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90.芳香

《エーリヒ・グリューネヴァルト》




 帰りが遅くなってしまった。ヴェローニカはもう眠ってしまっただろうか。


 今日の王城勤めで体の疲れというよりも、心の疲労を酷く感じたエーリヒは、自室ではなくヴェローニカの部屋の前まで来て足を止めた。

 普段ならば帰宅後、自室に執事のコンラートを伴いながら入って、着替えや入浴の支度をさせるが、今日はもう三階へは来なくていいと言ってある。寝室の準備は整えてあるはずだ。



 ここに来る前にコンラートから今日の出来事の報告を受けた。

 相変わらず面倒事が多い。だが少しは使用人達とのわだかまりも解けているようだ。

 今日一日で、ヴェローニカも色々あったようだな。

 また、不安になっていなければ良いが。



 三階は上ってきた階段をぐるりと囲むように廊下がコの字になっていて、階段を昇って左へ折り返せばエーリヒの部屋の扉があり、逆に右手へ折り返せばヴェローニカの部屋がある。

 コの字の廊下の先端で扉同士が互いに向かい合い、入れば広い応接間があって、他にも洗面室や浴室、フィッティングルームなどの小部屋があり、最奥の寝室は奥の扉でエーリヒの寝室とヴェローニカの寝室が繋がっているという左右対称の間取りだ。

 つまり三階は邸宅の主である夫妻の階層である。



 いつも自室に入る際に振り向けば、使用していない部屋の扉があった。

 今まではまるで気にしてはいなかったが、まさかこの部屋に誰かを住まわせる時が来ようとは。エーリヒとて思ってもみなかったことだ。だがここがやはりこの邸宅で一番セキュリティが高い。もしヴェローニカに何かあればエーリヒがすぐに寝室から駆けつけられる。




 ノックを打つ前に部屋内の気配に眉をしかめた。中にユリウスがいる。しかも寝室のベッドの位置。ヴェローニカの傍だ。

 エーリヒは苛立ちを感じながらドアを開け、勝手知ったる間取りの通りに奥の寝室へ入った。

 ほのかに魔導灯が灯る薄暗い部屋の中、ベッドの淡紅色の薄い紗幕の中にユリウスの影が見える。

 こちらの気配を察し、中から紗幕を開けたようだ。

 鈍いやつでもわかるようにわざと気配は消さなかった。



「…いきなりだな、エーリヒ。ノックくらいしろ」

「ユリウス…そこで何をしている」

「別に何もしていない。姫が眠っている」

 ユリウスの言葉にベッドを見ると、ヴェローニカが横たわって眠っていた。

「いちいち嫉妬するな」

「…嫉妬…?」

「いや。…まあ、いい」



 ユリウスの瞳が赤くなっている。白夜のような真紅だ。

 以前ヴェローニカが、ユリウスは昼と夜の明かりで瞳の色が変化すると言っていたが、見慣れた今でも不思議な変化だと思う。

 ヴェローニカは、ユリウスの瞳は宝石のように美しいと言って、相変わらず全く恐れも戸惑いも感じてはいないようだった。

 度胸があるというのかなんというか。

 そうだ。コンラートにはユリウスの正体を伝えておかなければ。もしかすると瞳はもう見たあとか。


 それにしても侍女は何をしているのだ。何のためにヴェローニカにつけたと思っている。

 …ああ。まだ信用されていないのか。お互いに。



「お前を待っていたんだ」

 ユリウスの意外な言葉に首元を寛げていた手を止めた。

「何かあったのか…使用人達のことなら、コンラートから報告を受けたが…」

「ん。まあ、それもあるが…」

 なんだか言いづらそうにしている。


 面倒臭そうだ。エーリヒはそう思い、寝室の扉は開けたまま居室に戻って棚から果実酒とグラスをとり、テーブルに置いた。ソファーに座り、グラスに果実酒を注いで、少し揺らしてからそれを飲んだ。



「あー…。すまないが、血が欲しいのだ…」

 ユリウスが寝室から出てきて言った言葉に、ゴキュッと酒が喉を通っていって咳き込みそうになった。

「…っ、まさか、ヴェローニカの血を飲んだのか」

 それでヴェローニカは倒れているのか。

「していない。…していないから、言ってるんだろうが」

 少し慌てている。嘘ではないようだ。


「そんなに魔力が足りないのか」

「それもある。いや、それでなおさらなんだが…」

「なんだ。はっきり言え」

 突っ立ったまま腰に手を当て気まずそうに視線を逸らして、紫色の前髪をかきあげながらユリウスは説明を始める。


「今日、ヴェローニカと一緒に庭園で花を見ていたんだが、庭師にもらった花に棘があってな。それがヴェローニカに刺さったんだ。それでヴェローニカの血を、少し舐めて…」

 ユリウスは自分の肩をぎゅっと掴んで顔をわずかにしかめた。

「…どうにも耐えられそうにない」



 ざわざわする。苛立ちと、なんだかわからない不快な感情が湧いてくる。

 これが傀儡人形だと?…まるでヴァンパイアじゃないか。



「はっきり言えと言ったのはお前だろ。そう苛立つな」

「…………」

「だったらヴェローニカの血を飲んだほうが良かったか?姫はそうしろと言っていたんだ。私がつらそうだとわかるから。いずれは必要なことではあるのだが……あれから飲んでいないし、ここは魔素が薄いから、この状態で一度噛み付いたら……歯止めがかかるかわからなくて…」


 噛むだと?…ヴェローニカを噛む気だったのか。



「…………」

 エーリヒは無言で立ち上がると棚からグラスをとる。上着を脱ぎカフリンクスを外して袖を捲り、風魔法で腕を切りつけて用意したもう一つのグラスにその滴る血を注いだ。

 それに半分くらい血を注いでから神聖魔法で傷口を塞ぎ、グラスをユリウスの方へ掲げた。

「…飲んだら出ていけ」

「…わかってる…」


 ユリウスは近づいてグラスを受け取ると、それを見て少し顔を歪めたが、意を決したように口をつけた。

 どうにも奇妙な光景だ。自分の血を誰かに飲ませるなどと。しかも人形に。一体どのように血など飲むのか。


 ユリウスは人間が一口飲むような動作でグラスを傾けると、動きがピタリと止まり、その後は一気にグラスを呷った。

 よほど血に飢えていたのか。歯止めがかかるかわからないという不安は本当だったようだ。これでは今後も危ういな。

 王都は魔素が薄いか……厄介だな。

 エーリヒもグラスの酒を呷る。



「…はぁっ…っ…。ふぅ…。なん…だこれ。お前の魔力、すごいな」

 ユリウスは空のグラスを見つめながら口元を押さえている。真っ赤な瞳がさらに赤々と興奮したように光を増している。見ていてあまり気分のいいものではない。


「まあな」

「姫とは味わいは違うが、悪くない」

「そういう感想はいらん」

「いや、だが…。まあ、これでなんとかなりそうだ。感謝する、エーリヒ」

 何故か素直に礼を言われた。


「もう、いいか」

「……姫に変なことするなよ」

「は?……馬鹿なのか」

「はい、はい。…全く…」

 ユリウスは首を振りながらグラスをテーブルに置いて、一度ヴェローニカのいる寝室の方を振り返ってから部屋を出ていった。



 エーリヒは腕についていた自分の血が目に止まり、その赤い色を眺めた。

 ふと、腕を口に近づけてその血を舐めてみる。

 ただの血の味だ。サビ臭い。

「…………」


 空になったグラスに再び果実酒を注ぐとそれと上着を持って寝室へ向かい、ベッドへ近づいた。

 ベッド脇のサイドテーブルにピンクの花が飾ってあった。




 淡い薄紅の紗幕を開けるとヴェローニカが眠っている。

 銀色の長い髪をシーツに広げて、すぅ…すぅ…とかすかに規則的な寝息をたてながら、わずかに胸を上下させて穏やかに眠っていた。


 これをさっきまでずっとユリウスは見ていたのか。

 また苛立ちともやもやが胸に宿る。

 それを流し込むように酒を呷った。

 アルコールが食道を通り、胃に落ちていくのがわかる。体が熱くなって、なんとなく頭にもやがかかったような感覚になる。


 ゆっくりと起こさないように気を使いながら、ヴェローニカの隣に座った。脱いだ上着をヘッドボードに掛ける。そしてもう一度ヴェローニカを見下ろした。



 白く細い首筋がよく見える。

 あいつ、これを見ていたな…

 苛立ちがまだ燻っている。

 グラスを持っていない、空いている方の指の背で彼女の白い首筋を優しくなぞった。


「ん…」

 驚いた。起きたのかと思った。だが彼女はただ首をすくめるように少しだけ身動きをしただけだった。

 くすぐったかったのか。

 ほっとしていたら、服を引っ張られた気がして体勢が崩れた。慌ててベッドに手をつく。

ギシ……


「…………」

 ギリギリだった。もう少しで彼女に覆いかぶさるところだ。


 すぐ下に彼女の寝顔がある。

 ベッドサイドの灯りで長いまつ毛に影が落ちている。規則正しい小さな寝息がすぐ近くで聞こえる。

 芳しい甘い香りが漂う。これはあの時の花の香りだ。さっき見かけた気がする。

 それは甘いだけじゃなくて、その中にわずかに香る根源を暴きたくなる。何故かずっと嗅いでいたくなる。そして目眩のような眠気を感じた。

 ごくりと喉が鳴った。起こさないようにと気が逸ったのか。



――姫に変なことするなよ。――



「…馬鹿なのか」



 こんな小さな子供に、一体何をすると?


 腕に力を入れて体を起こし、潜めていた息をそっと吐く。もうほとんど残っていないグラスの中身を飲み干して、空のグラスをサイドテーブルに置いた。

 そのサイドテーブルに、花瓶に活けられた花がある。薄いピンクの優雅な花だ。縁が少し色が濃くなっていて花弁が何枚も重なり合っている美しい花だった。風を操ると濃厚な香りが漂う。


 さっきと少し香りが違うような……?これの香りじゃないのか?


 なんとも色気のある花だが、これはシュタールの庭園で彼女と見た花に似ている。あの夜に見たのは、深紅と言えるほどもっと真っ赤な花だった。形も少し違うようだ。確か彼女は“バラ”と呼んでいた。こんな花が庭園にあったのか。


 この花に、棘が。

 棘が刺さったくらいであれば、もう傷は塞がっているだろうか。…リオニーかウルリカが治したか。


 違和感にふと見下ろすとヴェローニカの手がエーリヒの服を掴んでいる。

 ふっと口元が緩む。



 本当は今日あった出来事を、ヴェローニカが自分で語るのを聞きたいと思っていた。「ここへ来るのではなかった」と本当にそう思っているのかと。


 だが今日は……色々あって、遅くなって。彼女の話を聞けなかった。

 彼女の不安は私が聞くと、約束したのに。



 ああ、眠い……

 今日はもう、ここで眠ろう……




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