89.侯爵邸にやってきたお嬢様(4)
《ユリウス・レーニシュ=プロイセ》
「お願いなどというから何かと思えば…」
「これも立派なお願いではないですか。私はひとりで出歩けないのですから。…また気ままにうろちょろしては、迷惑をかけてしまいますから」
ヴェローニカは庭園の花を見て、時には匂いを嗅いだりして嬉しそうだ。
ヴェローニカのお願いとはこうやって、庭園の花が見たいから一緒についてきてくれというものだった。ユリウスにとって、なんということはない。
「そう言われると、不便だな」
「そうでしょう?」
振り返ってこちらに笑顔を向ける。不満を言っているようには見えない。このようなことでこれほど喜ぶとは。
「姫の行くところには私がついていく。これからは好きなところへ行けば良い。遠慮はするな」
「本当ですか?」
満面の笑みを見せてくれた。これしきのことで。それはとても嬉しいことなのだが、ユリウスは少し複雑な思いも抱いた。
ヴェローニカの喜ぶこと、幸せに思うこととは何なのだろう。こんな些細なことなのだろうか。もっともっといろいろな贅沢があるはずなのに。
領主一族だったユリウスは生前は裕福な暮らししか知らなかったし、してこなかった。だが今の自分には何もない。ヴェローニカに宝石やドレスを買い与えてやれる金も、雨風凌げるだけではなく心身寛げる豪勢な家も、融通が利くような地位や名誉も何もかもが。
それら当然にあったはずの全てが、己の体とともに皆朽ち果ててしまった。
それでもここにいれば、エーリヒがヴェローニカの世話を十分にしてくれるだろう。だがやはり、それが自分の力ではないことが何かやるせない。
(いや…宝石ならばまだあったか…。宝物庫に手をつけることにはなろうが、最悪あれを売って金にすることもできるな。魔獣を狩って素材を売るのもありか。…なんだ。なんとでもなるな。)
となればここを離れるという手も……
「行きたいところでもあるのか?」
「そうですね…とりあえずは王都を見てみたいです。…コーヒーがね、この世界にもあるらしいのです。だから他にも何か、私が欲しいものや知っているものがあるかもしれませんし」
「コーヒー?」
「黒くて苦い飲み物ですよ」
「…美味そうには思えないが…」
「ふふ。エーリヒ様と同じことを言ってます」
(エーリヒと、同じか……)
「上から見た時、あちらに薔薇のようなお花が見えたのです」
「バラか。シュタールでもあったな。あの花か。姫はあれが本当に好きだな」
「だってすごく綺麗だし、いい香りだってユリウスも言っていたでしょう?ここにはピンクや赤っぽいのが見えましたよ。早く行ってみましょう、ユリウス」
「わかった、わかった。転ぶなよ、姫」
「転びません。私は子供ではありませんよ」
「…………」
やれやれ…とユリウスは笑顔でヴェローニカについていく。
◆◆◆◆◆◆
《ヘリガ・ドレヴェス》
「なんなの……あれ。可愛い生き物だとは思わない、ヘリガ?」
「……そうね」
「子供ではありませんよって。…天使かよ!」
「興奮するな、リオニー。ユリウス様にバレたら、また殺気を飛ばされるぞ」
「それはヘリガが殺気を飛ばしていたからでしょ、ウルリカ」
ヘリガとリオニー、ウルリカの三人はヴェローニカとユリウスが外へ出たことを知り、あとをついてきた。本当は護衛侍女として一緒に行動しなければならないのだが、先ほどのことが原因でどう近づいていいのかわからない。
だが、自分の仕える主の趣味嗜好を知らねば快適に補佐することもできない。
ストーカーのようではあるが、これも彼女らの立派な任務である。
「ユリウス…様は何故ヴェローニカ様を姫と呼ぶのでしょうか…」
「騎士だからだろ」
「ウルリカは単純ですね」
ヘリガの疑問に難なくウルリカが答える。
「麗しくもいとけない姫君と若く美しい忠実な騎士。萌えます。二人は美形でとても絵になります。最近流行っている騎士物語の挿絵みたいじゃない?護衛騎士は自分の姫の成長を一番傍で見守るの。その忠義な心がそのうち恋心に変わるのよ。でも姫は自分の主。その想いは決して表に出してはいけないの…」
リオニーは両手で胸を押さえて顔を赤らめている。興奮状態のようだ。
「リオニー…私はまじめに聞いてるんだけど」
「別に不思議なことではないじゃない。高位貴族は自分の家門のお嬢様を姫と呼んだりするでしょ」
「まあ…。昔は特にそうだったようですね」
昔話の騎士物語ではよく騎士と姫が出てくるが、特に姫が本当に王家の姫様であるという訳ではないようだ。時に隣国の王女だったりすることもあるが、だいだいは自分の守る護衛対象として、主の娘や主の妹の立場であることが多いようだ。
ちなみにそういった知識は全てリオニーから得たもので、頼んでもいないのに日々語ってくる。
「うちはお嬢様がいないから呼ばないだけなんじゃない?エーリヒ様にヴェローニカ様のような妹がいたら、きっとうちの連中は“姫様、姫様”って大騒ぎよ。あんなに可愛らしいんだもの」
「…かも、しれませんね」
ヘリガはそれを想像してみた。
うちの使用人達はエーリヒの方針上、“自分の身は自分で守れ”がモットーなので、内向きの仕事であっても護衛官並みに戦闘訓練を受けた者達ばかりだ。だからなのかリオニーのように可愛いもの、か弱いものが好きな者達が多い。それはひとえに強者の庇護欲。
そして使用人達はここの強者であり賢者の頂点であるエーリヒを尊敬していて、領地から追いかけてきた者達ばかりだ。その妹君ならば十分にありえそうだ。
「しかし…ユリウス様は騎士と言いながら、あまりそのような体格には見えないな。騎士としては線が細い。女性とまでは言わないが、男性にしては外見が繊細で美しい。紫の髪と瞳は珍しいし、神秘的だ。夜会にでも出れば一晩で話題になるぞ」
「そうですね」
ウルリカの指摘はもっともだった。そしてだからこそ癇に障った。
ヘリガ達は侍女兼護衛なので、三人それぞれに得意分野は違うものの、側仕えや補佐の仕事に加え、護衛官としての任務もこなす。
ユリウスは先ほど放った殺気から考えても、その魔力量はヘリガ達の比ではないのだろう。そうなるとやはり高位貴族のように魔法をメインで戦うのだろうか。あんなに立派な魔剣まで装備しておいて。
あの優男ぶりで本当にヴェローニカを守れるのか。第一の騎士と言いながら主に対してその距離は近く、本当にその能力はあるのかは疑問だ。
だが紫眼であれば、かの最上位魔法である雷魔法が使えるのだろう。そうともなればあの自信も腑に落ちる。ならばなおさらあのご立派な魔剣は飾りではないのか。
こうやって見ていると、彼女はとても無邪気な方のようだ。先ほどの冷静な態度はまるで思慮深い大人のようだったが、今はとても愛らしくて、守ってあげたくなる。
あの場にいるのは、本来私達なのに。
あの方を守るのは、私なのに。
何故、あのような態度をとってしまったのか。
もう、あの方の傍に侍ることはできないのか。
せっかくあのエーリヒが、やっとこの邸宅に、守れと連れて来た方なのに。
「あら。庭師と話していますね。なんて気さくなお嬢様なのかしら」
うっとりしたリオニーの声が聞こえた。
「高位貴族では、ありえませんね…」
「それはユリウス様もだろ。態度は高位貴族らしい傲慢さだが、他の高位貴族に比べたら可愛いものだ。やつらは警告なんてしないぞ、ヘリガ」
確かにそう言われればそうだ。高位貴族にあのような態度をとれば、相手によっては下手したら殺される。
だがあれが高位貴族だとは聞いていない。詳しい素性を何故明かさないのだ。不審すぎる。
高位貴族は守られる側であって、誰かの護衛などしないはずなのだ。するのであればエーリヒのように、我が身が後継者(嫡男)ではなく、その控え(次男)でもなく、さらに高位貴族である自分よりも身分が上の要人(小公爵)に対してなのだから。
確かに珍しい紫眼にあの魔力量からすると高位貴族なのだろうが。高位貴族は金髪か、それに近い髪色をしているものだ。
あのように派手な容姿で己の主に対して、そして侯爵家の若様の大切な方に対して、あまりにも馴れ馴れしすぎやしないか。
「お花をもらったようね。あれって棘がある花なのよね。大丈夫かしら。棘は取るべきよね、やっぱり」
世話焼きのリオニーがうずうずし始めた。あそこにいれば代わりに花を受け取ってすぐさま花瓶に活けていただろう。
「なんて嬉しそうに笑うのかしら。ああ、天使はここにいたのね!」
「リオニー。声を抑えろ」
「あ!」
「え?」
二人のやりとりを見ていたが、リオニーの声にヘリガは反応した。ヴェローニカが何か狼狽えて、ユリウスがヴェローニカの手をとり、跪いて指に唇をつけている。
「棘が刺さったんだわ!おのれ!何故棘の処理を怠ったんだ!」
「リオニー、声を抑えろってば…」
「ああ、でも…、跪いて姫の手にキスをする騎士。美しい……やっぱり絵になるわ!」
リオニーとウルリカの会話を耳にしながら、ヘリガはヴェローニカ達を見守る。
ずっとその様子を注視していたヘリガには、そのほんの僅かな変化がわかった。ユリウスの瞳が紫から紅へと変化したように見えたのだ。それは本当に見逃すくらいのほんの一瞬の出来事。
そしてリオニーの興奮する声に、ヴェローニカとユリウスがこちらに気づくのは、もう間もなくのことだった。




