えらいえらいもしてあげよっか
「はい、はい、はい、はぁい!」
よく通る声だ。隣に座る女性は、そうやって喧騒の居酒屋の注目を集める。
ついでシュタッと立ち上がった。
もう皆飲み物来てるよね、と周囲に問いかけると肯定の笑顔が彼女に返る。
「うむうむよしよし」
神妙な顔でうなづいてから彼女は言った。それではちょっとお手を拝借。
座敷に集う10人の大学生はジョッキを掲げる。もちろん僕も。
こほん、えー。始まった挨拶を遮り、誰かが野次を飛ばす。
「部長ちっせえから手は疲れないけど、手短に! 手短に!」
「うるさいなぁ!」
ずいぶん低い位置からツッコミが飛んだな、と僕は思った
隣の彼女が、我等が(名ばかりの)アメリカ音楽研究会、その偉大なちいさなちいさな部長である。
「あんたあとで新作一発芸の刑ね!」
「横暴だ!」
「手短にしたいのでバカはスルーしまーす」
ジャズ研や吹奏楽ほどには本気になれず、軽音楽部には馴染めない。
そういうちょっとマイノリティなハミ出し者をまとめるのが彼女だ。
ちいさい身体に無限のパワーである…と何かにつれ感心してしまう僕だった。
ゲシッ。痛い。
ボッとしていたらモモを蹴られた。ジョッキが下がっていたらしい。
慌てて部長に向かってビールを構えなおす。
ビールの泡の向こう、低く近い場所で、にま、と彼女が微笑む。
そして薄く桃色に塗られたくちびるが開いた。
「はい! では今年も新歓ステージおつかれさまでした!
とりあえず~~…乾杯!」
***
5杯目を飲み終えて、トイレから帰ってくると座席が占領されていた。副部長だ。
異様な盛り上がりの中で、部員が眉毛を剃っている。
しばらく後ろで様子をうかがうと、部長の挨拶を中断した男の剃眉ショーらしかった。
訳がわからん。
カントリーからパンクに転向か。首を捻っているとテーブルの向かいから声がかかった。
「おうい」
ちょっと丸めのご尊顔が上座から手を振っている。大分お酒を召したらしい、我等がちいさな部長だ。
この偉大なチワワだのリスザルだのそういう感じのする人は、意外にも酒に強い。
ザルである。強いから飲む。そして困ったことに人にも飲ませる。誰だこの人に飲ませまくったのは、隣に座る先輩か。
対して飲ませられるだろう自分は、ちょっくら1回目のチャージショットを放ってきた後だった。正直近づきたくはないクリーチャーだ。
「こっちこっち! お~~~うい!」
そうして僕が躊躇している間も、ニコニコぶんぶん、ついに両手を振っている。あれじゃそのうち壊れるんじゃないだろうか。
部長と一緒に飲んでいる戦犯先輩(こちらも酒豪。女性。)に助けを求めると、おいでおいでのジェスチャー。
諦めて、偉大なジャンガリアンの元へ向かうしかないらしい。
ついに両眉ともツルツルに剃り上げた、哀れなパンクロッカーを見捨てて。あれじゃ山篭りもできない。
***
「褒めてつかわそう!」
6杯目を差し出しつつ、部長が言ったセリフである。
「なになに、この子なにしたの?」
「いやぁ! なんとですね、新入生からドラマー引っ張ってきてくれたの!
しかも女の子! 盆とお正月が一緒にやってきたよぉ」
「ほう……偉い! よくやった!
それは部長から酌を賜る権利がありますなぁ」
「でっしょー?
さささ、飲んで飲んで。
ん、飲まないの? えらいえらいもしてあげよっかぁ?」
いや勘弁してくださいよ! これ以上おもちゃにされてはたまらない。
もちろん頂きます、とジョッキを傾けた。
「よしよし。君、わたしのついだ酒はうまかろう!
ああそう! それでね! そのニュー女子なんだけど!」
興奮冷めやらぬ部長は、そこでジョッキを両手で掴み、豪快に召し上がった。ぷはぁー。
一息ついて、んふ。思い出し笑いを挟んで続ける。
「ステージ公園の隅のほうで彼氏にひざまくらしてたらしいの!
そこを空気も読まずにこの子が突撃していったらしくって~」
「なにそれすげえ。最近の若いもんはわからん」
いや、マジ話ですよ。入学したての一年生が、白昼堂々、衆人環視でひざまくら。
はっきり言って浮いてましたよ。そして僕は閃きました。
ハグレモノが集まる我がサークルにぴったりではないか、と。
決して羨ましかったとか、もう勧誘とかどうでもよくなっていたわけじゃないですよ!
本当ですって!
あの度胸というか気にしない性格は、そのままステージにも生かせると思いますし。
僕はいきさつを熱弁した。ジョッキはテーブルに置いて。
「はぁー、それで話してみたら彼女の方が偶然ドラマーだった、と」
「ねぇ~! 大殊勲だよ!」
「偉いっていうか、面白いわ、あんた。
…しかしひざまくらも凄いな、アタシ男にそんなことした事ないわ」
「あれ。今の彼とは長いんじゃなかったっけ?」
「ないない! ていうか人生で一度もしたことないよ。友達からも聞かないなぁ」
あっという間に僕の偉業から、ひざまくらに話題が変わってしまった。
女性二人でも姦しいって言えるんだな。僕はなんでここにいるんだ。
ジョッキよ答えてくれ。
「え~…ひざまくらって何か夢あると思うよ!
ね! 男のロマンもそうだよねぇ!」
あ、はいそうっすね。白いワンピースで麦わら帽子っすね。
見つめても減らないのでジョッキに口をつけながら答えた。
***
お銚子を7本空けた頃、とりあえずお開きということになった。
もちろん我がサークルの飲み会に二次会がないはずがない。
が、正直飲みすぎていた僕はお暇を願った。(そして周りから見ても顔色が悪かったので引き止められることはなかった。)
今は最寄駅の途中、ビルの間に隠れていた小さな公園のベンチの上で休憩中である。
「大丈夫? コンビニ行って吐いちゃったほうがいいんじゃない?」
飲ませすぎた後輩に、責任を感じているらしい、ちいさな部長と一緒に。
「いやぁ~ごめんね! 久しぶりだったから…お酒おいしくて」
「マジで平気ですよ。もう少し休めば歩けそうなんで」
「ほんと?
う~ん、じゃあちょっと横になりなよ」
小さな彼女が、ぽんぽん、と膝の上を叩いた。
「ほら、君には頑張ってもらって本当に感謝してるんだよ!
それにちょ~っと迷惑もかけちゃったりなんかしちゃったりとか…、ね?
そのお詫びもかねて、この、私の大きな膝を貸してしんぜよう」
ぽんぽん。
「それ太いってことになりますよ」
「カモシカのような膝を貸してしんぜよう」
にま~。どうやら部長は引く気はないらしい。
「部長、やってみたくなったんでしょう……」
「あ、バレた?」
「まだ酔ってますよね!」
「いいじゃんいいじゃぁん! ほれほれ、役得だと思ってー。
ひざまくら得」
わたしのひざは徳が高いね、等と言うと、部長はバッグをわきに避けた。
いつの間にか、タイツに包まれているふとももの上に、ハンカチが乗せられている。
薄い黄色のタオル地のハンカチだ。
「よしよし」
準備は終わったとばかりに、こちらを向いて両手を広げた。
「はい、どうぞ」
***
ゆっくりと頭を下ろす。
ここに来て気付いたが、ちいさい先輩のバンビのようなふとももだ。
俺程度の頭の重さでも、何か致命的なダメージを与えてしまいそうで恐ろしい。
ゆっくり頭を下ろす。
もう半分を超えたところで腹筋がブルブルしてしまった。
何やってんだ自意識過剰か。バレたら恥ずかしい死ぬっていうかこれ恥ずかしい。。
なんだかよくわからない感情がぐるぐると巡るうち、シンプルな真理に辿りついた。
ああ、僕は酔ってるんだな。
下ろしていく。
と、後頭部にふわふわした衝撃を感じる。メーデーメーデー! 成功! ソフトランディングだ!
少し沈んで、やわらかなものに頭が包まれる。一瞬なにもかも止まったような気がする。
じわっと、あったかい。
「ね。 …どう?」
声をかけられて驚いた。意外と、いや意外でもないが、部長の顔が近い。
部長はちいさいから、ひざと顔までの距離は近い。だから意外じゃない。
ジョッキを間に挟めないか、と僕は思った。いや酒はもういい。
ただ部長の、この人にかかると、頭部の位置エネルギーまでちいさくなってしまうんだな。盲点だった。
いや、ちが、なん、なに? 今僕は何かを聞かれたぞ。
この状況で何がどうだと言うのだろう?
「な、なんです?」
「楽になったかな」
「あ…あぁ。
ええ、はい、ちょっと楽に、なった気が」
そうだった! 酔っ払いでよかった!
ふとももきもちいいです、とか、そういうアホなことを言ってしまいそうだった。
少し語尾が上ずってしまったのも飲みすぎのせいってことになるだろう、多分。
この世に酒を作った人に栄誉あれ! きっと今僕は耳まで赤いのだ。なんなんだ一体。
とにかく気まずいことにならなくてよかった。
僕は気を取り直した。いつものようにふざけていればいいだろう。
「ちょっと死にたいですけど」
「失礼だな君は!」
「ああいえ、ありがとうございます。大分気にならなくなってきました」
「じゃあ乙女の柔肌をたっぷり楽しむといいよ」
「いいタオル地ですよね」
「んふ、柔軟剤がちがうから!」
サラリーマンか、僕らのような大学生か、飲み会帰りの陽気な声が道を挟んで向こうから。
春の夜風が頭上の木を揺らしている。
そして、後頭部の熱はじわっとあたたかい。
とにかく下手なことをすればボロを出しそうだ。僕はしばらくじっと酒を抜くことに集中していよう。
そうしてため息をついた時。むむむ、と細いつぶやきが降ってくる。
目線を上げると、部長が眉間にしわをよせていた。
「重いですか」
「やや、こういうもんなんだなって。春の夜のひざまくら、風流だね」
「…ロマンチストですね」
「世の女性は全員ロマンチスト!」
くわっと目を開けた彼女は気合を入れて叫んだ。
そのまま僕に顔を向け、笑顔で尋ねる。君はどんな感じ?
「え」
またしても不意打ちである。
つい今しがた、考えることを放棄した僕に、有効な手立てがあるはずもない。
結局、熱っぽい頭からひねり出されたのはいつものようなどうしょうもないセリフだった。
「…こっち向くと鼻毛見えますよ」
どこからみても失言である。いくらなんでも、女性にこれはない。
鼻毛どころかまともに目も合わせられないのだ。
誤魔化すなら、『いい具合ですよ』とかなんとかあったろう!
せっかく、なんだかよくわからない成り行きでも、あたたかいのだから。
このちいさなふとももの大家さんを怒らせることはなかった。
いかんすぐさま謝らねば、と今度こそはっきり彼女と目を合わせる。
と。
「ふふ」
にま~。おやまぁ何て愉快そうな笑顔だろう!
三度不意を突かれた僕は、今度こそ何もかもが硬直してしまった。見入ってしまう。
細められた目の中に、間抜け面の僕が映っているのを強く感じた。こんなにきれいに映るものなのか。
軽く微笑んだまま、首をちょこっとかしけると彼女は続けた。
「ば~か」
そして鼻をぎゅっとつままれる。
軽い痛みと共に、ふとももに頭が押し付けられた。
なんだかよくわからないいい匂いと、胃の府から滾る酸っぱい臭いを鼻腔に感じながら思う。
こりゃだめだな。
僕は、このちいさな年上の女性には敵わないのだ。
***
春の夜風が頭上の枝を揺らす。
その向こうに三日月が輝いている。
後頭部はやっぱりあたたかい。
だから僕は、軽くなった、湯だった頭で言ってみた。
「あの、月がキレイですね」
彼女は思い切り笑って返した。
「あははは! ごめん、ロマンチック似あわないね!」
やばい、どうにか一度は勝たなくては。
ステージ前より僕は焦った。
(おわり)