7.覚悟(1)
『』の会話は、魔力を含んだセリフとなります。
ガチャガチャガチャ…ギィー…
不気味な音を立てて馬車の扉が開いた。子供達は縛られている両手で互いにしがみつきながら、息を潜めてそれを見守る。
開いた隙間からはすぐに松明の灯りが漏れてくる。
松明を持っているのは知らない男。だが、その後ろから…
「おい!銀髪!こっちに来い!」
キャア!!
馬車内は再び恐怖に染められた。
予め子供達は馬車の奥に固まっていたので、今度は誰も奴に捕まることはない。
だが部下の一人がアンスガーの指示を受けて馬車内にズカズカと上がり込んできて、皆の前にいた私の腕を掴んで引きずり出そうとする。
「やっ」
「待て!」
ヴィムが男に掴まれた腕とは逆の手を掴んで私を引っ張ろうとしたが、すぐに男に打ち払われた。ドタンと派手な音を立ててヴィムが馬車の床に転ぶ。
「ヴィム!」
「ヴィム兄!」
こいつは腕っぷしが強いらしい。小さな子供ではまるで歯が立たない。
倒れ込んだヴィムに妹のロッテが駆け寄ったのが見えた。
ヴィムを気にして振り返りながら男に引きずられて扉まで来ると、目の前にアンスガーの顔が迫る。
「やっぱりお前は高値がつきそうだ。悪くない」
松明に照らされた男の顔が、間近でニヤリと気持ちの悪い笑みを浮かべる。酒と体臭の不快な臭いが鼻をつく。思い出したくもない記憶が刺激される。が、次の瞬間、その下卑た笑みが崩れた。
「お前、どうやって縄を解いた?」
野太い声で問いただしたアンスガーは私の胸ぐらを掴み上げ、粗末な衣服がビリ…と裂ける音が聞こえた途端、馬車の外へ乱暴に放り投げた。
キャア!!
馬車の方から子供達の悲鳴が聞こえる。
投げ捨てられて、ズザァッと地面に這いつくばり、擦れた手足の痛みに顔を歪めた。近づいてきた重い足音にそちらを振り返ると、ごついブーツを履いた大人の足が勢いよくお腹を蹴り上げた。一瞬、「うっ」と息が止まり、身体が宙に浮く。
「お姉ちゃーん!!」
皆の悲鳴が聞こえる中、地面を転がった私は蹴られたお腹を抱えて蹲った。
「ゲホッゲホッ…うぅ…」
蹴られた衝撃と痛み、息苦しさで咳き込む。生理的な涙が滲んだ。
「かはっ、かはっ…」
息が詰まって乾いた咳が出る。
だめだよ皆、騒いだらあいつの関心が皆に移る。
悲鳴が聞こえる馬車の中を見て、大丈夫だよって気持ちでなんとか微笑んで、首を振った。
「お前……何笑ってやがる」
アンスガーが側にしゃがみ込み、髪の毛を掴んで持ち上げた。
「んぅ…」
痛みに歯を食いしばると、顔を覗き込んでくる。
「さっきからそれが癇に障るんだよ。舐めてんじゃねーぞ、ああ?」
…っ、痛いな……髪を掴むなよ。
ああ、むかつく。
どいつもこいつも。自分より弱い奴を痛めつけるのはそんなに気持ちいいのか。
強い奴には媚を売って、周囲の大人には取り繕って、陰で女や子供しか殴れないような根性なし共が。
汚くて、臭くて、愚昧で、醜悪な奴らめ。
もう我慢できん……やめだ。
愛想笑いは、終わりだ。
「離せ、クズが」
「ああ?なんだとこいつ…」
アンスガーが怒りに顔を凄ませ、髪を掴んでいる方とは別の手をあげ拳を握る。
「いいのか?殴っても。痕が残ったら値が崩れるぞ」
振り下ろそうとしていた拳を、ピタッと止めた。
「…てめぇ…」
まるで獣の唸り声だ。怒りが籠もった大人の男の低い声。普通の女や子供なら、怖気づいてしまうほどの怒気。
気に食わない。
こうやってこいつらはつけあがり、人を脅すことに快感を覚える。
ふざけるな。お前らの思い通りになど、なってやるものか。
怖がってなど、やるものか。
「アンスガーさん、急ぎましょう。他にも連れて行きますか?」
後ろの取り巻きが口を挟んできた。
こいつら、自分達だけ逃げる気なのか。
ダメだ。そんなの。
こいつらは誰にとっても害でしかない。
この世界にとっての害悪だ。
こいつらは人の命を軽く考えてる。
人の痛みを何とも思っていない。
こいつらはこれからもずっと、罪のない子供達をあちこちで捕まえて、汚い大人達に売りつけるんだ。
こんな奴らは、生きてていいはずがない。
「売る奴もクソなら、買う奴もクソだな…」
こいつら全員同罪だ。
全員、死刑で確定だ。
「ああ?てめぇ、なんか言ったか?」
「ふふっ…」
全員死刑か。そんな風に、できたらな。
この、ムカつく奴らを全員……一遍にこの世から消し去りたい。そんな権限があったらいいのに。
……今それが、心の底から欲しい……
這いつくばった地面の砂をジャリッと掴んだ。
大丈夫、無差別なんかじゃあない。ちゃんと今生の罪を正しく裁定してやる慈悲はまだあるからさ。
だからお願い、神様……
どうか……
……その権限を、私に寄越せ……!!
『この世のクズが全部消え去ったら、…このクソみたいな世界も随分綺麗になるのにな……ふふっ、ふふふっ』
そうできたなら、どんなに清々しいだろう。少しは息がしやすくなる。
ほんとはずっと前からそう思ってたんだ。
ずっとずっと、昔から。
なんだか可笑しくなってきた。
『うふふ。あははは!』
何をそんなに怖がっていたのか。
ずっと、罪を犯すのが怖かった。
ずっと、いい子でいなければと思っていた。
子供の頃はずっと、お前が悪いから殴られるんだと母に言われた。
そんなはずはない、そうでも言わないと今度は母が殴られるからだと、どこかでわかっていた。
家族の誰に訴えても、誰も助けてなんかくれやしない。
外には言えなかった。友達にも。先生にも。
言える訳がない。迷惑をかけるだけだ。他所の家庭のことだ。取り合ってなんかもらえない。余計に殴られるだけだ。世間に恥を晒すだけだ。
父親とは、威厳のある存在で世帯主。家庭という小さな、閉じた世界の王だ。
親の言うことを聞けないのが“悪い子”なんだ。それがその世界の“常識”だから。
違う!悪いのはお父さんの方だ!
いつも父親に向けて言っていた。
自分のどこが悪いのかよくはわからなかったけれど、でもずっと、悪いのは本当に自分なんじゃないかと怖かった。
だから、殴られ続けなければいけないと。
だから、避けてはいけないと。
だから、殴り返してはいけないと。
そんなことをしたら、わからなかった自分の罪が、確定してしまうから。
だけど、それは大人になってからも続いた。
大人になっても、やっぱり自分のどこが悪いのかよくわからなかった。
反論しても何も聞いてはくれない。
他の子の親はこんな風じゃない。
あの頃の時代はしつけで殴るなんて当然だと思ってた。学校でも軽い体罰はあったから。でも大人になったら意外にも、皆は殴られたことなんてなかった。
それには驚いた。
その夜も、父は相変わらず酒を飲んでいた。
父が酒を飲まない日なんてない。お金に余裕もないのに。それが普通の大人の男なのだと思っていた。
酒と煙草と加齢臭の臭い。そしてギャンブル依存。
殴られながら、悪いのはやっぱり父の方だと確信した時、すでに大人になっていた私はその日、初めて父を殴り返した。
すごく胸が高鳴った。
いけないことをしているような、善いことをしているような、よくわからない高揚感がその時の自分を支配していた。
「これからは、殴られたら殴り返す」と宣言した。
そして、翌日からは一切殴られなくなった。
決して父の気性が変わったわけではなかったが。
後悔なんてしていない。そうでもしてなきゃきっと、一生殴られ続けていた。
二度と殴られなくなるなら、もっと早く殴り返せば良かったと思ったほどだ。
それでもそれがまだ子供の時分であれば、きっとその後も殴られ続けていただろうが。
その日違ったのは、ただ、覚悟。
でもあの時、何かが確実に壊れたんだ。私の中で。
――親を殴るなんて、なんて“悪い子”――
あの日、それが私の中で確定した。
《続く》
今回の『』の会話は、魔力を含んだセリフとなります。
今後は、魔力を帯びた声、もしくは体内の魔力回路を通した声(魔導具、魔術具を使用した会話)、念話などです。
次話では《》がありますが、そこは前世の言葉(日本語)です。