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「……あの、皆さん。私、お願いがあるんです」
カナは、ギルドの円卓を囲む三人の前に立ち、祈るように両手を組んだ。
その視線は、真っ直ぐにコウタを射抜き、次いでエルナとバルガスへと配られた。
「私を……コウタさんのパーティに入れてください。バルガスさん、エルナさん、お願いします。私、もっと皆さんの、彼の役に立ちたいんです」
静寂が卓を支配した。
カナの瞳には一点の曇りもなく、ただひたむきな「一生懸命」が溢れている。
沈黙を最初に破ったのは、エルナだった。
「……私は、いいわよ。カナちゃん、最近の活躍は目覚ましいし、何より聖女としての回復魔法は私たちのパーティに足りないピースだわ。歓迎するわよ」
エルナは、リリアと交わした「味方を装う」という密約に従い、即座に賛成に回った。
コウタはといえば、昨日の涙の余韻が胸に残っているのか、困惑したように視線を泳がせている。
「……俺は……。カナさんの実力は認めてるし、助けてもらえるなら心強いとは思うけど。でも……」
「俺は反対だ」
重厚な声が、場の空気を叩き切った。
バルガスだ。彼は飲みかけの酒瓶をドスンとテーブルに置くと、腕を組んでカナを睨み据えた。
エルナが驚いたように、バルガスの顔を覗き込む。
「……どうしたのよ、バルガス。あんた、さっきまで彼女のこと応援してたじゃない」
「仕事と私情は別だ。……なあ、カナちゃん。あんた、コウタのことが好きなんだろ?」
バルガスの直球すぎる問いに、カナは頬を朱に染め、小さく「はい」と頷いた。
バルガスは深い溜息をつき、コウタとエルナを交互に見た。
「いいか。パーティに恋愛感情を持ち込むと、だいたいのパーティは内側から崩壊するんだよ。判断が鈍る、嫉妬が生まれる、庇い合って全滅する……。俺はそんな末路をいくつも見てきた」
カナの指先が、ぴくりと跳ねた。
バルガスの言葉は、彼女の『聖典』にある「運命の絆」を、ただの「未熟な私情」として切り捨てている。
「俺たち三人を見てみろ。男女の三人組だが、色恋の匂いなんて欠片もねえだろ? 俺はエルナを女として守ったことはねえ、一人の魔導師として信頼してるだけだ。コウタだってそうだ。……だが、あんたが入れば、コウタは『仲間』じゃなく『守るべき女』を見るようになる。それはパーティにとっちゃ死神を招くのと同じだ」
「…………」
カナは俯いた。
黒髪が顔を隠し、表情が読み取れなくなる。
(死神……。私が、コウタさんの死神……?)
脳内で、バルガスの言葉がどろどろと変質していく。
バルガス。この男は、前世ではコウタさんの忠実な部下だったはず。
なのに、今世では私たちの仲を引き裂こうとする「試練の門番」に成り果てたのか。
「バルガス、言い過ぎよ! カナちゃんだって公私混同なんて……」
「……いいえ。バルガスさんの言う通りです」
不意に、カナが顔を上げた。
その顔には、先ほどまでの困惑はなく、どこか神懸かったような静かな微笑が浮かんでいた。
「……にしし。そうですよね。普通の恋なら、邪魔になるだけ。でも、私たちの絆は、そんな脆いものじゃないんです。……バルガスさん、私が証明してみせます。私がパーティにいることが、コウタさんにとっての『救い』になることを。……ね、コウタさん?」
「え……? ああ、うん……」
「……チッ。勝手にしやがれ。だが俺は、あんたがコウタの足を引っ張った瞬間に、この話を蒸し返すからな」
バルガスは吐き捨てるように言い、席を立った。
エルナはホッとしたようにカナの肩を抱いたが、彼女は気づかない。
カナの意識はすでに、次の『設定』を書き換えていた。
『第五百八十七節:門番の試練。
巨漢の戦士は、私たちの愛の強度を測るために、あえて悪役を演じている。
彼は知らないのだ。
私がコウタさんを「守るべき対象」ではなく、自分という「神殿」に迎え入れるための準備をしていることを。
……にしし。バルガスさん、ありがとうございます。あなたが反対してくれたおかげで、私の決意はさらに硬くなりました』
カナは、コウタの腕にそっと自分の指先を滑らせた。
バルガスの警告など、彼女にとっては、物語を盛り上げるための心地よいノイズに過ぎなかった。
「……はぁ。……ふふ、にしし。あはは!」
ギルドからコウタたちの宿舎へ向かう道すがら、カナは一人、浮遊感にも似た陶酔に浸っていた。
隣を歩くコウタの肩が、歩調を合わせるたびに自分の肩と微かに触れ合う。
ただそれだけのことが、今のカナにとっては、脳髄を痺れさせるほどの強烈な快楽——まさに「ヘヴン状態」をもたらしていた。
(近い。コウタさんの体温が、空気を震わせて私に届いてる。……ああ、五百年待った甲斐があった。この匂い、この振動。これが私の『世界』のすべてなんだわ)
カナの瞳はとろけそうなほど潤み、頬は上気し、その呼吸は隠しきれないほど荒くなっている。
コウタが「大丈夫か? 顔が赤いぞ」と覗き込んでくるたびに、彼女の脊髄には甘美な電流が走り、危うくその場に崩れ落ちそうになるのを必死で耐えていた。
一方、その背後を歩くエルナの顔は、苦虫を噛み潰したように歪んでいた。
「……ねえ、バルガス。あんたの言った通りだったわ。あれ、見て。もう『恋愛関係』なんて生温い次元じゃないわよ。毒電波でも出してるんじゃないかしら」
「……フン。言わんこっちゃねえ。あのお嬢ちゃん、コウタの隣にいるだけで半分イッちまってんじゃねえか。ありゃあ戦場じゃあ使い物にならねえぞ」
バルガスは呆れたように鼻を鳴らしたが、エルナの危惧はより具体的なものだった。
カナのあの恍惚とした表情。
あれは、愛する男を慈しむ女の顔ではない。
手に入れた『聖遺物』の感触を確かめ、永遠に自分のものにするための儀式を完遂しようとする、狂信者の顔だ。
「(……コウタ、逃げるなら今よ。でも、あんたにはもう、その脚力も残ってないんでしょうね)」
エルナは小声で呟き、カナの背中を睨んだ。
カナは、バルガスの「男女の仲はパーティを壊す」という正論を、自分なりのやり方で『証明』しようとしていた。
それは、コウタの足を引っ張らないことではない。
コウタに、**「私以外の仲間など、いなくてもいい」**と思わせること。
自分が完璧な剣になり、盾になり、癒やしとなることで、他のメンバーの存在意義を消滅させること。
「コウタさん。私、明日からの任務、一生懸命頑張りますね。バルガスさんに認められるためじゃない……あなたが、私なしでは歩けなくなるくらい、私を頼ってくれるようになるために」
「え? ああ……。頼りにしてるよ、カナさん」
「にしし。……嬉しい。嬉しいなぁ。コウタさんの『頼りにしてる』っていう言葉、私の魂に直接書き込んでおきますね」
カナは、コウタの二の腕を、包帯の巻かれた指でそっと、けれど逃がさないように強く締め付けた。
彼女の脳内では、すでに「パーティ」という枠組みすらも邪魔な外壁へと変貌している。
(バルガスさんは、門番。エルナさんは、記録者。……でも、最後に残るのは、私とコウタさんだけ。三度目の正直。今度こそ、誰にも邪魔させない、二人だけの神殿を作るの)
宿舎の廊下、薄暗いランプの火に照らされたカナの影は、隣を歩くコウタの影を、じわりと飲み込むようにして重なっていた。
「……にしし。……よし。完璧」
初任務の朝。
カナは、自分の装備をミリ単位で調整していた。
聖女らしい白い法衣。
だが、その内側には、コウタが「守りやすい」ように計算された位置に護符を仕込み、それでいて自分の動きを一切阻害しない、かつての修羅の知恵が詰め込まれている。
バルガスが言った『恋愛関係はパーティを崩壊させる』。
その言葉を、カナは一晩中、暗い部屋で反芻していた。
(バルガスさんは正しい。……だから、私は『恋人』として入るんじゃない。コウタさんにとっての、究極の『部品』として潜り込むの)
彼女は、自分を「一人の女」ではなく、コウタという剣を最も輝かせるための「鞘」であり「研石」であると定義した。
それが、今の彼女が導き出した、執着の極致。
「準備はいいか? 目的地は『鳴き止まぬ森』だ。最近、はぐれオークが徒党を組んでるって噂がある」
「はい! バルガスさん、よろしくお願いします。私、新人なので……足手まといにならないよう、精一杯後ろから支えますね」
カナは、最高に控えめで、かつやる気に満ちた「新人の顔」で頭を下げた。
出しゃばらない。
自分の実力を見せびらかして、バルガスの面子を潰すような愚は犯さない。
それは「知能犯」としての選択だ。
森に入り、オークの群れと接触した瞬間。
バルガスが先陣を切り、コウタがその脇を固める。
エルナが後方から広範囲の魔法で牽制する。
カナの立ち回りは、完璧だった。
「……『癒やしの息吹』」
バルガスが盾でオークの棍棒を受け、腕に衝撃が走ったその「一秒後」には、カナの回復魔法が届いている。
それも、過剰な光を放たず、バルガスの視界を邪魔しない、最小限の魔力構成。
「(……なんだ、このタイミング? まるで俺がどこを痛めるか、最初から分かってやがったみたいだ……)」
バルガスは内心で舌を巻いた。
カナは出しゃばらない。
だが、彼女がいるだけで、不思議とコウタの剣の振りが鋭くなる。
なぜなら、カナが「コウタの死角」にだけ、本人が気づかないほど微細な魔力弾を放ち、敵の姿勢をコンマ数秒、崩し続けているからだ。
コウタには、自分が無双しているように見える。
バルガスには、パーティの連携が奇跡的に噛み合っているように見える。
だが、そのすべての糸を引いているのは、後方で健気に祈りを捧げるカナだった。
「(にしし。……コウタさん、今の動き、五百年前の癖のまま。……左に踏み込む時に、少しだけ重心が浮く。……そこは、私が風を置いて、支えてあげますからね)」
カナは恍惚とした瞳で、戦場を踊るコウタの背中を追う。
彼女にとっての「実力の証明」とは、自分が目立つことではない。
**「私と一緒にいる時のコウタさんが、世界で一番強い」**という事実を、コウタ自身の筋肉に刻み込むこと。
戦闘が終わった。
オークの死骸が転がる中、コウタは不思議そうに自分の掌を見つめていた。
「……なんだか、今日はすごく体が軽かった気がする。カナさんが、後ろにいてくれたおかげかな」
「……っ! 私なんて、ただ祈っていただけです。コウタさんの才能が、今、開花したんですよ。私……感動しちゃいました」
カナは顔を赤らめ、両手を合わせて震えて見せた。
その「一生懸命」な称賛に、コウタは照れ笑いを浮かべる。
だが、その様子を離れた場所で見ていたエルナの背中には、冷たい汗が伝っていた。
「(……恐ろしい子。バルガスの正論を、『便利さ』という猛毒で黙らせる気ね。……コウタ、あんた、自分がカナの手のひらで踊らされてることに、一生気づけないわよ)」
カナは、バルガスの視界の端で、ぺこりと殊勝に頭を下げた。
「バルガスさん。私、もっともっと勉強して、皆さんの邪魔にならないように頑張ります。……だから、これからもパーティに入れていただけますか?」
「……。チッ、勝手にしろ。足手まといどころか、出来すぎだぜ、お嬢ちゃんよ」
バルガスは不機嫌そうに、けれどその実力を認めざるを得ない様子で鼻を鳴らした。
カナの勝利だった。
彼女の異常な執着は、「献身」という完璧な隠蔽を纏い、パーティという名の檻を完成させつつあった。
「……う、んっ……。あと、少し。コウタさんの……明日の活力に、なるために……っ」
野営地の火が消え、静寂が支配する深夜。
大きな岩の影で、カナは一心不乱に自分の胸に手をかけ、指を動かしていた。
服の隙間から漏れ出す、白く濁った、けれど命を削るような熱を持った一滴。
それを、彼女は陶器の小瓶で一滴も逃さぬよう、敬虔な儀式のように受け止めている。
その異様な光景を、見回りから戻ったバルガスとエルナが目撃した。
「……おっ。す、すまねえ、取り込み中だったか」
バルガスは一瞬で事態を「女の着替えか何か」だと脳内変換し、気まずそうに目を逸らして足早に去っていった。
だが、その横でエルナは立ち止まり、カナの異様な集中力と、小瓶に溜まっていく液体の「正体」を察して、言葉を失った。
「……カナちゃん。……隠してあげるから、こっちへ」
エルナは自分のマントを広げ、周囲の視線からカナを遮るようにして隣に座った。
カナはエルナの登場に驚くこともなく、ただ指を動かし続け、視線だけをゆっくりとエルナに向けた。
その瞳は、恍惚と苦痛が混ざり合い、恐ろしいほど澄んでいる。
「……エルナさんは、味方なんですね。……にしし。嬉しい」
「……。味方よ。……バルガスも、口ではああ言ってるけど、本当はあんたの実力を認めてるのよ。ただ、あいつは見てきたの。パーティに恋愛が持ち込まれて、お互いを庇い合って、結果的に全滅して解散した連中をね。だから、警戒してるだけなのよ」
エルナは、カナの矛先がバルガスに向かないよう、細心の注意を払って言葉を選んだ。
今この少女を敵に回せば、パーティが壊れるどころか、物理的に消滅させられかねないという本能的な恐怖があった。
「……。それ……コウタさんにあげるの?」
エルナが小瓶を指差すと、カナは愛おしそうにそれを胸に抱いた。
「はい。……でも、エルナさん。コウタさんには内緒にしてくれますよね? 昨日は『怖い』って言われちゃったから……。今は、美味しいお料理の中に隠して、彼に届けたいんです」
「……分かったわ。大丈夫よ。そのお料理が、ちゃんと、不自然じゃなくコウタに届くように、私が調整してあげる。……だから、そんなに必死に絞り出さなくても大丈夫よ」
「ありがとうございます、エルナさん。……にしし。やっぱり、私、間違ってなかった。私の愛を、皆さんが助けてくれる。……コウタさん、きっと、もっと健康になれますね」
カナの頬には、安堵の涙が伝っていた。
エルナはその涙を拭ってやることもできず、ただ、暗闇の中で白く光る「ミルク」を見つめ続けていた。
自分は今、一線を越えた。
この狂気の隠蔽を助けるということは、コウタをこの女の「檻」に閉じ込める共犯者になるということだ。
だが、そうしなければ、自分たちもこの狂気に飲み込まれてしまう。
「(ごめんね、コウタ。……でも、あの子を止められる人間なんて、この世界にはもういないのよ)」
エルナは心の中でそう呟き、カナの背中を、優しく、けれど震える手でさすり続けた。
カナは満足げに、再び指を動かし始めた。
夜の静寂の中に、ピチャリ、ピチャリと、命が滴る音だけが響いていた。
翌朝、
「……よし。出来た。コウタさん、バルガスさん、エルナさん! お待たせしました、朝食です!」
朝露に濡れた野営地。
カナは、昨日エルナの協力のもとで仕込んだ「魔法料理」——白濁した濃厚なスープを、一人一人の器に丁寧に注いで回った。
その顔には、一睡もせず「抽出」に励んだ疲れなど微塵も見えず、ただ仲間たちに尽くせる喜びに満ちた、初々しい笑顔がある。
「……おっ、美味そうじゃねえか。なあコウタ、こいつは元気が出そうだ」
「本当だね。カナさん、いつも朝早くからありがとう」
コウタが疑いなくスプーンを口に運ぶ。
それを見届けるカナの喉が、期待と興奮で微かに鳴った。
横に座るエルナが、その視線の鋭さを遮るように、明るい声で会話に割って入る。
「当たり前でしょ。カナちゃん、これに貴重な『魔力回復の触媒』をたっぷり使ってるんだから。……ねえコウタ、これを食べ始めてから、なんだか体のキレが良くなってない?」
「……言われてみれば、確かに。寝起きもいいし、剣を振る時の感覚がすごく鮮明なんだ」
「にしし! よかったぁ……。私、必死に皆さんのことを想って作ったので。……皆さんとこうして、和気あいあいとお食事できるのが、私、本当に夢みたいなんです」
カナは、二人の会話に「普通」に混ざろうと、必死に頬を緩ませ、声を弾ませた。
彼女にとって、この食事の時間は「摂取」の儀式であると同時に、自分がこのパーティの欠かせないピースであると自分自身に言い聞かせるための、命がけの「ごっこ遊び」でもあった。
「……。カナちゃんよ」
不意に、バルガスがスープの手を止め、真面目な顔でカナを見た。
「……昨日、俺は言い過ぎた。すまんかったな。……考えてみれば、お前さんは元々、一人で修羅場を潜ってきたソロ冒険者だったんだ。パーティの作法なんて知らなくて当然だし、俺が勝手に決めつけて、お前さんの覚悟を疑ったのは間違いだったぜ」
バルガスの無骨な謝罪。
それは本来、仲間として認められた証であり、感動すべき場面だった。
(……すまんかった……? ああ、そう。あなたはそうやって、私を許すことで、自分の『立場』を守るのね。……にしし。いいですよ、バルガスさん。今はまだ、許してあげます)
カナの脳内では、バルガスの言葉が「敗北宣言」としてアーカイブされていく。
だが、表に出した顔は、感激に打ち震える純真な少女のそれだった。
「……そんな! バルガスさん、謝らないでください。私……私、皆さんのことが大好きだから、少しでも認めてもらえたなら、それだけで……っ」
カナは涙を浮かべ、バルガスの手をぎゅっと握った。
バルガスは照れくさそうに頭を掻き、エルナは引き攣りそうな頬の筋肉を必死に抑えて、スープを飲み下した。
(……美味しい。悔しいけれど、あの子の『愛』が混じったこのスープ、本当に魔力が底上げされるわ。……こうして、毒に慣らされていくのね。私たち全員が)
朝日の中で、四人は笑い合っている。
コウタはカナの献身に感謝し、バルガスは彼女の根性に感服し、エルナは絶望と共に秘密を守り、カナは世界が自分の色に染まっていくヘヴン状態に酔いしれる。
「……コウタさん。お代わり、まだありますよ? あなたの血になり、肉になるもの……いっぱい、食べてくださいね」
「ありがとう、カナさん。……なんだか、君の料理を食べると、すごく安心するよ」
コウタのその言葉が、カナにとっての最高のご馳走だった。
彼女は「にしし」と、今度は声に出さずに心の奥で、深く、昏く、笑った。
「……お疲れ様、コウタ。今日はゆっくり休み。あとのことは、私たちがやっておくから」
街に戻った初日の夜。
エルナの言葉に促され、コウタは重い足取りで自分の部屋へと戻っていった。
カナが毎日欠かさず作り続けた「魔法料理」の恩恵か、あるいはその副作用か。
今のコウタは、かつての鋭敏な警戒心をどこかに置き忘れたように、カナやエルナに対して無防備な背中を見せるようになっていた。
ギルドの酒場では、早くもバルガスが声を張り上げている。
「いいか野郎ども! 俺は認めねえと言ったが、ありゃ間違いだ! カナちゃんは最高だ。あの献身、あの腕前、ありゃあ『本物』だぜ。コウタの野郎、あんな嫁さんをもらえたら一生安泰だな!」
「……。バルガスさんの言う通りですよ、リリアさん。カナさんは、私たちに欠かせない、最高の仲間です」
バルガスの豪快な太鼓判に、エルナが沈痛な面持ちを「慈愛の微笑み」で塗りつぶして同調した。
そのやり取りを、壁際でリリアが愕然とした表情で見つめている。
あの夜、カナの狂気を目撃し、エルナに助けを求めたはずのリリア。
そのエルナまでもが、今はカナを「最高の仲間」と称賛している。
(……そんな。エルナさんまで、あの子に……?)
外堀は、完璧に埋まった。
ギルド中の冒険者たちが「健気なカナ」と「幸運なコウタ」の物語を共有し、祝福の拍手を送っている。
「……にしし。……にしししし!」
カナは暗がりに身を潜め、手帳に狂ったような速度で筆を走らせていた。
『第五百八十八節:外堀の完成。
協力者たちが、私のために道を作ってくれる。
先生の絶望も、バルガスの誤解も、エルナさんの諦念も。
すべてが私とコウタさんの「永遠」を飾るための、美しい供物になる。
……ああ、コウタさん。もうすぐ、もうすぐ私が、あなたを完成させてあげますからね』
深夜。
カナは、エルナを呼び出した。
手には、乾燥させた数種類の香草と、何かが混じった「油」の入った小瓶がある。
「……エルナさん。お願いがあるんです。これ、コウタさんの部屋に置く安眠の香草なんですけど……。エルナさんの魔法で、香りがずっと消えないように『定着』させてくれませんか?」
エルナは、手渡された小瓶の蓋を開けた瞬間、吐き気を覚えた。
香草の匂いの奥に潜む、あの生温い、血と欲望が混ざったようなカナの「分泌物」の匂い。
これが、コウタの眠りを守るのではなく、彼の脳にカナの存在を刻み込み、夢の中でも彼女から逃げられないようにするための「呪具」であることを、エルナは察した。
「……。これ、ただの定着薬じゃないわね」
「……。エルナさん、協力してくださるって、言いましたよね?」
カナの瞳が、月明かりを吸い込んで昏く光った。
それは依頼ではなく、共犯者への冷徹な命令だった。
エルナは震える指先で杖を構え、その香草に「永遠」を定着させる魔法をかけた。
「……ありがとうございます、エルナさん」
カナは満足げに頷くと、その香草を抱えてコウタの部屋へと忍び込んだ。
部屋の中は、カナが仕掛けた「安眠の香り」で満たされていた。
ベッドの上で、無防備に眠るコウタ。
カナはその枕元に膝をつき、彼の頬を、包帯の隙間から覗く指先で愛おしそうになぞった。
(……ああ。やっと、二人きり。……コウタさん、あなたの全部、私が飲んでもいいですか?)
カナの理性が、ぷつりと切れた。
彼女は獣のような動きで、コウタの胸元へ顔を埋め、彼の肌を貪ろうと身を乗り出した。
その瞬間。
「……カナちゃん。それはダメよ」
背後から、冷たい風が吹いた。
エルナが、入り口の影に立っていた。
「……エルナさん。……邪魔しないでください。私は、ただ、彼と一つになりたいだけなんです」
カナが振り向いた。その顔は、もはや人間のそれではなく、三生分の渇望に焼き尽くされた「怪物」の表情だった。
「……カナ、我慢しなさい。あなたたち、まだ付き合ってもいないでしょう?」
「エルナさん……! 私、コウタさんが好きなの! 五百年、五百年も待ったの! もう一分一秒だって、我慢したくない!」
カナの声は、慟哭に近い叫びとなって部屋に響いた。
だが、エルナは動じず、一歩、彼女に近づいた。
「知ってるわ。……でも、ここで耐えないと、あなたは彼を永遠に手に入れられないわよ。今ここで彼を襲えば、彼は目覚めて、あなたを『獣』として軽蔑するでしょう。……そんな結末、あなたは望んでいないはずよ」
「…………っ!」
カナの身体が、激しく震えた。
「永遠に手に入らない」という言葉が、彼女の脳内に冷水を浴びせかける。
「……う、ぅ……。わかって、る……。わかってるんです、エルナさん……」
カナはコウタの身体から離れ、床に崩れ落ちた。
彼女は自分の腕を抱きしめ、必死に自分の内に渦巻く狂気を、再び「一生懸命な少女」の檻へと押し戻していく。
「……偉いわ、カナちゃん。今は、この香りに彼を染めるだけで十分でしょう?」
「……はい。……ごめんなさい、エルナさん。……止めてくれて、ありがとう」
カナは俯きながら、床を爪が剥がれんばかりに掻きむしった。
その屈辱と、耐え難いほどの「愛」が、彼女の中でさらなる猛毒へと精製されていくのを、エルナはただ、静かに見守り続けるしかなかった。




