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92.黒猫との出会いと料理教室(1)


 侯爵邸に戻ってからのエーリヒは、忙しい日々が続いた。

 しばらくは休みが取れそうにないと言っていたように毎日帰りが遅かったし、朝も早めに出てしまって一緒に朝食をとることもなくなった。

 もうお見送りのハグどころか、お見送りすらできない。仕事が忙しすぎて王城に泊まり込む日もあるようだ。



 私の方は子供の体だからか睡眠が十分に必要で、遅くまで起きていることもできなくて、私が早めに寝てしまってからエーリヒは帰ってくるようだ。

 眠っていると時々、隣との続き扉から気配がする。そして夜中にふと目が覚めると、隣で彼が眠っていたりして、久しぶりに彼の寝顔をしばらく眺める。そんな夜は嬉しくて、いつもよりも安心して眠れるから不思議。


 本当は話をしたいけれど、彼はいつも疲れたような顔をしているから心配で起こすことなんてできない。だから小さな声で歌を唄って、また魔素にお願いをするの。

 でもそんなに子守唄を知っている訳じゃないから、子守唄のつもりで思いついた優しい歌を唄う。

 子守唄なんて唄ってもらったことはないもの。だからあの有名な子守唄だって途中までしか唄えないの。ちゃんと一度調べておけば良かったな。残念。


 それでもいつものようにこの世界の魔素は私の願いに応えてくれて、キラキラと控えめな光で彼を包み込んで、だんだんと顔色が良くなっていくから、疲労がとれていくのがわかる。



 どうか神様、エーリヒ様がずっと元気でいられますように。

 ずっと幸せでありますように。



 朝起きたら隣にいたあの日のように、もう朝までいてくれることはないけれど。

 彼が眠っていたシーツに触れると、なんとなくまだそこにはぬくもりが残っているような気がした。

 本当はもっと早くに行ってしまったと思うけれど。


 なんとなく寂しくて、涙がこぼれた。




◆◆◆◆◆◆




「ヴェローニカ様。このごろ午後は毎日本を読んでおいでですが……たまには息抜きをしませんか?」

 ヘリガが朝の支度の途中で声をかけてきた。

「それはいいわね、ヘリガ。王都を見に行きましょう、ヴェローニカ様。行きたいとおっしゃってましたよね?」

 髪を結っていたリオニーが賛同する。

 王都を見に行きたいと三人に話したことがあったかな。


「でも、今日も教養の先生がお見えになるから…」

「ヴェローニカ様の教養はもう完璧です。なんでもすぐに吸収すると先生も驚いていた。コンラートももう他に別の先生も呼んだ方がいいかと言っていたくらいだ」

 紅茶を淹れていたウルリカも外出には賛成のようだ。

 学習の進みが思ったよりも早いらしい。遅いよりは安心だ。



「じゃあ午前に先生が来ますから、午後は王都見物に行きませんか?」

 ヘリガが言うと、

「そうですよ。このままじゃここにある本を読み尽くしちゃいます。…ここの本を読み終わってもエーリヒ様の書斎や執務室の本もあるし、本館にも書庫があるんですが……全部難しい本ばかりですからねぇ。あ、王立図書館もご案内できますよ?」


「王立図書館ですか?」

 リオニーの言葉に反応した。いつぞやエーリヒが言っていた王立図書館。行ってみたい。

「リオニー。それではまた勉強になる。息抜きにならないじゃないか」

「そうだったわね」

 ウルリカとリオニーが話しているのを見つめる。



 そうか。皆は私を心配してくれているのね。

 ただ、ようやく文字を覚えることができて、空いた時間は久しぶりの活字を飢えたように読み漁っているだけなんだけどな。

 その方が何も不安にならずに済むから。

 でもそれは現実逃避ともいう。



 私がおとなしく本を読んでいる間は、ユリウスは魔素を吸収しなくちゃならないから隣で同じく本を読んだり、休んでいたり。そしてたまにウルリカ達と手合わせをしたりしている。

 その長閑さはシュタールでの日々とあまり変わりがない。

 ただそこにエーリヒがいないだけだ。




 ユリウスは生前は風魔法の使い手だったようだ。

 青白い霊体だったので金髪碧眼に見えたけれど、生前は淡い緑眼だったらしい。

 でも騎士ゆえに剣術の方を重点的に鍛練していたので、魔法は身体強化の鍛練と、風属性の魔剣の扱いを主に鍛えていた。だからエーリヒのような緻密な魔力操作は苦手らしい。

 でもユリウスが言うには、エーリヒの風魔法の使い方は独自のものらしく、あれと比べるなと言っていた。風魔法で暗器を操るくらいの操作はできると。



 ゴーストとなって剣は扱えなくなったが、生前よりも魔力量が増えてプロイセ城で魔獣や盗賊を追い払うのには風魔法を使っていたようだ。風刃という風の刃らしい。

 その頃に飛び道具を飛ばす魔力操作も鍛えたんだって。それで霊体でもある程度、物を動かせるようになった。

 今はその頃以上に内在魔力が増えて、気が立つとつい魔力で威圧してしまうらしい。

 初対面のヘリガ達にしたあの殺気だ。



 初めユリウスは美麗な容姿や発言の傲慢さで使用人達には遠巻きにされていたが、ウルリカに挑まれて剣術試合をしたことで、その気安い性格と剣の実力が知れ渡り、ここのところ手合わせ希望者が後をたたない。私の隣にいないときはだいたい鍛練場にいる。

 この邸宅の地下には大きな鍛練場が完備されていて、ここの使用人達は皆、武術の心得があるんだって。

 そのお陰でユリウスが打ち解けられて嬉しい。



 ユリウスはシュタールにいたときもそうだったが、身体を動かすのが好きらしい。

 そんなユリウスがマリオネットだと知っているのは、とりあえず今のところはコンラートだけだが、瞳の色が変化する特殊な体質だというのはもう知られている。最初は驚かれたけれど、今は受け入れられている。

 どうやら瞳の色が紫から紅に変化するのは、夜だけじゃなくて、気持ちが昂ぶったときもらしかった。

 魔力が高まったらということなのだろうか。




「はい。ヴェローニカ様。大変美しい所作です」

 今は貴族マナーの授業中だった。

「グリューネヴァルト侯爵家にこのような美しいお嬢様がいらっしゃったなんて。将来が楽しみですね」

「ありがとうございます。伯爵夫人」



 私は習った通りのカーテシーのような所作で敬礼をする。

 右手を心臓に当て左手はスカートを摘む。右足は斜め後ろへずらしてスカートの中では軽く膝を曲げる。背筋は伸ばして腰は曲げない。視線は伏せる。

 王族に対してなどの最敬礼の場合は、跪くように深く膝を折り、顔を伏せるスタイルをとるようだ。しかも許可が下りるまでそのままだ。勝手に顔を上げたり膝を伸ばしたりすれば不敬罪になる。

 なかなか筋力を使うな。鍛えねば。



 以前侍女三人への挨拶にお辞儀をしたが、あんなのは貴族子女として以ての外だった。反省する。

 そう言えばジークヴァルト達とのお茶会の時にもお辞儀をしてお礼を言ったらきょとんとされたね。




◆◆◆◆◆◆




 午前の授業が終わり昼食をとって、自由時間になったら早速王都の街並みに馬車で出発だ。


 外はだいぶ暖かくなって、昼間はそろそろ初夏を感じる。

 梅雨というものはないようだが、軽い雨季と乾季はあるらしい。

 この王国辺りでは今は雨季に入ったようだ。雨季といえばたまにザーッと雨が降るようなのだが、ここは王都。結界石と吸魔石の影響で雨季など関係がないようだ。すごいな。


 ここに来る途中で見た、あの大気の魔素を吸い取る吸魔石が雨雲などを発生させる魔素を吸ってしまうのだろう。

 というわけで王都はいつでも快晴だ。

 たまに計画雨天もあるようなのだが。

 なんだか近未来みたいな話だ。

 とりあえずここでは外出に雨具の心配はいらない。




 馬車は貴族門を抜けて平民区画、庶民の街へと向かう。


「本当にこちらで良いのですか?貴族街の高級店が立ち並ぶ場所で買い物するようにコンラートからはちゃんと予算をいただいていますよ」


 コンラートからはドレスや装飾品、おもちゃやお菓子など好きなものを買うようにと、ヘリガは大金を持たされているようだ。

 それでなくともなんの貢献もなくお嬢様待遇で邸宅に置かせてもらっているのに、心苦しい。私は庶民の街でいい。いや、庶民の街がいい。



「姫は気を使いすぎだぞ」

 隣でユリウスが微笑む。

「私は本当にこちらが良いのです」

「私はヴェローニカ様にいろんなドレスを着せたかったから外出にお誘いしたのに…」

 リオニーはしょぼくれている。



 何せ今は、リオニーのこよなく愛する銀髪は、魔術具の指輪で明るい闇色…よりはコンラートのような少し明るい紺色に変わっている。

 魔術具の指輪は人によっても微妙に髪色が変わるようだが、大体闇色の明度が変わるくらい。

 ヘリガは夜空のような闇色。

 ユリウスとリオニーは闇色が少し紫に寄っているような色合いで、ウルリカは闇色が少し明るい色だった。


 ユリウスの髪色もちゃんと変化して良かった。

 平民の髪色は魔力量が少ないためか暗めの色が多い。だから色味が暗ければ平民の街でも目立つことはない。




 屋台が立ち並ぶ活気のある街中で、簡素な馬車を降りる。身分をやつして外出するときの馬車だ。

 通りの賑わいを見ると、国境沿いのグレーデンの街でエーリヒとマリエルと屋台を巡ったことを思い出す。


 ユリウスが私の手をとった。

「結構人が多い。離れるなよ」

 エーリヒのように器用ではないからな。見失ったら事だ。とユリウスは呟いている。

 フラグにならないように私はしっかりと手を繋いだ。ついでに魔素もあげておこう。



「抱き上げようか?」

「それは大丈夫です」

「だがはぐれないし、何よりよく見えるぞ」

 そうか。そうかも。などと考えていると、ユリウスはすっと私を抱き上げた。

「ありがとう、ユリウス」

「どういたしまして」


 ヘリガが面白くなさそうに見ている。

 ユリウスが言うように、ヘリガは私というよりもユリウスが気にいらないようだ。それともユリウスを重用する私への不満だろうか。どうしたものか。




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