57.国盗り(2)
《ユリアン・オルフ》
「ヴェローニカ」
「はい」
「何も気に病むことはない。私は君を邪魔に思うことはないし、迷惑だなどとも思わない」
「でも、私がいることでエーリヒ様は…ご自分の…」
そこで言葉を切ってエーリヒを見つめている。どんな不安があるのか、それでも断ろうとするヴェローニカ。
「ヴェローニカ。さっきも言ったはずだ。これは私の望みだと。それでも私に負い目を感じるというのなら、何か対価を要求すれば君は納得するのか?」
「…………」
「ではこうしよう」
未だに首を縦には振らないヴェローニカに、エーリヒは自分の腕の中にいる彼女に身を寄せた。
それに驚いたのか、ヴェローニカは青銀の瞳をぱちくりさせて身をすくませる。そしてその耳元で何かを囁く。
「…………」
まるで恋人達が戯れるのを見ているかのようだ。
しばらく囁いて体を離すと、エーリヒは言った。
「君に要求することはこれだけだ……私の願いを叶えてくれ。ヴェローニカ……わかったか?」
穏やかな声だった。優しく微笑んでいる。
頬を朱に染め、口元を両手で覆ったヴェローニカの大きな青銀の瞳から涙があふれてぽろりとこぼれる。
エーリヒは涙を流す彼女を宥めるように素手で優しく涙を拭い、頬を愛おしげに撫でる。いつも身につけているはずの黒い革手袋はなかった。
ユリアンはその光景を感嘆の思いで見つめていた。こんな主を見るのは初めてだ、と。
一体エーリヒは彼女に何を囁いたのか。
いつからだろう。いつの間にか二人の距離感が変わっている気がする。敬語も使っていない。
主はいつかの“ヴェローニカの秘密”を聞き出せたのか。ヴェローニカが“何者であるのか”を。
そういうことなのだろうか。それは一体、どんな秘密なのだろうか。知ってしまえば、いつも冷静で女性に淡白だった我が主でさえ、彼女の虜となるような……
『話は済んだのか』
どこからか覇気のある声が聞こえた。ざわりと鳥肌が立つ。
階段上であるためかろうじて後ずさりを堪えられたが、不穏な気配にキョロキョロと周囲を警戒する。すると玉座の隣の空間がじわりと歪んで、中から大きな白銀の魔獣が現れた。
「な?!」
階下にいるフォルカーが警戒心をあらわにし身構えるが、ロルフはあまりの威圧感に腰を抜かしたようだ。ドサリと後ろで尻餅をついた音がする。
ディーターの言うとおりだ。これと敵対すれば命はないと誰でも理解する。
ユリアンはゴクリと息を呑む。
あまりにも近い距離にいる。
(これがシルバーフォックスか。どうやってここに?…いや、それより……なんて、魔力の圧だ…)
「もう少し魔力を抑えられないのか、白夜」
『ふん。くだらんことを……何故俺がそんなことを気にせねばならんのだ』
白銀の魔獣がふわりふわりと尻尾を揺らした。
エーリヒがこんな魔力を発する魔獣と普通に話していることに驚きだ。
「ヴェローニカ、それで良いな」
「…………」
ヴェローニカはまだ困ったような顔をしている。
白銀の魔獣がゆったりとエーリヒに近づいていく。エーリヒにというより、ヴェローニカに近づいているのだとはわかるのだが、主に危害を及ぼさないのか不安になる。だがエーリヒはユリアンの心配を余所に平然としていた。
「白夜…」
ヴェローニカが傍に来た白銀の魔獣に手を伸ばした。小さな手が魔獣の顔に触れ、それを喜ぶかのように尻尾を揺らしている。
しばらくそうしてから、ひたとエーリヒを見つめた。血のように真っ赤な瞳だ。こんなに至近距離であのような恐ろしい魔獣に見つめられても、エーリヒは臆することなく見つめ返している。
「なんだ…?」
『色々言いたいことはあるが……邪魔がたくさんいるからな。面倒だ』
赤い瞳がちらりとこちらを見た。
『この子を傍に置きたいのであれば、それなりの覚悟はあるのだろう…?ならば良い』
「お前の懸念はわかった。…それについてはなんとかする」
『ほう…。面白い』
また尻尾をふわりと揺らす。どうやら感情が尻尾に表れるようだ。
「エーリヒ様…」
「そんな顔をするな」
エーリヒがヴェローニカの頬を撫でる。
懸念とは何か。ユリアンはどことなく不安を感じた。
『ヴェローニカが悲しむのは俺も本意ではない。ことと次第によっては……お前の国盗り、手伝ってやっても良いぞ。人間共は最近、神威の何たるかを忘れているようだからな』
鷹揚に、そして悠々と王者の風格で、白銀の魔獣はとんでもないことを口にする。
「…国、盗り…?」
ユリアンは戸惑う。
国盗り?神威?一体、何の話だ。
対してエーリヒは、ふっと不敵に笑っている。
「国盗りだと…?なんだか知らぬが…。姫のためになることならば、もちろん私も手伝おう。…相手がやつらならばなおさらだ。…積年の恨みを晴らすいい機会だな」
ユリウスもわからないと言いつつも、躊躇いはなさそうだ。
ユリアンは何がなんだかわからずに、突拍子もないこの場の会話にただただ翻弄されていた。
そのあとは用意した食事を皆で食べて、ユリウスがヴェローニカを返せとエーリヒに何度か言っていたのだが、エーリヒはそれをことごとく無視してずっと彼女を膝に抱えていた。
姫を抱いていると魔素が溜まるとか、何か言っていたのだが。なんのことだろうか。それに用意した食事も一切口にしなかったし。
「じゃあ、またね白夜」
『ああ。勝手な行動は慎め。お守りが大変だ』
「もう…」
『冗談ではないぞ。俺はそろそろここを離れる。しばらく用があるからな』
「…そっか…」
ヴェローニカは寂しそうな表情で白夜にギュッとしがみついている。
あのような魔獣にしがみつくなんて、未だに信じられない。恐ろしすぎる。
護衛のフォルカーらや御者も同じ思いなのだろう。ヴェローニカと白夜を遠巻きにして馬の世話などをしながら、こちらの様子をチラチラと見ている。怖いもの見たさというやつなのだろう。
日が落ちる頃、ようやくヴェローニカが立てるくらいには回復したようで、プロイセの都に帰ることになった。ヴェローニカは白夜とともにここにいたがったが、ここでは食事も何もままならないとエーリヒに言われてしょんぼりしていた。
『離れがたいのか?お前は本当に俺が好きだな』
「うん。大好きだよ」
『そうか』
「いつもありがとう。白夜。気をつけて行くんだよ」
『ふ……お前もな』
白銀の魔獣、白夜が尻尾をふわりふわりと揺らしている。ご機嫌なようだ。
エーリヒとユリウスは微かに眉をひそめ、面白くなさそうだが。
「白夜…」
『なんだ?』
「…………」
『また乗せていくか?』
「いいの?」
ぱあっとヴェローニカの顔が明るくなる。
「だめだ。お前が街道を行くのは目立つ」
すかさずエーリヒが却下する。
ヴェローニカには可哀想だが、このような大きな珍しい魔獣が街道を行けば、誰かに見られる可能性がある。プロイセの都はすぐそこなのだから。
ヴェローニカは白夜にぎゅっとしがみついて、耳元で何か小声で話している。
「……。あ、エーリヒ様は聞いちゃダメですからね」
急に振り返るとエーリヒに注意を促した。
主のことをよくわかっているなと可笑しくなって、ユリアンは思わず笑みをこぼしてしまった。
「…………」
主の方を見ると、少し眉をしかめていた。注意されたからなのか、それとも、それでも聞き耳を立てていて、その内容からなのか。
何かずっと二人でコソコソと話していたようだが、白夜が首を傾げてヴェローニカを見た。なにやら困っているように見える。
『おい……エーリヒ』
白夜が今日初めて主の名前を呼んだのを聞いた。
「なんだ」
『どうせ聞いていたのだろ』
「え!」
ヴェローニカが振り返る。
「…………」
主は答えない。恐らく肯定だろうとユリアンは思った。
『お前、心配されているぞ。不甲斐ないな』
「白夜っ…」
ヴェローニカの慌てる声。
「…………」
主は無言だ。
『…お前は強いと証明しろ。じゃないとヴェローニカはいつまでも不安なのだろう。お前が秘密を明かし、お前に危険が及ぶこと、お前が害されるのが怖いというのはそういうことだ』
「もう、白夜…」
ヴェローニカが白夜にぎゅっと顔を埋めている。内緒話をバラされて恥ずかしいようだ。
主を心配する心には共感するし、その仕草も可愛らしいとは思うのだが、何故そんなにヴェローニカは主のことが心配なのだろうか。
“秘密を明かす”とは何だ。先ほどの“国盗り”に関係すること、か。
『何もかも自分のせいだと思うのは良くないクセだ、ヴェローニカ』
「…………」
ヴェローニカは白夜の白銀の毛並みに顔を埋めながら無言で頷いた。
『それに、こやつは人間にしては強い。…俺ほどではないが』
「ほう…」
エーリヒがにこりと綺麗に微笑んだ。これは怒っているときの笑顔だが、何もシルバーフォックス相手に喧嘩腰にならなくても、とユリアンは焦る。
「つまりヴェローニカの不安は、私が強ければ全て解決するのだな。…ならば問題はない」
エーリヒの言葉に、ゆっくりとヴェローニカは顔を上げてエーリヒを見た。
「私に勝てる人間などいない」
ユリアンはエーリヒの発言に目を見張った。
エーリヒが強いのは知っている。だがそれを誇るよりは、隠しているように見えたからだ。このように皆の前で自らの強さを誇示するなど、今までの主にはない言動だった。
ヴェローニカはその発言に驚いてはいない。穏やかに、だが少し困ったように微笑んでいる。
「わかっています。エーリヒ様が強いのは。でも、強いとか、勝てるとか、そういうことじゃなくて……私は……エーリヒ様に無理をして欲しくないんです。…望まないことを、して欲しくないの……人の悪意は、そんなに単純ではないから…」
「…ああ。…わかった」
エーリヒはヴェローニカに跪き、手を伸ばして頬を撫でた。
「もう、帰ろう。ヴェローニカ。君の不安なら、私が聞くから」
微笑んではいるものの、それでも不安が拭えない。ヴェローニカの表情はそう言っているようで、ユリアンはなんとなく胸が重く感じていた。
白夜が去った途端に、エーリヒはヴェローニカを抱き上げ、馬車へと向かう。
プロイセへの帰路ではエーリヒが乗ってきた馬はユリアンが乗ることになったのだが、馬車にはエーリヒとヴェローニカ、ユリウスが乗る。
向こうで、ヴェローニカと乗るのは自分だとユリウスがまたエーリヒに絡んでいる声が聞こえた。
まんまとユリウスを出し抜いて機先を制していたエーリヒに、ユリアンは呆れ気味に苦笑を漏らしながら、プロイセの街へ馬首を巡らせた。




