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「……にしし」
朝日が差し込む宿の部屋。
カナは、隣で眠るコウタの寝顔を、瞬きも惜しむように見つめていた。
かつては「これで永遠に閉じ込めてやろう」と昏い情熱を燃やしていた時間。
今はただ、この人の吸う息と吐く息が、自分の隣にあることが嬉しくて仕方ない。
「……なに見てんだ、朝から」
不意にコウタが薄目を開ける。
カナは慌てて顔を背けたが、隠しきれない耳の赤さがすべてを物語っていた。
「な、なんでもないです! コウタさんの寝顔が、あまりにも幸せそうだったので、つい見惚れていただけです!」
「お前、毎朝それだな。……いい加減、飽きないのか」
「にしし。飽きるわけないじゃないですか。……だって、今世でやっと手に入れた本物の恋人なんですから。一秒だっておろそかにできません」
カナの口から「五百年前」という言葉が消えて久しい。
コウタは何も言わずに、彼女の少し乱れた黒髪を、大きな手で無骨に撫でた。
ギルドの食堂では、今日も賑やかな声が響いている。
「がっはっは! カナちゃん、今日のスープは随分と『まとも』だな! 変なハーブの匂いがしねえぜ!」
「バルガスさん、失礼ですよ。……私、もうあんなことしませんから。コウタさんに、ちゃんと叱られましたし」
カナが頬を膨らませると、エルナが横からクスクスと笑いながらスープを啜った。
「そうね。今のカナちゃんの方が、ずっと可愛いわよ。……ね、コウタ?」
「……ああ。そうだな」
短く答えるコウタの耳が少しだけ赤い。
そんな仲間たちの日常を眺めながら、カナは「にしし」と、今までで一番自然な笑い声を漏らした。
その日の夜。
コウタが風呂へ向かったあと、カナはベッドの上で一冊の手帳を開いていた。
それはかつて「偽りの前世」を書き連ねていた聖典ではない。
日々の、愛おしい現実を書き留めるための日記帳だ。
『第六百二節:今日のコウタさん。
・朝、私がじっと見ていたら、少しだけ照れた顔をしてくれた。
・昼、私の作ったサンドイッチを「美味い」と言って全部食べてくれた。
・夜、明日も一緒にいようねって、約束してくれた。』
「……にしし。……ししし!」
ページをめくる指が止まらない。
幸せが、文字になって積み重なっていく。
そこへ、湯気を立てたコウタが戻ってきた。
「……またそれ書いてるのか、カナ」
「はい。……だって、私はコウタさんのこと、五百年分覚えてるつもりだったけど、それは私の勝手な想像だったから。……だからこれからは、本当の思い出を、一秒も逃さず積み重ねていきたいんです」
「……そうか。まあ、ほどほどにな」
コウタは苦笑しながら、カナの隣に腰を下ろした。
そして、ふと思い出したように、窓の外の月を見上げて言った。
「そういえば、あの五百年前の話の続きだけどさ。……あのあと、雪山の洞窟で俺が君に渡した、あの青い石のペンダント。あれ、結局どうなったんだっけ?」
カナの手が、ぴたりと止まった。
「……え?」
「ほら、君が言ってたじゃないか。吹雪の中で、俺が自分のマントを君に着せて、これだけは持っていろって渡した……」
「……コウタさん。……あの、私、そんなこと言いましたっけ?」
カナは戸惑いながら、手元にある「旧・手帳」を猛烈な勢いでめくり返した。
自分が一目惚れの勢いで、一睡もせずに書き上げたあの狂気の設定。
雪山での心中、逃避行、呪いの指輪……。
けれど、どこをどう探しても、どこを読み返しても、「青い石のペンダント」なんて記述はどこにもなかった。
「……あれ? おかしいな。……カナの話のやつだよ。ちゃんと聞いてたんだからな。……なんだ、俺の勘違いか?」
コウタは「ははっ」と短く笑って、そのまま横になった。
だが、カナの心臓は、さっきまでとは違う意味で、激しく鐘を打ち鳴らしていた。
(……書いてない。……言ってない。……私は、そんなシーン、一度も考えたことなんてないのに)
カナの脳裏に、生々しい映像が流れる。
それは自分が作り上げた脚本ではない。
荒い呼吸。凍てつく空気。
自分を見つめる、今よりも少しだけ幼いコウタの、悲痛なほどに優しい瞳。
そして、自分の掌に握らされた、冷たくて青い、奇跡のような石の感触。
「(……え? これ……これって……)」
カナは、震える手で自分の胸元を押さえた。
そこにあるのは、何の手の込んでいない安物の服。
けれど、肌の奥深く、魂の記憶が、確かにその「青い感触」を思い出していた。
コウタは、隣ですやすやと寝息を立て始めている。
彼は、自分が何を口にしたのか、もう気にしていないようだった。
「……にしし」
カナは、手帳の空白のページに、震える文字で一文だけを書き加えた。
『第六百三節:三度目の正直。
……ねぇ、コウタさん。
もし、私のあの嘘が、本当に「思い出」だったとしたら。
……私たちは、何度だって、恋に落ちる運命だったんですね。』
カナは手帳を閉じると、眠るコウタの腕の中に潜り込んだ。
嘘か、真実か、そんなことはもうどうでもよかった。
ただ、今、彼が隣にいる。
それだけが、この世界で唯一の、そして永遠の真実なのだから。
(完)
ここまで読んでくれてありがとう。
作者は今日も睡眠不足で脳のネジが飛びかけています。
感想・ポイント・お気に入りは、作者のメンタルを回復させる神聖なる薬草です。




