73.どこの世界に
《エーリヒ・グリューネヴァルト》
まさか罪人達のみならず、洞窟に囚われていた子供や女性達の夢の中にまで干渉していたとは。それほど多くの人数の精神に干渉するなんて、よほどの魔力と、そして精神力だ。
「心の傷は見えないから厄介…か」
確かにその通りではあるが、彼女はあまりにも利他的行動が過ぎる。もう少し、自分自身を顧みて欲しいのだが。恐らく言葉で諭してもきっと無駄だろう。
今日も今日とてエーリヒは警備兵詰所へと通い、気もそぞろに捜査協力と事務処理をし、ユリアンからのヴェローニカに関する報告を受けて帰ってきて、夕食をとりながら報告の詳細とヴェローニカの昼間の様子を聞いた。
今朝やっと目覚めたからには、まだ寝室で大人しくしていたのかと思えば。本当に呆れてしまう。
申し訳なさそうにはしているが、きっとまた同じことをするだろうことが想像できる。
だがそれは彼女の意志だ。強くは責められない。
風呂上がりにグラスの果実酒を飲み干して、少し火照った身体を冷まそうとエーリヒはバルコニーに出た。
ふと庭園の中で何かが動いたのが視界の端に見えた。すかさず探知をかけると、それはヴェローニカの魔力だった。
またあの子はこんな夜中にひとりで外に出て。
やれやれと思った割に、面倒だとは思っていない自分に気づく。むしろ、楽しんでいるような。いや、心配ではあるのだが。
バルコニーの柵に手を置いてから、今の自分の姿が改めて目に入った。風呂上がりの黒いガウン姿だ。この格好で行くのは、まずいか…?
そんな思いが過ぎったが、彼女の姿が庭園の奥へと向かうのが見えて、そのままバルコニーを飛び下りた。
身体強化と風魔法で着地の衝撃を和らげる。
飛行魔法をどうにか会得できないだろうか。使えたら重宝するのだが。魔素を操れないと無理なのだろうか。この自分にもできないことがあろうとは。慢心していたな。
そう考えながら彼女の後を追う。
庭園の植え込みを曲がって奥へと進むと、ヴェローニカが花の前でふわふわと浮いていた。寝衣姿で裸足のようだ。
そのような格好で……人のことは言えないな。
この花を見に来たのか。
大輪の赤い花に顔を近づけて…香りを嗅いでいるのか。妖精なのかとも思ったが、蝶々みたいだな。いや、ミツバチか?
自ずと笑みがこみ上げた。
ここで声をかけたら驚かせてしまうだろうか。
彼女の後ろまで近づいて、そっと呼びかけてみる。
「ヴェローニカ」
「ひゃっ!」
ヴェローニカが驚いて身体をビクンと揺らした。
まずい、落ちる。
エーリヒは慌てて両腕を広げ、バランスを崩して落ちてきた彼女を抱きとめた。
「…………」
ふぅ…とため息が出た。
良かった。落とさなくて。
中腰で抱きとめた体勢で彼女を確認すると、顔を伏せてひしっとガウンの胸元にしがみついていた。エーリヒの胸にうずくまるような姿だ。
きゅっとガウンを掴んだ小さな握りこぶしを見て、ここまでしがみつかれたのは初めてだな、と思った。
立ち上がってしっかりと彼女を抱え直すと、ふわっと柔らかな甘い香りを感じた。
最近どこかで嗅いだ香りだった。この花の香りだろうか。悪くない香りだ。いつぞやの香水とは比べ物にならない。
「…エーリヒ…様…?」
顔を上げた彼女の瞳に星の煌めきが映り込んでいる。その水晶のような透明感と輝きに一瞬目を奪われる。
「…………」
ヒヤッとしたからか、鼓動が高鳴っていることに気づいた。それともこれは彼女の鼓動か。怖い思いをさせてしまった。
「ごめんなさい、エーリヒ様、今下ります」
「何を言っている。君は裸足だろ」
「あ……あぁ…」
目をぱちりと見開いてから、恥ずかしそうに両手で顔を覆い隠す。そのリアクションがおかしくて、ふっと吹き出してしまった。
「…本当に飛べるんだな、君は」
「あ、そうです。だから、大丈夫ですよ?」
「いや、いいんだ。…また落ちそうになるかもしれない」
改めて抱え直し、彼女が見ていた花を見る。
「これを見ていたのか」
「…はい。…今日はあんまり動いちゃだめだと言われて、昼間はよく見れなかったから…」
「そうか。…綺麗だな」
「そうですよね?これ、前の世界にもあったんです。香りも同じなので、きっと同じ花か同系統のものですよ。いろんな色や花弁の形の種類が豊富で、品種一つ一つに素敵な名前がついてるんです」
「ふうん…そうか」
「ここでも、青い薔薇はないのですか?」
「青いバラ?」
バラ…というのか、この花は。青も何も、花など注意して見たこともない。
「自然界では薔薇は青い色素を持たないそうなんです。だから青薔薇の花言葉は“不可能”だったんです。でもそれも研究開発の結果、青い薔薇を作り上げて、花言葉は“奇跡”に変わったんですよ。なんだか素敵でしょ?」
「花言葉…?」
「花言葉もここにはなかったですか?それぞれの花に象徴的な意味をもたせた言葉なんです」
「いや、私が知らないだけかもしれないが…」
「そうですか…」
先ほどからころころと表情が変わる。水鏡のように澄んだ青銀の瞳が嬉しそうに輝いたり、少し残念そうにしたり……恥ずかしそうにしたり。
「すまないな」
「いえ。…そう言えば以前の世界でも、男の人は知らない人が多いのかもしれません」
そう言って、彼女はまた微笑んだ。
以前の世界。
君は前の世界でどんなふうに生きていたのだろうか。どんな世界で生きていたのだろう。
どんな人が、君の傍にいたのか。
「暗くてあまりよく見えませんね。やっぱり昼間に改めて見に来ます」
「…………」
エーリヒは暗視できるので、そんなに支障はないのだが、ヴェローニカには暗いかもしれない。夜空には星は瞬いているが、月は昇っていなかった。
「君なら暗視もできるのではないのか?」
「暗視?…そっか。エーリヒ様は暗視補正で見ているんですね。すごい。魔法ってそんな事もできるんだ。えーと……暗視は少ない光量を増幅して補正するか、赤外線を捉えるか、でしたね」
「…………」
またよくわからないことを言い始めたな。
「エーリヒ様には薔薇の色も見えるのですか?」
「ん?まあな」
目の前に咲いているのは、深紅の大振りな花弁の重なった花だ。色も香りも気品が感じられる。
「では前者ですね。…それでは全くの暗闇では見えないのではないですか?」
「全くの暗闇とは?」
「例えば光源のない密室です。地下のような」
「…………」
任務で夜間捜査などはするが、考えてみると全くの暗闇というのは……ないかもしれない。外では月明かり、星明かり、篝火、街灯などがある。屋内では魔導灯や蝋燭などがあるし、窓から外の明かりが多少はある。その中で暗視に困った事はない。だが地下空間で全ての明かりがないという場面には出くわしたことはないかもしれない。そういった所に潜る際には、同行した誰かが予め照明魔導具も持参していたからか。
「地下空間で明かりを消されれば、暗視では見えないかもしれないということか?」
「可能性はあります」
「それは……困るな。だが……私の場合は探知魔法を使えば魔力感知はできるから、まあ見えなくともなんとかなるだろうが」
「魔力……魔力を遮断するような方法はないのですか?それができるなら、エーリヒ様でも危ないかもしれないので」
「魔力遮断か。…そういった魔導具はあるようだな。外套とか。そんなものは特殊な部隊しか用意してはいないだろうが」
「エーリヒ様は使わないのですか?」
「私は魔力も気配も消せるからな」
「…………」
ヴェローニカは目を輝かせて感心したような表情をしている。暗視効果でそれもまた、エーリヒにはよく見えた。
本当にこの子は思っている事がわかりやすい。貴族にはいないタイプだ。
彼女の表情を見ていると、何か胸がくすぐられる。もっといろんな表情を見てみたいと。
「でも何があるかはわかりませんから、備えは必要です。その時は赤外線が感知できるといいんですけど…」
「せきがい線とは?」
「人間には見えないのですが、可視光線の赤に近い波長を持っていて……とにかく、物質には温度があります。温度が高いと強く赤外線を発するので、その強弱によって光源がなくても赤外線を感知すれば見分けられるんです。つまり熱源で見分けるわけです。…ほら、あれです。蛇とかはそういった器官があると言いますよ」
「熱源か……確かに生物であれば体温はあるからな。蛇は熱で敵を見分けているのか。よくいる魔獣のように夜目が利いたり、魔力感知しているのかと思っていた」
蛇は熱源を見分けるのか。…だから魔力や気配を消して身を隠していても居場所がわかるのだな。ならば……熱を遮断する方法をとらなければならないということか。
「前の世界の蛇は確か……視力が弱い代わりに獲物を熱源で捕捉したり、あとは匂いを舌で感じるんです。チロチロって舌を出しますよね?あれです」
「熱に匂いか。よく知っているな。大型の蛇の魔獣も南方の領地にはよくいるから、参考にしてみよう」
ヴェローニカの知る蛇とはこちらはサイズが違うようだが、生態としては同じもの、もしくは似ているものなのかもしれない。この花もそのようだし。だとすると、彼女の知識は参考になるな。
「わぁ。ほんとですか?…じゃあ、あと他にそういう特殊な器官を持ってるのは……あ、海のサメとかはよく海水に混じった血の匂いで寄ってきますが、確か電気を感じる器官もあったはずです。生物の筋肉が動くと微弱な電気が流れるので、それを海水の中で感じて獲物を追うんです。だから視力で追わずにそういった他の感覚で追う魔獣もいるんじゃないかなと思うんですよね」
「でんき…?…以前にもそのようなことを言っていたな」
「あ……えーと……電気とは、以前の世界では代表的なエネルギーなんです。魔力で魔導具を動かすように、電気で電化製品という便利な道具を動かすんですよ。この世界で言うと、雷のことですね」
「雷が、筋肉に、流れるのか?」
「すごーく弱いものですよ。痛くない程度の。生物は脳から発せられる微弱な電気信号で動いているんです。…前に白夜があちらの世界の科学はこちらでも通じると、言っていたから…」
「そうだったな」
「…だから、まるで魔力とか、魔素は……電気みたいだなって……前に思って…」
「…………」
楽しそうに話していたようだが、あくびをこらえているようだ。だんだんヴェローニカの瞳がとろんとしてきた。瞬きの回数も増えている。
プロイセ城を一緒に見た時もそうだったが、興味のある話には彼女は饒舌になるようだ。恐らく彼女は知識欲が強いのだろう。
そんな時の彼女の表情はとてもいきいきとしていて、聞いていてこちらも楽しくなってくる。
それゆえ話に水を差しがたく、本当はもう少し夕食時に聞いた話を注意しておきたかったのだが。自分をもっと大事にして欲しくて。
このまま眠ったら部屋へ連れて行くか。
エーリヒが今までに話したことのある令嬢達とは、こんな話はした記憶はない。
貴族令嬢が話す内容などは大抵たかが知れていて、自分の家門の自慢話かエーリヒの家門や領地に対する興味。つまりはどれだけ財力や力があるかということ。それと着ているドレスの流行や価格、宝飾品についてと社交界の噂話。
それはそれで、彼女達は男とは違った社交界での情報のやりとりをしているようなのだが。
あとはよくある惚れた腫れたの男女の駆け引きだ。
どこの世界の令嬢が、蛇やサメの話を嬉々としてするというのか。それともこれが彼女の世界ではスタンダードなのか。
「ふふ……それはないか」
つい笑い声が漏れてしまった。ヴェローニカを起こすとまずいと彼女を見下ろすと、もうほとんど目を閉じていた。
ゆっくりと瞬きしながら頭をかくんと揺らして舟を漕ぎだしたヴェローニカを見下ろして、エーリヒはまた密かに笑みを漏らした。




