54.望み(2)
《エーリヒ・グリューネヴァルト》
「ヴェローニカは……眠っているのか」
『こやつを眷属化するのに力を使い果たしただけだ。じきに目を覚まそう』
眷属化?魔素を操り、雨を降らせ、空を飛んだ挙げ句に、眷属化だと?
「眷属化とは、何だ」
白夜はふわりふわりと尻尾を煙たがるように揺らし、ヴェローニカを大切そうに抱く男を振り返る。
男は話題が自分のことと知り、その紫紺色の瞳をひたと向けた。熱の灯らない水晶のような瞳。感情が読み取れない。
「我が名はユリウス。このプロイセ城の亡霊だ。今は我が姫の血と願いにより、この体を得た。これよりは姫に忠誠を誓い、身命を賭して守る所存。そなたは姫を大事に思っているようだが、それは私も同じこと。案ずることはない」
「亡霊…?まさか、アンデッドか」
プロイセ城の亡霊。あのときに感じた城の奥にいた不可解な魔力反応か。こいつがここの主として君臨していたから、ここには魔獣がいなかったのか。だがあのときよりも魔力が高まっている。これはもう別物だ。
亡霊と言えば、思念体。実体のない魔物のはずなのだが。“体を得た”と言うのだから、やはりそれまでは“体はなかった”のだろう。手段はわからないが、ヴェローニカは“化け物を造った”ということか。
…確かに、手に余るな。
エーリヒの口の端が上がる。
「彼女は家族を恐れている。なのに、お前達のことは……平気なのか」
自分で口にしておきながら、まるで弱音を吐いているかのようだ。
『それはお前が家族という形態をとろうとしたからだろう。この子は前世でも親に恵まれていない。愛を信じていない。自分の価値を肯定できない。そのように育ったからだ。養子になったとしても、お前は本当の親なわけではない。無価値な自分が他人であるお前に頼ることに、罪悪感を感じているはずだ。だからお前から逃げるのだろう』
「罪悪感……だと?」
『人間の家族の愛とはただ産まれただけで愛されることなのだろうが、それが日常ではなかったこの子には、羨望はあるが決して自分には与えられないものだ。家族という言葉には嫌悪感すらある。何故なら幼少期は散々暴言と暴力で抑圧されてきたために自己肯定感が低く、大人になれば家族だからとこの子の持つ財産を悪びれもなく奪っていくような親だったからだ。そんな自分が誰かに愛されるためにはそれ相応の対価が必要だと思っているようだ』
「ヴェローニカが、そう言ったのか」
お前には、そんなことまで話すのか。
『違う。俺がヴェローニカの前世の記憶を蘇らせた』
「なんだと?…貴様、それで彼女は苦しんでいるというのに…」
エーリヒは抑えていた魔力を解放した。しんと静寂に包まれていた謁見の間の空気がぐらりと揺らぐ。
『必要なことだった。でなければこの子は今頃あの村か、奴隷となった時に死んでいただろうし、お前もそれほどこの子を気に留めなかっただろう』
怒りをぶつけられたはずの白夜は平然と言い放った。
白夜には迷いがない。
それに比べて怒りに眩んだはずのエーリヒにも、白夜の言葉には全てを否定できない。そしてそんな自分にも戸惑いを感じる。
最近はずっとこうだ。いつになく、心が揺らぐ。ざわざわと落ち着かなくなり、焦燥に駆られ、痛みを感じ、胸が締め付けられ、そしてふと、温かくなる。それはとても忙しなくて、まるでらしくない。
こんなはずじゃなかった。
「そなたはヴェローニカを愛しているのだな」
ユリウスの声が頭に響いた。
それまで渦巻いていた怒り、戸惑い、焦燥、苦痛、わけのわからないあらゆるどろどろの感情が一気に吹き飛び、一瞬何を言われたのかと思考が止まった。そしてその言葉をもう一度反芻して、意味を考える。
娘として、という意味か。
「理解できる。私はここでヴェローニカのような者には初めて会った。会ったばかりではあるが、今は愛おしく思う。我が姫は、心も、体も、その魂までも、全てが美しい」
ユリウスは己の腕の中で眠るヴェローニカの銀の髪を愛おしそうに撫でている。
「前世の記憶か。だからこれほどまでにちぐはぐだったのだな。体は幼くとも心は成熟している。だからあれほど私に生まれ変われと言っていたのか」
生まれ変わり……ヴェローニカが、こいつに?
「会ったばかりの私を、ここで百五十年間一人墓守をする私を思って、心から寄り添おうとしていた。言葉だけではない、心根の温かさが彼女を包む魔素を通して伝わってきた。…だが生まれ変われば、もう二度とヴェローニカには会えなくなる。それは惜しいと思った。私はまだヴェローニカと話したい。離れ難い。だから傍にいられる体を望んだ。これだけ他人に愛情深いのに、自分には与えられないと思っているなど、不憫だ。…私が、教えてあげたい……愛されていると、感じて欲しい…」
それは、本当に心からの、愛おしそうな声だった。
『わかっただろう。こやつはヴェローニカに心酔している。お前ももうこの子のことは忘れ、自分の敵に専念するといい。お前の力をあまねく示せば、この国など手中にできるのではないか?…だがそれはお前次第だ。今まで通りに生きたいのならそうすればいい。…ヴェローニカもそれを望んでいるようだ…』
白夜の声がエーリヒの心に冷たく突き刺さる。それは残酷と言ってもいいほどにエーリヒには感じられた。息が止まりそうなほどに。
ヴェローニカを忘れ、王城に巣食う害虫共を相手に己を偽った無難な従来の生活に戻る。きっとそれが一番安全で、簡単だ。
それはエーリヒにもよくわかっている。わかってはいるが……どうしてもそれを素直に飲み下すことができない。
今まで通りだ。
もとに戻るだけだ。
それを選んで生きてきたはずだ。
気づくとあれだけ身の内を暴れていた魔力がすっかり凪いでいる。
そうだ。ついこないだも白夜の奔放な言動に触発されて魔力が暴走しそうになった。その時は……
ヴェローニカが、白夜に怒って、エーリヒにしがみついて、止めてくれたのだ。
今、その彼女は別の男の腕の中で眠っている。
この子を、手放す。
それが賢い選択。…だった、はず。
「愛、だと。その子はまだ幼い子供だぞ」
自分に言い聞かせるような言葉だ。何故か吐き捨てるような言い方になった。
「体は魂の器に過ぎない。霊体として永い月日を過ごしてきた私には、そのような事は瑣末事だ。今でも魅力的ではあるが、数年も経てば体も立派な淑女だ。何が問題だ?」
道理ではあるが、こいつの口から聞くとやけに癇に障る。それにアンデッドであるお前にはそうでも、人間にはそう簡単にはいかないものだ。
先ほどから多弁な割に無表情な様子も、ひと際苛立ちを加速させる。
もうこれ以上神経を逆撫でしないでくれ。
左腕のバングルに魔力反応がある。ユリアンからの連絡だ。先ほど指示を出してからだいぶ経った。経過を心配しているのだろう。
「ユリアンか。ヴェローニカは見つかった。待機の指示は維持する。こちらはまだ取り込み中だ。戻ったら館を出る予定ではいるが、今出るかどうかはお前に判断を任せる」
『かしこまりました』
『便利なものだな』
白夜が呟いた。
オープン回線にはしていないので、相手の声は聞こえていないのだが、遠方の人間と連絡をとる通信の魔術具だとわかったらしい。
『それで?どうするのだ?』
また白銀の尻尾をふわりふわりと揺らしながら白夜が尋ねる。
「ヴェローニカと話したい。目が覚めるまで待つ」
『…ふん…』
白夜がつんと顔を逸らした。やはり可愛気のない狐だ。
『では、ヴェローニカの食事を用意しろ』
「…なに?」
『ヴェローニカが目覚めるのは昼過ぎるだろう。それでもすぐには動けぬかもしれん。…時間はあるだろう』
確かにヴェローニカの食事は必要だ。
エーリヒは仕方なくユリアンに追加で指示を出した。
ユリアンには領主の相手は荷が勝ちすぎるかと帰ってからにしようと思っていたのだが、領主の館から辞去させることも任せた。
なるべくヴェローニカをあの場所に連れて行きたくはない。
ユリアンが来るまでの間、崩れた瓦礫の上に腰掛けて彼らを眺めていた。
白夜は腹ごしらえだと狩りに出かけ、ユリウスと名乗った中性的な美しさを持つ男はまだ玉座の前の階段に座りこんで、腕の中のヴェローニカを見つめている。
時折寝返ろうとするのか、身動きをする彼女をあやすように宥め、壊れ物にでも触れるように顔にかかった髪を指で梳る。
その紫色の瞳は穏やかな眼差しで、とても亡霊だったとは思えない。
あれが、アンデッドだと。まるで人間だ。禍々しさは全く感じられない。
亡霊だと言うからには、この古城を彷徨う不浄の魔物――ゴーストだったのだろう。
戦場のように大量の血が流れ込み無念の死を遂げた骸が放置された場所では、アンデッドが発生しやすいとは聞く。だとして、あの体はどうしたのだ。
年齢は二十歳前後に見える。均整の取れた体躯のようだが、筋肉質には見えない。魔術師タイプか?確かに魔力量は多そうだし、瞳が珍しい紫色だ。
あれは大気の魔素が視えると言われる貴重な紫眼なのか。先ほども魔素を通じてヴェローニカの思いが伝わったと言っていた。
「ん……ユリ…ウス…?」
「ヴェローニカ。起きたか」
目覚めたヴェローニカを見て、嬉しそうな声でユリウスが彼女の身体をぎゅっと抱きしめた。
「おい!」
エーリヒが立ち上がり怒鳴ると、ヴェローニカがビクリとしてこちらを振り返った。
「エーリヒ……様…」
その瞳には戸惑いと恐れが見えた。それがエーリヒの眉をひそめさせる。
どうしてそのような表情をするのか。こちらは君を探して何時間も彷徨い続けたというのに。
ヴェローニカは状況を把握しようと辺りを見回して、ユリウスの腕の中から逃れた。
「姫が怖がるだろ、怒鳴るのはよせ」
「貴様が言うな…」
「エーリヒ様、どうしてここに…」
ユリウスから離れて立ち上がったヴェローニカがふらついた。
「「ヴェローニカ!」」
エーリヒが駆け寄るより早く、隣にいたユリウスがヴェローニカを抱きとめる。
「ヴェローニカ、まだ起き上がるな。血を失っているのだぞ」
「どういうことだ。血を失う、とは」
「言っただろう。姫の血と願いで体を得たと」
アンデッドに血を与えたのか。もしやヴァンパイアなのか。
ユリウスの腕の中で具合が悪そうにうっすらと瞳を開けたヴェローニカは、確かに近くで見るといつもより血の気が失せたような顔色をしている。白い陶器のような肌が、今はさらに青白く見える。
捲りあげられた袖口から白く細い手首が見えて、そこに血が滲んでいるのが見えた。
「治療していないのか」
エーリヒは急いでヴェローニカのもとに近づき跪いて、その手首に魔力を流した。
「ん…」
淡い光に包まれて、みるみるうちに腕の傷口が塞がっていく。
「神聖魔法か?そなたは万能だな。私には残念ながら回復系統の適性はなくてな」
「…………」
エーリヒはただ無表情にヴェローニカだけを見つめていて、ユリウスの方へは一切視線を向けなかった。
「エーリヒ様、ありがとうございます」
青白い顔で礼を言って微笑む。だが通常の神聖魔法の効果は傷口を塞ぐだけで血が補われる訳ではない。今のエーリヒの状態ではこの程度だ。
「いや…」
かける言葉を選んでいるうちに、ヴェローニカはユリウスに目を向けた。
「あなたは、ユリウス、さん?」
「ああ、そうだ。ヴェローニカのおかげで体を得た。感謝する。我が姫君」
「姫?」
姫君と言われ、ヴェローニカは目を見張っている。
「これからはヴェローニカが主だと言ったろ。ならばそなたは我が姫だ。私は騎士だからな。そなたに忠誠を誓う。私のことは、ユリウスと」
ユリウスはヴェローニカの手をとって、その甲にチュッと口づけた。騎士が忠誠を誓うように。
「わっ!」
「な…」
ヴェローニカが恥ずかしそうに瞳を泳がせ狼狽える。
「ふっ。このくらいで戸惑うなど、我が姫は初々しいな」
ヴェローニカにはマリオネットのはずのユリウスが、優しく微笑んだように見えた。
「…………」
「…………」
「ただの挨拶だが。……まさか、今はしないのか?」
ユリウスの時代では、このようなキスは日常的な貴族挨拶ということか……
今の時代でも令嬢の手の甲にキスをする挨拶はある。だがそれは婚約者や恋人などの親しい者に限られるものであって、それ以外はキスをするように額を近づける形式化されたものだった。




