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辺境の街道沿い。

かつてカナがコウタに「救われた」あの日を、呪わしいほどに彷彿とさせる光景がそこにはあった。


「……にしし。……来ましたね、コウタさん」


カナは、ギルドから指定された廃村の手前で、一人呟いた。

湿った土の匂い、腐った果実が放つ甘ったるい死の香り。

そして、茂みの奥から聞こえてくる、ダイアラット特有の「キィ、キィ」という、硬い前歯を擦り合わせる不快な音。

すべてが、あの「一目惚れした瞬間」の再現だった。


「……カナ? 何か言ったか?」



「……いいえ。……コウタさん、私、今日はなんだか負ける気がしません。……あなたが、隣にいてくれるから」


カナは、いつものように健気な少女を演じながら、コウタの腕にそっと触れた。

その指先は、期待と狂気で微かに震えている。


「ああ。……でも無理はするなよ。バルガス、エルナ、行くぞ!」



「おう、分かってるって! ネズミ一匹、逃さねえぜ!」


バルガスの野太い声が、村の静寂を切り裂いた。

四人は、廃村の広場へと踏み込む。

そこには、十数匹のダイアラットが、残飯を漁るようにして群がっていた。


「……ギィッ!!」


一匹の個体がこちらに気づき、赤い目を光らせて跳躍する。

戦闘の火蓋が切られた。

バルガスの大剣が空を裂き、エルナの魔術が爆炎を巻き上げる。

その中心で、コウタは鋭い踏み込みと共に、次々とダイアラットを斬り伏せていった。

カナは後方で杖を掲げ、完璧なタイミングで治癒と支援の魔力を飛ばす。

だが、彼女の視線は、戦況など見ていなかった。

ただ、獲物を追うコウタの背中。

翻るマント、滴る汗、そして自分を守るために戦うその姿だけを、飢えた獣のように凝視していた。


「……にしし。……そう、それ。……その瞳、その力。……あの日、私の世界を壊して、作り変えてくれた、私の神様……」



「……助けて! お願い、誰か!」


不意に、村の貯蔵庫の陰から、幼い叫び声が上がった。

逃げ遅れた村の少女が、三匹のダイアラットに追い詰められている。


「……っ! 待ってろ、今行く!」


コウタは迷わず、群れのど真ん中を突っ切った。

自分の肩がダイアラットの爪に引き裂かれるのも構わず、少女の前に滑り込む。


「……ガッ……!!」



「コウタ!!」


バルガスの怒号が響く中、コウタは少女を自分の体で覆い隠し、ダイアラットの突進を真っ向から受け止めた。

その衝撃で彼の口から血が漏れる。

けれど、彼は苦悶の表情を押し殺し、少女を見つめて無理に笑った。


「……大丈夫だ。……俺が、守ってやるから」


その言葉。その、自己犠牲に満ちた、美しすぎる微笑み。

カナの脳内で、何かが「パチン」と弾けた。

捏造された五百年の記憶が、目の前の現実と完全に「同期」した瞬間だった。


「……あ……。……あ、ああ……」


カナの瞳から、ボロボロと大粒の涙が溢れ出した。

杖を持つ手が、ガタガタと震える。

(……ああ、そう。そうだった。……あの日も、あなたは自分の血なんてお構いなしに、私を……こんなゴミみたいな私を、そうやって笑って抱き上げてくれた)

カナは泣きながら、自らの内に秘めた「ソロ時代の暴力」を、必死に抑え込んだ。

今ここで自分がすべてを殲滅してしまえば、コウタが自分を「救う」機会を奪ってしまう。

彼の救世主としての輝きを、自分が汚してしまう。


「……にしし。……にしししし!! ……ずるい。……ずるいです、コウタさん」


カナは涙を拭うこともせず、恍惚とした表情で、血を流すコウタを見つめ続けた。

(……あなたがそんなに綺麗だから。……私は、嘘をつかなきゃいけなかった。……あなたに相応しい「運命の女」になるために、私は、私の脳を焼き切ってでも、あなたとの歴史を捏造しなきゃいけなかったのね)

戦いは終わった。

ダイアラットの死骸が転がる中、コウタは震える少女を優しく抱き上げ、安心させるように背中を撫でている。

カナはその様子を、数歩離れた場所から、祈るように、そして呪うように、じっと見つめていた。


沈みゆく夕日が、街道を血のような朱色に染め上げていた。

ダイアラットの死骸から漂う鉄錆の匂いが、風に乗ってカナの鼻腔をくすぐる。

彼女の脳内は、先ほどの戦闘の残像と、自分勝手に作り上げた「五百年前の記憶」が混濁し、沸騰していた。

隣を歩くコウタの腕には、少女を助けた際に負った傷が、生々しく刻まれている。

カナはその傷跡を、まるですべての真実が記された聖典であるかのように、じっと見つめ続けていた。


「……カナ? さっきから、ずっと黙ってるけど、本当に大丈夫か? どこか怪我でも……」



「……にしし。……大丈夫、ですよ。大丈夫に、決まってます」


カナは立ち止まり、コウタの行く手を遮るようにその前に立った。

彼女の肩は、抑えきれない興奮で小刻みに震えている。

夕闇に溶けゆく黒い瞳が、狂おしいほどの熱を帯びて、コウタの視線を絡めとった。


「……ねぇ、コウタさん。今日、あなたが私を助けてくれたとき……あの子を庇って、私を見てくれたとき。……私、やっと分かったんです」



「え……? いや、俺が助けたのは、村の……」



「同じなんです。……同じなんですよ、コウタさん! 五百年前のあの日、あなたが燃える村の広場で、私を抱き上げてくれたあの時と! ……私、今日、確信しました。やっぱり、あなたは私の運命の人。……あなたは、忘れているふりをしながら、ちゃんと私のために、あの時と同じ場所で、同じ傷を負ってくれた……!」


カナの声は、陶酔しきった音楽のように、夕暮れの空気に溶け出していった。

彼女は、コウタが今日負った「ただの怪我」を、自分が捏造した「五百年前の傷」と完全に同一視し、その狂ったパズルを無理やり完成させていた。


「……待ってくれ、カナ。五百年前なんて、そんなことあるはずが……」



「あるんです! ……にしし。……だって、私の心臓がこんなに痛いのは、その証拠だもん。……あの日、あなたが死ぬ間際に私の指を握って言ったこと、覚えてますか? 『来世でも、必ず見つける』って。……あなたは約束を守ってくれた。……だから私も、今度は絶対に、絶対にあなたを死なせない」


カナは、コウタの傷ついた腕を、両手で壊れ物を扱うように、けれど逃げられないほど強く掴んだ。

彼女の瞳から、大粒の涙が溢れ、コウタの乾きかけた血の上に滴り落ちる。


「……好き。……好きです、コウタさん。……世界中の誰もが、私たちの過去を否定しても。……私が、私のこの命を削って、全部『本当』にしてあげます。……だから、お願い。……私を、あなたの隣に、ずっと、永遠に、置いておいてください……っ」


それは、告白という名の「呪い」だった。

五百年という嘘の重みを、今、この瞬間の熱量だけで真実に変えようとする、知能犯ゆえの強引な接合。

コウタは、彼女の瞳の奥に広がる底なしの深淵に、足がすくむような戦慄を覚えた。

けれど、彼女の流す涙があまりにも純粋で、あまりにも「本物」の痛みを伴っていたため、彼は拒絶の言葉を飲み込むしかなかった。

数歩後ろでその光景を見ていたエルナは、マントの裾を強く握りしめ、背中に氷の柱を立てていた。


「(……恐ろしい子。……自分の妄想と現実の区別がつかないんじゃない。……妄想で現実を、コウタを、塗り潰そうとしているのね)」


バルガスは気まずそうに目を逸らし、ただ黙々と、夜の帳が下りる街への道を急いだ。

カナの告白を受け入れたわけではない。

けれど、この圧倒的な執着を前に、誰もが「日常」という仮面を維持することに必死だった。


「……にしし。……嬉しい。……コウタさんの血の匂い、五百年前と、ちっとも変わってない……」


カナは、コウタの腕に自分の頬を寄せ、恍惚とした表情で目を閉じた。

彼女の脳内の手帳には、今、真っ赤なインクで新たな一節が書き加えられていた。

『第五百八十六節:再会の血印。

勇者は、聖女を守るために、五百年後の今日も同じ傷を負った。

これは、運命が私たちに与えた、絶対的な承認。

……愛しています、コウタさん。

あなたの未来も、過去も、これから私がすべて、書き換えてあげますからね。』



「……カナ。……なあ、さっきから気になってたんだけど」


夕闇が深まる街道。

カナの熱狂的な告白を、困惑と、どこか深い居心地の悪さの中で聞き終えたコウタが、静かに口を開いた。

彼の腕を掴むカナの指先には、まだ隠しきれない震えが残っている。


「……はい。何ですか、コウタさん?」



「……俺が君をダイアラットから助けたのって、ここじゃない、もっと遠くの辺境の村だろ? ……今日の村とは、場所も、状況も、全然違うよ」


コウタの言葉に、カナの全身が、心臓の鼓動が止まるほどの衝撃で硬直した。


「……えっ?」



「あれ? あってるよな? ……今日、君が言ったみたいに『同じだ』なんてことはない。ここはただの廃村で、あそこはもっと……」



「……あ、あれ? ……そうですけど、コウタさん、憶えてたんですか?」


カナの声から、先ほどまでの陶酔が、急速に引いていく。

彼女が必死に組み上げた「五百年前の再演」という美しい脚本に、コウタの「現実」という冷たい刃が突き立てられた。

カナは、自分の記憶の整合性が、泥のように崩れていく感覚に襲われた。


「憶えてた、っていうか……何回か言わなかったか? 俺が君を拾った時の話」



「……それは……それは、五百年前の前世の……」


カナは、縋るように、自分を守るための『設定』を口に出した。

そうでなければ、今の自分の高揚も、涙も、すべてがただの「勘違い」になってしまう。

だが、コウタは彼女の肩に手を置き、真っ直ぐに、あまりにも真っ当な瞳で彼女を見つめた。


「何言ってるんだよ、カナ。……お前は、いま、ここにいるだろ」



「…………っ!!」


カナは、息を呑んだ。

その一言は、彼女が五百年分の嘘で塗り固めた「聖女」の仮面を、一瞬で剥ぎ取った。

「前世」でも「運命」でもない。

今、この瞬間、目の前にいる「カナ」という一人の少女として扱われた事実。

それは彼女にとって、どんな甘美な物語よりも、残酷で、そして吐き気がするほどに幸せな「拒絶」だった。


「……にしし。……にしししし!!」


カナは、顔を伏せたまま笑った。

喉の奥から、乾いた、けれどどこか熱を帯びた笑い声が漏れる。

(……ああ。だめだわ。……コウタさんは、どこまでも『本物』なんだ)

自分がどれだけ「五百年前」を叫んでも、彼は「今」の自分しか見ていない。

それが、カナにとっては敗北であり、同時に、彼を二度と離してはいけないという、狂信的な確信へと変わった。


「……そうですね。……そうでした。……私、いま、ここにいます。……あなたの隣に、いま、生きています」


カナは、コウタの腕を掴んでいた手を、ゆっくりと離した。

そして、自分の左胸を、服の上から強く、爪が食い込むほどに握りしめた。


「……ごめんなさい、コウタさん。私、ちょっと……変でしたよね。……でも、あなたが私のことを、ちゃんと『いま』の私として憶えていてくれたのが……。……それが、たまらなく、嬉しいんです」


カナの瞳に、再び光が宿る。

けれどそれは、先ほどまでの「妄信の光」ではない。

コウタという「現実」を、自分の「物語」の中に、もっと深く、もっと強引に引き摺り込むための、より鋭利な「知性の光」だった。

(……憶えていてくれた。なら、もっと憶えさせてあげなきゃ。……五百年前の嘘なんて、いらなかったんだわ。……これから私が、あなたの脳を、私のことだけで埋め尽くしてあげる)


「……行こう。バルガスたちも、先に行っちゃったしな」



「……はい。……コウタさん。……ずっと、ずっと、見ていてくださいね」


カナは、コウタの背中を追って歩き出した。

夕闇の中、彼女はそっと懐の手帳を取り出し、一つの項を、指で強く塗り潰した。

そして、その余白に、新たな血文字を刻む。

『第五百八十七節:現世の刻印。

彼は、前世の幻影ではなく、今の「私」を見ていると言った。

それは、偽物の物語が不要になるほど、私たちが「現実」で繋がった証拠。

……にしし。……いいですよ、コウタさん。

なら、あなたの「今」を、私が一秒残らず飲み干してあげます。』

街の灯りが、すぐそこまで迫っていた。

カナの足取りは、先ほどよりもずっと、確実な殺意と愛を伴って、石畳を叩いていた。



宿へ帰った晩の出来事。


「……カナ。そろそろ、その『聖典』を閉じないか」


月明かりが差し込む宿の窓辺。

カナが必死にペンを走らせていた手帳を、コウタの大きな手が優しく、けれど強く押さえた。

カナは「にしし」と笑おうとしたが、その表情は引き攣り、瞳には隠しきれない不安が揺れている。


「……どうしてですか、コウタさん。まだ、私たちの『四度目の再会』について、書き終えていないのに」



「もういいんだ。……全部、知ってるよ」


コウタの言葉に、カナの心臓が跳ねた。

知っている? 何を?

五百年前の悲恋をか。それとも、自分が三枚の銅貨で指輪を買ったことも、ソロ時代の戦績を隠して潜り込んだことも、すべてを「一目惚れ」で塗りつぶしたこともか。


「バルガスやエルナから聞いたよ。……それから、ギルドの古い記録も自分で調べた。君がどれだけ凄腕のソロ冒険者だったのかも、俺が助けたあの日から、どんな顔をして俺を追いかけてきたのかも」



「…………っ!!」


カナの顔から、すべての色が失われた。

嘘が、剥がれる。

捏造した「前世」という唯一の拠り所が、コウタの誠実な瞳によって、ただの「痛々しい恋心」へと解体されていく。

カナはガタガタと震え、手帳を胸に抱きしめて後ずさった。


「……嫌。……嫌です、見ないで! 私は、私はあなたの聖女で……運命の人で……っ! そうじゃないと、私は……ただの、頭のおかしい女の子に、なっちゃう……!」



「いいじゃないか。……ただの、ちょっと変わった、俺を大好きな女の子。それで十分だろう」


コウタは逃げようとするカナを、逃がさなかった。

彼はその細い肩を抱き寄せ、震える背中にそっと手を添えた。

それは「運命の勇者」としてではなく、等身大の「コウタ」という男が、愛する女に向ける、無骨で真っ当な抱擁だった。


「君が嘘をついてまで、俺を隣に繋ぎ止めたかったことも。……そのために、どれだけ必死に戦って、どれだけ自分を追い詰めてきたのかも。……全部含めて、俺はカナ、お前を愛してるんだよ」



「……あ、ああ……。……う、そ……うそだわ……」


カナの目から、溢れんばかりの涙がこぼれ落ちた。

妄想ではなく、現実。

五百年の闇ではなく、今、この瞬間、自分を温めている体温。

彼女が最も欲しかった「救済」は、捏造した脚本の中ではなく、自分の正体をすべて知った上で受け入れてくれる、コウタの腕の中にあった。


「……にしし。……う、ぅ……あ、あああぁ!!」


カナはコウタの胸に顔を埋め、子供のように声を上げて泣いた。

脳内にこびりついていた「三世の執筆」が、彼の優しさという光に当てられて、さらさらと砂のように崩れ去っていく。

残ったのは、ただコウタが好きでたまらない、今世のカナという一人の少女だけだった。

翌朝。ギルドの酒場。


「……はぁ。全く、昨日の今日でこれかよ。当てられちまって、酒が不味くてかなわねえぜ」


バルガスが、豪快に頭を掻きながら、隣でいそいそとコウタに甲斐甲斐しく尽くすカナを横目で見た。

その姿は以前と変わらないが、どこか憑き物が落ちたような、清々しい明るさがあった。


「……まあ、いいじゃない。ちょっと……いえ、かなり変わった女の子だけど。あの実力が私たちの味方でいてくれるなら、文句はないわ」


エルナが呆れたように、けれどどこか安心したようにワインを啜る。

カナはバルガスやエルナの方を向き、いたずらっぽく笑った。


「にしし! これからも、迷惑かけちゃうかもしれませんけど……よろしくお願いしますね、仲間パーティとして!」



「ああ。行こうぜ、みんな。新しい依頼が来てるんだ」


コウタが立ち上がり、仲間たちに声をかける。

その隣には、彼の手をしっかりと、けれどもう自傷することのない優しさで握りしめるカナがいた。

前世なんて、もういらない。

血の契約も、三度目の永遠も、一冊の手帳の中に置いてきた。

あるのは、今この手にある温もりと、これから続いていく、果てしない「現実」の冒険。

カナは、もう一度だけ「にしし」と笑った。

それは、偽りなき、世界で一番幸せな少女の笑顔だった。

(完)


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