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「……次は、どれですか」
ギルドの受付カウンター。
カナの声は、感情の起伏が削ぎ落とされた、ひどく平坦なものだった。
その瞳は焦点が合っておらず、まるで見えない遠くの景色を眺めているかのようだ。
目の下には昨日よりも濃い隈が刻まれ、その白皙の肌を痛々しく際立たせている。
「えっ、あ、カナさん? さっき戻ったばかりでしょう。この『嘆きの森』の討伐依頼、普通のパーティが三日がかりでこなす量ですよ?」
「……にしし。大丈夫です。まだ、時間が余っていますから」
カナは虚ろな笑みを浮かべ、剥き出しの殺気が籠もった依頼書をひったくるように受け取った。
彼女は今、飢えていた。
金にではない。
コウタに「怖い」と言わせないための、圧倒的な『正当性』にだ。
(怖がらせない方法、怖がらせない方法、怖がらせない方法……)
脳内では、その言葉が壊れたレコードのように延々とリピートされている。
彼が怯えたのは、自分が「得体の知れない女」だからだ。
ならば、誰もが認める実績を積めばいい。
立派な冒険者として、高潔な聖女として、彼が誇れるような存在になれば、彼はきっと、あの怯えを「敬意」に変えてくれるはずだ。
森の中、カナは襲いかかる巨大な魔獣を前にしても、眉ひとつ動かさなかった。
「邪魔……。あなたは、コウタさんじゃない。コウタさんじゃない誰かに、構っている暇なんてないんです」
呟きと共に、彼女の手から白濁した光が放たれる。
それは慈愛の奇跡などではない。
「早く終わらせて彼の元へ行きたい」という、執念が形を成した純粋な暴力としての魔力だ。
光に焼かれる魔獣の絶叫を、彼女の耳は拒絶していた。
彼女の鼓膜に響いているのは、昨日のコウタの拒絶の言葉。
そして、その奥で泣いている「はず」の、前世の彼の悲鳴だ。
(違う! 違うんだ、コウタさん! 私はあなたの物語を愛してるんじゃない! あなたに届けたいだけなの! 目の前にいる、今、この瞬間のあなたに……!)
内面の叫びとは裏腹に、彼女の体は精密機械のように淡々と獲物を仕留めていく。
返り血が頬を汚しても、服が裂けても、彼女は一切の苦痛を感じない。
ただ、夢遊病者のように獲物の首を刈り続け、素材を剥ぎ取り、次の戦地へと足を運ぶ。
その姿は、周囲の冒険者たちの目に、恐ろしいほどの『ストイックさ』として映っていた。
「おい、見ろよ。あの『黒髪の聖女』、また一晩でワイバーンの巣を壊滅させたらしいぞ」
「凄まじいな……。食事も睡眠も惜しんで、ひたすら己を律して戦い続けている。あんなに純粋で、ストイックな冒険者が他にいるか?」
「きっと、何か高潔な目的があるんだろうな。聖女の鑑だよ」
ギルドの酒場で飛び交う賞賛の声。
カナはそれらを一瞥もせず、ただ血に汚れた包帯を巻き直していた。
包帯の下の拳は、壁を叩いた傷と、酷使による炎症で、もう感覚がなくなっている。
「……にしし。もう少し」
彼女は、自分を騙し続ける。
この血も、この傷も、この稼いだ金も。
全部、コウタさんに「怖くないよ」と言ってもらうための供物なのだと。
(怖がらせない方法……。そうだ。私がもっと完璧になれば、彼は安心して私に身を委ねられるようになる。だって、私たちは三度目の正直を果たす運命なんだから)
狂気は、静寂の中でより深く、より鋭く研ぎ澄まされていく。
周囲が彼女を「聖女」と崇めれば崇めるほど、カナという一個人の魂は、コウタという名の深淵へと沈んでいった。
その夜、彼女が書き殴った日記は、もはや文章の体をなしていなかった。
『コウタさん怖くないですよ。ほら、見て。私、こんなに立派になったよ。……にしし。にしし。にしし……』
一ページを埋め尽くす「にしし」の文字。
それは、現実を拒絶し、捏造された光の中に逃げ込み続ける彼女の、最後で唯一の抵抗だった。
「……にしし。コウタさん、見つけた」
ギルドの裏手、昼休憩を取ろうとしていたコウタの前に、カナは音もなく現れた。
その姿は、数日前よりもさらに細く、どこか透明感を増している。
頰はこけ、瞳だけが異常なほどに爛々と輝いていた。
「カナさん。……あ、ああ、お疲れ様。最近、ソロですごく頑張ってるって噂だよ」
「はい。コウタさんに相応しい自分になりたくて。……あ、これ。お弁当、作ってきたんです。食べていただけますか?」
カナは大事そうに抱えていた、ごく普通の木製のお弁当箱を差し出した。
コウタは一瞬躊躇したが、彼女の手に巻かれた包帯の痛々しさと、期待に満ちた眼差しを拒絶できず、それを受け取った。
「ありがとう。……開けてもいいかな?」
「はい! あなたの好きなものばかり、一生懸命、詰め込みましたから」
コウタが蓋を開ける。
その瞬間、彼は絶句した。
視界を埋め尽くしたのは、白と黄色の、平坦で執拗な色の群れだった。
隙間なく、何層にも重なり、詰め込まれたもの。
「……全部、目玉焼き?」
「はい。あなた、目玉焼き好きですよね? にしし、私、見てたんです。食堂であなたが、それを一番幸せそうに食べているところを」
カナの声は、うっとりと甘い。
彼女の脳内では、コウタが目玉焼きを口に運んだ一瞬の映像が、聖なる記憶として何度も再生されている。
「いや、好きだけど……全部は……」
「でも、目玉焼きにはいろんな種類があるんです! 半熟、固焼き、両面焼き、片面焼き、味付けも醤油、塩、ソース……。私は、あなたがどんな目玉焼きが一番好きか、研究したくて。今日は、私の知る限りの正解を全部持ってきました。さあ、試してください。どれが、あなたの魂に一番響きますか?」
カナは身を乗り出し、コウタの反応を一滴も漏らさぬよう観察する。
その瞳は、もはや「美味しい」という感想を求めていない。
自分の分析が、彼の「正解」に合致するかどうかを確認する、実験者の目だ。
「……ごめん。気持ちは嬉しいけど、やっぱり、ちょっと怖いよ」
コウタの口から漏れた、本音の拒絶。
その言葉を聞いた瞬間、カナの肩が微かに震えた。
彼女は絶望に顔を歪めるかと思いきや、その口元は、ゆらりと弧を描いた。
「……にしし。怖い、ですか。やっぱり、私の努力が足りないからですね」
「そうじゃない。極端なんだよ、カナさんは。何ていうか……」
「いいんです、コウタさん。私、わかっています。あなたが私の愛の重さに耐えられないのは、まだ私が、あなたの『母親』になりきれていないからだって」
カナは自分の胸元に手を当てた。
その仕草は、驚くほど慈愛に満ちており、同時に形容しがたい不気味さを放っている。
「……え?」
「昨日、思ったんです。前世の私たちは、ただの恋人じゃなかった。私はあなたを産み、育み、愛した記憶もあるはずだって。……見てください、コウタさん」
カナが服の襟元を少しだけ緩めると、そこから白い陶器のような小瓶を取り出した。
瓶の中には、白濁した液体が満たされている。
「これ、私のミルクです。さっき、絞ったんです」
「は……!? 何、言ってるんだ……?」
コウタは椅子を蹴るようにして立ち上がった。
彼女は妊娠などしていない。そんなはずはない。
だが、カナの表情は、神々しいまでの確信に満ちていた。
「あなたが私を怖がるのは、まだ私の愛を『異物』だと感じているから。でも、私の血から作られたこれを飲めば、私たちは一つになれる。あなたが私の子供だった頃の記憶も、きっと……。にしし、まだ少ししか出なかったんですけど、一生懸命、胸を揉んで、あなたのことを想い続けたら、出てきたんです」
「自分は彼の母であり、妻であり、すべてである」という狂気的な自己暗示(想像妊娠)が、彼女の体を物理的に作り変えてしまった、歪な奇跡の結晶。
「飲んで……飲んでください、コウタさん。そうすれば、もう怖くなくなります。あなたは私の一部に戻るだけなんですから」
カナは小瓶を差し出し、一歩、また一歩と詰め寄る。
その足取りは、夢遊病者のように軽やかで、恐ろしい。
「待ってくれ……来ないでくれ!」
コウタは弁当箱を置いたまま、逃げるようにその場を去った。
残されたのは、積み上げられた目玉焼きの山と、白濁した小瓶。
そして、夕闇に溶けていくような、カナの細い笑い声だけだった。
「……にしし。……やっぱり、まだ、足りなかったのかな」
カナは、コウタが逃げ去った方向をじっと見つめたまま、立ち尽くしていた。
手には、拒絶された白濁の小瓶。
足元には、彼が一口も触れなかった、冷めて硬くなり始めた目玉焼きの山。
「……おーい、聖女様。ちょっと、やりすぎだってば」
背後から、呆れたような、けれどどこか楽しげな声がかかった。
振り返ると、そこには壁に背を預けて一部始終を見ていたエルナと、腕を組んで鼻を鳴らすバルガスが立っていた。
「極端なのよね、あんた。さっきコウタが言ってたじゃない。それが『怖い』んだって。普通の男は、いきなり目玉焼きのフルコースと……その、得体の知れない液体を出されても、喜ぶより先に逃走本能が勝つわよ」
エルナが歩み寄り、カナの手からそっと小瓶を取り上げ、光に透かして眺めた。
彼女の指先が、瓶の温度——カナの執念が宿った微かな微熱——に触れて、一瞬だけピクリと跳ねた。
「まあ、気にするな。あいつはお人好しだが、一度パニックになると足が速いからな」
バルガスが豪快に笑い、カナの細い肩をガシガシと叩いた。
その衝撃で、カナの華奢な体が小さく揺れる。
「でもよ、それだけ必死になれるってのは才能だぜ。俺たち冒険者はよ、それくらいの執着がなきゃ、死線は越えられねえからな。なあ、エルナ?」
「そうね。……ま、頑張りなさいよ。あんたがそれだけボロボロになって尽くしてれば、あのお人好しのことだ。いつか『俺がなんとかしてあげなきゃ』って、勝手に罪悪感で戻ってくるわよ」
エルナは小瓶をカナに返し、耳元で悪魔のように囁いた。
「男を落とすのは、愛だけじゃないのよ。『負い目』っていうのは、愛よりもずっと長く、深く、相手を縛り付けるんだから」
「負い目……。呪い、じゃなくて……負い目」
カナの瞳に、再び微かな光が宿った。
エルナとバルガスのアドバイスは、カナの歪んだ思考回路を通過する際、さらに尖った形へと変換されていく。
(そうか。コウタさんが私を怖がるのは、私がまだ彼に十分な『負い目』を負わせていないからなんだ。私がもっと傷ついて、もっと彼のために身を削れば、彼は私から目を離せなくなる。……逃げられなくなる)
「にしし。……ありがとうございます、エルナさん、バルガスさん。私、よくわかりました。私、もっともっと、頑張りますね」
カナは深々と、まるで舞台の幕が下りる時のように優雅に一礼した。
その足取りは、先ほどよりもずっと確かなものに変わっていた。
彼女は地面に落ちた弁当箱を拾い上げ、中身の目玉焼きを一つ、手掴みで口に運んだ。
冷え切って、砂のような味がした。
だが、彼女はそれを、聖体拝領でもするかのように、うっとりと咀嚼した。
「……おい。あの子、本当に大丈夫か? 励まし方を間違えたんじゃねえか?」
バルガスが不安げに呟く。
「いいのよ。あそこまで振り切れてる方が、見てる分には面白いじゃない。それに……」
エルナは、自分の指先に残った「ミルク」の感触を、ドレスの裾で拭った。
「あんなに純粋に狂える子が、最後にどんな絶望を、あるいはどんな奇跡を見せてくれるのか。……ちょっとだけ、興味があるのよね」
カナの背中が、ギルドの喧騒の中に消えていく。
彼女の頭の中では、新しい物語が、猛烈な勢いで書き換えられていた。
『第五百八十四節:献身の儀式。
勇者は、聖女のあまりに深い愛を、一度は拒絶し、逃げ出す。
それは、彼が負うべき『罪』の重さに耐えかねているからだ。
ならば、私はもっと重くなろう。
彼が二度と立ち上がれないほど、私の愛という名の負債で、彼を押し潰してあげよう。
……にしし。楽しみ。楽しみだな、コウタさん』
カナの執念は、仲間の無責任な励ましを燃料にして、さらに美しく、醜く、燃え上がり始めた。
「……コウタさん。あの、昨日は本当にごめんなさい。私、舞い上がっちゃってて。……にしし、反省したんです」
翌日の昼時。ギルドの裏庭で一人、昨日の目玉焼きの残像を振り払うように質素なパンを齧っていたコウタの前に、カナがしおらしく現れた。
今日の彼女は、あの白濁した小瓶も持っていなければ、狂気を感じさせる目玉焼きの山も持っていない。
ただ、どこにでもあるような、彩り豊かな普通のお弁当箱を差し出している。
「これ……。昨日の埋め合わせ、っていうのはおこがましいんですけど。……極端なことは、もうしていません。ただの、普通のお料理です」
カナは俯き、自信なさげに指先をいじった。
その健気な姿に、コウタの警戒心がわずかに解ける。
「……いいよ、カナさん。俺の方こそ、あんなに逃げるみたいに去って、悪かったと思ってる。……開けてもいいかな?」
「はい。……どうぞ」
蓋を開けると、そこにはホワイトソースをたっぷり使ったドリアと、柔らかなミルク煮が入っていた。
湯気と共に、優しく甘い香りが鼻腔をくすぐる。
昨日のような異常性はどこにもない。
ただ、驚くほど丁寧に、丹精込めて作られたことが伝わる「美味しそうな」料理だった。
コウタは一口、ドリアを口に運んだ。
「……。うん、おいしいよ。これ」
「本当ですか? 良かった……」
カナの顔に、パッと花が咲いたような笑みが浮かぶ。
コウタはその笑顔を見て、心の底から安堵した。
「ああ、彼女も少し落ち着いてくれたんだな」と。
だが、彼は知らない。
そのホワイトソースのコクを生み出しているのが、カナが昨晩から一睡もせず、激痛に耐えながら胸を揉み続け、一滴一滴、魂を削るようにして絞り出した『彼女自身の血の代替品』であることを。
彼女は、研究したのだ。
どうすればコウタに気づかれず、自分の体の一部を彼に捧げることができるか。
どうすれば「怖い」と思わせずに、自分の愛を彼の内側へ流し込めるか。
料理という名の、完璧な隠蔽。
隠された成分が、彼の細胞へと取り込まれていく。
カナの瞳の奥では、歓喜の炎が静かに、けれど激しく燃え盛っていた。
(食べてくれた。私の全部、食べてくれた……。これでコウタさんの骨も、肉も、私の愛で作り変えられる……。にしし、にしし!)
「ほら、コウタ。あんた、昨日はあんなに失礼な逃げ方したんだから、しっかり食べなさいよね」
背後から、エルナがひらひらと手を振って現れた。
彼女はコウタの隣に腰を下ろすと、カナに向かって「よくやったわね」と言うようにウィンクを投げた。
「カナさんはね、あんたが喜ぶと思って一生懸命考えたのよ。逃げるなんて、本当に男らしくないんだから」
「分かってるって……。悪かったよ。カナさん、本当に美味しい。ありがとう」
「いいえ。……コウタさんの力になれるなら、私、なんだってしますから」
カナは、コウタが料理を飲み込むたびに、その喉の動きを食い入るように見つめた。
彼が「おいしい」と言うたびに、彼女の背徳的な幸福感は極点に達する。
彼の中に、私が入り込んでいく。
彼が私を忘れていても、彼の体が私を受け入れている。
これこそが、三度目の永遠を繋ぐための、最も確かな『儀式』。
「……にしし。……全部、私の愛なんですよ」
「え? 何か言ったか?」
「ううん、何でもないです! お口に合って、本当に嬉しいなって」
カナは、包帯の下の痛みを隠して笑った。
彼女にとって、この隠蔽は嘘ではない。
「怖がられたくない」という切実な願いと、「彼と一つになりたい」という狂気的な願望を両立させるための、唯一の最適解なのだ。
ギルドの明るい日差しの中で、コウタは自分の体が少しずつ「カナのもの」へと侵食されていることなど、露ほども疑わずに完食したのだった。




