80.優しい人には優しい世界を(2)
「ごめんなさい、エーリヒ様。ちょっと……息苦しく、なってしまっただけで…」
こんなつもりではなかったのです。本当です。反省しています。ごめんなさい。
これ以上は迷惑をかけまいと腕の力を抜いて、下りようとした。けれど。
「なに?…大丈夫か?」
エーリヒは慌てて私を抱きしめ直す。そして優しく背中をさすってくれた。
「も、もう、落ち着きました。お陰様で。……ありがとうございます」
「本当に……大丈夫なのか?まだ治っていないのではないのか?」
「いいえ、本当に。…大丈夫です」
「そうか…」
「はい…」
シーン……
気まずい。
ああ……夜空、綺麗だな。
それにしても。
本当にエーリヒ様はいい香りがする。
なんなんだろう?香水?香油?それともこれが本当にフェロモンなの?
ドキドキするのに、とても落ち着く。
「ヴェローニカ。…聞いても、いいだろうか」
現実逃避しながら星空を眺めていたら、彼が声をかけてきた。
耳元で聞こえる優しい声。ずっと聞いていたい。
「…はい」
「君が言っていた、《メニハメヲ ハニハハヲ》とは……どういう意味なのだ?」
「え…?」
エーリヒはたどたどしく日本語を話した。
そう言えばそんなことを言ったな。
「エーリヒ様は本当にすごいですね」
私が一度言った日本語を覚えているとは。
「それは以前いたところの言葉です。“目には目を歯には歯を”ということなんですが…」
「目には目を歯には歯を…?どういう意味だ」
「私の世界の有名な古代の法典を表す一文なのですが、早く言うと、やられた分だけやり返すということです」
「古代の法典……なのか。やられた分だけやり返す…」
「復讐を容認しているととらわれがちですが、本当は罪に対して公平な罰を決めて、過度の罰を与えず、さらに罰を明確にすることで犯罪の抑止にする目的もあるようですよ」
「ふむ…やはり同害報復か」
「そうですね。全く同じものをというわけではありませんが。基準はそうです。ですが古代の法典なので、身分の貴賤や親子や夫婦などの立場によっては罰が公平ではなかったりもするので、完全なる私の理想というわけではないのですが。表現がわかりやすいですからね。やられたらやられた分だけやり返すぞって、意気込みが好きで。でも倍返しという素敵な言葉もありますけどね…ふふ」
「君の理想…」
エーリヒの視線を感じる。理想を言ってみろということだろうが。それは少し難しい。
私は同害報復でも甘いと思っている。
現代ではそのような考え方では野蛮だと思われるだろう。だが、どう考えても、危害を加えようと初めに企んだ側が悪いのだ。それさえなければ皆が平穏なのだから。
そして更生するのかどうかも、人による。
重ねて言うが、人間は平等なんかじゃない。
違う親元で生まれ、違う条件下で育ったというのに。
注がれた愛情も、費やされた支援も、整えられた環境も頼れる指導者も全く違うのに。それだけの不平等により築き上げられた価値観を、何をもって人は平等と言うのか。
人の生まれが平等ではないように、形成されたその倫理観も平等ではない。なのに全ての基準が“善人”や“常識人”などの“言い聞かせればわかる”人間に対するものであって、刑罰が“犯罪者仕様”ではないことに異議を申し立てたい。
そもそもの思考が“イカレタ奴ら”には、それでは甘いのだ。
“犯罪者に対して、犯罪者の目線で裁いて”何が悪いのだ。奴らはどうせ逆恨みをし、さらなる悲劇を巻き起こすだろう。
どうせというのは、前世の父が捨て台詞によく言っていたからだ。「今に見ていろ」と。そういう性根の人間は、残念ながら存在する。
言って聞かせてわかるのならば、初めからこんなことにはなっていない。と、私ならば思うところだ。
つまりはおまえの自制心の問題だよと。
その一線を越える覚悟を一度はしたはずなのだからと。
心神喪失?殺意はなかった?そう決めつけるのは甘いでしょ。それなら何をしても許されるの?衝動に任せていちいち人を傷つけられては、人を殺されては、たまったもんじゃない。衝動を自制するのが文化人というものだ。
そんなに許したいのなら、それを許容できる人達で暮らせばいいさ。
“善人の法は、善人に対してだけ施せ”ばいい。
だがこの考えは、過激に過ぎるのだろう。それもちゃんとわかっている。
「古代ではそうでしたがあそこでは近代、“疑わしきは罰せず”という人権を大事にする社会だったのです」
「…疑わしいのに、罰しない…とは?」
「罪が確定しないとあくまで無罪ということですよ。嫌疑がかかってどんなに心証が悪くても、犯罪の証拠を立証できなければ被告人に有利になるように働きかけるのです。…本当に冤罪なのであればありがたい見解ですが、狡賢い者には、生温い。結局、金があり権力があれば、最高の頭脳を集めて法の目をかいくぐることなど、どの世界でも容易なのです。…困ったものですね」
笑ってエーリヒを見た。私の話に引いていると思ったからそうしたのだが、特にそういうわけではないらしい。
亜麻色の瞳はただ冷静に私を見つめている。
どう思っているのだろうか。
「…………」
「どうしましたか、エーリヒ様」
「…いや、君は……そういった職域の立場だったのか?」
「いいえ。全く。普通の平凡な一般人です。…逆に私のように憤っては、満足に人は裁けないのだと思いますよ?」
「…では、何故そんなにも……君が何もそのように心を痛めなくても良いのではなかろうか」
「……不思議なことを言いますね」
「ん?」
「エーリヒ様もそういった輩はお嫌いなのかと思っていました」
「そうだな。好きではない」
いやにすんなりとエーリヒは受け応えた。だがその顔には特に嫌悪の感情は見えない。
クルゼの村人達には、あんなに嫌悪感を示していたのに。
「ああ、なるほど」
「なんだ」
「エーリヒ様は合理主義ですからね」
「……それは……」
エーリヒの眉間がぴくりと動いた。
「違いますよ」
「…何が…違うのだ」
「冷たいとか、批判しているわけではありません」
「…………」
エーリヒはしばらく静かに見つめていた。このような子供に小賢しい口をきかれても、苛立ちなどは微塵も見えない、いつも通りの亜麻色の穏やかに凪いだ瞳だ。
本当に理性的な人だ。尊敬する。
「私もそういう考え方は理性的で…とても好きです」
エーリヒの亜麻色の瞳にふいに感情の光が宿った。驚きと戸惑いと…何か…
あ…素敵だと言えば良かった。好きと言ってしまった。
「《ノブレス・オブリージュ》…“高い社会的地位にある者、つまりは貴族階級や上流社会にいる者達には義務が伴う”という考え方があの世界にはあります。でもそこまで強迫的に捉えることはないと、言った私も思うのです。“力があるなら誰かを救え”とか、“金があるなら出せ”とか、強要するのも何か違うと思うし。それでも、その豊かさは自分だけで築いたものじゃないことがわかるのなら、経済的、精神的に余裕がある人達には、一人ずつ少しずつできる範囲で、何か手助けをしてもらえれば、世界は……どこか変わるかもしれません」
「世界が……変わる…?」
「私はただ……確かに、“全ての罪人はすべからく、苦しみ抜いて死ぬべき”だと、本心からそう思っていますが……それと同時に、“優しい人には優しい世界であって欲しい”と思っているだけですよ。“正直者が馬鹿をみる”世の中なんて、悔しいじゃないですか」
「…君の言いたいことはわかった。…だが…」
エーリヒは少し眉をしかめた。
あれ。気分を害したのかな。
ノブレス・オブリージュが気にいらなかったのかな。
エーリヒは生粋の高位貴族だ。生まれてこの方、貧乏人の私には理解できない生き方だった。
「だが……だからといって、君が危険に晒されるのは容認できない」
「え…?」
エーリヒが不機嫌を隠さずに私を見つめる。
私を心配してくれているの?
なんだか心がほっこりする。
「…ありがとうございます」
そう言って微笑んだ。
するとエーリヒはまた目を見張って、つややかな蜂蜜色の瞳を揺らす。星明かりに照らされて揺れる瞳がキラキラと美しい。
「…礼を言って欲しいのではない。…危険を、冒すなと言っている…」
エーリヒはわずかに眉を寄せる。
「ふふ。ありがとうございます」
「だから……全く、君は…」
少し不満そうに、エーリヒは私から目を逸らした。言っても聞かないとわかったようである。
「エーリヒ様」
「…ん?」
エーリヒが逸らしていた視線を戻した。
…だから。
その「ん?」は、なんか。なんだか…
このままずっとくっついていたいけれど、ずっとこのままは重いだろうし。なんだか心臓に悪い。私にとってこういったスキンシップは、常人の水準に達するまでにはまだまだリハビリが必要そうである。
「どうした?」
「ちょっと歌ってきていいですか?」
「…………」
エーリヒは黙って目を逸らし、髪をなで始めた。
もう。行くと言っているのに、無言で髪をなでるのか。
そうか。きっとさっきの話にまだ納得していないから、行くなということなのかな。心配性なのだな。
ああ、でも…そうか。今まで散々私が心配をかけたからかもしれない。これからは心配をかけないように気をつけなければ。
「今日が最後の夜なので、ここにいる皆にお祈りしたいんです。幸せになりますようにって。ミーナも、リーナも、その家族も、ラウラも、カイも、フォルカーさんの家族も、皆」
そもそもそうしようと思っていたのだ。
しばらくエーリヒは無言で髪をなで続けて、「そうか」と相好を崩した。
エーリヒの手から離れて空高く飛び立つ。
シュタールの夜空を高く、高く舞うと、シュタールの街は静かな闇に包まれて、ひっそりと眠りについていた。
大変なことがあったけど、きっとこれからは大丈夫だよ。
私は願いを込めて歌った。
皆に安らかな眠りを。そして、幸せになりますようにと。
『どうか、優しい人には、優しい世界を…』
その夜シュタールの街の住人達は、とある幸せな夢を見た。白い小さな天使が星の瞬く夜空を舞い、美しい歌声とともに煌めく祝福の光が街中に幻想的に降り注ぐ、そんな夢を。




