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「……にしし。やっと、見つけた」
その声は、春の陽だまりのように暖かく、それでいてどこか、氷の下を流れる水のような冷たさを孕んでいた。
冒険者ギルド『銀の蠍亭』の片隅。
煤けた木のテーブルを挟んで、コウタの目の前に座った少女は、愛おしそうに目を細めた。
黒く長い髪が、窓から差し込む斜光に透けて、紫がかった夜の色を放っている。
透き通るような白い肌。
守ってあげなければ、指先で触れただけで壊れてしまいそうなほど、彼女は華奢で、儚かった。
名前は、カナ。
街道沿いの廃村でダイアラットの群れに襲われていたところを、コウタが助けた村娘だ。
「あの、カナさん? さっきから言っていることが、その……あまりよく分からないんだけど」
コウタは困惑を隠せず、頬を掻いた。
彼女は、自分が助けた単なる「依頼対象」のはずだった。
礼を言われ、報酬の銀貨をギルドから受け取れば、それで終わるはずの、ありふれた冒険の一ページ。
だが、再会した彼女が口にしたのは、感謝の言葉ではなかった。
「わからなくても、いいんです。だって、コウタさんは『忘れる呪い』をかけられているんですから」
「のろい……?」
「はい。五百年前、私たちが最初の生を終えたとき。残酷な魔王が、私を愛した貴方に呪いをかけたんです。次に生まれ変わったとき、私の名前も、声も、愛した記憶も、すべて消えてしまうようにって」
カナは机の下で、自分の膝をきつく握りしめた。
その拳が、微かに震えている。
彼女の脳裏には、今、鮮明な映像が流れていた。
燃え盛る城の天守閣。
血に染まった鎧を着たコウタが、自分を庇って倒れる姿。
頬に触れる、鉄の匂いが混じった手の温もり。
……もちろん、そんな光景は、どこにも存在しない。
それは、彼女が昨日の夜、安宿の硬いベッドで、目を閉じながら必死に組み上げた『物語』だ。
「どうしてあの日、彼は私を助けてくれたのか」
「どうして私は、彼の手を握った瞬間に、心臓が破けそうなほど跳ねたのか」
その理由が欲しくて、欲しくて、一睡もせずに考え抜いた、最高の脚本。
「五百年前って……俺、まだ二十歳なんだけどな」
苦笑いするコウタに対し、カナは身を乗り出した。
彼女の黒い瞳が、じっとコウタの視線を捕らえて離さない。
その瞳の奥には、底知れない執着の影が揺らめいている。
「二度目は、三百年前でした。私は帝国の皇后で、貴方は私を連れ出すために現れた、名もなき騎士だった。私たちは国を捨てて逃げようとして、雪山の断崖で……」
カナの言葉は、熱を帯びていく。
五感のすべてを動員して、彼女は自分の嘘を、真実へと塗り替えていく。
雪の冷たさ。
馬のいななき。
追手の放つ矢が風を切る音。
そして、最後に交わした口づけの、痺れるような感覚。
言葉にすればするほど、彼女の中でそれは「事実」になっていく。
彼女にとっての現実は、今、目の前にある煤けたギルドの風景ではなく、自分の唇が紡ぎ出す物語の方だった。
「……だから、コウタさん。私、今世ではもう、絶対に貴方を離しません。三度目の正直、ですもんね?」
「……あ、ああ。まあ、とりあえず落ち着こうか」
圧倒されるコウタを前に、カナは満足そうに微笑んだ。
「にしし。……驚かせてごめんなさい。でも、これを渡したかったんです」
彼女が懐から取り出したのは、古びた銀の指輪だった。
傷だらけで、どこにでも売っていそうな安物。
昨日、ギルドの裏手にある古道具屋で、三枚の銅貨で買ったものだ。
「これ……五百年前に、貴方が私にくれた指輪です。私がずっと、魂に刻んで守り続けてきたんです」
「え、これが……?」
コウタがおずおずと指輪に触れる。
その瞬間、カナの胸の奥で、甘い痛みが走った。
(嘘じゃない。これは、本当のことなの)
彼女は自分に言い聞かせる。
そうでなければ、こんなに胸が苦しいはずがない。
こんなに彼を求めて、震えるはずがない。
たとえ世界中の神様が「そんな過去はない」と否定したとしても。
今のカナにとっては、この捏造された記憶こそが、彼女を支える唯一の聖典だった。
「私、コウタさんのパーティに入ります。聖女としての力、きっと役に立ちますから」
「聖女? 君、魔法が使えるのか?」
「はい。前世の功徳が、私の体に宿っているんです。……見ていてください」
カナはそっと、コウタの手に自分の手を重ねた。
コウタの指先には、先日の戦闘でついた小さな切り傷があった。
カナが目を閉じ、強く念じる。
(治れ。治って。私が彼を愛している証拠になって!)
彼女の掌から、淡い光が漏れ出した。
それは信仰による奇跡ではない。
自分自身を欺き、精神を削り、愛という名の狂気を魔力へと変換する、歪な治癒の術。
光が消えたとき、コウタの傷跡は綺麗に消え去っていた。
「……すごいな。本当に、治ってる」
感嘆の声を漏らすコウタ。
その顔を見て、カナはもう一度、愛らしく笑った。
「にしし。当然ですよ。だって、私たちは契約してるんです。血よりも濃い、三度目の永遠で」
その笑顔は、どこまでも無邪気で。
そして、吐き気がするほど、純粋な狂気に満ちていた。
「待って、待って。カナさん、一回落ち着こう。気持ちは……いや、話は分かったから」
コウタは両手を広げ、勢い込むカナを制した。
彼女の放つ熱量が、あまりにも物理的な圧力を持って迫ってきたからだ。
「え……? でも、コウタさん。運命なんですよ? 五百年越しの再会なんですよ?」
カナの大きな瞳に、みるみるうちに涙が溜まっていく。
その絶望の深さに、コウタは自分がとてつもない悪行を働いているような錯覚に陥った。
だが、冒険者としての現実的な判断を捨てるわけにはいかない。
「いや、そう言われてもだな……。俺にはもう、組んでいる仲間がいるんだ。パーティってのは、俺一人の独断でメンバーを増やせるもんじゃないんだよ」
ギルドの奥、大テーブルで酒を煽っている屈強な戦士と、魔導書を読み耽るエルフの背中を指差す。
彼らには彼らの役割があり、信頼関係がある。
昨日今日助けたばかりの、しかも「前世の記憶がある」と主張する少女をいきなり招き入れるなど、説明がつくはずもなかった。
「保留だ。一旦、落ち着いてくれ。君が本当に聖女の力を持っているのは分かったけど、パーティに入れるかどうかは、仲間とも相談しなきゃいけないし……まずは、君自身の生活を立て直すのが先だろ?」
「…………」
カナは俯いた。
黒い髪がカーテンのように彼女の顔を隠し、表情を読み取らせない。
(保留……?)
彼女の脳内で、言葉がどろりと濁った音を立てて反響した。
そんなはずはない。
自分が昨夜、あれほど心血を注いで書き上げた『運命の再会シーン』では、彼は涙を流して自分を抱き締め、「もう二度と離さない」と言うはずだった。
「……そう、ですよね。ごめんなさい。私、舞い上がっちゃって」
沈黙を破って顔を上げたカナは、先ほどまでの熱狂が嘘のように、静かに微笑んでいた。
「にしし。コウタさんの言う通りです。私、まずは一人で頑張ってみます。……聖女として、この街の人たちを助けながら、貴方に相応しい女になれるように」
「ああ、そうしてくれると助かるよ。宿代とか、困ってるなら少し貸そうか?」
「いえ、大丈夫です。私には、この指輪がありますから。これを見ているだけで、五百年の孤独なんて、なんてことないって思えるんです」
カナは愛おしそうに、安物の銀の指輪を胸元に抱いた。
その仕草があまりにも健気で、純粋に見えたため、コウタは安堵の溜息を漏らした。
「分かってくれたなら良かった」と。
だが、彼は気づかない。
カナの視線が、コウタの肩越しにいるパーティメンバーたちを、冷徹なまでに観察していることに。
(あの女……。エルフの、魔術師。さっきからコウタさんの背中を見て笑ってる)
カナの脳裏に、新しいページが書き加えられていく。
(思い出した。あの女だ。三百年前、私とコウタさんの仲を裂こうとして、呪いの薬を盛った悪い魔女だ。今世でも、また彼をたぶらかそうとしているんだわ)
どろり、と。
胸の奥で、どす黒い感情が「記憶」という形を借りて固定されていく。
「……じゃあ、私、行きますね。また明日、ここに来てもいいですか?」
「ああ、顔を見せてくれる分には構わないよ。じゃあな、カナ」
コウタが軽く手を振って仲間の元へ戻っていく。
その背中を見送りながら、カナはギルドの出口へと歩き出した。
外に出ると、夕暮れの冷たい風が彼女の頬を撫でた。
彼女は人通りの少ない路地裏に入ると、そのまま荒い石壁に背中を預け、ずるずると座り込んだ。
「…………っ」
呼吸が荒くなる。
心臓が、早鐘のように胸を叩く。
「うそつき……っ。うそつき、うそつき、うそつき!」
彼女は、自分の拳を硬い石壁に叩きつけた。
一度、二度、三度。
皮膚が裂け、じんわりと赤い血が滲み出す。
「なんで……なんで思い出してくれないの。あんなに、あんなに練習したのに……っ」
昨夜、鏡の前で何度も繰り返した台詞。
一番可愛く見える首の角度。
運命を確信させるための、聖女の力の見せ方。
全部、完璧だったはずなのに。
「……にしし。……あはは」
カナは、血の滲んだ拳を自分の唇に押し当てた。
鉄の匂いが鼻腔を突き、痛みが脳を覚醒させる。
大丈夫。
コウタさんは、ただ呪われているだけ。
あの周りにいる「敵」たちが、彼の目を曇らせているだけ。
「私が、お掃除してあげなきゃ。コウタさんの周りを、綺麗に……前世みたいに、私と二人きりに、してあげなきゃ……」
彼女は懐から、一冊の小さな手帳を取り出した。
そこには、今しがた創作されたばかりの「三百年前の魔女の罪状」が、震える文字で書き込まれていく。
カナにとって、それは復讐の正当性を証明する、唯一無二の聖書だった。
「……コウタさん。私、本当のことを言いに来ました」
翌朝。朝靄がまだ石畳を白く濡らしている時間。
ギルドへ向かう途中のコウタを呼び止めたカナは、昨日とは打って変わって、真っ直ぐに彼の目を見つめていた。
その瞳は少し充血し、目の下には薄っすらと隈がある。
一晩中、新しい『真実』を練り上げていた名残だ。
「五百年前とか、そういうのは一回忘れてください。本当は……あの日、あなたが私を助けてくれたとき、私、決めたんです。この人に、一生ついていくんだって」
カナは一歩、コウタに歩み寄った。
早朝の冷たい空気の中に、彼女の体温と、微かな石鹸の匂いが混じる。
「あなたを追って、ここまで来ました。聖女の力も、全部、あなたに相応しくなりたくて必死で手に入れたものなんです。……好きです。私と、お付き合いしてください」
震える声。
少しだけ赤くなった鼻先。
それは「捏造された記憶」という鎧を脱ぎ捨てた、一人の少女としての、あまりにも純粋で全力の告白だった。
コウタは足を止め、困ったように眉を下げた。
彼はしばらく黙っていたが、やがてカナの肩にそっと手を置き、優しく、けれど明確な一線を引くように言葉を紡いだ。
「ありがとう。そう言ってもらえるのは、素直に嬉しいよ」
「……っ、じゃあ」
「でも、ごめんね。カナさん。助けられた相手を好きになるっていうのは、まあ、よくある話なんだ。俺も仕事で何人かからそう言われたことがあるし、きっと君も、今は一時的な感情で胸がいっぱいなだけだと思う」
コウタの言葉は、カナの心臓に冷たい楔を打ち込んでいった。
「よくある話」。
彼女が何ヶ月もかけて育て、人生のすべてを懸けて磨き上げたこの恋情が、彼の世界では、ありふれた日常の一片として片付けられてしまう。
「それに、俺たちはまだお互いのことをよく知らないだろ? 名前と、少しの過去を聞いただけで付き合うなんて、俺にはできない。……本当に、ごめん」
「…………」
カナの指先が、ぴくりと跳ねた。
「よく知らない」。
その言葉が、彼女の中で猛烈な歪みを生み出す。
(知らない……? 私は知ってる。あなたの好きな食べ物も、剣を握る癖も、寝言のトーンも、全部……調べて、調べて、見てきたのに……!)
「……にしし」
不意に、カナの唇から漏れたのは、乾いた笑いだった。
「そう、ですよね。ごめんなさい。私、また自分の気持ちばっかり押し付けて。……よく知らない、かぁ。そうですよね」
カナはふらりと一歩、後ろに下がった。
その顔には、先ほどまでの熱い恋心ではなく、塗り固められたような穏やかな微笑が張り付いている。
「いいんです。謝らないでください。……よく知らないなら、これから知っていけばいいだけですもんね。ね? コウタさん」
「ああ。またギルドで会ったら、普通に話をしよう。じゃあ、俺、仲間が待ってるから」
コウタはどこかホッとしたような表情を見せ、今度こそカナの横を通り過ぎていった。
爽やかな朝の光の中に、彼の足音が遠ざかっていく。
一人残されたカナは、彼が去った方向をじっと見つめていた。
「…………にしし」
彼女は、昨日の壁を叩いた傷口を、自分の爪でぐりりと抉った。
鋭い痛みが走り、止まりかけていた血が再び溢れ出す。
「……よく知らない。……そうか。コウタさんは、今の私を知らないんだ。私がどれだけ、彼のために『前世』を用意してあげたかも」
彼女は震える手で、懐から昨日よりも分厚くなった日記を取り出した。
そこには、新しい設定が書き加えられる。
『第五百八十一節:忘却の試練。
運命の人は、一度私を突き放す。
それは、偽物の愛を排除し、真の絆を試すための神の儀式。
彼は私を「よくある話」と呼んだ。
それは、彼の中に眠る魔王の呪いが、私を遠ざけようと必死に抵抗している証拠だ。』
「大丈夫。……大丈夫だよ、コウタさん。私が、分からせてあげるから」
カナの瞳から、光が消える。
彼女にとって「振られた」という事実は、もはや「彼が呪いに苦しんでいる」という物語のスパイスに過ぎなかった。
「だって、こんなに痛いんだもん。こんなに痛いのは、私たちが特別だから……だよね?」
彼女は血のついた指で、日記のページに赤い汚れをつけた。
それは彼女にとって、神に捧げる血の契約そのものだった。
「……にしし。なるほど、水曜日の朝は、北通りのパン屋で硬いライ麦パンを買うのが習慣なんだ」
カナは路地裏の影に身を潜め、小さな手帳に羽ペンを走らせた。
昨日、コウタに「お互いを知らない」と言われた瞬間から、彼女の眠る時間はさらに削られることになった。
知らないなら、知ればいい。
昨日までの彼ではなく、今、この街で生きている彼のすべてを。
食べたもの。
歩いた歩数。
すれ違った女。
剣を握り直した回数。
それらすべてを記録し、彼女の頭の中にある『三生の物語』の空白を埋めていく作業は、カナにとって至福の儀式だった。
「こんにちは、皆さま! コウタさんの大切な仲間たちに、ご挨拶に伺いました!」
数刻後。
ギルド『銀の蠍亭』の定位置に座るコウタのパーティメンバーたちの前に、カナは満面の笑みで現れた。
両手には、朝一番で焼き上げさせた、コウタの好きなライ麦パンを使った特製サンドイッチが握られている。
昨日、壁を叩いて潰したはずの拳には、丁寧に真っ白な包帯が巻かれ、その上から愛らしいリボンまで結ばれていた。
「えっと……昨日の、自称・前世の聖女様?」
呆れたように声を上げたのは、エルフの魔術師・エルナだ。
その隣で大剣を立てかけていた重戦士のバルガスも、胡散臭そうに目を細める。
「にしし。昨日はお騒がせしました。でも、私、本気なんです」
カナはサンドイッチをテーブルに置くと、椅子を引くこともなく、その場に膝をついた。
聖女が神に祈りを捧げるような、敬虔で、それでいてどこか芝居がかった仕草で。
「私、コウタさんのことが大好きなんです。彼を落としたいんです。いえ、彼にかかっている『忘却の呪い』を解くために、皆さんの協力が必要なんです!」
「呪いねぇ……。まあ、あいつがお人好しすぎるのは一種の呪いかもしれんが」
バルガスが鼻で笑うが、カナは真剣そのものの表情で食い下がった。
「お願いします。コウタさんの好きな食べ物、嫌いな場所、昔の怪我の痕、寝る時の癖……何でもいいんです。私に教えてください。彼を誰よりも理解する女になりたいんです」
「……あんた、本気なのね」
エルナは、カナの瞳の奥にある、異常なほど澄んだ熱量に気圧された。
それは単なる恋する乙女の熱ではなく、何かに取り憑かれた者の眼差しだ。
「コウタは……そうね。甘いものは苦手だけど、ベリー系の果実は食べるわ。あと、湿っぽい洞窟の依頼は、昔大きな蜘蛛に襲われてから嫌いみたいよ」
「……ベリー。蜘蛛。湿った場所……」
カナはうっとりとした表情で、それらの情報を脳内の聖典に書き込んでいく。
彼女の中で、エルフのエルナは「コウタをたぶらかす魔女」から「情報を吐き出す有益な書物」へと格下げされた。
利用できるものは、何でも利用する。
彼を「知る」ための近道なら、プライドも真実も、いくらでも差し出す。
「ありがとうございます、エルナ様。……にしし。これでまた一歩、運命に近づけました」
「いいけど……あんまり無茶しなさんなよ? コウタはああ見えて、踏み込まれすぎると逃げるタイプだから」
「逃げる……? 大丈夫です」
カナは立ち上がり、リボンで飾られた包帯の拳を、そっと自分の頬に当てた。
「逃げても、五百年分追いかけるだけですから」
その言葉が冗談ではないことを、エルナたちは彼女の背筋が凍るような微笑みから悟った。
その日の夜。
カナは一人、宿の部屋で、エルナから聞いた情報を元に「新しい前世」を書き換えていた。
『第五百八十二節:蜘蛛の王と勇者の絆。
三百年前、彼は私を守るために巨大な蜘蛛の毒に侵された。
だから今世の彼は、蜘蛛を嫌う。
それは私を守った時の「痛み」が、彼の魂に残っている証拠。
……ああ、なんて愛おしい。
彼は、忘れていると言いながら、体で私を覚えているんだわ』
「……にしし。ふふ、あははは!」
カナは、コウタが嫌いなはずの「湿った洞窟」を舞台にした悲恋の物語を、涙を流しながら書き連ねていく。
真実など、どこにもない。
あるのは、彼女が吐き出した執着が、事実という形を借りて凝固した「異形な愛」だけだった。
「コウタさん! にしし、また来ちゃいました」
翌日の昼下がり。ギルド『銀の蠍亭』の扉を勢いよく開けて、カナが弾けるような笑顔で現れた。
その手には、コウタが「好きだ」とエルナから聞き出したばかりの、甘さを控えたベリーのタルトが捧げられている。
コウタは仲間たちとテーブルを囲んでいたが、彼女の姿を認めた瞬間、わずかに肩を強張らせた。
昨日「お互いを知らない」と断ったばかりなのに、彼女の瞳には微塵の曇りもなく、むしろ昨日以上の確信が満ちているように見えたからだ。
「これ、差し入れです。コウタさん、酸っぱいベリー系なら食べられるって、エルナさんに教えていただいたんです」
「……エルナに?」
コウタが視線を向けると、隣でエルフの魔術師がニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべていた。
「そうよ、コウタ。彼女、昨日から一生懸命あんたのことを調べてるわよ。あんたが蜘蛛が嫌いな理由も、湿った場所が苦手なのも、もう全部知ってるんじゃないかしら?」
「おい、余計なことを……」
コウタは引きつった笑みを浮かべた。
自分を理解しようとしてくれる努力は、本来なら喜ぶべきことだ。
だが、カナのそれは「理解」という範疇を超え、獲物の生態を隅々まで解剖して記録する学者のような、あるいは執念深い追跡者のような、生理的な危うさを孕んでいた。
「コウタさん。エルナさんから色々聞かせていただいて、私、よくわかった気がするんです。あなたがどうして、私を『知らない』なんて言ったのか」
カナはタルトを置くと、コウタの至近距離まで顔を寄せた。
黒い瞳が、逃げ道を塞ぐように彼を射抜く。
「それは、あなたが今世の自分と、前世の自分を分けて考えているから。……でも、大丈夫です。蜘蛛を嫌うその心に、私を守った記憶が刻まれていることを私は知っています。だから……」
「待って。カナさん、ちょっと待って」
コウタは椅子を引いて、物理的な距離を取った。
背筋に冷たいものが走る。
彼女の論理は、どこまでいっても自分に都合よく完結していて、言葉が届く隙間がない。
「やばい」。直感がそう告げていた。
「……気持ちは本当に嬉しいんだけど、やっぱり無理だよ。君が俺のことを調べてくれたのは分かったけど、それは『俺』を見てるんじゃなくて、君の中の『物語』を見てるだけじゃないかな」
「物語……? 違います、これは真実で……」
「ごめん。やっぱり、付き合えない。君と一緒にいると、なんだか俺じゃない誰かに向けられた熱を浴びているみたいで、怖いんだ」
コウタは努めて穏やかに、けれど明確に拒絶を突きつけた。
これ以上踏み込ませれば、自分という個性が彼女の妄想に飲み込まれてしまう。そんな恐怖があった。
「おいおい、コウタ! そんなに固いこと言うなよ。付き合ってやれよ、こんなに健気なんだからさ!」
「そうよ。こんなに可愛くて、あんたのために必死な子、そうそういないわよ?」
バルガスが笑いながら背中を叩き、エルナが茶化すように追い打ちをかける。
仲間たちにとっては、これは微笑ましい「押しに弱い男と、一途な女の子」のラブコメディにしか見えていないのだ。
「…………」
カナは、仲間たちの冷やかしをBGMに、ただ黙って立ち尽くしていた。
視線は、コウタが自分に向けている「怯え」の色を正確に捉えている。
「……にしし。怖い、ですか」
彼女は、小さく呟いた。
その声は、震えていた。
悲しみからではない。
「彼は今、私という存在に激しく感情を揺さぶられている」という、歪んだ歓喜に震えていたのだ。
「わかりました。……今は、それでいいです。怖いっていうのは、それだけ私を意識してくれている証拠ですもんね」
「えっ、いや、そういう意味じゃ……」
「にしし。……コウタさん。次は、もっとあなたの『魂』が喜ぶことを探してきますね。……ね、エルナさん?」
「ええ、応援してるわよ、聖女様!」
エルナの軽い返事を聞きながら、カナは深々と一礼してギルドを後にした。
表に出た瞬間、カナの顔から表情が消えた。
彼女は包帯の巻かれた手を、今度は口元に寄せて、自身の牙でその上から強く噛み締めた。
(怖い……。コウタさんが、私を怖がってる……)
じわりと、包帯に新しい血が滲む。
(ああ、なんて愛おしい。前世でもそうだった。彼は私という存在の大きさに、いつも怯えていた。それが、私たちが魂の番いであることの証明。……ふふ、あはは!)
彼女の手帳には、また新たな「真実」が書き込まれる。
『第五百八十三節:魂の共鳴。
勇者は、聖女の放つあまりに強い愛の波動に、本能的な恐怖を抱く。
それは、彼の中の魔王の呪いが、消滅を恐れて悲鳴を上げているからだ。
……もう少し。呪いが解けるまで、あともう少し』
カナの狂気は、コウタの正当な拒絶すらも、恋の障害という名の「甘美な試練」へと変換して、さらにその根を深く張っていくのだった。




