79.優しい人には優しい世界を(1)
本日の営業も終わり、パン屋の店主が店じまいをしていると、薄暮の空から淡い光が舞い降りてきたことに気づいた。店主は目を疑い、ただ呆然と空を見上げ、それを追う。
店主の目の前、夢幻のようにふわりと浮いて、目が合うと彼女は柔らかく微笑んだ。
「今日の売れ残りはありますか?」
「え?……あ、あの、あなたは……」
白銀の髪の小さな女の子が、街角のパン屋の裏口に舞い降りてきたのだ。
「これで、あるだけ買い取らせてください」
白い女の子はその小さな手のひらを開いて、金貨を見せた。
◆◆◆◆◆◆
ミーナとリーナとラウラとカイと庭で遊んだり、文字を覚えて本を読んだりして過ごして、とうとう明日はシュタールを立つことになった。
エーリヒも連日警備兵詰所に勤務していたが、事件の処理もようやく落ち着いたらしい。ハインツも帰還するので王都まで同行するとのこと。
私はというと皆が過保護でほとんど部屋で療養していたので、夜はあんまり眠くなかったりする。
そして毎晩夜半には代官屋敷のバルコニーから空を眺めていた。星の数がすごく多くて、空一面が天の川のような状態なのだ。
エーリヒが教えてくれたように、王都が近いためここはあまり雨が降らないようだ。毎晩のように綺麗な星空が見える。
銀河がたくさん重なって、キラキラと星の光が大気に揺らめいて瞬いている。赤に白にオレンジに緑に…宝石みたいに鮮やかに夜空を彩る。
そんな星空に誘われて、歌を一曲歌ってみた。
この街では多くの人々に出会った。
今までずっと、クルゼの小さくて閉鎖的な村と、白夜と過ごした山しか知らなかったのに、ほんのひと月ほどの間に私の環境はすっかり様変わりした。
優しい人達には、幸せになって欲しい。
それはずっと昔からの、私の願いだ。
シュタールの路地裏で路上生活者を見た。
それはきっとここだけのことではなかっただろう。今までは街を自由に歩いたりしなかったから、見る機会や知る機会がなかっただけなのだ。
今もきっとこの美しい星空の下には、昔の私みたいにお腹を空かせて泣いている人がいる。痛くて苦しくて蹲っている人がいる。寒くて寂しくて通りかかる人々を羨望と嫉妬の眼差しで見つめて、皮肉な程青い空に手を伸ばし、目に映る人々を呪い、神を呪う。
知らなかっただけ。知ろうとしなかっただけ。ここがミーナやリーナ、ラウラやカイ、フォルカーの住む街だったから、より関心があっただけ。
でも私には何もできない。
食べ物やお金を与えても一時しのぎにしかならない。自力で生活できるような環境をつくらなければ、ただ単に物を与えるだけでは彼らにとって毒となってしまうだろう。
それでも彼らが、その一時しのぎを欲しているのはわかるから。それが今このときの命を繋ぐから。
だから私は、私に今与えられているお小遣いで、彼らに少しずつ分け与えることにした。ここにいる間だけでも。
これは、“偽善”という言葉に入る行為なのかもしれない。
“偽善”とは、“善を偽ること”。美しい行いで正しいように見せかけること。“善のメッキ”だ。剥がれたら、元の醜さが露呈する。ならば、少し違うような気もする。私は善に見せかけたいわけじゃない。
じゃあ、この行為は、なんと表現するのだろう。“気休め”?“自己満足”?
それでも、それで今の空腹は満たされる。命は繋ぎ止められるはずだ。
夜中に屋敷を抜け出して、このバルコニーから空を飛んであの路地に行くと、光に包まれて飛んできた私を、皆は神様の子だと思ってくれるから、私の配るものを不審がらずにちゃんと受け取ってくれた。
本当は彼らの欲している食べ物や薬、衣服や毛布を十分にあげたいけれど、それは全部は用意できないから。できる範囲で。それを手配すればきっと皆にバレてしまうし、そうなったら迷惑をかけてしまう。
これはあくまで、私のわがままだから。
私は今、生活に困ってはいない。
毎日美味しいご飯を食べて、綺麗な服を着て、あたたかい家に帰り、柔らかなベッドに入って眠れる。でもこれは全てエーリヒに与えられた物だ。私の自力で得たものじゃない。何もかも私の物ではないのだ。私に自由にできる物など、この世界に何一つない。
それなのに、私に何ができるというの?
無断で使ったお金も、近いうちにちゃんと返さないと。何かで収入を得ないと。
そしてそれができたら、今度こそ……
私はそっと宙に浮いてみる。最後の夜だから。この時間なら、きっと誰にも見咎められることはない。
「ヴェローニカ」
ふいに呼びかけられて、驚いて部屋の中を振り返る。
そこにはエーリヒが立っていた。また寝衣姿だった。
「…エーリヒ様…」
「こんな時間に、また君はどこへ?」
心配そうな瞳だ。また飛んでいなくなるとでも思ったのかな。
前も庭園の薔薇を見ていたら彼に見つかったのだけど、もしかしたら彼は不眠症なのだろうか。
「責めているのではない。ただ……君の歌が聴こえたから」
そうか。でも、いくら彼でも眠っていたら聞こえないよね。
きっと彼には、本当に心配をかけてしまったんだな。
なんて言えばいいのかわからなくて戸惑っていたら、エーリヒがバルコニーを歩いてきて私の手をとり、ぐいっと引き寄せた。
「わっ」
宙を浮いていた私は、そのままエーリヒの首にしがみつくような格好になる。エーリヒの逞しい腕が私を抱き寄せて抱え、手のひらが背中を支えた。
突然の触れ合いに、数日前の夜の庭園での出来事を思い出して鼓動が高鳴る。
落ち着け、私のファン心理。
「どこに、行くのかと聞いている」
「…どこにも行きませんよ?ただ、ちょっと…」
エーリヒの瞳を覗くと……なんだろう……とても心細そうだ。
どうしたのかな。慰めたくなってくる。
私はエーリヒの星明かりに輝く亜麻色の髪をさわさわとなでた。
フッと笑う気配がした。
「…私は今、子供扱いされているのか?」
子供扱いか。そうだね。
よく考えたら、彼だってまだ若い。二十代前半なんてまだまだ大人に成り立てなのだ。いくら立派な成人男性でも、心細くなることだってあるはずだ。
「誰でも…甘えたくなるときはあるものです」
「そうか…。そうだな」
今度はエーリヒが私の髪を優しくなでた。
あれ…。なんか、これって。恋人同士みたいじゃない…?
いやいや、まさか。ちっちゃすぎて抱きしめてるんじゃなくて、抱えられてるし。
…そうだよね。こんな子供は対象外だよ。
ああ。そっか。
私は親子の縁が薄いから、いつも変な風に感じてしまうんだわ。
エーリヒは私との養子縁組を望んでいる。
エーリヒが義父で、私が義娘か。
そっか…。なんだか納得した。
ミーナもリーナもラウラも、皆すぐ抱きついてくるもの。私はまず戸惑ってしまうけれど。
今までもずっとそうだった。皆が自然にしている愛情表現が私にはできなくて、何度戸惑ったことか。
この前私が、家族ってこんな風に抱きしめるのかなって言ったから、こうしてくれてるんだわ。きっと。
こうやって皆の傍にいるなら、私も慣れないと。
慣れる…かな。難しいな。
「エーリヒ様」
「ん?」
わぁ。やっぱりなんだか、エーリヒ様の「ん?」は、なんていうか、破壊力がすごい。
「…なんだ?」
「えと…エーリヒ様には、すごく心配をかけてしまって…ごめんなさい」
「…ああ。…それは何度も聞いた。もう謝る必要などない」
そうは言うけれど。
私のせいで皆をここに足止めしてしまったし、ずっと治癒魔法をかけてくれたりして看病をしてくれていたと聞いた。
いつ目覚めるかもわからないし、初めは何故目覚めないのかすらもわからなくて、マリエルなんかはおろおろしていたと聞いた。本当に申し訳ない。
「…あの…重く、ないですか?」
「…ああ」
うぅ。やっぱり、慣れないな……
いつになればこういう触れ合いに慣れるんだろう。
それでも、もしも私が本当にエーリヒ様と誰かの間に産まれていたのだとしたら、いつもこんなふうに大切に抱きしめられて、とっても幸せだったんだろうな。それならもう少し、甘え上手になれたのかもしれない。
でも所詮、養子縁組では本物の親子ではないから、本当の親子関係でさえ遠慮や敬遠、そして嫌悪感すら持っていた私には、なおさらどうやって接していいのかわからない。
ただ純粋に愛し愛されて育つ子達が羨ましい。
なんの負い目も引け目もなく、ただ側にいられて、親という存在に与えられるものを享受して、触れて触れられて、甘やかされるなんて……そんなの。…身に余りすぎて想像ができないな。
…というか本当は、ふとそれが怖い、気持ち悪いと思ってしまうのは……さすがにどう考えても異常なんだろうな。
大家族とか出産ドキュメンタリーとか、あの手のテレビ番組が本当に苦手だった。幸せなんだろうな、とは思うの。思うんだけれど……なんていうか、いたたまれなくて……
どうしよう、私。重症のようです。
こんな子、全然可愛くない。
やはり私には、家族や養子縁組なんて無理だ……
やっぱりちゃんとお断りしよう。
エーリヒ様の、子供か……
このままこの人の傍にいたらいつかは、そういう場面も、目にするのね。
あんまり、見たくないな。
そういうの、苦手だし。
そうなる前に、皆から離れよう。
私は前世で子供を産まなかった。けれど、周りの皆は違う。普通に生きていれば、恋をして、結婚して、子供ができる…みたい。
皆は自然にできるのに、なんで私には、できないんだろうか。
多分このまま、また私は……
急に胸がぎゅっとしてきた。
呼吸が浅くなる。ドクンドクンと鼓動が高鳴って、めまいがしてきて、苦しくて。
なんだろう、これ…なんだか怖い…
「ヴェローニカ?…どうした?大丈夫か?」
「……大丈…夫……」
息苦しくて、彼の首元にしがみついていた。
彼の香りに目が眩む。もう何度もこうやって抱えられて、彼の香りは憶えていた。これは、好きな香りだ。
すごく、好き……
すりすりと首元にすがりつく。
「……ヴェローニカ……?」
珍しく戸惑っている声だ。
「ごめんなさい。…もうちょっと…だけ…」
今日だけだから。
「…………」
しばらく黙って言う通りにしてくれて、彼の体温を感じて、息を整えるように彼の香りを嗅いでいると、だんだんと呼吸と気持ちが落ち着いてきた。
落ち着いて冷静になってくると、自分の行動を省みることはよくあることだ。
そして冷静に考えてみた結果……
ああ。なんだか変態みたい。
思い出した。そうだ、これは過呼吸だ。いくらまたなりそうだったからって。こんなにしがみつくなんて……
…ふぁ?うわ!はぁはぁ言ってしがみついてたら、やっぱりただの変態じゃん!そりゃ戸惑うよ!
確かに以前も初めての時は、息苦しくて怖くてわけがわからなくて、“死ぬ!”って思ったけれど。今回はそれほど酷くはならなかった。多分、彼のお陰だ。




