第五話『天使の涙と悪魔の血は同じ色をしている』
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天使の涙、もとい、悪魔の血は、依存性の強い乾燥大麻だった。
やりなおす前の世界で、大陸を未曽有の大混乱に陥らせた死の麻薬。
私が夫に盛った時点で、この大麻はまだこの国に流通していない。
義勇軍の結成から崩壊までには、およそ五年の月日があった。私が遡ったこの五年の間で、私たちの国は革命運動に揺れていたが、周辺諸国はこの大麻に揺れていた。
大麻の原産は南方にある小国だった。どこの国も交易や同盟によって他国との連携を強めることで国力の増強をはかる昨今、それまで鎖国的な傾向の強かったその小国もこのままでは孤立してしまう、経済的な遅れをとってしまう、と国際社会に乗り出した。けれど特出した名産品も輸出に値する天然資源も持ち合わせていなかった小国は、強い依存性と副作用から長らく国内での取引を禁じていた大麻を、痛み止めや眠気覚ましの効果のある茶葉として輸出した。
その茶葉は瞬く間に周辺諸国へ広がり、貴族庶民問わずすべての階級に大量の依存者を生んだ。
人びとは、はじめは快楽のために、やがてすさまじい倦怠感と眩暈という副作用から逃れるために、茶葉を求めるようにな
った。
茶葉の大流行は各国で深刻な問題となり、輸入と服用が禁じられ、これを破った者には厳罰が下されるようになった。また産出国であった小国はもっとも茶葉の被害が深刻であった隣国に攻め滅ぼされた。広大な茶畑は、その利益によって建造された豪華な城や邸宅諸共焼き払われた。
やりなおされたこの世界に、まだ茶葉は広まっていない。
私は屋敷の出入りの商人を使い、出回り始めたばかりのその茶葉を入手した。そしてその味を夫に覚えさせた。
夫はたちまち茶葉の虜となった。自分で味わうことはもちろん、これは金になると踏み、産出国まで赴いて大量買い付けを行った。夫はすぐさま茶葉を大体的に売りさばこうとしたが、私はそれを制し、希少価値を出すべきだと説いた。
「大量に卸せば、それだけ価値は下がります。小出しにすることで希少性を示し、顧客から売ってくれと懇願されるように仕向けなければ」
これも、義勇軍として活動する中で、商人から話を聞いて身に着けた知識だった。やりなおす前の私は商売のことなどなにも知らなかったが、物資の調達など必要に駆られて商人との交渉をこなさなければならないことがあった。実際の交渉は商売経験のある義勇軍のメンバーに任せるばかりだったが、隣で聞いていたので、商売の基本的なやり口というものは身に着けることができた。
夫は私の助言に従い、まずは身内に、それから親しい貴族に、少しずつ茶葉を売っていった。
茶葉は瞬く間に貴族社会を蝕んだ。
伯爵家の資産は膨れ上がり、すっかり私を信頼した夫は私にそれを自由に使う権利を与えた。また貴族社会での私たちの地位は階級以上のものとなった。由緒ある公爵家の夫人が、教会の重鎮が、王家に名を連ねる者までもが、私たちにへりくだり、機嫌を伺うようになった。
やりなおす前の世界では、この国がそれほど茶葉に蝕まれることはなかった。
義勇軍との衝突で手一杯だったこの国は、外交で後れをとり、生産力も激しく落ち込んでいたため、貨幣価値が大幅に下落していた。貴族たちが魅惑の茶葉を手に入れようと思っても、あまりにも高額で手が出せなかったのだ。かといって他国の庶民が嗜む二級品を手に取ることはプライドが邪魔をしてできなかったようで、結果的に、この国は茶葉の災禍を避けることができていたのだ。
しかしやりなおされたこの世界で、私は自らその災いを呼び込んだ。
茶葉に犯された国でその後なにが起こったのか知っていながら、それを広めて回った。
(これでいい)
私は灰色の茶に溺れる貴族たちを見ながら、そう思った。
いずれにしろ、革命がなされれば貴族社会は瓦解する。貴族たちが使い物にならなくなっても、誰も困ることはない。
茶葉が平民にまで出回ることがなければ、それでいいのだ。
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夫を篭絡したことで、また潤沢な資金を手に入れたことで、私はどこへも自由に出かけられるようになっていた。もちろん文通も、誰とでも自由に交わすことができた。
やりなおす前の私は、どのような力も持っていなかったからこそ、安易に武力革命を唱えてしまった。けれどいまは違う。私は力を手にした。貴族社会の大麻蔓延という革命への大きな足掛かりもある。
それが私の自信となって、私はエルドたち三人の前でも、臆せず自分の意見を述べるようになっていた。
「貴族間で広まる『天使の涙』は確かに問題だけど、でも革命を成功させるために、あれは黙認した方がいい」
「貴族が改心することはない。けれど武力衝突は犠牲が大きすぎる」
「内側から腐らせて自滅させるのが、最も被害が少なくて済む方法」
「私たちはあれが庶民の間に出回らないよう見張るだけでいい」
エルドは私の意見を概ね指示してくれた。
父親が死んで、公爵家を継いだばかりの彼は、領地の運営に忙しく、革命運動へ本腰を入れる余裕がなかった。また社交界からも足が遠のいていたので、貴族社会でどれだけ『天使の涙』が深刻化しているか正確につかむことができていなかった。故に、『天使の涙』の影響は一時的な混乱程度にしか考えていないようだった。流行りの煙草か、酒か、おそらくその程度の認識だっただろう。
けれどエリナは違った。
彼女は目の当たりにしていた。大公夫人として、あるいは慈善活動の寄付を募るために参加した夜会で、酒や煙草を手にする人間よりその茶を口にする人間の方が多くなっていることに気づいていた。
その茶を口にする者がみな、うっとりと弛緩した表情を浮かべていることにも。
「自覚がないのよ。自分が腑抜けていることに」
エリナは『天使の涙』の蔓延に怯えていた。
「断りきれずに一口だけ飲んだことがあるけど、とても気分が悪くなったわ。熱が出たときみたいに頭がぼうっとして……最初だけよって、すぐに慣れるわよって言われたけど、あんなの、慣れる方がおかしいわ」
私はエリナに、社交界で蔓延する『天使の涙』の危険性について先に説いていた。あくまで噂話として、だが、その中毒性と依存性について、エリナに熟知させておいた。そのため実物を前に強い警戒心を抱き、その効能から逃れられたのだ。
緊張した状態で飲用すると、『天使の涙』は不快感をもたらす。もたらされるはずの高揚は反転し、気分を沈みこませる。
私の狙い通り、エリナの身体は『天使の涙』を拒絶した。エリナはその後どれだけ誘われても決して『天使の涙』を口にすることはなかった。それどころか蔓延を食い止めるため、その危険性を社交界で説いて回るようになった。『天使の涙』は一時の快楽と引き換えに頭を腐らせる毒だ、と。それこそ天使を装った悪魔がもたらしたものだ、と。
エリナは聡明で、勇気があった。たったの一口で、『天使の涙』の正体を見抜き、立場に臆せず宰相や王族にまで進言した。
けれど聞き入れられることはなかった。
エリナは愚直だった。彼女が訴えた相手の伴侶は、あるいは愛人は、友人は、すでに骨の髄まで『天使の涙』に漬かっていた。あるいは当人が愛飲者だった。エリナの主張はむしろ彼らの神経を逆なでた。
エリナは社交界で煙たがられるようになっていった。それまで慈善家と知られていた彼女だったが、その評価さえも一転し、世間も苦労も知らない箱入り娘のお遊びだと軽んじられるようになった。
それでもエリナが挫けることはなかった。
「なんとしてでも『天使の涙』の蔓延を止めなくちゃ。いまでこそ貴族の間だけの流行りだけど、でもきっとすぐ民衆にも出回るわ。そうしたらいよいよこの国はおしまいよ。今ここで食い止めないと、革命を起こす前に国が滅んでしまうわ」
エリナの瞳は使命に燃えていた。正義のための戦うのだという強い意志が感じられた。
けれど私は知っていた。
彼女の望む正義では革命は果たされないということを。やがて武力衝突へと発展する革命の中で、彼女はその心を折られてしまうということを。
(繰り返すわけにはいかない)
(今度こそ守らなくてはならない)
エリナの真の望みは、穏やかで清貧な生活だ。
貴族に生まれてしまったから、彼女は戦わなくてはならなかった。けれど彼女には本当は、地位も名誉も必要ない。貧しくとも、暴力から最も遠いところで暮らすべきなのだ。
だから私は、革命が本格化する前に、エリナを貶めた。
社交界から追放し、修道院へ閉じ込めた。




