ある朝
<工藤夏美>
起きたらまず、トイレに行って顔を洗い、髪を整えて簡単にメイクして、すぐさま台所で家族の朝食を整える。眠い目を擦りながら起きてきた旦那や子ども達と一緒に朝食をとり、片付けは子どもと旦那に任せて簡単に掃除。毎日やってるから大体で終わらせ、昨夜干しておいた洗濯物を表に出す。朝はとにかく忙しい。
「ねえママぁ、今日図工で牛乳パック要るんだけど」
突然の申し出に目が点。そんなこと急に言われても、牛乳パックは昨日全部リサイクルに出しちゃったわよ。どうしてもっと早く言わなかったの。ていうか、先生もちゃんとお手紙で知らせてよ。
台所中引っかき回しているうちに、時間は刻々と過ぎていく。もうダメかと思った時、戸棚の隅から一枚だけ切り開いた牛乳パックが出てきた。よかったよかった。はいこれと渡したら、平べったいんじゃダメだよと涙目で訴えてくる。ああもう、分かった分かった忙しいんだから泣かないで。すぐさまガムテで箱形に復元。息子がようやくにっこり笑って袋に入った牛乳パックを受け取る頃には、時計の針は予定時刻の五分前。
超速で着替えて荷物を抱え、下の娘の保育園グッズも抱え、すぐさま外に出て……と思うんだけど、娘は靴を履くのにこれまたすんごい時間がかかる。ついつい声を荒げて急きたてていると、その脇を旦那がすり抜けて出勤。もう、少しは手伝ってよね!
表に飛び出して鍵をかけると、抜けるような青空と眩しい日差しと透明な朝の空気がふわっと体を包み込んだ。
「気持ちいいね、ママ」
下の娘がニコニコしながら、柔らかな紅葉の手で私の右手を握る。ほっこりした右手のぬくみに、イライラトゲトゲした気分があっという間に溶けて消えた。
「拓巳、今日学校で何作るの?」
走ったり止まったり、跳ねたり回ったりしながら前をゆく息子に声をかけると、やっぱりニコニコしながらくるりと振り向いた。
「お城だって」
「へえ、どんな風に作るの?」
「んー、よく分かんない」
まったくこいつは先生の話ろくろく聞いてないんだからと思いつつ、ワクワク感いっぱいの息子の様子に思わず苦笑してしまう。
「図工楽しみだね」
スキップしながら「うん!」と答える息子と、小さくて柔らかな娘の手と、降りそそぐ暖かな朝の日差し。よし、今日もいい一日になりそうだ。仕事頑張るぞ。
<北島元晴>
今日こそ、今日こそ。
朝起きるたび、思う。絶対今日こそやってやる。だけどどうしてか、その場になると決意が揺らぐ。言葉が引っ込む。足が竦む。動けなくなる。そうして結局、何もできないまま日々が過ぎ、気がつくと今日で、ひい、ふう、みい、……二週間。
二週間?!
自分ってこんなヘタレだったのか。壁に掛けられたカレンダーをまじまじ眺めながら、自分の情けなさに唖然とする。ああ自己の再認識。そんなもの認識したくもない。
味噌汁を啜りつつため息をつくと、焼き魚を運んできた母親が訝しげに眉根を寄せて俺を見た。見るな。お前には関係ない。第一お前がもう少しマシな顔に生んでくれたら、俺は無駄に悩まずに済んだんだ。もう少し顔がよくて、もう少し背が高くて、もう少し運動神経がよくて、もう少し頭がよくて、もう少し社交的なら、こんなに悩む必要もなかったはずなんだ。
「元晴、今日少し早く帰ってこられないかしら」
「……え、どうして?」
「今日、お婆ちゃんのお見舞いに行ってくるから、できたらお夕飯作って欲しいのよ」
「具合悪いの?」
向かい側に座った母親の顔は、朝日に背後から照らされて少々黒ずんで見えた。
「昨日啓子おばちゃんから連絡あってね……あんまりよくないみたい。お弁当でも構わないんだけど」
シャケをつつきながら暫く考える。確か、渋谷繰り出すから時間空けとけって西村が言ってたの、今日だったっけか。
「今日は、」
母親の顔が目に入る。
ふくふくしていた頬は見る影もなくこけ、乾いた唇の両端にはくっきりしたほうれい線が添えられている。父さんが死んでからめっきり年取ったなあ。中学の頃は、友だちの母親より若々しくておしゃれに見えて、結構自慢だったのに。寄る年波には勝てないもんだ。
「……構わないよ、別に用事ねえし」
「ありがとう、助かるわ。何作る?」
「いつもの野菜炒めでいいだろ。材料ある?」
「ピーマンきれてるかもしれないわ。なかったら、買ってきてくれる?」
「分かった」
あーあ、ほんと俺って意志弱え。やけ気味に飯をかっこんで、味噌汁を一気に飲み干して、茶碗をさげて自分の分だけ洗って、それからもう一度髪型と鼻毛チェックして、カバンを抱えていざ出陣。
この意志の弱さを克服するためにも、マジで、今日こそやってやる!
町中に降りそそぐ爽やかな朝の空気と眩しい日差し。天気のヤツまで、この俺を祝福してくれてやがる。よしよし。今日こそうまくいく。やれる。絶対やれる。やってやる!
目指すは先頭車両。根拠のない自信に後押しされながら、いつになく軽やかに人混みを抜けて俺は走った。
<川瀬祐一>
ダメだ。
ダメだダメだダメだ。
起きたくない。
行きたくない。
朝の光を採り込むまいと堅く目を閉じ、布団の中で何度も輾転反側を繰り返す。
何で俺、教師なんかになっちゃったんだろう。
子どもなんか好きでも何でもなかったのに。
絶対向いてなんかいないって分かってたのに。
不況のせいか。
一般企業に就職しようにも、俺なんか採ってくれる企業はなかった。
取り敢えず教員採用試験受けてみたら、今人手不足らしくて、簡単に受かっちまっただけだ。
ラッキーといえばラッキーだけど。
受かった時はラッキーだって思ったけど。
そりゃ、職がないよりはあった方がいいに決まっている。
友だちも、就職できなくて派遣やってて首切られたって泣いてたし。
そうか。ラッキーだよな。
俺なんかに職があるだけありがたいと思わなきゃならないよな。
毎日そう思い直して学校に行くたび、クラスを飛び出して駆け回る子どもを追いかけ、追いかけている間にクラスがガチャガチャになり、机が倒され窓ガラスが割れ朝顔の鉢はひっくり返され、ケンカが起きてその仲裁をしている間に熱があるのに無理して来た子がゲロ吐いてその始末をして、やっと落ち着いたと思ったら授業時間は終わって休み時間になって、休み時間にまたケンカやケガが起きて、仲裁に駆け回ってる間に三時間目が終わって、やっと一時間勉強したらすぐに給食になって、食器が割れてスープを零してそれで火傷してまた保健室連れてって、その間にまた食器が割れてケンカが起きてスプーン床にばらまいて、それでもなんとか食べ終えても掃除がこれまたたいへんで、長箒を振り回して目に突き刺したヤツを介抱してる間に、雑巾投げて遊ぶヤツ、廊下で追いかけっこ始めるヤツ、隅に固まって馬鹿話に興じるヤツ、校庭に逃亡するヤツもいたりして、そいつら怒ったりなだめすかしたりしながらようやく掃除を終え、やっとこさ少しだけ勉強らしいことしようとしても、話は聞かねえノートは取れねえ理解はできねえテストは零点。さようならでようやく終わりかと思いきや、近隣住民の方々からイタズラやら大声やら交通ルール無視やら万引きやらの苦情が殺到する。どうしたらいいんだよもう。精神病みそうだ。
あああああ、だるい。
ううううう、いやだ。
行きたくない行きたくない行きたくない行きたくない逝きたくない。
あんな所に行ったらもうほんとに逝っちまう。
薄目を開け、枕元の時計をちらりと見る。
時計の針は七時半を回っていた。
何にしても、副校長に電話しなきゃ。
殻を抜け出るヤドカリ本体の如く、ズルズルと布団から這い出て棚の上の携帯を手に取る。
安っぽい呼び出し音の後、受話器をとる軽い音が鼓膜にちくりと刺さった。
『はい、柴浦小学校です』
あれ? この声。
この明るくてかわいくてハキハキした声の持ち主は。
「……あ、もしもし。あの、川瀬です」
『あれ、川瀬先生? どうしました?』
高島先生だ。
俺の一年後輩、今年採用の新卒で、やる気満々生徒にモテモテめちゃめちゃかわいい女の子。
「あ、いや、その……副校長先生は」
『今席外してますが、……よろしければ、お伝えしますよ』
マジ?
三秒間の沈黙。
「あ、い、いえ、……その、ちょっとやむを得ぬ事情がありまして、登校が……そうですね、もしかしたら十分ほど遅れるかもしれない旨、お伝え願えますか」
『あら、どうしたんですか? 具合でも……』
「え、ええ、ちょっと腹痛で……でも大丈夫です。治まってきたから、ひょっとしたら遅れなくて済むかも」
『無理なさらないで下さいね。分かりました。副校長には伝えておきます』
無理なさらないで下さいね、だって。
まともに話したの、もしかして初めてかも。
緩んでくる頬を無理矢理引き下げ、仕方なく、あくまで仕方なく顔洗って着替えて荷物抱えて家を出る。
我ながら単純な自分がちょっと悲しい。
でもまあ、出勤するきっかけになった訳だからよしとしよう。
通勤客でごった返すホームを先頭車両まで進む。いつも乗り込むお決まりの場所に、いつも並んでいるお決まりの人々。ほらいたいた、このおばさん。いつも三番目くらいに並んでて、携帯メール見てる。待ち受け画面にしてるの、子どもかなあ。サラサラの茶色いロングヘアが美しい女子高生も一緒。毎朝の目の保養できて嬉しい。あれ? あの学生さんがいないな。微妙にさえない感じの、自分の学生時代を思い起こさせるような容貌の……あ、きたきた。走ってきた。これで揃った、いつものメンバー。欠けるはずだった俺も揃って乗り込む、四十四分発急行天ヶ崎行。お寿司さながらぎっちり詰めこまれた俺たちを、今日もしっかり運んでくれよ。
低い音を立てて扉が閉まり、電車はゆっくり走り出した。
それぞれの思いを、日常を、箱いっぱいに詰め込んで。
慌ただしく見舞いの準備を済ませると、北島知子はもう一度冷蔵庫の野菜室を開けた。やはり、ピーマンの姿は見あたらない。
テーブルにいったん五百円玉を置こうとしたが躊躇うように動きを止め、それをしまうと、代わりに千円札を置いてメモに走り書きをする。
『ピーマン代です。お釣りはあげます』
寸刻中空を見上げてから、付け足す。
『いつもありがとう。 母』
メモを読み返しながら少しだけ表情を緩めた知子の耳朶を、つけっぱなしのテレビから流れる無機質な音声が僅かに掠めて流れ去った。
教室へ向かうため、ようやくチェックを終えたノートと出席簿を抱えて立ち上がった高島涼夏は、職員室の後ろ扉付近に教員が大勢集まっているのを見て眉をひそめた。丸付けに夢中で、全然気付いていなかったのだ。
もう八時半を過ぎているというのに、何をしているんだろう。
副校長も、学年主任も、保健教諭も、管理栄養士も、事務さんも、みんな立ち上がって半分口を開け、職員室の一番後ろ、天井からぶら下げられた前時代的なブラウン管テレビに言葉もなく見入っている。
テレビからは繰り返し、同じ言葉が流されていた。
『先ほどもお伝えしましたとおり、今朝午前七時五十八分頃、JR福川線におきまして車両脱線事故があり、現在状況を確認しております。この事故で、現在少なくとも三百人の方が未だ車内に閉じこめられていると見られ、現在救出作業を急いでおります。繰り返します。今朝午前七時五十八分頃、……』
「川瀬くんって確か、福川線使ってたよね……」
副校長がテレビ画面を見上げたまま、ぽつりと呟いた。
「図工シート広げられたかな。準備のできた人は、良い姿勢にして下さい」
工藤拓巳は慌てて膝に手を置き、背筋を伸ばして先生を見た。
今日はちゃんと先生の話を聞いて、良い作品を作りたいと思っているらしい。
机に広げられた図工シートの上には、今朝お母さんが復元してくれた、ガムテ貼りの牛乳パックがちょこんと鎮座ましましている。
「まさか今日は、牛乳パック忘れた人はいませんよね……え? 宮田さん忘れたの? おいおい、お城作れないぞそれじゃ」
拓巳はその声を聞きながら、牛乳パックに少しだけ誇らしげな視線を送り、それから窓の外に目を向けた。
体育の授業だろうか、微かな歓声が響く窓の外には、明るい日差しと抜けるような青空が広がっている。
青空を眺めながら、作品見て目を丸くする母親の姿を想像したのだろうか、拓巳はその柔らかな頬に、ほんのりとした笑みを浮かべた。
福川線脱線事故 死亡者(敬称略)
(カ)
柿沢彩夏
角田道代
掛川 柚
笠原雄三
釜本信宏
川瀬祐一
神田 綾
(キ)
菊池花代
如月良介
木曽幸久
北島元晴
紀藤真弓
金城信久
(ク)
楠 亮二
工藤夏美
国松 孝
来栖智幸
黒川賢治
桑原美鈴
この物語はフィクションであり、実在する人物、事件事故等とは一切関係ありません。