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ただ、彷徨う。

作者: 上野奏空
掲載日:2026/02/11

「ずずずず……。」

 石鹸水をすする音が、静かな夜に小さく響いた。

 男は街の片隅で、石鹸水の乗ったスプーンに口を付ける。

 石鹸水の匂いがツンと鼻を刺し、舌には泡が広がる。

 彼は目を閉じ、ゆっくりと息を吐いた。

 ぷくぷくぷくぷく。

 口から出てきたいくつかのシャボン玉は、ふわりと浮かび、街灯の光を受けて虹色に輝いた後、音もなく消えた。


 男の名は、誰も知らない。彼自身も忘れてしまっていた。

 必要のないものは捨て、記憶さえも手放した彼は、ただ彷徨う存在だった。

 食べる必要のない体は、いつからかそうだった。

 空腹も、喉の渇きも、疲れさえも感じない。

 石鹸水を飲むことだけが、彼の唯一の「行為」だった。


 彼は古びたコートをまとい、裸足とさほど変わらないような擦り切れた靴で歩く。

 街から街へ、路地から路地へ。

 とことこぷくぷく。

 どこへ行くあてもなく、ただシャボン玉を吹きながら彷徨う。

 シャボン玉は、彼の吐息そのものだった。

 誕生してはすぐに消える。儚い。

 それでも彼は吹き続けた。

 なぜ吹き続けるのか、それは彼自身にもわからなかった。


 ある夜、彼は川沿いの小さな街にたどり着いた。

 川面には月が映り、静かな水音が耳に響く。

 街は眠りについていて、人の気配はなかった。

 川辺のベンチに腰掛ける。

 溝に溜まった石鹸水を見つける。

 まだ洗濯物の匂いが残っているそれをすくい、口に含む。

 ぷくぷくぷくぷく。

 シャボン玉がいくつも夜空に舞った。


「ねえ、おじさん。何してるの?」

 誰もいないはずの背後から声がした。

 振り返ると、ぼさぼさの髪をした少女が立っていた。十歳くらいだろうか。

 汚れたワンピースを着ていて、足に目をやると何も履いていなかった。

 少女は好奇心に満ちた目で彼を見つめている。

「シャボン玉を吹いているだけだ。」

 そう答えた声は、久しく使っていなかったせいか、かすれていた。

「へえ、へんなの。お腹は空かないの?」

 彼は首を横に振った。

「食べなくていいんだ。石鹸水があれば、それでいい。」

 少女は目を丸くした。

「うそ! 人間なのに? 魔法使いなの?」

「魔法じゃない。ただ、そういう体なんだ。」

 少女はベンチに飛び乗り、彼の隣に座った。

「あたし、ハナ。お家、ないんだ。ママとパパもいない。おじさんは?」

 彼は少し考えてから答えた。

「名前はない。家もない。」

「ふーん。似た者同士じゃん!」

 ハナは笑った。

 無邪気なその笑顔に、彼は一瞬、胸の奥で何かがざわめくのを感じた。

 だが、すぐにそれは消えた。


 ぷくぷくぷくぷく。

 再びシャボン玉を吹く。

 ハナはそれをじっと見つめた。

「きれいだね。すぐ消えちゃうけど。なんで吹くの? なんか意味あるの?」

 彼は答えられなかった。ただ吹く、それだけだ。

 ハナは膝を抱えて続けた。

「あたし、いつも思うんだ。なんで生きてるんだろって。誰もいなくて、お腹空いて、寒くてさ。でも、なんか、生きちゃうんだよね。」

 ぷくぷくぷくぷく。

 彼は黙ってシャボン玉を吹いた。

 虹色の泡が月の光を反射して、ハナの顔を照らす。

 彼女の目はどこか遠くを見ているようだった。

「ねえ、おじさん。あたしもシャボン玉、吹いてみたい。」

 彼はスプーンを差し出した。

 ハナは少しためらったが、溝の石鹸水をすくって口に含んだ。

 顔をしかめながらも、そっと息を吐く。

 小さなシャボン玉が一つ、ふわりと浮かんだ。

「やった! できた!」

 ハナは手を叩いて喜んだ。

 その笑顔は、シャボン玉よりももっと儚く、もっと輝いていた。


 それから数日、彼とハナは一緒に街を彷徨った。

 ハナは彼にくっついて歩き、シャボン玉を吹いては、笑った。

 彼は、初めて誰かと過ごす時間が悪くないと感じた。

 ハナは彼にいろいろな話をした。

 かつての家のこと、母親の歌声、父親の大きな手。

 どれも、ハナにとっては遠い記憶だった。


 ある朝、ハナが言った。

「おじさん、なんで生きてると思う?」

 彼は答えられなかった。生きる理由など考えたこともなかった。

 ハナは続けた。

「あたし、シャボン玉を見て思ったの。すぐ消えちゃうけど、きれいだなって。それでいいのかなって。生きるのって、シャボン玉みたいなものなのかも。」

 その言葉は、彼の心のどこかに刺さった。

 シャボン玉のように、儚く、意味もなく、ただそこにある。それでいいのかもしれない。


 だが、その夜、ハナは姿を消した。

 どこへ行ったのか、なぜ去ったのか、彼にはわからなかった。

 ただ、小さな布切れが川辺に落ちていた。

 彼はそれを拾い、胸にしまった。


 彼はまた一人で歩き始めた。石鹸水をすすり、シャボン玉を吹きながら。

 シャボン玉には、時折、ハナの笑顔が映ったように見えた。

 儚く、消える。

 でも、その一瞬の輝きは、彼の心に残った。


 街から街へ、路地から路地へ。彼は彷徨い続ける。

 シャボン玉を吹きながら。生きる理由など知らぬまま。

 シャボン玉は虹色に輝き、夜空に舞う。

 その一瞬が、彼のすべてだった。

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