲しくて、しょうがなかった。いつか直接この「火星色」を取りに行くんだと決めた。……回想が長くなって身体がふやけそうだ。まあ、とにかく、ぼくにとってこの火星はあこがれの大地であり、それ以来ぼくは、自分の人生を、火星、そして宇宙をこの手で直接触れるための準備期間として費やしてきた。これからも浪費し続けるだろう。
宇宙空間へ飛び出したオートマトロンは加速度をつけながら、2週間かけて宇宙ステーションにまで到達する。そこで大型デブリ回収船に飲みこまれ、純粋炭素の糖衣は溶かされる。その後オートマトロンは、二十世紀の宇宙開発の象徴であり、あだ花でもあったスペースシャトルと同じく、再利用される。この計画のコイルの磁力線は、今までとは反対方向の、大地に向けた流れに切り替えられ、それにのってオートマトロンは夜のパボニスへと舞い戻るのだ。復路に要する時間は7日。それらは宇宙塵のように軽く、火星の大気はその表面を焦がすことすらできない。
静止軌道までの距離は1万3500㎞、その間を当初の計画上では150回――作業中に起きた太陽フレアで多くのオートマトロンが流失したため、実際には170回――往復させる。そして集まった炭素から地上まで伸びるカーボンチューブのケーブルの縦糸を造り、それにフォボスから造ったシリコンファイバー製のコルセットを巻き付けていく。これにより、木目を互い違いにした合板のように、引っ張る力に強くなる。糸は伸長と補強を同時に行っていき、クレーターのど真ん中に着地、大地につなぎ止められる。
この雲の糸の上を無人貨物コンテナが誰にも邪魔されることもなく、するする登ってゆき、残る貨物を引き上げていく。コンテナにも磁力を掴む「帆」がついており、駆動するエネルギーを補っている!
コンテナの働きでさらにもう一本ケーブルができ、コンテナの数は増やされる。ここから先の建設は二次関数的に進んでいく。糸の本数は増し、それは綱になった。巨人が引っ張っても千切れることはない、それはそれは太い綱だ。その表面にデブリよけのセラミックタイルと、モノポール板を貼り、かくしてパボニス―宇宙港―フォボスを結ぶ摩天楼が一基、完成した。度重なる太陽フレアの襲来で、工期には既に3年もの遅れが生じていた。
ここからさらに「オポチュニティ・エレベータ」を建造しなければならない。「パボニス・エレベータ」はその商業目的の利用全てが棚上げされ、ひたすらに貨物用リニアを上下させた。機械と同じく、火星の労働者たちも、この第2エレベータの完成をさせるためその魂を投じた。資材輸送にかかる時間が大幅に短縮され、労働者たちのある意味前時代的な、涙ぐましい努力をしてくれたおかげで、ぼくが今ノホホンとシャワーを浴びているこの場所が、恐るべき速度で組み立てられていった。……それでも、技術者たちが称賛を浴びることはなかった。結局工期は1年以上オーバーし、火星博の開催も同じく1年延期されたからだ。本格的な火星開拓への第一歩をおぜん立てした人たちは、むしろ批判の嵐にゴウゴウとさらされた。月でしか有用性を試験されていないオートマトロンの電気誘導法を用いたのが間違いだの、火星博延期により、前売りチケットの払い戻しが起きたからその損失を国際火星港局が補填しろだの、それらの言葉は毒にしかならず、人工大気を汚した。このタワーが完成したことによって、初期開拓者たちが新しい社会文化を創生していった火星の黄金時代は終わり、けだるい白銀時代が始まった。
――危うく青二才の文明評を頭の中で始めてしまうところだったが、こういうことを、真っ暗闇の中で考えるのはよそう。すべてお湯と一緒に流れて行ってしまえ。全部、ぼくが生まれる前に起きたことなのだから。とにかく、このタワーはこの惑星に一つの時代区分を造ったモニュメントでもある。これのおかげでこの星は昔よりずっと豊かになったが、多分そのせいでかけがえのないものも失ったのだと思う。フロンティア精神とか、そういう崇高なものを。――ひょっとしたらぼくも、盲目だった7年間の思い出を、チャイナ・ボックスに繋がれたことですっかり喪失しているかもしれないのだ。だからぼくはこのタワーに、畏敬の念と、共感を同時におぼえている。だから心酔しているのだ。
……シャワーを浴びていて、どれぐらい時間が経った? まずい、そろそろ行かないと。手探りでバルブをひねってお湯を止める。チャイナ・ボックスは脱衣所に置いてきた。そこまで帰るには、壁にある手すりをなぞっていけばいい。ぼくがここで働きはじめてから取り付けられたものだ。なかなか過酷な職場なのだから、これくらいのバリアフリーくらい福利厚生としては当然なのだが、それでも有難い。学生から労働者へと、身分が変わってから増えた、このエレベータが好きな理由の一つだ。
3
エレーナの約束から10分もオーバーして、ぼくは検疫所の事務室に入った。しかし彼女はまだ来ていない。わざわざ慌てている風に装ったことが無駄になった。
――静かだ。普段のオフィスはこんな具合じゃない。ここに配属されているスタッフの数は20人+αなのに、部屋が狭すぎて長デスクが5台しかない。勤務時間を融通し、1台につき二人ずつ座るようにしてなんとか回しているのだが、こんな環境のせいで机に私物を飾っておくことはできないので、常時険悪な雰囲気が漂っている。事務処理の多くが自動化されたための省スペース化だが、その分ヒトの手でさばかなければならない事項の理不尽さは濃縮されている。せめて精神を落ち着かせるためにと壁には木材がつかわれているのだが、それの木目がかえってうるさく、慰めにはなっていない。……しかし今は、そのギスギスがない。スタッフは全員出払っているので、すっかり無人だ。ただし、印象が「広い!」に塗り替えられるはずもなかった。
椅子を一つ借りて、ぼくは彼女を待つ。……5分遅刻してエレーナが来た。ぼくはこれ見よがしに、自分の袖の臭いをかいでみせた。
「ぼく、そんなにひどい臭いだったかな。君にも相当うつしてしまったらしい」
「そうね、火星豚くらいは臭っていたかな。おかげで全然落ちなくて」
ぼくが言ったのは彼女の遅刻に対する皮肉だ。しかしエレーナはそれを派手に打ち返した。「火星豚」とは、いくらなんでも辛辣すぎる言葉だ。……特にぼくにとっては。
「別にあなた自身の体臭について指摘したわけじゃないわ。強いて言えば、趣味に対してね。……さ、行こっか」
行こっかとわざわざ言わなくても、所長室はドアを隔ててすぐそこ、出入り口の対角線上なのである。歩数にすれば十歩くらいだろう。
「ヒミコはもう部屋の中かな」
エレーナは返事をしない。勝手に静脈認証パネルに触れて所長室の鍵を解除し、重い扉を開けて中へ入っていく。その正体は猫なんじゃないかとおもうくらい、スルリと。
「失礼します」
「お、相変わらず君はノックできないんだな……。また公衆衛生委員会の奴らが来たのかと思ったよ」
「ノックしても聞こえますか、このドアで」エレーナはガンガンと叩いてみせる。
トンボー局長は、葉巻をくゆらせていた。空気清浄機が、最大出力で稼働していた。ぎゅっと、煙の沸く先っぽを灰皿に押し付ける。――所長室を使う人間は一人しかいないが、広さはオフィスの半分。まるでタコ部屋だ。ぼくら下っ端は結構自由に職場のあちこちを飛び回るのだが、管理職はそうもいかない。仕事中の時間のほとんどをここで過ごす。その辛さ、同じ宇宙労働者としてだれもが共感できるから、禁則事項である彼の喫煙を咎める者などいない。外部の人間がこれを発見したら、とんでもないお沙汰が待っているのだけれど。
「所長、ジュンペイ連れてきましたんですけど」
彼はうん、うん、とうなずき、プラスティックチェアに深々ともたれた。怒っている様子ではない。
「遅れてスイマセン。陶器の具合が少し悪くって……」
「いや、いいんだよ。急な話だし、それにもうヒミコを分析室にやってるから、君らが行った時にはあの子が準備を済ませているさ」
そういえばそうだ。ヒミコに対して、わざわざ口頭で業務連絡する必要もない。
「所長、それよりも仕事の説明を……」
「ああ、私が知らされている内容自体も少ないから、君たちを納得させられる自信はあまりないんだが――」一瞬だけ、灰皿の上で潰した葉巻を、名残惜しそうに見たが、すぐにぼくらの方へ視線を戻した。「二人とも、『クー・フー号』を、覚えてないか?」
ぼくは首をかしげた。「クー・フー号」、「クー・フー」――……。さて、ちっとも思い出せない。
「君らがここで働きだしたばかりの時に、船内の衛星チェックをさせたはずだが、どうかな」
「ええと、あの時は仕事を覚えるので手いっぱいでしたから、どうでしょう」
「3年前に入港した船なんだが――」
「所長、それ、私たちが入社する前の話です」
その通り、そんなわけで、ぼくらにはなんの関わりのない話だ。『クー・フー号』、たしか中国の有人探査船で、地球―火星間大型フェリー並みの大きさがある。なんでも5年かけて複数のエッジワース・カイパーベルト天体から鉱物を採取しつつ、無人ラボを設置、船内でサンプルの分析を行うとともに、無人ラボからのデータをリアルタイムで処理し、天体間の地質学的関係を明らかにしつつ、商業的価値を精査する計画、らしい。……たった今頭で検索した。
所長は眉をしかめた。目線が軽く宙をさまよう。
「あれ、そうだったか。……とにかく、そのクー・フー号がミッションに向かう途上の天王星軌道上で、――細かい発見座標すらも教えてもらってないが、奇妙なものを発見した。どんなものかは私に聞かないでくれ。とりあえずクー・フー号は『それ』を回収し、『1169 / XF - 01』と名付けた。しかし船内の機材ではどうにも分析ができない。そのため――」
「あれっ、それはおかしいです。その船の規模は知りませんが、曲がりなりにも探査船なんでしょう?」
「だから、詳しいことはわからないんだ、勘弁してくれ。とにかくそれを詳しく分析するために、小型タグボートにくくりつけこの宇宙港にまで輸送されているんだ」
「現在のクー・フー号の位置はどこです?」
「『それ』を回収し、送り出した後は、予定通りに調査を続けている。既に7つの探査計画を終え、現在40AUにある『ベンヤミン』を探査中だ――」
「ていうことは、昨日今日に見つかったものではないんですね」
「クー・フーの航路から逆算すると、出航からおよそ半年で『それ』と遭遇したことになる――」
つまりその厄介モノは、発見されてから2年以上も存在が秘匿され、太陽系内をさまよっていたことになる。
「それと、今地上を出たエレベータには、TP―MEO(環太平洋火星開拓機構)の副事務局長と、中国総領事、移民局局長、それからザナドゥ大学の教授数名が乗っておられる」
「所長、その人たちは全員その、えっと、『それ』を見に?」
「そうだ。けっして失礼のないようにな。……特にエレーナ」
そう言われて、彼女は表情を固くした。
「は、いや、私だっていちいち地球人相手に見境なく喧嘩売ったりしませんから」
「それはわかってる。でも念のために、な」
こんな些細なやり取りだけで緊張関係が膨らみ、パンパンとなる。タバコの臭いはすっかり分解されたが、この雰囲気ばかりは、清浄機ではどうしようもない。
「あ、えーと、所長。他の奴らはどうしたんです? オフィスがもぬけの殻でしたけど」
「通常業務がある者以外は会議室だ……。来賓がいらっしゃる前に、旅客公社の方々から直々のマナー講座を受け、可能な限り『上品に』ならなければならない」
「え、『それ』の取り扱いについて教えてもらってるんじゃないんですか?」
「『それ』について知らされているのは私と君たち、それとヒミコ、あと、ここのサーバーも含めてかまわないかな」
「つまりその講習は『それ』の存在を隠すための目くらましというわけですね。あくまでも単なる、『お偉いさん』たちの視察に見せかけるための……」
「うむ、前向きに考えればそういうことだな」
「なんだかすごいじゃないですか。ぼくらにそんなトップシークレットのモノを真っ先に見せてくれるなんて。……ちょっと他の奴らには悪い気がするなァ」
首ごと向いてエレーナに同意を求めるが、彼女の周りのよそ者バリアは容易にはがれない。
「……所長、『それ』は危険なものなんですか?」
「わからん。だが、発見したクー・フー号にはなんの異常は起きていない」
「つまり私たち二人は、安全策も取られずに、お偉方の、その、『毒見』を――」
「エレーナ!」所長が一喝する。小声のつもりが、空気が割れるかと思った。
「――すまない。だが今言った通り危険なものではなさそうなので、通常の行程で収容をしてかまわない。ただし、念のためにヒミコ主導でだ。それと、機密事項扱いなので、これ以上の話を私からはできない。もっと情報にアクセスしたかったら、すべてあの子――ヒミコ経由でよろしく頼む」
室内には、生煮えの空気が残った。――彼女だって、好きこのんで雰囲気を悪くしているわけではない。それはぼくらも十分理解しているつもりだ。
「それじゃあ、私の言うべきことはもうない。君たちは0圧分析室に行ってくれ。私も『それ』のデータはヒミコから聞くようにするから、いちいち報告に戻らなくていい」
「所長はどうします?」
「私は――マナー講習にでも行っておこうかね。接待には少しくらい自信があるが、復習も必要だろう」
「でも所長、これ以上礼儀正しくなられたらストレスで胃に大穴があいちゃいますよ」
「その上肺は真っ黒だ。これ以上不健康になるはずもないだろう」
所長とぼくはアハハと笑ったが、エレーナの顔はほころびない。土色の瞳を横に滑らせ、微かに唇を釣り上げただけだ。
「それじゃあわたしたちはその『極秘任務』につきます。所長はせ――、いえ」エレーナは言葉を濁した。口から一瞬「チャッ」と音が漏れる。
「……じゃあ、もう失礼します」彼女はドアを開け、再び音もなく抜け出ていった。彼女がすっぽかした会釈を、ぼくが代わりにする。所長はというと、エレーナと対面していたせいで300グラムくらい痩せたのではないか。きっと彼女の方も、同じくらいの質量を対消滅させたことだろう。