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「……にしし。あの人が、今世での『一人目』なんだ」


ギルドの酒場の隅。

カナは、柱の陰から獲物を狙う爬虫類のような、静謐で湿った視線を投げかけていた。

その視線の先では、コウタが自分ではない女性と向き合っている。

青い外套を羽織った、凛々しい女騎士——リリアだ。

彼女は街の治安維持を担う騎士団の一員であり、ギルドへの定期報告のためにコウタと打ち合わせをしていた。


「コウタさん、今回の件は助かりました。また明日、詰所の方へ詳細を報告に来ていただけますか?」



「ああ、構わないよ。リリアさんも、無理しないでな」


二人の間に流れる、爽やかで、非の打ち所がない『信頼』の空気。

カナは、手元に置いた手帳にペンを走らせる。

・距離、約五十センチメートル(公的な距離)

・視線が合う頻度、三秒に一度

・コウタさんの表情、緩んでいる。敵意なし。

・女の表情、笑顔。好意、あるいは……

カナのペンが、紙を抉るように一点で止まった。

(あの日、三百年前に私からコウタさんを奪った魔女も、あんなふうに笑っていた)

ドクン、と心臓が跳ねる。

だが、カナは叫ばない。駆け寄って女の髪を掴み、その笑顔を剥ぎ取るような真似もしない。

今の彼女は、一生懸命に「自分を律する健気な乙女」を演じているからだ。

(……落ち着いて、私。あんな女に構って、コウタさんにまた『怖い』なんて思われたら、それこそあの日と同じ失敗をしてしまう)

彼女は深く、深く呼吸を繰り返した。

肺の中に、ギルドの酒の匂いと、コウタの体温を思い起こさせる陽光の匂いを取り込む。

そして、顔に貼り付けたのは、昨日エルナたちから合格点をもらった「一生懸命な努力家の笑顔」だ。


「リリアさん。……あの、少しお時間よろしいですか?」


打ち合わせを終え、ギルドを去ろうとしたリリアの前に、カナは滑り込むように現れた。

顔を赤らめ、両手を胸の前でぎゅっと握りしめ、上目遣いで相手を見上げる。

それは、誰がどう見ても「恋に悩む少女」のそれだった。


「……ええ、構いませんが。あなたは、確か最近話題の聖女様……」



「カナ、と申します。……あの、突然で申し訳ないんですけど。コウタさんのこと……好きなんですか?」


直球の質問に、リリアは一瞬だけ目を丸くした。

だが、カナの瞳に浮かぶ「必死さ」を見て、彼女は微笑ましいものを見るような目になった。


「まさか。彼は信頼できる協力者ですよ。……でも、素敵な男性だとは思いますけど」



「……。そうですか」


カナの心臓が、冷たく、鋭い音を立てて鎮まった。

(嘘だ。素敵な男性だと思っているなら、それはもう『敵』だ。あなたは今、私に嘘をついた。三千万人目の、私の敵)

だが、カナは微笑みを絶やさない。

むしろ、その瞳に涙を溜めて、さらにリリアの手を握りしめた。


「お願いです。リリアさん、私……コウタさんのことが好きすぎて、どうしたらいいか分からなくて。私みたいな村娘じゃ、彼に相応しくないんじゃないかって、毎日苦しくて……。だから、約束してください」



「約束……?」



「リリアさんは、絶対に、コウタさんと付き合ったりしませんか? 永遠に、絶対に……です」


リリアは戸惑った。

目の前の少女からは、震えるような必死さが伝わってくる。

その「一生懸命さ」があまりに純粋に見えたからこそ、彼女は「そんなこと、あるはずないのに」という違和感を、自身の良心で押し潰してしまった。


「ええ、約束します。私は騎士ですから。職務に身を捧げていますし、コウタさんを恋愛対象として見ることはありません。……安心してください」



「……よかったぁ」


カナは崩れ落ちるように安堵の溜息を漏らした。

だが、握りしめられたリリアの手には、じわりと、逃げ道を塞ぐような強い力が込められていた。


「じゃあ……。リリアさん、私に教えてください。コウタさんの『お仕事のパートナー』としての距離感を。……私、彼に怖がられちゃったんです。だから、仕事だから仕方ない、っていう名目なら、彼も私を受け入れてくれるかもしれないから」



「カナさん……。……いいですよ。私にできることなら、手伝います」


リリアは、自らの首に縄をかけられたことに気づいていなかった。

カナは、リリアという「モデルケース」を完全に掌握した。

彼女が「はい」と言った瞬間から、リリアはカナにとっての「先生」であり、同時に、一歩でも踏み越えれば排除される「標本」となったのだ。


「ありがとうございます。……先生♡」


カナは、最高に愛らしい笑顔でそう呼んだ。

その瞳の奥にある、三生分の呪詛を隠し通したまま。



 


「……先生。コウタさんが右足を出すとき、肩はこれくらい揺れていましたか?」



「え、ええ……。まあ、それくらいだったかしら。でもカナさん、そんなに細かく真似しなくても……」


ギルドの裏手。

リリアは、困惑と、わずかな気圧されを感じながら立ち尽くしていた。

目の前のカナは、リリアが先ほどコウタと歩いていた時の「歩幅」や「手の振り方」を、寸分違わず再現しようと、地面に線を引いて何度も繰り返している。

その動きは、一生懸命という言葉で片付けるには、あまりにも機械的で、執拗だった。

カナは瞬き一つせず、リリアの動悸や微かな重心の移動さえも盗み取ろうと、その瞳を爛々と輝かせている。


「大事なんです。……コウタさんの網膜に映る私が、コウタさんの『安心するリズム』と一致すれば、きっと彼は怖がらなくなるから」


カナは、額に滲んだ汗を乱暴に拭った。

包帯が巻かれたその手は、過度な反復練習のせいで微かに震えている。


「……にしし。先生、次はコウタさんが騎士団に何を報告したのか、教えてください。彼が今、どんな悪と戦い、どんな正義を胸に抱いているのか……その軌跡を、一文字も漏らさず知っておきたいんです」



「えっ……。それは、教えられないわ。任務の内容は騎士団の機密だし、個人のプライバシーに関わることよ。いくらカナさんでも、それはルール違反だわ」


リリアが毅然とした態度で拒むと、カナの動きがピタリと止まった。

一瞬。

本当に一瞬だけ、カナの瞳から光が消え、底なしの沼のような虚無が顔を出した。


「……すいません。そう、ですよね。……でも、コウタさんの活躍や、彼が歩いたあとの土の匂い、戦った痕跡……。そういうものを辿れば、何かヒントがある気がするんです。細かいことでもいいんです。彼が報告の途中で、何回ため息をついたかとか、どの言葉を言う時に少しだけ声を震わせたかとか……」


カナはリリアの腕を、縋るように掴んだ。

指先が食い込み、リリアは思わず「痛っ」と声を漏らしそうになる。

だが、カナの表情は、どこまでも健気で、必死な「教えを乞う生徒」のままだった。


「……あと、先生。コウタさんの……今世の、いえ、女性の好みとか知ってますか? もし先生が知らないなら、誰か知ってそうな人、心当たりはありませんか? ギルドの誰か? それとも、昔の……昔の女の人とか?」



「カナさん、落ち着いて……。私、そんなことまでは……」



「知りたいんです! 知らなきゃいけないんです! じゃないと、私はまた間違えてしまう。彼に相応しい自分を『設計』できない。お願いです、先生。教えてください。……ねぇ、教えてくれないなら、先生が『好みの女』を演じて見せてくれるのでもいいんですよ?」



「…………っ」


リリアは息を呑んだ。

カナの言葉は、熱に浮かされたように早口になり、距離感という概念を完全に無視してリリアのパーソナルスペースを侵食していく。

彼女は「一生懸命」という名の猛獣だ。

愛という名の絶対的な正義を盾にして、他者の境界線を土足で踏み荒らし、情報を、記憶を、魂を、すべて自分のものにしようと貪り食っている。


「……にしし。……先生、怖い顔をしないでください。私、ただ頑張りたいだけなんです。三生分の愛を、たった一度の今世に詰め込もうとしたら、これくらい普通ですよね?」


カナはふわりと腕を離し、何事もなかったかのように可憐に微笑んだ。

だが、リリアの腕には、彼女の指の形をした赤い痕が、呪印のようにくっきりと残っていた。

リリアの背中に、じっとりとした嫌な汗が流れる。

この子は、自分が何を言っているのか、分かっていない。

本気で「普通」だと思っている。

本気で、これが「正しい努力」だと信じ込んでいる。


「……今日は、もう終わりにしましょう。私も、次の任務があるから」


逃げるようにそう告げたリリアの背中に、カナの声が優しく、けれど逃がさない楔のように刺さった。


「はい。お疲れ様です、先生。……明日も、楽しみにしてますね。コウタさんのことを、もっと、もっと、いっぱい教えてください」


カナは、遠ざかるリリアの背中を見つめながら、手帳に新たな項目を書き加えた。

『第五百八十五節:協力者の動揺。

先生は、私のあまりの熱心さに戸惑っている。

それは、彼女が「本物の愛」の重さを知らないからだ。

……でも大丈夫。私が教えてあげる。

コウタさんを知ることが、この世界で唯一の、救いなのだということを。』

カナのペン先が、紙を突き破った。

彼女はそれを気に留めることもなく、破れた穴を愛おしそうに指でなぞりながら、静かに、静かに、独り言を漏らした。


「……にしし。次は、先生の『匂い』をコウタさんに付ければいいのかな。そうすれば、彼は私を仲間だと、安心してくれるかな……?」



「……先生。コウタさんが昨日、ギルドの依頼板の前で三秒間だけ視線を止めたあの依頼。あれ、本当は受けたかったんですよね? 彼の指先が、わずかに羊皮紙の端をなぞっていましたから」


リリアは、こめかみに走る鈍い痛みを抑えるように、額に手を当てた。

連日の「講義」という名の尋問。

カナは、リリアが自分でも無意識のうちに記憶の底へ追いやっていたような、コウタの些細な挙動を、執念深く掘り起こさせては自分の血肉にしようとしていた。

リリアの心は、限界を迎えつつあった。

彼女の「一生懸命」を否定すれば、自分が悪人になる気がした。

けれど、カナの瞳に宿る、あの鏡のような無機質な熱に当てられ続けるのは、もう耐えられない。


「……もう、やめて、カナさん。私、これ以上は……」


拒絶の言葉が、喉元まで出かかった、その時。


「おーい、二人とも。こんなところで何してるんだ? 最近、リリアさんと仲が良いんだな、カナさん」


背後から、陽だまりのような声が降ってきた。

コウタだ。

彼は、リリアの顔が青ざめていることにも、カナの指先が興奮で微かに震えていることにも気づかず、お人好しな笑みを浮かべて歩み寄ってきた。

その瞬間、リリアは全身の力が抜けるような、凄まじい解放感に包まれた。

(コウタさん……! 助かった……!)

リリアは、自分が今、かつてないほど卑怯な考えを抱いていることを自覚した。

このプレッシャーから逃げられるなら、この「怪獣」を、その本来の飼い主に押し返してしまいたい。


「コウタさん! にしし……。今、先生に色々と教わっていたところなんです。あなたのこと、もっと知りたくて」


カナの興味の矛先が、一瞬で「標本」から「実物」へと移り変わる。

その瞳の温度が、零下から沸点へと一気に跳ね上がるのを、リリアは見逃さなかった。


「コウタさん、いいところに来てくれたわ。……カナさん、せっかくだから本人に直接聞いたらどう? 私から聞くより、ずっと確実でしょう?」


リリアは、逃げる準備をしながら、カナの背中を優しく、けれど断固としてコウタの方へ押し出した。


「ほら、カナさん。何か聞きたいことがあるんでしょう? コウタさんに。……さあ、今なら何でも答えてくれるわよ」



「……。いいんですか? 先生。私……コウタさんに、直接」


カナは、まるで聖遺物を目の前にした巡礼者のように、おずおずとコウタを見上げた。

リリアは、その隙を見逃さなかった。


「ええ、もちろん! さあ、私はこれで失礼するわね。報告書が残っているから!」



「あ、おい、リリアさん? ……行っちゃった。なんだか、リリアさん、すごく急いでたな」


コウタは不思議そうに首を傾げたが、すぐに目の前で震えている少女に意識を戻した。


「それで、カナさん。俺に聞きたいことって……何かな? 答えられることなら、答えるけど」



「…………っ」


カナは、包帯が巻かれた両手で、自分の胸元をぎゅっと押さえた。

彼女の脳内では、リリアから搾り取った膨大な「コウタのデータ」と、目の前にいる「実体」が、火花を散らして融合を始めていた。

(コウタさんの声……。リリアさんの声を通した思い出じゃない、本物の、震動……。ああ、なんて、なんて素敵な響きなんだろう)

彼女は一歩、コウタに近づいた。

リリアとの訓練で身につけた、コウタが「最も安心するはずの角度」で首を傾げ、彼の網膜に「理想の自分」を焼き付けようとする。


「……コウタさん。私、知りたいんです。あなたが今、一番、誰かに『救ってほしい』と思っていることは、なんですか?」



「え……?」



「五百年前も、三百年前も、あなたはいつも一人で戦って、私を守ってくれました。でも、今世では、私はあなたを助けるために生まれたんです。だから、教えて。あなたの傷を、あなたの弱さを、あなたの『呪い』を……。私が全部、飲み干してあげたいから」


カナの瞳が、ぐにゃりと歪んだような気がして、コウタは思わず後ずさった。

健気で、献身的で、一生懸命な少女。

だが、その背後に透けて見えるのは、彼を「救う」という名目で、その存在すべてを支配しようとする、底なしの愛の沼だった。


「……にしし。……逃げないでくださいね、コウタさん。私、先生にいっぱい教わったんです。あなたが、どうすれば私を好きになってくれるか」


カナは、リリアが残していった「負い目」という言葉を反芻しながら、最高の笑顔で一歩を踏み出した。


「……カナさん。最近、君が誰よりもストイックに、必死にクエストをこなしてること、ギルドの連中から聞いてるよ。無理しすぎじゃないか?」


コウタの声は、どこまでも真っ当で、濁りのない心配に満ちていた。

彼は、カナの異常な執着の「裏」を読もうとしているのではない。

目の前で傷だらけになりながら、がむしゃらに生きようとしている一人の冒険者として、彼女を正当に評価し、案じていた。


「見ててくれた……。コウタさん、私が頑張ってるの、見ててくれたんですか……?」



「ああ。街の人たちの手伝いもしてるんだろ? 聖女様、なんて呼ばれて。……正直、驚いたよ。君は、自分の足でちゃんと立って、立派にやってるじゃないか」


カナの胸の奥で、何かが激しく軋んだ。

(ああ、嬉しい。見ててくれた。評価してくれた。……でも、ダメ。ここで喜んじゃダメ。欲張っちゃダメ。もっと普通にしなきゃ。もっと可愛く、自然に。怖がられないように、怖がられないように……!)


「……にしし。……そうですか。……えへへ」


カナは必死に、自分を「普通」の枠に押し込めようとした。

脳内では、リリアから学んだ「好感度の高い微笑み」と「控えめな肯定」が、警告灯のように激しく点滅している。

(気をつけろ。気をつけろ、私。今の私、目が怖くない? 声が上ずってない? 爪が手のひらに食い込んでる……隠して、隠して! コウタさんに『やばい奴』だと思われたら、またゼロに戻っちゃう!)

彼女の精神は、限界まで引き絞られた弦のように震えていた。

コウタが「見てくれている」という事実が、彼女にとっての救いであると同時に、世界で最も過酷な『審査』に感じられていたのだ。


「……カナちゃん。そんなに、肩の力を入れなくていいんだよ」


不意に、コウタの大きな手が、カナの強張った肩にそっと触れた。

厚いタコのある、冒険者の温かい掌。

その瞬間、カナの中で張り詰めていた「何か」が、音を立てて断ち切れた。


「…………っ、ぅ……」



「え、カナちゃん……? ごめん、痛かったか?」



「……ちが、う。ちがうんです、コウタさん……」


カナの瞳から、大粒の涙が溢れ出した。

一度溢れ出すと、それはもう止まらなかった。

一生懸命に演じてきた「普通」、必死に隠してきた「三生分の執念」。

それらが、コウタの体温という、たった一つの『現実』に触れただけで、溶け落ちていく。


「……怖いんです。私、自分が怖いの。あなたに嫌われるのが、怖くて……。だから、ちゃんと、ちゃんとしなきゃって思えば思うほど、自分が、ぐちゃぐちゃになって……」


カナはしゃくり上げながら、コウタの袖を掴んだ。

それは、リリアに教わった戦略的な仕草ではない。

五百年前、村を焼かれ、初めて彼の手を握った時の、あの名もなき村娘のままの、剥き出しの慟哭だった。


「怖がらせたくないのに……っ。普通でいたいのに……。でも、コウタさんのこと考えると、私……っ、私……!」



「……大丈夫。大丈夫だから。カナちゃんは、十分頑張ってるよ」


コウタは困惑しながらも、泣きじゃくるカナの背中を、あどけない子供をあやすように優しく叩いた。

その優しさが、カナにとっては毒であり、何よりも甘美な蜜だった。

彼女の脳内では、また新しいページが、涙の跡を吸い込みながら書き換えられていく。

(……ああ。触れてくれた。コウタさんが、私に触れてくれた。私の涙を見て、困って、抱きしめてくれようとしてる。……にしし。……にしし!)

涙を流しながら、彼女の心の奥底では、冷徹なまでの幸福感が首をもたげていた。

(怖がられてもいい。泣けば、彼はこうして触れてくれる。弱れば、彼は私を放っておけない。……先生。これが、あなたが言っていた『負い目』の正体なんですね?)

コウタの胸に顔を埋めたまま、カナの瞳は、もはや泣いてはいなかった。

湿った瞳の奥で、彼女は再び、冷たく研ぎ澄まされた「三度目の永遠」への算段を始めていたのだ。

『血の契約、三度目の永遠』


「……ねえ、バルガス。あれ、見てどう思う?」


ギルドの二階、手摺りに肘をついたエルナが、顎で階下の一角を指し示した。

そこでは、コウタの袖を掴んで涙を流すカナと、おろおろと彼女の背中を叩くコウタの姿があった。

昼下がりの柔らかな光に包まれたその光景は、端から見れば、不器用な男が恋する少女を泣かせてしまった、微笑ましい一幕にしか見えない。


「ん? ああ、またあのお嬢ちゃんか。コウタのやつ、あんなにストイックに頑張ってる子を泣かすたぁ、罪な男だぜ」


バルガスが酒瓶を傾けながら、豪快に笑う。

だが、エルナの瞳に宿る色は冷ややかだった。

彼女は、カナがコウタの胸に顔を埋めた瞬間、その「角度」が、ほんの数秒前にリリアが去った時の首の傾げ方と、完璧に一致していることに気づいていた。


「……違うわ。あの子、進化してる」



「進化ぁ?」



「ええ。前世がどうとか、目玉焼きがどうとか言ってた時は、まだ自分の妄想を押し付けてるだけだった。でも、今は違う。コウタの『善意』を正確に狙い撃ちしてるわ。泣けば触れてもらえる。弱れば拒絶されない。……それを学習して、即座に実行してるのよ。あのタイミング、あの涙の量……怖いくらいに完璧だわ」


エルナの指先が、無意識に自分の唇をなぞった。

面白い。

確かに面白いと思っていた。

狂った少女が、一方的な愛を捧げる喜劇。

だが、今のカナから漂うのは、喜劇の軽やかさではない。

相手を窒息させるまで締め上げる、湿った蔦のような「執念」の完成形だ。


「……にしし」


コウタの胸の中で、カナが漏らした微かな声。

それは、一階の喧騒にかき消されるはずの小さな音だったが、聴覚の鋭いエルフであるエルナの耳には、はっきりと届いた。

それは、悲しみに暮れる少女の泣き声ではない。

罠に獲物がかかったことを確信した、捕食者の歓喜の音。


「バルガス。……私、あの子に『負い目』を教えたのは、ちょっとした冗談のつもりだったんだけど」



「ああ? 何か言ったか?」



「……いいえ。ただ、あの子が作ってるのは、もう『恋』なんて可愛いものじゃないわね。あいつの人生を丸ごと飲み込むための、逃げ場のない『牢獄』よ」


エルナの背筋に、初めて微かな戦慄が走った。

自分が煽った狂気が、想像を絶する速度で「知性」を持ち、コウタという獲物を包囲し始めている。

カナは泣きながら、コウタの心臓の鼓動を数えている。

一回、二回。

そのリズムが速まるたびに、彼女の脳内の手帳には『五百八十六節:肉体の調律』が書き加えられていく。

(ああ、コウタさん。あなたの心臓、こんなに激しく鳴ってる。私の涙で、あなたの心が壊れていく。……にしし。……嬉しい。もっと、もっと私でいっぱいにしてあげる)


「……カナちゃん、もう泣かないで。俺、どこにも行かないから」


コウタの優しい、けれど致命的な一言。

それを聞いたエルナは、頭を抱えて溜息を漏らした。


「……終わったわね。コウタのやつ、自分から檻の鍵を閉めちゃったわよ」


エルナの疑念は、確信へと変わった。

カナはもう、「一生懸命な可哀想な子」を演じているのではない。

「一生懸命な可哀想な子」という概念そのものになって、コウタという存在を永遠に封印しようとしているのだ。



「……エルナさん、リリアさん。ありがとうございます。コウタさんが……コウタさんが、『どこにも行かない』って言ってくれました」


翌朝、ギルドの喧騒のなか。

カナは二人を見つけるなり、頬を林檎のように赤らめ、夢見るような足取りで駆け寄ってきた。

その瞳は、涙を流し尽くしたあとのように澄み渡り、純粋無垢な喜びだけを煮詰めたような光を放っている。

だが、エルナはその光の底にある「沼」の深さを知っていた。

コウタのあの失言——いや、呪いの言葉——を、この少女がどう解釈し、どう『聖典』に刻み込んだかを想像するだけで、肌に粟が立つ。


「……にしし。先生たちの言った通りでした。私が、あんなにみっともなく泣いちゃっても、彼は私を捨てなかった。……これが、絆なんですね」


カナの無防備な笑顔が、リリアの胸を鋭く刺した。

コウタを逃がすために差し出した自分の行為が、結果としてこの怪物の食欲を最悪の形で刺激してしまった。

リリアが後悔に口を開きかけた、その瞬間。


「……そう。よかったわね、カナちゃん。私たちも本当に嬉しいわ」


エルナが、リリアの言葉を遮るようにして、カナの両手を優しく包み込んだ。

その顔には、年上の女性らしい、慈愛に満ちた完璧な「姉御肌」の微笑みが張り付いている。


「いい? 安心しなさい。私、これからも全力でカナちゃんを応援するって決めたから。コウタのやつに、あんたがどれだけ健気で、どれだけいい子か、毎日これでもかってくらい吹き込んでおいてあげるわよ」


リリアは驚愕してエルナを見た。

何を言っているんだ。昨夜、あんなに「あの子は牢獄を作っている」と戦慄していたはずなのに。

だが、エルナの瞳は笑っていなかった。

これは「応援」という名の、先手だ。

カナという制御不能の暴走特急に対し、敵対するのではなく、あえて「味方」という座席に座ることで、せめてその破壊の方向を監視しようという、エルナなりの窮余の策。


「……えっ、エルナさん……? ……あ、そうよね! 私も……私も、同じ気持ちよ! 応援してるわ、カナさん。私からも、コウタさんに伝えておくわ。あなたは本当にストイックで、立派な聖女様だって」


リリアも、エルナの意図を察して慌てて言葉を重ねた。

自分たちが「敵」ではないと、今のうちにカナの脳内に刻み込んでおかなければならない。

さもなければ、いつ「前世の仇」として、その鋭いペン先の餌食になるか分かったものではないからだ。


「……。先生たちも……私の、味方……?」


カナの動きが、一瞬だけ止まった。

彼女は二人を交互に見つめ、その心の奥底まで暴こうとするかのように、じっと瞳を凝らす。


「……にしし。嬉しい。嬉しいです! 協力者が三人……ううん、二人に増えた。……コウタさん、喜んでくれるかな。みんなが私のことを好きだって知ったら、もっと安心して、私を愛してくれますよね?」



「ええ、もちろんよ。……さあ、コウタはあっちで依頼の整理をしてるわ。早く行ってあげなさいな」


エルナが背中を押すと、カナは「はい!」と短く返事をして、軽やかにコウタの元へ駆けていった。

一人、また一人と、コウタの周りから逃げ道が塞がれていく。

味方を装うエルナたちも、今やカナという巨大な蜘蛛の巣の、一部を支える柱に過ぎなかった。


「……エルナさん。これで、よかったんでしょうか」


リリアが震える声で問いかける。


「よくないわよ、最悪よ。……でもね、リリア。あの子を敵に回す勇気、あんたにある? 私は、ないわ」


エルナは自分の指先を見つめた。

カナが去ったあとの空気に、あのおぞましくも甘い、想像妊娠のミルクの匂いが、まだ微かに残っているような気がした。


「吹き込むわよ。毎日、毎日ね。『カナちゃんはいい子だ』って。……そうやってコウタを麻痺させて、あの子を満足させておくしかないの。あの子が『世界に祝福されている』と思い込んでいる間だけは、まだ、破滅は先送りにできるわ」


エルナの「応援」という名の敗北宣言。

それは、カナの『三度目の永遠』という物語に、絶対的な正当性を与えてしまう毒薬でもあった。


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