91.ここにいる意味
目が覚めたら、エーリヒ様のはだけたシャツの胸元が目の前に……
なにゆえ??
いや、裸じゃないけど。ちょっとシャツの胸元から厚い胸筋が見えているだけなんです。
いえ、ごめんなさい。胸筋だけじゃなくて、実は逞しい腹筋も少し見えています。
素敵な鎖骨にセクシーな首筋。喉仏。シャープな顎ライン。
え。この美しさはほんとに人間なのかな?
さすがは推しです。尊すぎて気が遠くなりそうです。
もしかしてこんなに間近で見たのは初めてなのかもしれない。
あれ?私、今までの恋愛経験、どこ行ったの?
いやでも、こんなにしっかり男の人の体を見る機会なんて普通ないでしょ。だって、なんとなく目を逸らすものね。うん。そう。きっとそう。
ていうか、こんなに逞しい完璧な体なんて、そういないから!
エーリヒはジークヴァルトの護衛騎士だってヴィクターが言っていたし、あのライト◯ーバーを使いこなすほどの剣士なんだから、胸筋と腹筋が素晴らしいのも当然なんです。
きっと今は見えていないけれど、腕の筋肉も美しいに違いない。ある意味芸術作品だな。となるとこれは鑑賞すべきかな……
コンコンコン
その時扉をノックする音が聞こえて、部屋の外に使用人が来たことを覚った。
ファ?どうしよう。これ、どうすればいいの?何が正解なのー?
ちょっと待って。落ち着いて。私は寝ていただけだもん。なんにも悪いことはしてないわ。
返事をしなかったらまだ起きてないって思って帰ってくれるのかしら。
ドキドキしながら考えていると、隣で身動きする気配に気づいた。
ふわっと頬をなでられる。エーリヒと目が合った。
「…はぁ…」
気だるそうな吐息が聞こえて、少しとろんとした乳白色の淡い蜂蜜色の瞳で優しく微笑まれた。
なんて綺麗な色だろう。こんなに近くで見たのは初めて。陽射しに当たると煌めいて、彼の身につける宝石のオパールのような虹色の色合いになるんだ。
彼は本当の色である黄金色を偽装しているから、髪も瞳も少しくすんだ色合いをしている。金色をもっと淡くして、少し白濁させたような、優しいミルクティー色。それが日に当たって遊色効果のように煌めいて見える。
今までに見たことのある普通の虹彩とはまるで違う。これはもしかしたら、魔力なのかもしれないな。きっとこれはここまで近づかないとわからないんだわ。
「起きたのか、ヴェローニカ…」
寝起きのかすれた声にこくんと頷くと、彼はまたふわりと微笑んだ。
「大丈夫だ。勝手には入ってこない」
まだ眠そうな眼で柔らかく微笑みながら優しい声でそう囁いた。
そして徐ろに自分の胸元を探って、ぼんやりと視線を部屋の中へ走らせた。手を伸ばしてヘッドボードに掛けられていた上着を取り、懐中時計を取り出す。時間を確認したようだ。
「…………」
寝転んだまま、何か呆けたように考えている。
髪が邪魔で……綺麗な瞳が見えない。
ふとエーリヒの目元に手を伸ばしていた。指先が触れると、ピクッとこちらに目を向ける。朝日を浴びた優しい蜂蜜色の甘い瞳に囚われる。
「…………」
「どうした」
「…あ、……何を、考えているのかなって」
「ああ…。もう少し早く起きれば、良かったと」
「遅れちゃいますか?」
慌てて体を起こしてそう聞くと、銀色の髪がサラサラと流れる。
「いや。…君と、話す時間がない」
少し物憂げな表情だ。
「すまないな。私の部下が、また君に不快な思いをさせた」
昨日の出来事の報告を受けたようだ。私は急いで首を振る。
「いいえ。違います」
「…来るべきではなかったと、言ったとか」
「え?」
そんな話は皆にはしていないのに。…ユリウスかな。
「それは…その…」
「君の不安は私が聞くと、言ったのにな」
「でも、あのあと、ちょっと仲良くなれたような気がします。だから、大丈夫です」
「そうか…」
「はい。大丈夫…」
今まではずっと一緒にいたけれど、これからは王城で朝からずっと夜遅くまで仕事なんだ。
昨日は私が起きてるうちには帰ってこなかったし、朝は起きたらまた仕事に行ってしまう。
そうか…。もう、今までみたいに話す時間なんて、ないんだ。
そう気づいたら、なんだか急に寂しさが込み上げてきた。
「お休みは、ないんですか?」
「休みか……しばらくは、難しいな…」
「そうですか」
いや、私のために時間を作って欲しいとか考えてる場合じゃない。
「体に気をつけてくださいね。昨日はちゃんと眠れましたか?」
「ああ。…そうだな。ここへ様子を見に来たら、すぐ眠くなった。疲れていたのかもしれない」
「そうですか…」
そっか。だからここで眠っちゃったのね。あんまり眠れない人なのかと思ってたけど。昨日はちゃんと眠れたみたいで良かった。
遅くに帰ってきて疲れていたのに、私の心配をして来てくれたんだ。話をしようとして、来てくれたんだ。
嬉しさで胸が温かくなるのを感じた。
「エーリヒ様が眠れないときは、また歌をうたいますね」
「…君が先に寝ていないといいが…」
ふっと笑った。
それは確かに。
「…そろそろ行かないとな」
もう、そんな時間か。
名残惜しい気持ちになる。
エーリヒが起き上がって上着を手にとりベッドから下りた。
「じゃあ、またあとで」
「はい」
立ち去ろうとするエーリヒを見ていると、部屋の入口ではなく奥の方へと進んで行く。
どこに行くんだろう。
そう考えて目で追うと、ベッドの奥に扉があってそこをカチャッと開けた。
……ん?そこは何?
「隣は私の部屋だ。ここは開けておくから、いつでも来ていい」
ニコリと微笑んで扉の奥へと消えていった。
……え?
……………え?
◆◆◆◆◆◆
呆けているうちに再び扉をノックされて慌てて返事をしたら、侍女の三人組が入ってきて朝の支度が始まった。
昨日庭園で三人に会い、丁寧に謝罪された。
薔薇の棘が刺さって血が滲んでいた指にはリオニーが神聖魔法をかけてくれて、薔薇を――庭師さんに聞いたら、ここでは薔薇はローゼだった。――活けてくれたし、ヘリガにはやたらと畏まられたし、ウルリカは強そうなユリウスに興味があるようだった。ユリウスが携帯している魔剣の話とか、何か暗器の話までしていたようだ。
薄いピンクの髪色と瞳の可愛らしい女性リオニーは、今もテンション高めで着替えや髪結いを手伝ってくれている。自身の髪も器用にリボンと編み込まれていて髪留めで飾られ、とても可愛らしい。マリエルのように可愛いものが好きなおしゃれな女の子という感じだ。
でも茶髪で落ち着いた雰囲気のマリエルよりは女子高生感が多分にある。…いや、女子大生かな。
淡いピンク色の瞳は初めて見る色合いで、近くでよく見ると少し紫がかっていて、本当に美しい瞳だった。
ヘリガはエーリヒよりも少し暗めの、琥珀色の髪色で、きっちりとまとめられていて横髪を少しだけ垂らした美人秘書系の女性だ。その瞳は朱色。ハインツのような色味なので、火魔法使いなのかもしれない。
まだユリウスを少し警戒しているように見えるけれど、私に対してはすぐ跪こうとする。どこか使命感の強そうな感じを受ける。
ウルリカと一緒に今は部屋を整えている。
テーブルにあった果実酒やグラスはエーリヒ様が飲んでいたのかな。ユリウスはまだ飲食はできないし。
ウルリカは薄い水色の綺麗な髪色で活動的なポニーテール。瞳は海のような深い青色で水の加護が濃いようだ。
とても可愛らしくて、水色の髪はリオニーのように私にとっては珍しい髪色だからとても目を引く。けれど見た目に反して口調はサバサバしていて武術好きのようで、昨日はユリウスと武器の話で盛り上がっていた。
今度地下にある鍛練場で手合わせをしたいとも言っていたから、そこから使用人の皆と仲良くなれるといいけれど。
そう言えばユリウスの魔法の属性はなんだろう。霊体の状態のユリウスは青白く光っていたからよくわからないが、おそらく彼は金髪碧眼だった。
青い瞳は水系の魔法を扱う者が多いと聞いた。そして金髪は魔力量が多いと。となると身分は高かったのだろう。身なりも立派な白銀の鎧をまとっていた。あの宝物庫で見たような一品だ。
ユリウスという名前でプロイセの歴史書を調べたら、彼について何かわかるかもしれない。彼の姓名…家門名には、そのプロイセという土地名が入るのだから。もしかしたら。
でもそれは彼を傷つけたりはしないだろうか。やはり一度ユリウスと昔の話をした方がいいだろうか。でもその方が彼を傷つけるのでは…。そう思うとなかなか思い切れなかった。
この王国にとってプロイセの内乱は過去の歴史となっていても、きっと彼にとっては過去なんかじゃない。リアルに自分が、大切な人達が、故郷が、巻き込まれた戦争のはずだから。部外者が好奇心で安易に踏み込んでいいことじゃない。
リオニーに髪を整えられながら私が心の中でいろいろと考えていると、部屋にユリウスがやってきた。相変わらずヘリガの朱色の眼が少し警戒モードに入るけれど、当の本人は気にしてはいない。
ユリウスは敵意には敏感なので、知らないふりというか、気にしないようにしているのだろう。そこはユリウスの良いところだ。
もしかしたらユリウスは人間を弱者と思っているようだから、相手にしていないという可能性もあるが。
「おはよう、姫。エーリヒに何もされなかったか」
その瞬間、朝目覚めた時のとろんとしたエーリヒの蜂蜜色の甘い瞳を思い出した。
「え?…な、何も、されません!…ユリウス!変なこと言わないでください!」
私がユリウスの言葉に動揺すると、侍女三人もびっくりしたように注目している。
「いや……ほんの冗談だったのだが。すまない、姫。からかい過ぎた」
ユリウスもびっくりしたようだ。
え?私のせいなの?そ、そうだよね。私ってばまだ小学校低学年くらいの見た目なのに。何をませた反応をしてしまったんだ。
恥ずかし過ぎてどうにかなりそう。
ふわぁ!絶対、あの色気のせいだ。
まだ髪を整えられている最中だし逃げることもできない。顔を手で覆うくらいしかできなかった。
◆◆◆◆◆◆
その後は食堂で朝食をとったのだが、何故かもうエーリヒをまともに見ることもできなかった。
そんな風なのに、朝のお見送り時には「今日はしてくれないのか?」とまた昨日のように腕を広げてハグを要求されて、「きょ、今日は、しません…」と言うので精一杯だった。
エーリヒはまるで叱られた犬のようにとても残念そうにしていた。
私も馬車を見送ったあと、エーリヒと話す時間がこれからは少なくなるのに、馬鹿なことをしてしまったなと悲しくなってしまった。
それでもやるべきことはやらなくちゃ。
ただでここに居座るわけにはいかない。何かお返しのために私の知識を活用できないか、コンラートに相談した。これからは当分貴族マナーや教養の授業を受けることになるようだ。
私はこの世界についてまだ何も知らないし、本当にエーリヒが私を貴族にしようとしているのならば、それに恥じないように勉強しなければならない。
部屋には本棚があった。シュタールで皆で文字を覚えたから本を読めるようになったし、その分他の人に負担をかけないで勉強もできる。
勉強することは好きだし、苦じゃない。
エーリヒがいなくて寂しくても、勉強していれば何も問題はない。
利益を生んで、今まで私に与えられた厚意の分をたくさん恩返しをしなくては。そして自分の裁量で動かせる資金を作らないと。今度はやりたいことがやりたいようにできるように。
そして私自身の有用性を示さなくては。
私がここにいる意味を果たさなくては。




